小兵ながらバネを活かしたファイトが身上で得意技はドロップキック。まじめな性格だった。早稲田実業高校時代は野球部の捕手として活躍。61年6月に日本プロレス入門。馬場に初めてついた付き人が駒だった。10月11日、岡山大会の平井光明戦でデビュー。前座で星野、山本小鉄、小鹿と対戦。タッグ戦ではミツ・ヒライと組んで活躍。63年1月、駒秀雄から駒角太郎に改名。70年1月にメキシコ遠征。8月28日にエル・ソリタリオを破りNWA世界ミドル級王座を獲得。テキサスのアマリロに移動し、ファンク一家と結びつきを強くする。馬場との縁で全日本プロレスの旗揚げに参加。ジョー樋口と共に外国人選手の招聘をした。若手レスラー育成にも活躍。73年3月には入門したての鶴田を連れてテキサス州に遠征。後輩の山本小鉄と親しく、全日本と新日本の絶縁状態の時期でも、若手指導について電話で意見交換する仲だった。体調を崩して76年3月31日に死去。
「日本プロレス時代に私の付人第1号となり、全日本プロレスの設立にも真っ先に参加してくれた駒は、体は小柄だったが、きっぷのいいファイトをする選手だった。性格は真面目で几帳面で、私は若手の指導者して絶対の信頼を置いていただけに、まだ35歳の若さで内臓疾患に倒れたことは痛ましく、残念だった。駒がドリー・ファンク・シニアに目をかけられてアマリロに定着していたことが、ファンク一家との交流のきっかけともなった。旗揚げ当初の駒の有形・無形の功績ははかり知れないものがあったと、今でも感謝している。」(ジャイアント馬場「王道十六文(完全版)」より)
駒さんは優しい人でね。いろいろ教えていただきましたよ。細かい教え方でやさしかったですね。体が小さかったから、上までいかなかったですけど、足の取り方も腕の取り方もホントうまかったですね。だから俺のプロレスの技は駒さんや平井さんに教わったんですよ。駒さんも平井さんも手が合いましたよね。2人とも日ごろからおとなしい人だったんで、怒ったら怖かったですよ。一度、馬場さんの付け人をしていた熊さん(大熊元司)が靴を忘れた時、駒さんが熊さんをバカ〜ンと蹴飛ばした。熊さん、吹っ飛びましたもん。怖かったですよ。駒さんはたまに酒を飲む程度。一回、酔っ払ってリキパレスの坂の途中にアジア会館があって、そこに電信柱。電柱に飛び乗って「セミだあ」とミ〜ンミ〜ンとやっていたことがありましたよ(笑)。「ウチに遊びに来い」というんで駒さんの大きな白いフォードに乗せてもらってね。アメリカから持って帰ってきたやつ。それに乗せてもらって世田谷・下馬の家に行きました。大きな屋敷でね。お姉さんがいてメシをご馳走になりましたよ。「食べろ、食べろ」って言われて腹いっぱい食べたことありましたね。
(週刊プロレスNO1428 ザ・グレート・カブキのインタビューより)
――駒さんは小鹿さんのデビュー戦の相手ですよね。
「うん、プロレスの先輩ですよ。頑固な人でさ。自分の意見を持ってるし、言ったら後に引かないの。駒さんぐらいでしょ、全日本の中で馬場さんに文句を言ったのは。」
――社長の馬場さんに対して、はっきりモノを言える人だったんですね。
「そうそう。プロレスの団体って、ピラミッドを作るじゃない?猪木さんもそうだしさ。でも、あの頃の全日本はピラミッドじゃないんですよ。馬場さんとは別に駒さんというのもいる。選手が馬場さんに言われた通りにしてても、自分の考えに合わないと”何やってんだ、ふざけんなよ!”って言う人だから、駒さんは。だから、あの人が亡くなってなかったら、馬場さんの懐刀になってたでしょ。でもまあ、孤独な人だったな、駒さんは」 (「Gスピリッツ」10号(08年12月)のグレート小鹿のインタビューより)
