小市民ダークロのありがちで気の抜けた感じのやつ

机とイス


厚い雲に覆われて、陽の射しこむ余地のない空の下。荒れ果てた広い国で、固形物のような、しっかりと、じっくりと、ネットリと、ゆったりと流れている暗い川のそばに木のイスが置かれていて、スーツ姿の男が座っている。
「暗闇の先、はるかかなた先、新しい世界がこれからも作りつづけられるのか。世界は、また。別の世界を、また」

深呼吸をしながら。静かに腕を片方ずつ上げたり下げたり。手をこすり、速く、優しく。感覚が研ぎすまされていく。止める。その両手が空気に触れる。意識を、手の平に集中。目を閉じて、手の平に集中。目を開けて周囲が真っ暗になる。感覚の消えたずっとその先。

「おはよう?こんばんは?」
「不思議だ。たくさん寝たはずなのに。朝じゃない」
「たくさん寝たから。夜になったのよ。起きてから、また寝ればいいのよ」
女はステップを踏んでいる。男は木のイスに座っていて、それを眺めている。木の机の上には何もない。
「いつもと違った感じだね」
「今日は過去の私じゃなくて、未来の私」
女は両腕を開き、勢いよく回転しながらステップを踏んで、部屋の外へ消える。滑るように回転しながら部屋に戻り、スキップしながらテーブルの向こうを走り、しなやかにイスに座る。
「いつ習ったの」
女はイスから立ち上がり軽やかにゆっくりと回転する。なめらかに走って出ていく。
「私はサーカスの曲芸師」
芸術家ではない。男は立ちあがり、指を鳴らしながら軽やかにステップ。女が部屋の中に入り、見つめあい、テーブルの向こうで抱きあう。女はテーブルの周囲をめぐり、テーブルの上に乗り横たわり、男を見つめる。男は微動だにしないで前方を見つめる。止まりきった世界。女が指を鳴らしたとたん、男は倒れる。
「出会う。出会わない」
不思議な場所にいる。ここはどこで、相手は何者で、自分は何者なのか。女は心配そうに男の顔をのぞきこみ、そばで横たわり、はね起きてイスに座る。

男は起きあがり、イスを引きずりながら部屋の片隅に置き、座る。女はイスを倒して、イスの上で逆立ちをする。男は拍手する。男はイスを持ちあげて部屋の中央に。女は逆立ちをやめて、イスの上にイスを重ねる。2つ重ねたイスの上で逆立ち。片手になり、バランスをとる。息が荒い。
「さあ、行こう」
満面の笑みで抱き合いながらどこかへ。
「いつ?」
リズミカルな動きで流れを作り、流れに身を任せ、流れを作り、流れに身を任せ。男はイスや机をたたきながら、周囲を動きまわり、机の下から顔を出す。女は机の上に乗り、髪の毛をいじりながら。髪の毛をかき上げながら、机の上に立ちあがり、天井を指差す。舞いあがり、風が吹く。無数の意識が飛びたつ。頭を振り回しながら、机の上に派手に倒れ、絶叫する。机の下の男は両耳を押さえて身体を丸くする。女が静かになる。ゆっくりと、男は机から出てくる。女が正座をして口を大きく開ける。無表情で座り続ける。男はイスに座り、叫ぶ。
「おおお。メエエエエエ。メエエエエエ」
男は自由になって全速力で走りだす。どこからか、笛の音が。イスを持ち上げて机の周囲を走りまわる。机の上で正座をした女が腕を揺らす。男は手の動きに翻弄されて体をよじらせながら部屋を動きまわる。女は立ちあがり、机の上で踊り続ける。遠吠えが聞こえる。ゆっくりと腕をなめらかに動かし続けて手の平を上に下に。頭の上に。笛の音。美しい笛の音。女は両耳を押さえてしゃがみこむ。男がバランスを崩す。机やイスが音を立てて分解される。

深呼吸をしながら。静かに腕を片方ずつ上げたり下げたり。手をこすり、速く、優しく。

向かいあって、分解された机やイスの断片を眺めながら、手を伸ばし、慎重に組立てなおしていく。2人で1つずつ。時間をかけて、静かに。
申し訳なかった。許してくれ。
許す、許さないは、誰がが決めること。私はずっと覚えている。
ネコが伸びをしていたよ。
男が直したイスに座ってみる。女が直した机の上に手を乗せる。
鳩の群れはみんなで同じものを食べているよ。
人々は満ち足りた自分だけの世界の中で自分中心に生きていく。
わからない。自分がどこへ行くのか。なにをしているのか。混乱してばかりで、なにも進まずに、ただ不満をかかえ続けるだけ。
イスが伸びをしていたよ。
机の群れはみんなで同じものを食べているよ。

