小市民ダークロのありがちで気の抜けた感じのやつ

短文集その5


座右の銘は「食えるときに食っておけ」嫌いな言葉は「腹八分目」
しょぼくれた二等辺三角形。心の中を消しゴムで消すならそこ。
大した信念もなく、頼るべき思想もない。語るべき場所ではないし、語られるべき場所でもない。
どこにでもある場所に旅立とう。もうすでに語られた場所を発見しよう。語る行為は、全て敗北の証明だ。もう一度、そこに行こう。
前髪が邪魔で、空調が悪いので息苦しくて、鼻水が出て、薬を飲んだら鼻がつまって、ぼうっとなって、寒気がして、それでも前を見て、モニターを見て、グラフを見て、表を見て、マウスを押して、仕事が全然進まない。
「あれ?」なまぬるい春の日差しを浴びて、ぼうっと池袋を歩いていたら、mさんに声をかけられた。mさんは、私が去年辞めた会社の経理をしていた。その人の見た目は、動物のようにかわいらしかった。少しクラクラした。
「はじめ、呼びかけても反応ないから、無視してるのかと思っちゃいましたよ」
「いや、小さいから見えなかった」
「そんなはずないですよ」
「そんな地味な帽子かぶってるから、おばさんだと思ったんだよ。まだおばさんとつきあうほど年くってないからね。くったかもしれないけどね」
彼女はおとなしい服装で、地味な灰色の帽子をかぶっていた。たしかに、かわいい格好してると、男に声かけられまくって大変なのかもしれない。あの帽子は、保護色みたいなものなのだ。
「今、なにやってんですか?」とmさんが聞いた。
「バイト」
「あれ?バイトはじめたのって、最近ですよね?」
「うん。4月から。1日1万」
「高いですね」
「ヒマだけどね、きのうは隣の席の机を拭いただけで1日が終わった」
「なんの仕事ですか」
「ウェブの仕事。ウェブデザイン。かっこいいだろ?今、お使いでプリンタのインクを買いに来たの。あれ?営業で来たの?」
「マウスを買いに来たんです」
「あれ?会社は?」
「3月で辞めたんですよ。あれからたくさんの人が辞めたんですよ。知ってますか?」
「まあ、多少は、耳にかじるくらいに」
池袋はごみごみぃーっと人が歩いていて、ごみごみぃーっと赤信号で人が止まって、青になったとたんにうわぁーっとまた道にあふれだす。電気店も人と物でごみごみぃーっとしていた。ほんともう、ごみごみぃーっとしてた。mさんに会えたので、気分は春の陽気みたいだった。
「さみしいなあ」と思わず私は言った。
「ダークロさんはずっと前に辞めてるじゃないですか。なんでさみしいんですか?」
「そうだよね」
「ポイントカードで、私のマウス買ってくださいよぉ」
「出たよ。変わらないねえ。ねだればなんでも手に入ると思ってるだろ」
「うそですよ。うそに決まってるじゃないですか。それじゃあ、バイトがんばってください」
「うん。がんばるっていうか、なんていうか・・・」
それくらい会話して、彼女とはすぐに別れた。急ぎのお使いだったから。営業の人が私の帰りを待っていたのだ。もっと彼女と話したかったのに、残念だった。
 mさんは不思議に感じたかもしれないが、あの時、私は確かにさみしかった。会社をとっくの昔に辞めているのに、自分でも不思議だ。このさみしさは、一体、なんだろう。思うに、昔、子供の頃、よく行った動物園があって、そこで一番好きだった動物がいなくなったときのさみしさのようなものだ。その動物園には、大人になってから行くのをやめたけど、ある日新聞で、一番好きだった動物が死んだのを知った時のようなさみしさだ。まあ、死んだわけではないのだ。そこが救いだ。気休めだ。鳥のように自由に空へはばたいていったということだ。手ごろな妄想で、自分の心を慰める。思えば、あの動物園にはいろいろな生き物がいた。