レスラーノート

前田日明

1959年1月24日
大阪府大正区出身
192cm 115kg

通称
格闘王
タイトル歴
ヨーロッパヘビー
WWFインターナショナルヘビー
IWGPタッグ
得意技
キャプチュード

通称「格闘王」。在日朝鮮人3世(韓国名は高日明。83年に日本に帰化)。中学時代から空手を習う。大阪北陽高校卒業後に無想館拳心道2段を取得。

1977

77年7月に新日本プロレス入門。8月25日、長岡市厚生会館の山本小鉄戦でデビュー。5分42秒、腕固めで敗れた。デビュー後、引き分けをはさんで67連敗。

1979

79年1月26日、岡山大会でのタッグマッチで初勝利。3月28日、盛岡大会で斎藤弘幸を相手にシングル初勝利。

1981

81年12月にカール・ゴッチにマン・ツー・マンの特訓を受ける。

1982

82年1月4日、81年度プロレス大賞で努力賞を受賞。2月にイギリス遠征。3月、イギリスでデビュー。クイック・キック・リーを名のる。

1983

83年1月にロンドンでウェイン・ブリッジを破りヨーロッパヘビー級王座を獲得。4月13日、帰国。第1回IWGPリーグ戦に欧州代表としてエントリー。4月21日、蔵前国技館大会に出場し、凱旋帰国試合としてポール・オンドーフと対戦。3分26秒、風車固めで勝利した。5月9日、秩父大会でアントニオ猪木と初タッグ。5月には新日本プロレスの第1回IWGPリーグ戦にヨーロッパ代表として出場。5月27日、高松市市民文化センターでアントニオ猪木と対戦。猪木の平手打ちから試合が始まり、前田はフライングニールキック、ジャーマンスープレックス、ドラゴンスープレックスの大技攻勢をかけたが、卍固めで動きを止められ、最後は12分57秒、延髄斬りに敗れた。以後、猪木とのシングル戦は行われることはなかった。リーグ戦はカネック、エンリケ・ベラに勝利し、2勝6敗の成績だったが、ファイト内容が評価された。11月3日、蔵前国技館大会で維新軍との4対4綱引きマッチに出場し、長州力と対戦。フライングニールキック、フロントスープレックス、ジャンピングネックブリーカードロップで攻めまくった。バックドロップ、サソリ固め、リキラリアット、サソリ固めの連続で12分57秒、レフリーストップで敗れたが、猪木の後継者として注目されるようになる。25歳の時、新日本プロレスの勧めで日本人に帰化。

1984

84年1月、83年度プロレス大賞で技能賞を受賞。2月9日、大阪大会で新日本プロレス所属としてラストマッチ。3月、WWFのサーキットに参加。3月25日、マディソン・スクエア・ガーデンでの王座決定戦でピエール・ラファエルと対戦。10分32秒、コブラツイストで勝利。WWFインターナショナルヘビー級王座を獲得。 4月1日、UWF発足記者会見。前田のUWF参加が発表された。旗揚げ当初のメンバーはマッハ隼人ラッシャー木村剛竜馬グラン浜田高田伸彦。4月11日、大宮スケートセンターでUWFの旗揚げ戦。ダッチ・マンテルに勝利。7月23日、佐山聡がUWFに加入し、初参戦。独自の格闘路線を推し進めた。従来行われていた反則負けやロープワークやリングアウトがないスタイル、さらに道場で使われているような関節技や格闘技的なキックを取り入れ、爆発的な人気を呼んだ。9月11日、後楽園ホール大会でスーパー・タイガー(佐山)と対戦。18分55秒、チキンウイング・フェイスロックに敗れた。

