レスラーノート

リック・フレアー

RIC FLAIR

本名:リチャード・モーガン・フレアー
1949年2月25日
テネシー州メンフィス出身
185cm 110kg

通称
狂乱の貴公子
ネイチャー・ボーイ
タイトル歴
NWA世界ヘビー
NWA・USヘビー
WCW世界ヘビー
WWF世界ヘビー
ミズーリ州ヘビー
NWA世界タッグ(ミッドアトランティック地区)
NWAミッドアトランティックヘビー
NWAミッドアトランティックTV
WWEインターコンチネンタル
世界タッグ(WWE)
得意技
足4の字固め
トップロープに上がるが相手にデッドリードライブで投げられるムーブ

WCWを代表したレスラー。相手を引き立てる、あまりの試合巧者ぶりに「ホウキが相手でも最高の試合ができるレスラー」とファンから賞賛された。生後1ヶ月も経たないうちに両親から捨てられ孤児となりフレイアー家の養子に迎えられる。学生時代はフットボールとアマレスの選手。 72年にバーン・ガニアのレスリングキャンプに入る。デビュー当時はラフファイターとして売り出す。 73年6月、国際プロレスに初来日。 AWAからWWFを経て、74年にNWAの目玉マーケットとなりつつあった大西洋岸にあるシャーロッテ地区(その後のWCW)へ進出。ここでネイチャーボーイを名のる今のギミックにたどり着き人気爆発。元祖ネイチャー・ボーイのバディ・ロジャースそっくりなファイトスタイルだった。7月4日にリップ・ホークと組んでNWAミッドアトランティックタッグ王座を獲得。75年2月にポール・ジョーンズを破りNWAミッドアトランティックTV王座を獲得。NWAミッドアトランティックヘビー級王座を獲得し、ワフー・マクダニエルと抗争を展開。 75年10月4日に飛行機事故で腰と背骨を骨折。同乗していたジョニー・バレンタインは両足複雑骨折でそのまま引退した。フレアー自身も医者から引退勧告も受けたが、復帰した。 76年5月24日にシャーロッテでワフー・マクダニエルを破りNWAミッドアトランティックヘビー級王座を獲得し、復活を印象づけた。12月にグレッグ・バレンタインと組んでNWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック地区)を獲得。 77年7月にボボ・ブラジルを破りNWA・USヘビー級王座(後のWCW・USヘビー)を獲得。同王座はWCW時代を含め、のべ6回獲得した。来日時もキム・ドクとのコンビで馬場鶴田からフォールを奪いストレート勝ちを収める活躍。 81年9月17日、ダスティ・ローデスを破りNWA世界ヘビー級王座を獲得。 83年11月24日、ハーリー・レイスを破りNWA世界ヘビー級王座2度目の獲得。12月12日、全日本プロレスの蔵前国技館大会でザ・グレート・カブキを相手に防衛戦。24分24秒、レフリーを暴行して反則負け。規定により王座防衛。 84年5月24日、全日本プロレスの横須賀市総合体育会館大会でケリー・フォン・エリックを破りNWA世界ヘビー級王座3度目の獲得。 85年10月21日、全日本プロレスの両国国技館大会でAWA世界ヘビー級王者のリック・マーテルとダブルタイトルマッチで対戦。AWAとNWAの史上初のダブルタイトルマッチとなったこの試合は、熱戦の末に34分3秒に両者リングアウトに終わった。 86年8月9日、ダスティ・ローデスを破りNWA世界ヘビー級王座4度目の獲得。 87年11月26日、ロニー・ガービンを破りNWA世界ヘビー級王座5度目の獲得。 89年5月7日、リッキー・スティムボードを破りNWA世界ヘビー級王座6度目の獲得。 91年1月11日、スティングを破りNWA世界ヘビー級王座7度目の獲得。3月21日、新日本プロレスの東京ドーム大会でIWGPヘビー級王者の藤波辰爾とダブルタイトルマッチ。23分6秒、グラウンド・コブラツイストにフォール負けしてNWA世界王座から転落。試合後にWCWの役員ダスティ・ローデスとバリー・ウインダムが「藤波はオーバー・ザ・トップロープの反則を犯していた」とベルトを藤波から剥奪した。その後、WCWの首脳と衝突して離脱。9月からWWF入り。 92年1月、ロイヤルランブル(30人参加の時間差バトルロイヤル)で優勝してWWF世界ヘビー級王者になる。一度王座転落するが9月にランディ・サベージを破り再度獲得。10月にブレット・ハートに破れ王座転落後、WWFを離脱。 93年春からWCWに復帰。12月、ベイダーを破りWCW世界ヘビー級王座になる。 94年7月、ホーガンに敗れて王座転落。 95年4月29日、北朝鮮のメーデー・スタジアムで行われた「平和のための平譲国際スポーツ・文化祝典」で猪木と対戦。28、29日の2日間で38万人もの動員を記録したこの大会で、14分52秒、猪木の延髄斬りに敗れた。8月、両国国技館で新日本プロレスのG1クライマックスに参戦。越中に勝ち、武藤に敗れ、蝶野と引き分けてリーグ戦に敗退した。12月、ランディ・サベージを破り再びWCW世界ヘビー級王座に。 96年9月20日、新日本プロレスの大阪府立体育館大会での日米対抗スーパースターズ・トーナメント1回戦で藤波と対戦。10分31秒、首固めで勝利。9月21日、後楽園ホールでの2回戦で佐々木健介と対戦し、9分37秒、ストラングルホールドγに敗れた。 99年1月17日、息子のデビッド・フレアーがWCWでデビュー。3月、ホーガンを破りWCW世界ヘビー級王座を獲得。しかし1ヶ月もしないうちに王座転落。 00年4月、ホーガン軍団ミリオネアーズクラブに入ったが自然消滅。その後引退をほのめかし欠場。WCW執行部長として手腕発揮。 01年春、WWFに登場。