mさんみたいな愛玩動物もいたし、手のつけられない(匂いとか)猛獣もいた。私のような爬虫類もいた。檻から脱走した動物たちは今、何をしているのだろうか。みんな元気だろうか。食うか食われるか。世の中は弱肉強食の世界だ。肉食獣の餌になっていないだろうか。捕まらないようにうまく立ち回っているだろうか。違う動物園の檻の中に入っているかもしれない。自分の檻に閉じこもっている奴もいるかもしれない。誰かに飼われているかもしれない。私も今、檻の中にいるが、どうにも居心地がよくない。いつでもそうだ。居心地のよさなんて、今まで一度も感じたことない。4月のはじめから不景気な話だが、たぶん私はまた逃げるだろう。どこに逃げるだろう。いや、どこに行こうか。たぶんこれからも、いろいろな動物にばったり出くわすことだろう。その時は、檻の外から「こんにちは」とやりたいものだ。なんとなく、再会の場面を思い浮かべる。密林とか、大草原とか、砂漠とか、牢屋とか、普通の町並みとか。窓のない独房とかだと嫌だな。私の檻の鉄格子の隙間が、君の顔が充分に見れるくらい開いているといいのだけれど。
全てを含んで笑っている。楽しいどころの騒ぎじゃない。
身体的には空間を移動しているが、意識は一点に立ち止まったまま、動こうとしない。
がんばって起きている必要はない。ただ、ずっと眠りつづけていられる精神の安らぎがほしい。
この、牢獄のような白い壁を見ろよ。気のせいかな。気のせいかも。考える時が来たのかもしれない。星屑のような抗生物質。流星のような硝酸化合物。痛い痛い痛い。体中が痛い。嫌い嫌い嫌い。おれ自身が嫌い。天使のような化学物質。甘い匂いの鎮静剤。ドーパミンが吹き飛んだ。アドレナリンが蒸発した。だるいだるいだるい。薬の効き目が悪い。無限に広がる薬局のネットワーク。この、すばらしいひと時。ビリーブマイセルフ。禁断症状の体が痛い。
丸い輪の中で君はぐるぐると回った。そして持っていた体を離した。ハンマー投げのように、君の体が遠くまで飛んでいった。とても遠くまで。ずっと遠くまで。しかし君の心は、投げ終わった後、目まいがして、立つこともままならない。
私が通っていた小学校では、学帽をかぶることは邪道だった。男子児童はみんなプロ野球チームの帽子をかぶって登校していた。だから登校中に野球の話題が出るので、プロ野球を見なければならなかった。日本ハムや近鉄バッファローズをかぶる6年生の2人はツワモノだったので、彼らの許可なしに日本ハムや近鉄の帽子をかぶることはできなかった。許可なしにかぶっているのが分かると、帽子を川に捨てられた。南海の帽子をかぶっているやつはみんなからの笑いものだったので、同じ南海の帽子をかぶるやつも、同じようにバカにされていた。愛知県の小学校だったので、ドラゴンズをかぶる小学生はかなりいて、班長もドラゴンズの帽子をかぶっていた。私は1年生の時、巨人の帽子をかぶっていた。私の親父が巨人ファンだったから。1年生は班長と並んで班の先頭で登校する決まりだった。ドラゴンズにしろ、ドラゴンズにしろと、私は登校のたびに6年生の班長に洗脳された。どうも班長は巨人を眼の敵にしているみたいだった。班長は6年生で、学校で一番背が高く、声変わりもしていた。1年生の私はこわくて登校中、一言もしゃべらなかった。2年生になってから私はドラゴンズの帽子をかぶった。2年生になって、班長は前の班長の弟に変わった。同じように学校で一番背が高くて、同じように声変わりしていた。ドラゴンズの帽子をかぶった私は、班長に誉められた。中学生になった前の班長も、私の帽子を見て満足そうだった。私も登校中にしゃべれるようになった。巨人の帽子は黒いので、夏場は暑くて通学に不向きでもあった。その年に中日ドラゴンズは優勝したと思う。小松とか田尾とか大島とか牛島とか宇野とか郭とか平野が活躍していた。当時のドラゴンズは、なかなかアジがあった。会話の種に困らなかった。「ああ!あのボールは、ストライクじゃないよ!」とテレビを見ながら私が絶叫する。「うん!高いよ」と、巨人びいきの親父がうなずく。テレビでの野球観戦こそ、唯一私の意見が大人に通用する時間でもあった。
