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ローラン・ボック
ROLAND BOCK


1944年8月3日
バーデン=ヴュルテンベルク州ガイスリンゲン・アン・デア・シュタイゲ出身
191cm 120kg
タイトル歴:VDB世界ヘビー
得意技:ダブルアーム・スープレックス(普通よりも急角度に投げる)

西ドイツの小規模な団体のプロモーターとして活躍した。14歳でアマチュア・レスリングを始める。61年に西ドイツのジュニア選手権で優勝。ユース選手権で2位。その後も活躍を続け、68年に西ドイツ選手権でのフリーで優勝。グレコローマンでは3位。10月、メキシコオリンピックにアマチュアレスリングのグレコローマン97キロ超級で出場。1回戦でスウェーデンのラグナー・スヴェンソンと引き分け、2回戦でこの大会2位となったソ連の強豪アナトリー・ロシチンと対戦しポイント差で敗れ、3回戦でブルガリアのステファン・ペトロフと対戦し、失格負け。15人中11位の成績に終わった。69年の西ドイツ選手権ではフリー、グレコ共に優勝。70年にヨーロッパ選手権のグレコローマンで優勝。72年に西ドイツ選手権でグレコで優勝。同年にナショナルチームから除名された。73年9月7日、ハンブルグでオスカー・ラゴを相手にデビュー。74年8月31日、ミュンスターでのグスタル・カイザー派のトーナメントでジョージ・ゴーディエンコと対戦。ダブルリストロックに敗れたが、ゴーディエンコの足首を骨折させる壮絶な試合となった。78年11月7日からアントニオ猪木の欧州選手権ツアーをプロモートした。11月26日、ドイツ・シュツットガルト・キーレスバーグ大会で猪木と対戦。通常のプロレス的な技の応酬はなく、ボックが猪木を圧倒。4分10Rを戦い、判定勝ち。当時、猪木がここまで攻めこまれて負けることは非常に珍しく、日本ではこの試合が録画中継されて「シュツットガルトの惨劇」として語り種になった。ツアー全体の興行収入は大赤字。10万ドルのギャラは新日本プロレスに半分ほどしか支払われず、回収策としてボックを来日させてギャラから差し引くことしたが、契約面で折り合いがつかず来日は何度も中止。79年12月16日、西ドイツ・ジルデルフィンゲンでアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。4R、無効試合に終わった。この試合がドイツでの最後の試合となった。アンドレ戦から数日後に血栓症のため入院。81年7月に新日本プロレスに初来日した。「地獄の墓堀り人」のニックネームで活躍。受け身の取れないスープレックスで話題を呼んだ。7月31日、大阪・臨海スポーツセンターで木村健悟と対戦。バックドロップでグロッキー状態の木村を引きずり起こし、1分35秒に豪快なダブルアームスープレックスで勝利。8月2日、後楽園ホール大会で長州力と対戦。3分28秒、ダブルアームスープレックスで圧勝した。82年1月1日、後楽園ホール大会で猪木と5分10Rでのシングル戦。ダブルアーム・スープレックスは不発だったが、切れ味鋭いフロントスープレックスを見せた。3Rに猪木の延髄斬りが炸裂。ボックがエプロン越しにスリーパーをかけて、止めに入ったレフリーを突き飛ばして3R3分16秒で反則負け。この来日を最後にプロレスから引退。78年での欧州ツアーで巨額の負債を抱えてしまい、税金の不支払と、ツアーの資金調達に関係していた第三者の個人投資の損失のため、83年1月から懲役2年の刑を受けた。数か月で出獄が認められ、負債のため財産はすべてなくなっていたが、その後は妻の名義にしていたディスコの経営会社で働く。91年からタイに拠点を移して貿易業を展開。03年以降はドイツに戻り、シュツットガルトで靴部品の販売業をして生活。

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