1985

85年9月2日、大阪臨海スポーツセンター大会で佐山と対戦。不可解なシュートマッチをしかけ、強烈なキックとガチガチのグラウンドで佐山を圧倒。18分57秒、佐山のアピールにより急所攻撃による反則負けで試合終了。前田はその後の2大会は欠場。この試合が前田のUWFでのラストマッチとなった。9月11日の大会を最後にUWFが崩壊した。12月6日、新日本プロレス両国大会に来場。業務提携を発表。

1986

86年1月に新日本プロレスに出場。2月5日、大阪城ホール大会で藤原喜明とUWF代表者決定戦。敗れて猪木との対戦の機会を逃す。4月29日、津市体育館大会でアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。セメントマッチとなり、26分35秒、アンドレがリング上で寝そべり、試合放棄で終了。6月12日、大阪城ホール大会で藤波と対戦。22分5秒、両者KOに終わった。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞。お互いのスタイルを超越した名勝負と長く語り継がれた。8月5日、両国国技館大会で木戸修と組んでIWGPタッグ王座を獲得。10月9日、両国国技館大会でドン・中矢・ニールセンと異種格闘技戦。会場を大熱狂させる名勝負となり、5R2分26秒、逆片エビ固めで勝利。メインで行われた猪木、スピンクス戦よりも高い評価を得た。12月10日、大阪城ホール大会で猪木とタッグマッチで対戦し、リングアウト勝ち。

1987

87年2月28日、UWF主催の後楽園ホール大会を開催。8月19日、両国国技館大会でニューリーダー軍(長州、前田、藤波、マシン木村)としてナウリーダー軍(猪木、坂口、藤原、星野武藤)とのイリミネーションマッチ。リーダーの猪木に対し、前田が両者リングアウトに持ちこむ。結果はニューリーダー軍の勝利に終わった。11月19日、後楽園ホールでの6人タッグ戦で、長州の顔面にキックをして眼底骨折を負わせる。試合は10分51秒、長州のラリアットに高田がフォール負け。11月20日、無期限出場停止処分となる。猪木からは「プロレス道にもとる行為」とコメントされた。

1988

88年3月、新日本プロレスからの解雇が発表。4月8日、第2次UWF発足記者会見。5月12日、後楽園ホールで第2次UWFの旗揚げ戦。山崎一夫と対戦し、勝利。9月24日、博多スターレーン大会で山崎一夫と対戦。10分50秒、右ハイキックを決めて5度目のダウンを奪いKO勝ち。11月10日、露橋スポーツセンター大会で高田延彦と対戦。20分4秒、5度目のダウンを奪われTKO負け。高田に初めて敗れた。

1989

89年5月4日、大阪球場大会のメインでクリス・ドールマンと異種格闘技戦。2万3千人の大観衆の前でサンボの投げ技やアキレス腱固めに苦戦したが、ローキック、キャプチュードでたたみかけ、4R30秒、膝十字固めで勝利。11月29日、東京ドーム大会を開催。前田は柔道王ウィリー・ウイルヘルムと対戦し、膝十字で勝利した。89年度のプロレス大賞でMVPを受賞した。

1990

90年1月4日、プロレス大賞でMVPを受賞。10月25日、大阪城ホール大会で船木誠勝と対戦。16分59秒、胴絞めスリーパーホールドで勝利。試合後のバックステージでUWFのフロント陣の不透明経理などを非難するコメント。この試合が第2次UWFでのラストマッチとなった。10月28日、大阪城ホール大会での試合後のコメントが問題視され、フロントから5ヶ月間の出場停止処分が発表。