まあ聞きたまえ。人生は、ささやかな栄光の積み重なりでできている。それは一瞬だ。気づいた後に消えてしまう。それをつかむことができるのは、親でもなく、友人でもなく、恋人でもなく、自分なんだ。これは一瞬なんだ。つかまなかったら負けだ。全ては自分次第なんだよ。
「逆は必ずしも真ではない」
「なにそれ」
「ケーリー・ハミルトンの法則」
「楽しいと悲しいは正反対じゃないんだ」
「全ての感情を包括するのが神だともいうね」
「じゃあ人間はどうなるの」
「しらない」
「一つのベクトルに支配されやすいのが人間なのかなあ」
「まあ、そんなもんじゃない?」
おとといは眠れなかった。きのうは3時間くらい寝た。夢を見た。桜が満開で、私たちは花見をしていた。根元からライトの照明が当たってきれいだった。その時、私は酒を飲んでいなかったが、夢の中だったので、はるかに酩酊していた。通行人は一人もいなかった。花見のメンバーも、この前やった時とほとんど変わってなかった。隣には君がいた。ただ一人の例外は、私の斜め前に座っていた見たことのないおじさんだけだった。「桜ってのはね。昔はいろんな種類の桜が咲いてたけど、明治維新の頃にね「桜はソメイヨシノだけにしよう」という政府の運動があって、その結果こうなったんだよ。見てごらんよ。周り中、ソメイヨシノだ。桜が、満開だ。私は、もっと赤味がかった色がいいよ。山桜もいいね。富士には月見草がよく似合う」おじさんは、相当できあがっているようだった。立膝しながら日本酒をコップでグイグイ飲んでいる。花びらがコップの中に浮かんでいた。「この桜を見てると、日本人みたいだね。一つの形式に、どんどん染まっていってしまう。もっと、軽くならなきゃ。だいたい花が咲いているだけで集まるなんでおかしいよ。私だったら下のアスファルトの路上で、排気ガスを浴びながら飲みたいね。冬に」「だけど、おじさん。あなたもここにいるじゃないですか。ここにいたいから、いるんでしょ?」「それもそうなんだけどね」「ちょっと子供だよダークロさん!こどもこども!」と、突然君が叫んだ。「そうかな」私は君を見た。君は笑っていなかった。不安そうな、こわい目つきだった。何かを罰する目つきだった。何について罰せられているのか分からなかったので、私は不安になった。「子供だよ!」その時、おじさんが笑った。「大人とは、裏切られた青年の姿だよ」私はいろんなことを言いたくなった。でも黙って酒を飲みつづけた。突然、風が吹いた。いろいろな言葉が私の周りで花びらと共に舞った。こういう花見を、以前にもしたことがあったような気がした。
数学が苦手だ。中学の頃から苦手だった。数学の先生から参考書をもらったりしていた。塾では、日曜に2時間くらいマンツーマンの授業をタダでしてもらっていた。高校以後は、もう理解の範疇を超えてしまったので数学を勉強するのをやめた。なんでこんなに苦手なのだろう。25年前の出来事に問題があるようだ。小学校に入る前、父が1+1を教えようとした。「1たす1は?」と父が言った。「・・・1」と私は答えた。「1たす1は?」と父がまた聞いた。「・・・1」と私は答えた。両親はいろいろ説明してくれた。しかし私には納得がいかなかった。1が1つあれば、1じゃないか。「1たす1は?」「・・・1」何度もこのやり取りは続けられた。そのうち「1」と言った後に頭をはたかれた。