2002

02年1月20日、PPV「ロイヤルランブル」でビンス・マクマホンとストリートファイトマッチ。14分55秒、足4の字固めで勝利。3月17日、PPV「レッスルマニア」でアンダーテイカーとノーDQマッチ。18分47秒、ツームストーン・パイルドライバーに敗れた。8月25日、PPV「サマースラム」でクリス・ジェリコと対戦。10分24秒、足4の字固めで勝利。

2004

04年2月5日、広島サンプラザホールでのWWEの日本公演でショーン・マイケルズと対戦。17分52秒、スウィート・チン・ミュージックに敗れた。2月6日、大阪城ホールでの日本公演2日目でババ・レイ・ダッドリー、ディーボン・ダッドリー組を相手にタッグ王座の防衛戦。24分35秒、バティスタがスパインバスターでディーボンに勝利。2月7日、さいたまスーパーアリーナでのWWEの日本公演3日目でバティスタと組んでダッドリーボーイズを相手に世界タッグ王座の防衛戦。24分57秒、バティスタのスパインバスターでディーボンにフォール勝ち。

2005

05年2月4日、さいたまスーパーアリーナでのWWE日本公演に来日し、ショーン・マイケルズと対戦。10分17秒、スイート・チン・ミュージックに敗れた。9月18日、WWEの「アンフォギブン」大会の第1試合に出場。インターコンチネンタル王者のカリート・カリビアン・クールと対戦。コーナーに上がったフレアーは、そのままいつものようにデッドリードライブで投げられるかに見えたが、下から迫るカリートを撃退し、ダブルアックスハンドルを決めた。口に含んだリングをふきかけようとしたカリートに対して顔面パンチで迎撃。最後はリンゴをのどに詰まらせたカリートに対して足四の字固めをかけて勝利。56歳にしてWWEインターコンチネンタル王座を獲得した。

2006

06年11月5日、ロディー・パイパーと組んでスピリット・スクワッドを破り世界タッグ王座を獲得。同王座はパイパーの突然の体調不良により長く続かず、11月13日にランディ・オートンエッジ組に敗れて王座転落となった。11月26日、「サバイバー・シリーズ」でダスティ・ローデス、サージェント・スローターロン・シモンズと組んで、スピリット・スクワッドとイリミネーション・マッチで対戦。10分31秒、フレアーの四の字固めで勝利した。