1991〜

91年3月14日、リングスの設立を発表。5月11日、オランダのクリス・ドールマンらの協力を受け、横浜アリーナで旗揚げ戦を行い、ディック・フライに勝利した。当初、日本人選手は前田しかいなかった。リングスの試合は衛星放送WOWOWで放送されることになり、前田は団体を軌道に乗せた。 93年3月、ヒザの手術のため長期欠場。10月23日、福岡大会で復帰。 94年1月21日、日本武道館大会でバトル・ディメンション・トーナメント決勝。ビターゼ・タリエルに勝利して優勝。7月14日、大阪府立体育会館大会でディック・フライと対戦。2分54秒、レッグロックで勝利。試合後、ダウンしていたフライの背中をストンピングで踏みつけ、乱闘騒ぎとなった。 95年2月、オランダでリングス・オランダ旗揚げ戦。 96年1月24日、日本武道館大会でメガバトル・トーナメント決勝。山本宣久に勝利して優勝。3月、ヒザを手術。11月22日、大阪城ホール大会で藤原喜明と対戦。足関節の攻防を続け、10分55秒、裸絞めで勝利。 97年8月31日、横浜アリーナでの長州力引退記念試合に花束をもって登場。12月23日、リングスの福岡国際センター大会でのメガバトルトーナメント準決勝で田村潔司と対戦。14分44秒、腕ひしぎ逆十字固めに敗れた。 98年7月20日、横浜アリーナ大会でリングスでのラストマッチ。山本宣久に勝利。 99年2月21日、横浜アリーナの引退試合で、アマレスでオリンピック3連覇のアレキサンダー・カレリンと対戦。試合は2R判定負けに終わった。引退後もリングスを運営。 02年2月15日、横浜文化体育館大会を最後にリングス活動停止。 05年1月22日、プロレス団体「ビッグマウス」のスーパーバイザーとして会見に登場。05年から07年にかけて開催された総合格闘技イベント「HERO’S」ではスーパーバイザーに就任。 06年2月26日、「ビッグマウスラウド」の徳島大会に来場し、船木と共に団体からの離脱を表明。 08年1月、リングス公式サイトで格闘技イベント「THE OUTSIDER」設立を発表。3月30日、ディファ有明で「THE OUTSIDER」の旗揚げ戦。
スクラップブック
天龍源一郎vsレジェンド対談 龍魂激論・後編】
(2020年8月27日14:00配信 東スポWebより)
 ――前田さんはリングスで海外から強豪選手を発掘。「THE OUTSIDER」でも多くの選手を育てた
 前田氏(以下前田)現役時代は若い選手を教えるのは苦手でした。変な競争心が湧いちゃって、教えたら強くなるんだろうなと思っちゃう。育成はできなかったけど、選手の発掘はできたかなとは思います。
 天龍 ロシアから未知の選手をピックアップして超一流の価値をつけた手腕はすごいよね。実はWAR時代にヴォルク・ハン(ロシア)を呼びたいと思った時期があったんです。前田選手が日本のプロレスに異分子をちりばめたでしょ?俺も開き直っていた時期だったから、前田選手が使い終えたハンにちょっかいを出して、2分か3分で負けてもどうってことないと思っていた。団体がランクアップすればそれでいいと。
 前田 武藤(敬司)もヴォルク・ハンとやりたいと言ってました。「毒霧吹いて、どうやってハンと戦うんだよ」と言いましたけど(笑い)。
 ――引退試合(1999年2月21日、横浜アリーナ)のカレリン氏招聘は世界中が驚いた。