親としては不安だったのだろう。算数の予習を軽くやっておこうと思っただけなのに、自分の息子の知能がちょっと足りないのではないかという疑いが出てきたのだ。私にとっても大変なことになったものだ。当時の自分は、少し頑固だった。めちゃくちゃたたかれても「1!」と言いつづけた。最後にミカンを置いて、無理やり数えさせられた。「ほら、ミカンを数えてみろ」「1・・・2」私は泣きながらミカンを数えた。「ほら、これが1+1だ」この時点で、親も私の成績に期待するのをやめた。私は小学校に入った。残念ながら小学校でも、1たす1は2だった。「学校の先生がうそを教えている!」と私は思った。みんながまちがっているのだ。真実を知っているのは私だけなのだ。1が1つあれば1のはずだ。2が2つあれば4のはずだ。3が3つあれば、もちろん9だ。私は小学校で、うその足し算を覚えた。納得できなかった。足し算のテストの解答欄の外に小さく本当の答えを書いておいたが相手にされなかった。学校の帰り、たまたま母の自転車に出会ったので、後ろに乗った。もう1年生の終わりごろだった。そろそろ我慢の限界だった。「・・・お母さん、1たす1は、1だよ」「・・・」母が黙るのは危険な兆候だ。次に何かアホなこと言うと必ず叩かれた。「・・・2たす2は4、2たす3は6、2たす4は8だよ」怖れずに私は自説を提唱した。「・・・それは、掛け算というのよ」「・・・なにそれ」「・・・2年生になったら教わるのよ」「・・・ふーん、じゃあ、やっぱり、1たす1は1なんだ」「・・・1かける1というのよ」「・・・掛け算て簡単だね」こうして謎が解けた。しかしここからが苦労のはじまりでもあった。×を+と1年間思いこんでいたので、たまに+と×を混同して計算する癖がついてしまったのだ。私は当時、おもちゃの黒板を使って、弟を相手に学校ごっこをしていた。先人が開いた道は、後人が通れ。私は弟を前にして算数を教えた。足し算と同時に掛け算を教えた。「いいか、これだけじゃないよ。足し算と引き算だけじゃないんです。掛け算と割り算があるんだよ」弟は幼稚園で足し算と引き算と掛け算と割り算ができるようになった。割り算は親に聞いて私と一緒に覚えた。弟は、今やシステムエンジニアである。
チリの砂浜で打ち上げられた謎の物体。オクトパスギガンテスというタコの一種か?といわれていた。オクトパスギガンテスとは10メートル以上のタコ。その後、生物学者がサンプルを採って正体判明。正体はマッコウクジラ。骨が沈んで、脂肪分だけ海面を漂い、タコのような形となって、砂浜に打ち上げられたという。
ものすごく退屈なドラマを見た。エンディングテーマと一緒にものすごい数の提供会社名が流れた。テレビドラマは文化じゃなくて経済だ。
シーラカンスは最初南アフリカ沖で見つかった。その後、ガラパゴス諸島付近の島が住処と分かる。前と後ろに左右対称の長いひれを持つ。右前ヒレと左後ろヒレが連動し、左前ヒレと右後ろヒレが連動している。人間もそのシステムのように歩いている。インドネシアでもシーラカンスが見つかったが、DNA鑑定の結果、アフリカ沖の種類とは別種であると判明した。数百万年前に枝分かれしたらしい。
ドアの目の前にばかでかいガが死んでいて、何日も動かない。全ての生物種は、それぞれ特有の電場を発しているのかな?昆虫の触覚についても私には謎だな?あれも電場を感じるんじゃないかな?見た目はアンテナみたいなものだもんな。でも、触覚って、嗅覚もあるらしい。交尾の時に役立つのだ。本当かな?嗅細胞があるのかな?本当だとすると、サメの嗅覚に似てるのかなあ?あれも電場(餌から発する)発見と嗅覚の両方を担ってるらしい。電場と匂いの関係ってどうなってるのかな?匂いって、粒子じゃなかったっけ?電場も出すの?