2007

07年6月24日、MVPのUS王座に挑戦。8分40秒、プレイ・メーカーに敗れた。7月から欠場。11月26日、地元シャーロットでのRAWのテレビ放送に登場し、復帰を宣言したが、ビンス・マクマホンに「負けたら引退」という条件を突きつけられた。この日のメインで復帰戦を行い、「レジェンド・キラー」ランディ・オートンと対戦。急所への一撃から丸めこんで勝利した。この試合後も「負けたら引退」という条件で試合に出場し続けた。12月17日にはウマガと対戦し、リングアウトでかろうじて勝利。12月31日にはHHHと対戦。必殺のペディグリーをくらってしまったが、ウィリアム・リーガルGMが現われてフレアーの顔面にパンチをした結果、反則勝ち。

2008

08年1月14日にウィリアム・リーガルと対戦。タイツをつかんでの丸めこみで勝利した。2月11日、有明コロシアムでのRAWの日本公演でミスター・ケネディと対戦。13分52秒、足4の字固めでギブアップ勝利。2月12日、日本武道館でのRAWの日本公演でウィリアム・リーガルと対戦。9分11秒、足4の字固めでギブアップ勝利。2月17日、PPV「ノー・ウェイ・アウト」でMr.ケネディと対戦。傷めた左膝を狙われて苦戦したが、最後は足4の字固めで勝利した。3月19日にビンス・マクマホンと対戦。凶器攻撃で流血に追いこまれた。机をリングに上げたビンスに対し、ローブローで動きを止めてから机に載せて、コーナー最上段からのフライングボディプレスで勝利した。3月29日、WWE殿堂入り式典「ホール・オブ・フェイム」で殿堂入り。式典のメインに登場し、1時間以上ものスピーチを行った。3月30日、フロリダ州オーランドでの「レッスルマニア24」でショーン・マイケルズと対戦。トップロープに上がり、いつもはデッドリードライブで投げられていたが、今回はフライングボディアタックを披露。20分23秒、スウィート・チン・ミュージックに敗れ、74635人の大観衆の前で引退。3月31日、RAWの番組内で引退記念スピーチ。HHHや4フォースメン、リッキー・スティムボートらが現れて祝福した。8月3日にWWEを離脱。

2009

09年2月9日、WWEのRAWに登場し、クリス・ジェリコと口論を演じた。3月23日、リングに登場し、敵対するジェリコに対し、仲間のスヌーカ、パイパー、スティムボートが対戦する3対1の試合をアピール。リングに現れたジェリコに襲われ、流血させられノックダウン。4月5日、レッスルマニアでジェリコとの3対1マッチでセコンドにつき、敗戦後にリングに上がってジェリコを攻撃したが、コードブレイカーでKO。ジェリコの挑発でリングに上がった俳優のミッキー・ロークがパンチでジェリコをKOし、フレアーがロークの腕を上げて勝利を祝福した。5月17日、PPV「ジャッジメントデイ」でのオートン対バティスタ戦の終了後、オートン、デビアス、コーディに攻撃を受けているバティスタを助けるためにリングに登場。コーディとデビアスをチョップで退散させ、バティスタの勝利を称えた。6月1日、RAWでランディ・オートンとストリートファイトルールで対戦。実況席の上で足四の字固めをかけたがデビアスとコーディに攻撃されて金網の中に入れられてしまい、RKOを受けた後に顔面にパントキックをくらってKOされた。11月21日から28日にかけて、ホーガンの旗揚げした「ハルカマニア」のオーストラリア・ツアー(全4戦)に参加。メルボルンのロッド・レイバー・アリーナでの旗揚げ戦のメインでホーガンと対戦。17分18秒、ハルクアップ、スリーパンチ、ビックブーツからのメリケンサック攻撃にフォール負け。その後の3大会もホーガンとシングルで対戦し、全敗でツアーを終えた。