 天龍 俺はその試合に行ってるんですよ。あのカレリンを引っ張り出したんだから、日本スポーツの歴史でもトップランクの快挙だよね。どこに行っても、「どうだ」と胸を張れる試合でした。
 前田 あと20年か30年はたたないと、本当の価値は分かってもらえないんじゃないですかね。
 天龍 超一流とはいえ、カレリンの功績がまだ完全に世間に浸透していないからね。
 前田 あれはゴリラでしたよ、ゴリラ。いろいろ言われたけど、ファイトマネーは2万ドル(当時約230万円)ぐらいでした。国家の英雄だから関係者の経費はかかりましたけど。
 天龍 ギャラよりも、殺されるかもしれない相手と戦う勇気があるかないかだよね。例えば俺が引退試合で全盛期のカール・ゴッチと戦ったとしても、じゃあどう攻めて、どう受けて、最後はどうカタをつけるんだよってちゅうちょしますよ。
 前田 最後の試合ですし、勝ち負けより2つの目標があったんです。3本勝負だったから、1本カレリンから取る。それとタックルしてテークダウンを取る。俺、これができたらレスリングやっている人間に一生自慢できるなと。「俺はカレリンからテークダウン取ったぞ。お前、できるか?」って(笑い)。1本は取った(アンクルホールドでエスケープポイント奪取)けど、テークダウン取りにいったら全然動かない。逆に首にビビッと衝撃が走って動かなくなった。奇跡の上に奇跡が起きないとテークダウンは奪えないと思いました。
 天龍 超満員だし「前田日明らしい、いい引退試合だったな」と思いました。そういう試合は、ほとんどないじゃない。
 前田 俺は「カレリンは何で五輪4連覇できなかったか知ってるか? 俺と戦って1本取られて足をケガしたからやんけ」って一生言おうかと思います(笑い)。俺も天龍さんの引退試合(2015年11月15日、両国国技館)に行ってます。天龍さんが気の毒でした。
 ――と言いますと。
 前田 オカダ(カズチカ)を怒らせようと、顔面に危ない蹴りを入れても「何でこんな痛いことするのかな・・・」という表情を浮かべるだけなんですよ。あそこでムカッとなって出れば面白かったし、天龍さんはそれを狙っていたのにやりにくそうで。妙な間が空きましたね。
 天龍 そうそう。張り手でもかましてほしかったね。俺みたいなオールドタイマーと戦うから、余裕を見せたかったんじゃない。ドロップキックの後に場内を見渡してるんだよ、あのヤロー。
 前田 あれは武藤のマネですよ。妙に余裕持って、かっこつけるのを若い人間に教えちゃった。
 ――指導者としての前田さんに期待することは。
 天龍 泰然自若の構えを崩さず世の中に迎合せず、自分の生き方を貫いてほしい。前田日明という存在に憧れてる人間は多いと思う。今やっている「THE OUTSIDER」だっていろいろ大変でしょうけど「俺は俺の道を行く」という気概が伝わる。素晴らしいと思います。
 前田 光栄です。ありがとうございます。今後はまず「THE OUTSIDER」を復活させて、日本人のヘビー級選手を育てて、(世界最大の米総合格闘技団体)UFCに出したい。それも1人じゃなく3人ほどでかい選手を育て、競い合わせて米国に送り込めれば。
 天龍 それは期待大ですね。でも前田選手と戦えなかったのは、唯一の悔いですよ。本日は長時間にわたり、ありがとうございました。
 前田 試合をしたら手が合ったかもしれないですね(笑い)。天龍さんもいつまでもお元気で。