隣の家で、なにかの工事中にガスが漏れたらしく、消防車やおまわりさんが何人も来ていた。おまわりさんがわざわざ私の部屋をノックして、火をつけるのは控えてくれと注意した。12時ごろ外に出たら、もうガス問題は解決したようで、普段と変わらない落合の町並みになっていた。「犬の糞を捨てるな」と書かれたプレートが、ガスを漏らした家の壁に貼られていて、それだけが目新しかった。「ガスを漏らすな」とそのプレートの横にでも貼ってやろうか。
今日は日差しが強い。ハトの群れが自動車の影で休んでいる。よく見ると、1羽だけ日に当たっている。自動車の影の横に、ハトの形をした影を作っていた。「おまえ、そこは違うだろ」と思わず口に出してつぶやいた。
深夜、ファミレスに入ったら、ウェイターが「禁煙席ですか、喫煙席ですか」と聞いてきた。「禁煙席で」と答えたが、喫煙席に通された。「ご注文が決まりましたらボタンを押してください」と席に着いたとたんにウェイターが言った。「はい」と答えたら、なにを勘ちがいしたのか、前かがみになって注文を聞く体勢になった。まあ、いいかと思い、急いでメニューを開いてドリアを頼んだ。この店のメニューは豊富だが、何回も通うと限られたメニューしかないことに気づく。おいしいメニューが極端に少ないのだ。近所にあるファミレスがここだけなので、しょうがなく来ているだけだ。たぶん何もないよりはましだ。何もなかったことはないし、たくさんあったことはないけど。この店のウェイターは外国人ばかりだ。彼らの中には「水」という単語が通じない人間もいる。深夜だというのにファミレスの中は明るい。昔は本が読みづらいくらい暗かった。店内はかなり混んでいる。1人で来た客は私だけのようだった。なんだか気分がいい。「おつかれさんです!」とさっきのウェイターが大声で通りすぎていく。帰ろうとする店員が出口にいた。来たばかりの客が不思議そうにウェイターを見ている。別のウェイターが私の席に無言でドリアを無造作に置いて去っていく。それよりもまだ水が来ない。「ナイスサービス!」思わず喝采をあげたくなった。くだらない笑顔と時間とサービスが24時間営業で消費されていく。豊かなようでいて、かなり貧しい。心のデフレスパイラル。タバコを吸うか吸わないかだけでなく、いろいろな席が用意されていると面白い。「勉強しますか?では自習席へどうぞ」「静かに食べたいですか?それともにぎやかなのがいいですか?」「SEXしますか。キスまでですか。ではこちらへどうぞ」頭の中でいろいろなウェイターが客を案内していく。「黒人ですか白人ですか」「ユダヤ人ですか違いますか」「宗教はなんですか」「共産主義者ですか資本主義ですか」いろいろなウェイターがいる。たまに私たちは、希望とは逆の席に案内されていく。世界の歴史を味わいながらドリアを食べ終わった。私の席の横の壁に大きなポスターが貼られている。ティラミスサンデー、アップルベリーサンデー、チョコマロンサンデーの写真だ。どれがいいだろうか。外は寒いので、なにも頼まない選択肢もありだ。選ぶのは難しいが、最終的な味わいはかなり違ったものになるはずだ。太宰、坂口安吾、織田作。レーニン、マルクス、スターリン。ストーンズ、ビートルズ、フー。ドミンゴ、カレーラス、パバロッティ。馬場、猪木、ヒロ・マツダ。仏陀、キリスト、マホメット。いろんな顔がこのポスターに浮かんでは消えていく・・・。さあ、どれを選ぼうか。チョコマロンサンデーはチョコレートサンデーの上にちょこんと、マロンではなく栗が一個乗っている。イガイガを割ると1個しか入ってないのがマロンだ。3個も入っている日本の栗は断じてマロンとは呼べない。小さな栗がなにか物悲しい。アップルベリーサンデーのソースが毒毒しいくらいに真っ赤だ。アイスの上に無骨にティラミスが乗っているのがティラミスサンデーだ。なんでこんなにみんなまずそうなんだろう。きっと、おいしそうに作れる調理人がいないのだろう。チェーン店だから、1番低いレベルに合わせているのだろう。それにしてもあんまりだ。10分くらい考えてティラミスサンデーをチョイス。と、そこへ、仕事を終えた彼女がやってきた。せっかく選んだサンデーだったが、彼女に全部食べられた。最後の一口は彼女。暗黙の掟だ。
