レスラーノート

オットー・ワンツ

OTTO WANZ

1943年6月13日
オーストリア・グラーツ出身
185cm 162kg

通称
CWAの帝王
タイトル歴
AWA世界ヘビー
CWA世界ヘビー
得意技
ボディプレス

膨れあがるほどの巨体を活かしたパワーファイター。57年にボクシングを始める。69年にデビュー。73年1月、グラン・ラパンの名前で国際プロレスに初来日。同年にブレーメン・トーナメントで初優勝。8月2日、南アフリカのケープタウンでジャン・ウィルキンスを破りCWA世界ヘビー級王座を獲得。同年から00年にかけてドイツ・オーストリア中心にCWA(Catch Wrestling Association)という団体を主宰。76年1月、ブルドッグ・オットーの名で新日本プロレスに来日。77年に南アフリカ・ケープタウンでジャン・ウィルキンスを破り、初代CWA世界ヘビー級王座を獲得。78年11月23日、ローラン・ボックがプロモートした「欧州世界選手権シリーズ」のドルトムント・ベストフォーレンホール大会でアントニオ猪木と対戦。4分10R、時間切れ引き分けに終わった。82年6月12日、西ドイツ・グラーツでボビー・ダンカンを相手にCWA王座の防衛戦を行い勝利。8月29日にミネソタでニック・ボックウィンクルを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得。10月9日にニックに敗れて王座転落。 83年5月、新日本プロレスに来日。IWGP決勝リーグ戦に出場。猪木戦で負傷し、途中帰国した。11月、新日本プロレスに来日。ウェイン・ブリッジと組んで第4回MSGタッグリーグ戦に出場。不戦勝で1回勝った以外は全敗した。84年5月、新日本プロレスに来日。第2回IWGP王座決定リーグ戦に出場。9敗、1不戦勝、1引き分けの、12人中11位の成績に終わった。7月14日、グラーツでエド・レスリー(ブルータス・ビーフケーキ)と対戦し、6R2分5秒で勝利。12月22日にブレーメンでキングコング・バンディと対戦。13,000人の大観衆の前で大流血戦を展開して勝利した。85年7月5日、オーストリアでアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦し、最終の8R(1Rは4分)に敗れた。90年12月22日、ブレーメンでのスタットハレー1号館大会でテリー・ファンクを相手に引退試合。逆転KO勝ちした。92年から13年まで、年に2回のストロングマンコンテストの大会をプロモート。96年8月23日、レジェンドマッチとしてテリー・ファンクと対戦し、4Rに勝利。CWAは新日本プロレスと提携し、蝶野天山小島らもここで試合を行った。石沢常光もここに遠征し、ケンドー・カシンに変身した。99年11月25日から12月4日に開催されたブレーメン大会を最後に、00年にCWAは活動停止。17年9月14日、グラーツで死去。



スクラップブック
Gスピリッツvol.56
ミッヒ・ワンツのインタビューより
−お父さんのオットー・ワンツは、元々ボクサーだったそうですね。
「ええ。43年生まれの父は57年にボクシングを始めて、グラーツのボクシングクラブでミドル級の試合に出場しました。その時、体重はすでに76キロだったそうです。そこから身体がどんどん大きくなり、1年後にはヘビー級の選手になっていました。17歳でオーストリアのナショナルチームに選ばれて、ドイツのチームとハンブルクで試合をしています。父は5回ほどローカルのチャンピオンになり、一度はオーストリア・ユニオン・マスター王者にもなりました。60年のローマ・オリンピック候補にもなったんですよ」
(中略)
「グラーツ郊外で店を始めて、軌道に乗ってくると、やがて市内に新店舗をオープンさせたんです。その際、父はボクシングを辞めると母に約束し、実際に引退しました。ただ、コーヒーショップの経営に専念するわけにはいかなくなったんです。というのは、68年にグラーツで初めてのプロレス興行が開催されたんですね。プロモーターはレスラーでもあったミオ・オルビッチだったんですが、最初の興行があまり上手く行かなかったんです。彼はその原因は、地元の選手がいなかったからだと考えたようです。いくら良い選手が出場したとしても、またどんなに良い試合が続いたとしても、地元出身のヒーローなしに観客増は望めません。そこでオルビッチは地元のスポーツ選手のスカウトに動いたんです」
−そこで白羽の矢を立てられたのが・・・。
「父だったんですよ。父はヘビー級ボクサーとして、グラーツでは知られる存在でしたからね」