特に駒さんはかわいがってくれた。入って1週間くらいしてリキパレスで稽古をやったあと「おい、山本、昼は合宿所に帰らないで、いっしょに飯を食いに行こう」といわれてね。生まれてはじめて焼肉屋に連れて行ってもらった。そこの店で焼肉というのをはじめて食べたんだよ。嬉しかったね。こんなうまいものがあったのかと思った。(中略)駒さんは本当に練習が好きだったね。俺も好きだったから気が合ったんだと思うけど、日プロが全日本と新日本に分かれた時、本当だったら駒さんは俺と一緒に新日本に行ってもよかったんじゃないかと思うよ。駒さんがどうして全日本に行くことになったのかというと、馬場さんの付け人をやっていたからなんだよね。駒さんという人は義理堅いし、人間的に最高の人だったからね。馬場さんが信頼していた。馬場さんの付け人をやってなきゃ、たぶん新日本に来ていたと思うね。
(週刊プロレスNO1486 山本小鉄のインタビューより)
「実はガイジン招聘には裏話があって、小鹿さんが先頭になって反対側で動いていたわけよ。馬場さんが辞めることが決まってすぐの6月か7月ぐらいにテキサスのフリッツ・フォン・エリックのところに行って、“馬場が新しく会社を始めるけど、選手を送らないでくれ”って。その時に小鹿さんは、日プロに残った連中の中でちょっと男を上げたんだよ。だから、日プロは高い金を出してフリッツを呼んでるでしょ?」
― 最後のシリーズとなった73年4月の『アイアンクロー・シリーズ』に来ています。馬場さんは当初、全日本の外国人招聘窓口にドリー・ファンク・シニアではなくフリッツを考えていたと聞いたことがあるんですが。
「小鹿さんがフリッツにストップをかけた時に、アマリロにいた駒さんがシニアに“馬場が新しい会社を始めるっていう連絡があって・・・”という話をしたら、シニアは“馬場にNWAのメンバーに入れてやるからと言え”って。当時、NWAのメンバーになるのはメリットがあるからね。それは駒さんの人徳だよ。後になってテリーは“あれが駒以外の人間だったら、おそらくそうなっていなかったと思う。駒はいい人間だから、シニアは真剣に話を聞いていたよ”と言ってたよ。シニアは自分のテリトリーにいる人間を日本に呼んでくれればそれで良くて、それ以上の条件は何も言ってこなかったからね。ブッカー料もごく常識的な金額で、シニアがなくなった後にはドリーとテリーにその半分ずつの金額を毎年払っていたよ」
(中略)
「でも、ジャンボがちょっとその気になると駒さんがビシッとやってたんだ。馬場さんの前だろうが、駒さんは平気で“ジャンボ、ちゃんと挨拶しなきゃダメだよ!”と言ってたから。馬場さんも駒さんの言うことには口出ししなかったよ。当時のジャンボはまだ実際には新弟子だから、そういうケジメは駒さんがちゃんと付けていた。だから、俺たちが陰でブツブツ言う必要はまったくなかったな。ジャンボは新弟子だからわからないという部分は確かにあったけど、決して人間として欠落してるようなところはなかったよ」
― 駒さんは、初期の全日本では要の存在だったようですね。
「駒さんは、馬場さんにとって清水次郎長の小政的存在だよ。誠実な、忠実な部下。だから、最初は駒さんが中を統率してたね。カードを組んだりとかはまったくなかったけれども、試合の全体を見ていたし、若手にアドバイスもしていたよ。その頃は“駒さんの言葉は馬場さんの言葉だ”という暗黙の了解があったよね。馬場さんと同じで礼儀や常識にもうるさかったから、馬場さんより先に誰かが飯食ったとかシャワーに入ったということがないようにピシッとしていたよ」
(Gスピリッツ vol.25 佐藤昭雄のインタビューより)
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