おれはこの8月で30になったよ。誕生日の日はちょうど夏休み明けで、バイトしてた。いきなり仕事が山積みになっていて、頭が痛くなった。頭痛薬を買いたかったけど、なぜか20円しか手持ちの金がなかった。頭が痛いまま帰ってきて、電気をつけようとしたらつかない。停電だ。その頃ニューヨークが大停電する事件がおきていたので、ついにここまで来たのかと思った。アメリカの五大湖からここまで電気が来ていたのか。ドアに挟まれた電力会社の通知書を見ると、たんに電気代を2ヶ月払ってなかっただけだった。頭が痛いので、そのまま寝てしまった。2時間ほど寝ていると、電話がひっきりなしに鳴っているのに気づいた。出る気力がないので電話線を抜いた。電気が切れているのに電話が鳴るのが不思議だ。消え入るようなかすかなプルプルした音だった。電話線を切ったら暗闇に取り残された。本当に電話が鳴っていたのか、よく分からなくなった。トイレに行こうとしたら、床が濡れている。以前に、洗濯機から出た水が下の階の大家の部屋にまで漏れて、大騒ぎになったことがある。でも洗濯機は大丈夫みたいだ。冷蔵庫の存在に気づいた。冷蔵庫から、ぼたぼたと景気よく水が流れ落ちていた。冷蔵庫の中の壁一面に氷が凍っていて、それが溶けだしたのだ。あの電話は大家からだったのかもしれない。冷蔵庫から、氷をかきとる作業をした。頭が割れるように痛く、しかも暗闇なので大変だった。30才の誕生日をこのように迎えるなんて想像してなかった。水分がなくなっていく冷蔵庫という存在は、ある意味30代になったおれを象徴しているのかもしれない。このままだと中の物が全部腐ってしまう。コンビニまで電気代を払いに行くことにした。暗闇の中を手探りで探して振込用紙とお金をやっと見つけた。4月の用紙や去年の12月の用紙も見つけた。2000円札も3枚見つかった。コンビニに行って、今月の分とあわせて3ヶ月で8000円払った。払い終わったら電話してくれと通知書に書いてあった。電話をしたけどもう営業は終わっていて、月曜から金曜の9時から8時まで営業をしていることを告げる、機械的なメッセージが流れ続けた。電話代を払ったけど、電気がつかない。電話料金だと、払ったとたんに通話できるのに。悲しい気分になったが、1人で避難訓練をしているのだと自分に言いきかせて家に帰った。頭が痛くて夕飯も食べられない。なんだか寒気がする。どうやら風邪をひいたらしい。近所の若者が大騒ぎをしていた。うるさいので窓を閉めた。雨戸も閉めた。部屋の中で息をする。夏の夜。でも、暑さは感じない。音もなく、何も見えない。息が止まる。時間の感覚がなくなった。氷が溶けるのをやめた。物が腐るのをやめた。狭くもないし、広くもない。ここはどこだろう。ここは部屋の中ではないような気がした。ここは暗闇の中だ。空っぽのようでいて、なにかで満たされている。どこかで自分の名前が呼ばれている。海が昇っていく。海面が浮き上がる。波が空に昇っていく。山が落ちていく。雪崩が底に沈む。世界の屋根が崩れ落ちていく。別の世界かもしれないし、世界の始まりや終わりかもしれない。出発点でもあるし、終着点でもある。自分の名前が、まだ呼ばれている。どこから呼んでいるのだろうか。ここはどこだろう。おれは誰だろう。明日になれば、そのうち電気もつくだろう。次の日のおれは部屋の中にいて、電気製品に囲まれた生活があたりまえのように続くのだろう。ここでロウソクをつけたら、たぶんきれいだろう。きれいだと思う。30本か。多いな。おれは布団の中で誕生日ケーキのロウソクを吹いた。
バイトしてからこの4ヶ月で10キロ太ってしまった。バイト先でおやつが出るし、残業すると出前をたのんでもらえる生活が原因だ。仕事がメチャクチャ楽なのも問題かもしれない。ダイエットの広告に出てくる「使用前」、「使用後」みたいな感じだ。おれの場合、逆だけど。何を使用したのか、いや、何を使用しないでこうなったのか。恐ろしいほど腹が出てきた。苦しくて普通に座れないくらいで、家にいても寝転ぶのが通常の状態になってしまった。手足に肉がつかないのが問題だった。足首をつかむと、親指と中指がくっつくほどの細さだ。太ったのはいいけど逆に見た目が飢餓状態の人になってしまった。おれの身長は猫背をやめると174センチある。体重が48キロから58キロになった。最初は腹が出るのが面白くてわざと食べすぎていた。なぜかというと、太ったせいでズボンがはけなくなったことなんて、生涯ではじめてのことだったから。昼飯は牛丼ときつねうどんを両方食べるとか。その後おやつにチョコレートを1箱。夕飯はタン塩弁当2つ。1日に3000キロカロリーは取っていた。でも、さすがにヤバイと寝転びながらおれは考えた。心配になって医者に行こうかとしたけど、ただの太りすぎで笑われるだけかもしれないので、インターネットで何時間も調べた。最初は腹水だと思った。昔はやたら酒飲んでたし、肝臓がいかれたのかもしれないと思った。なんか苦しいし。でも腹水だと逆に体重が減るらしい。最終的な結論は「中年性肥満」。医学のページと照らし合わせてみると、まさにこんな症状だった。さすがに30才になっただけのことはあるんだな。それから毎日、高田馬場から落合まで帰り道を歩いて帰った。生まれてはじめてダイエットしたよ。最近、ようやく腹がへこんできたけど、これからどうしようかな。しっかし、腹しか太んないのか?