2010

10年1月4日、TNAに登場。1月17日、PPV「ジェネシス」でのAJスタイルズカート・アングル戦でリングサイドに登場。アンクルロックでAJがタップする寸前にレフリーを場外へ転落させて窮地を救う。さらにベルトをリングに放りこんで、AJはそのベルトでアングルを殴ってフォール勝ち。試合後はリング上でAJの勝利を祝福した。その後はAJのマネージャーとして活躍。3月8日、TNAがWWEと同時間に放送時間を変更した最初の放送でTNAでの初試合。番組の第1試合でAJと組んでホーガン、アビス組と対戦。スティングの乱入の結果、無効試合。大会のメインで同一カードでの再戦を行ない、アビスのブラックホールスラムにAJがフォール負け。7月11日、PPV「ヴィクトリーロード」でジェイ・リーサルと対戦し、足四の字固めに敗れた。10月7日、ミック・フォーリーを相手にラストマン・スタンディングマッチで対戦。有刺鉄線バットで殴られ、画鋲がばらまかれたリングでショルダースルーをくらうなどハードコアマッチを展開。最後はフォーリーをテーブルに寝かせてトップロープからのボディプレスでテーブルを破壊したが、自身のダメージも大きく、立ち上がることができずに敗れた。

2011

11年2月にAJと仲間割れ。AJと結成していた「フォーチュン」を脱退し、ホーガン派閥の「イモータル」に加入。4月17日、PPV「ロックダウン」のメインでレイ、アビス、マット・ハーディーと組んでフォーチュン(カザリアン、ビアマネーインク、ダニエルズ)を相手にリーサル・ロックダウンマッチで対戦。凶器が入り乱れる金網での大乱戦の末、額から大流血して奮闘したが、ルードの脇固めにフレアーが敗れた。9月12日、スティングと対戦。スティンガー・スプラッシュからのスコーピオンデスロックに敗れた。

2012

12年5月、TNAを離脱。12月、WWEのRAWにスラミーアワードのプレゼンターとして登場。ジョン・シナにトロフィーを渡した。その後もWWEにたびたび登場。娘のシャーロットがWWEに出場しはじめてからは、セコンドとして登場し、応援を続けた。

2021

21年8月3日、WWEが退団を発表。8月14日、メキシコシティで行われたAAAのPPV「トリプレマニア」で娘のシャーロット・フレアーの婚約者のアンドラーデ(アンドラデ・エル・イドロ)のセコンドとして登場。試合には敗れたが、ケニー・オメガへの逆水平チョップ、セコンドのコナンへの足4の字固めを決めて健在ぶりをアピールした。

2022

22年7月31日、テネシー州ナッシュビル・ザ・フェアグラウンズで引退試合。11年9月以来、約11年ぶりの試合としてアンドラデ・エル・イドロと組んでジェフ・ジャレット、ジェイ・リーサル組と対戦。額から流血しながらも、26分40秒、フレアーが右ナックルパートからの足4の字固めでジャレットに勝利。



スクラップブック
「日本におけるフレアーはね、リック・フレアーという名前を大事にするあまり、レイス以上に自分のペースを崩さないファイトに終始していたと思うんだよね。だから、日本での好勝負はなかったと思う。俺にとっちゃ、人柄は好きだけど、試合は好きじゃなかったですね」」
― 81年春に帰国する前にいたノースカロライナでは親しかったんですよね。
「最初はマスカラスがマスクを変えるように、ガウンもトランクスもシューズも全て変えていく小粋なレスラーというイメージが強かったね。それと誰であっても同業者のレスラーに対して常に敬意を持っていたし、自分がトップだから稼げないレスラーには必ず御馳走するっていうのが徹底している人だった。トップになれば、誰かの車に乗っていくのが普通なんだけど、必ず自分が運転して食事やビールを振るまうっていう。俺にとっちゃ聖人のようなリスペクトする人だったよ。俺みたいなガキでも、自分の車に乗せて4時間も5時間も代わらずに自分でずっと運転して“腹減ってないか?”ってシュリンプ・カクテルとビールを買って。もしも俺の中に違う人格があるとしたら、それはフレアーから得たことだと思うね。フレアーには“プロとは・・・”というのを、身をもって教えられた。それから、“トップは優しくあれ”ということをね。誰に対しても気配り、目配りだよ。フレアーがどんなレスラーに対しても呼び捨てにしたのを聞いたことがない。あれが彼の偉いところよ」
(「Gスピリッツ vol.17」の天龍源一郎のインタビューより)