「踏みつぶし屋」の異名どおり相手をひたすら蹴りまくり、ダウンしたところを踏みまくるというブル・ファイター。カナダマットを代表するパワーファイターだった。海軍を除隊後、65年にジン・キニスキーの勧めでプロレス入り。6月4日、セントラルステーツ・ヘビー級王座を獲得。68年2月28日、カナダ・サスカチュワン州サスカトゥーンでパット・オコーナーを破り初代北米ヘビー級王者となる。カルガリーのスタンピード・レスリングでは北米ヘビー級王座を68年2月から83年12月にかけて11度獲得した。当時はキラー・カーンのように口髭に弁髪というモンゴル人スタイルであった。71年1月、日本プロレスに初来日。来日時には五分刈りの髪になっていた。馬場、猪木のインタータッグ王座に挑戦。72年6月8日、セントラルステーツ・ヘビー級王座を獲得。11月に再来日。79年11月から国際プロレスの常連となる。82年3月、全日本プロレスに登場。修行時代のアントニオ猪木のパートナーを勤め、新日本プロレスとパイプのあったカルガリーを長らく主戦場としていたにもかかわらず新日本プロレスにはなぜか一度も来日しなかった。84年3月に新日本プロレスに来日予定が組まれていたこともあるが実現しなかった。息子のモンゴリアン・ストンパー・ジュニアもレスラーになって、親子タッグを組んだ。引退後、テネシー州ノックスビルに居住。刑務所の守衛などをして働いた。晩年はアルツハイマー病を発症。16年1月9日、転倒して腰の骨を折り、手術。1月23日、入院先のテネシー州の病院で睡眠中に死去。
|