長年、精神病院(心療内科と最近言う)に通っている友達が、診療中に幼年時代の記憶を思い出し、先生から癲癇だったのではないかと疑問を投げかけられた。先生は彼に脳波の検査を勧めたらしい。先日、彼と病院の待合室で待ち合わせした。受付の時間は過ぎていたが、待合室にはあふれんばかりの患者がいた。なんでこんなに患者がいるのだろうか。この先生は患者をコンスタントに治療しているのだろうかと疑問に思った。この患者数は、治療能力のなさの現われだといえないだろうか。待合室の書き込みノートを読むと、薬目当てで通っている患者の方が多い。先生に対する書き込みが極端にないのは病気のせいだろうか。単に人望がないのではなかろうか。精神病における薬は、治ったか治らないかの判断が難しいのも原因かもしれない。この病院では、治療に際し、睡眠薬などの強い薬を処方する。治るための薬ではなく、重度の糖尿病患者におけるインシュリンのようなものかもしれない。薬は、副作用を持っている。心臓や腎臓が悪くなったりする。死に至る薬だ。薬を飲ませないようにする治療は、果たして行われているのだろうか。コンスタントに薬を与えつづけるあの医者は、はたして医者といえるのだろうか。
私は久しぶりにベッドにねっころがりながらベルベットアンダーグラウンドのベスト盤を聞きつづけた。私は高校時代、このバンドをよく聞いていた。なんとなく「アンダーグラウンド」という響きがかっこよかったのだ。当時の私は暗く異質だった。今、聴きかえしてみると、彼らのリズム感のなさに気づく。単調なのだ。低音のうねりが感じられない。スタイルカウンシルのような「面白さ」(この言葉は多分に批評家的な響きが含まれる)が感じられない。当時はエリック・バードンが黒人の真似事をしてリズムアンドブルースを白人なりに解釈し始めた時代だ。エリック・バードンを含め、サンフランシスコで流行ったようなブームをサマー・オブ・ラブというらしい。サマー・オブ・ラブ。エリック・バードンもそこに入るんだっけ?なんだか遠い出来事のようで私の記憶もおぼろげだ。サマー・オブ・ラブに比べ、ベルベットアンダーグラウンドは、なんと異質なことだろう。サマーでも、ラブでもない。今聞き返してみて、私は彼らに閉鎖性を感じ、閉塞感を持った。ベルベットアンダーグラウンドはベッドルームミュージックであったのだ。寝室に閉じこもる人間はいつの時代にもいる。閉じこもる人間がいいのか悪いのか、私には分からない。私の大好きな曲「ヘロイン」で最初につぶやかれるように「アイドンノウ」だ。よく聞いてみると、ベッドルームでもだえ苦しむようなリズムを感じる。それはリズムなのかもよく分からないが。生命力がない人間から生み出されたものは、やはり心臓の鼓動のような、いきいきとした脈打つものが感じられない。しかし閉じこめられた者のリアルなうごめきを感じる。「ヘロイン」での太鼓の音は、薬で不規則にみゃく打つ心臓の音だ。リアルなのだ。リアルだ。このベスト盤の最後の曲はラストアルバムに入った「ロックンロール」だ。私はこのラストアルバムの曲名を聞いて、ベッドでしばらく立ちどまる。彼らはロックンロールだったのか。発展の仕方が、独自のものを持っている。ニューヨークと切り離して考えることができない。サンフランシスコへ行く暇もないのだ。リズムとはなんだろうかと考える。サンフランシスコまで行って「ラブ」をくりかえせばよかったのだろうか。借り物の器を使ったものではないのかもしれない。私は、冷ややかな物に惹かれる。ルー・リードのバカにしたような軽い歌い方は曲調からも浮かび上がっている。「ロックンロール」での歌い方は、すでにメロディからも離れている。機能的で無機質な世界、機能的な無視質な演奏からも離れた心の自由を感じる。当時の私は暗く異質だった。今もただそれだけの私だ。