イスの1つを部屋の中央に置き、2人はイスの上に立ち上がり、抱き合いながら、けいれんしながら、体重を移動させてバランスをとりながら、組みあいながら複雑な1つの体となってまるで1つの生き物のように。リズムに乗りながら体を動かしながら。部屋の隅に置かれた机の下から狼が吠える。

「旅が始まる?旅の途中?旅の終わりか?」
「なにを探しているの?」
「たぶん、物語」
「それにはまず、話すこと。語ること。イスに座って、この机で」

テーブルに両腕を乗せて、イスに座って2人が向き合う。かすかにささやきながらしゃべっているが、内容は聞き取れない。一点の曇りもない軽やかなつぶやき。自分が自分であることを知らない。いつかまた、自分の世界へ。未知の場所へ。思い出の奥へ。昔話はたくさんしたが、未来のことはよくわからない。話せば話すほどわからなくなっていく。見つめあいながら2人は立ち上がる。ゆっくりと時間をかけて、両腕を頭上に上げていく。静かに上げていく。何百年もかけてゆっくりと上げていく。その間、無表情で、一言も発することはなく、限界ギリギリまで上へ。限界まできて、何かの重みに押しつぶされて2人とも倒れる。男はつぶやく。

「もうすぐ朝が来る」
「その前に誰か来る」
「チャイムの音が聞こえる。ノックの音が聞こえる」
「そろそろおしまい?」
「迎えにきたのかもしれない」
「ただ単に、様子をうかがいに来たのかも」

女は静かに入り口を見つめる。誰かが部屋に入って来る。大きなカバンを持っている。スーツ姿。仕事帰りか。月から涙のように時が流れおちる。700年前の星の光が届く。過去のことを何も知らない。体の流れが風であり、雲であり、森であり、砂漠である。部屋の片隅で靴を脱ぐ。
「500年前、私は漁師だった」
カバンを振り回しながらゆっくりと舞う。どこまでも続く空間の広がり。優雅な身のこなしで風を送り、時を送る。
「今の私は。証券会社のセールスマン」
靴の隣にカバンを置く。腕組みしながら、じっくりと靴とカバンを見守る。靴を持ちあげて机の上に置く。イスに座る。
「あのころ。インドネシアでは。何が行われていたのか」
つかみながら離し、手に入れようとしながら手放し、獲得しながら放棄する。歩きながら眠りつづけ、眠りながら歩きまわり、探しながら隠し、隠しながら探す。ゆっくりと記憶をたどりながら部屋の中央で舞う。記憶の断片をたどるかのように。さまよいながら時を漂う。前を歩きながら、後ろに下がり、向きを変えて、静かな世界で。インドネシアへ。シンガポールへ。台湾へ。様々な場所まで行き、自分のルーツを振り返る。意識が空に舞い、体がその軌道をなぞり、前へ指をヒラヒラ。左右へ指をヒラヒラ。指の動きが時を早送り、そして逆送り。右手を伸ばし、指をヒラヒラ。方向を変えて指をヒラヒラ。涌きいでる感情の海を魚が回遊し、鳥が渡る。両手を合わせて後ろに向いて、頭をかきむしりながら机に戻る。机を見つめて考えている。頭を抱えて顔を覆ったまま、声にならぬ叫び声をあげて、イスから立ち上がり、腕をあげて満面の笑みで。動かしながら指をヒラヒラさせ続ける。ぼうぜんと部屋の片隅のカバンを見下ろす。イスに座る。膝の上に両手を乗せて無表情に。背筋を伸ばして静かに前を見る。机とイスが消え、壁と床が消え、部屋が消え、自分も消え、ゆっくりと流れる暗い川が見える。
「その昔、誰もが誰かだった」
影が走る。照明。急速に時間が進んでいく。揺れ動く大きな曲線。部屋の中で、キレイな朝日が、いくつも横に並んで上昇していく。平行に広がる無限の朝が始まる。
「私は今、気がついた。私は行く」
カバンを持ちあげて、ゆっくりと部屋を出ていく。机の上に靴が残されている。無限の朝の中で無限の朝日を浴びながら男と女はぼうぜんと後ろ姿を見送る。

「どこかに行ってしまった」
女はため息をついて肩を落とす。
「乗り越える?振り返る?探しにいく?」
「なにを?ここにあるのに」
「行かなくちゃ」
「ここは帰る場所ではなくても?」
「ここではないどこかへ」
「ここで。なにかを」

ゆっくりと、男はイスを持ちあげて、ゆっくりと、そのまま部屋の外へ。女は横たわる。空間が広がる。今までなかった空間。人々が消えていく。意識も消えていく。深呼吸。腕を上げて腕を下げる。目を閉じて、目を開ける。そしてまた暗闇に帰る。