前田 カレリンは日本に来てからも土壇場まで試合ができる、できないでモメたんですよ。でも、亡くなったパコージン(ウラジミール・パコージン。元リングス・ロシア代表)が大会の前日の晩に、カレリンに直接会って泣きながら「マエダはペレストロイカで食えなくなったロシアの格闘技選手を食えるようにしてくれて、なおかつロシアでプロ格闘技の道を作ってくれて、お金も出して協力もしてくれた。アナタもロシアの英雄と呼ばれる人間ならば、ロシアのためにそこまでしてくれた人物のために試合をしてくれてもいいじゃないか」って言ってくれたんだよ。それを聞いたカレリンは「分かった」って言って。「ロシアのためにそこまでしてくれた人物なら、ひと肌脱ごう」って、試合をやってくれた。
(週刊プロレス No.1549より)


結婚する3、4年ぐらい前に九州の「天下一武闘会」っていう、日本で初めての不良を集めた総合の大会を見に行ったんだけど、それを見ておもしろいなと思ってね。でもこれを東京でやって、もし一回でも乱闘とか起こったら、もうどこもRINGSに会場を貸してくれなくなるなと思って、なかなか実際にやるまでにはいかなかったんですよ。(中略)息子、息子って、息子のことばかりを考えていたら、よその子どものことも気になってきてね。なんか若くて、いちばん夢いっぱいの子どもたちが殺人とか起こしたりして・・・。そんなの見てると、なんか夢がないんだよね。オレらの頃は、若くて多少ヤンチャな奴でも、元気があっていいじゃないかって雇ってくれるような気概のある経営者もいたんだけど、いまはそういう人もあんまりいなくて、一度不良の道とかに進むと、大変なんですよ。そういう子たちがかわいそうだなって思って、格闘技のプロモーターとしてそういう子たちになにかできることはないかなって思ったときに、天下一武闘会のことを思い出して、やってみようって。本当は参加費取って、保険代も払わせたらラクなんだろうけど、それをやったら社会貢献もなにもないから。そういうものは一切取らないで、スポンサーを募って、チケット代取って、DVDを売ったりして、やっていけばいいんじゃないかって。出場者にはやる気が出るように、20個ぐらいの賞を用意してね。そこからつぎのどこかのチャンピオンとか出てきたら、夢があるしね。これでオレが68歳ぐらいで死んだときに、若い刺青を入れたような奴らがオレの葬式に来てワンワンと泣いてくれたら、それで成仏できますよ(笑)。(前田談)
(週刊プロレス No.1549より)


藤波辰爾「一歩間違ったらレスラー生命が終わっていた」。前田日明との失明寸前の激闘
(2021年5月12日11:05配信 webスポルティーバより)
 その死闘は、1986年6月12日に大阪城ホールで行なわれた。
 容赦ない前田の蹴りを顔面で受け続ける藤波。サソリ固めなどで逆襲したが、クライマックスはコーナーに押し込まれ、顔面に前田の大車輪キックが直撃した。
 直後に右目尻から大量の血が流れた。試合は続いたが、結果は両者KOの引き分け。昭和末期に実現した激闘の傷跡は、今も右目尻に残っている。藤波はそれを見せながら当時を振り返った。
「試合後に病院で治療したんですけど、医師から『あと数ミリずれていたら、失明の危険がありました』と言われました(苦笑)。今も右のほうは見づらいですね。特に、夜に車を運転すると右の視界が遮られるような感じがあるので、夜間の運転は控えています」
 体を張って前田に立ちはだかった藤波には、死力を尽くして戦わなければならない「歴史」と「覚悟」があったのだ。
 前田は、藤波が海外武者修行中だった1977年に新日本プロレスに入門した。藤波が初めて顔を合わせたのは、1978年1月にWWWF世界ジュニアヘビー級のベルトを奪取し、凱旋帰国した時のことだった。
「ニューヨークから帰ってきて久しぶりに道場に行ったら、知らない若手選手が酔っ払って大暴れしていて、先輩レスラーに押さえつけられていたんです。それが前田でした。3、4人かかりで押さえていましたから、『威勢のいい若手が入ってきたな』と思いましたよ(笑)」
 当時の前田はデビュー前の練習生。仰天の初対面だったが、デビュー後の前田は、身長192cmと恵まれた体格を生かして早くから頭角を現す。1982年2月からは初めての海外武者修行でイギリスに行き、ヨーロッパヘビー級王座を奪取。そして1983年4月、アントニオ猪木が提唱した「世界中のベルトを統一する」という理想の下で行なわれたリーグ戦「IWGP」に、欧州代表として凱旋帰国した。
 一気にスター選手の仲間入りを果たした・・・と思われたが、前田は翌年4月に新団体「UWF」に移籍する。藤原喜明、佐山聡らと共に、キックと関節技を主体とする先鋭的なスタイルを推進した。
 しかし団体は経営難に追い込まれて新日本プロレスと提携し、1986年から「UWF軍団」として新日本勢と対峙する展開となった。UWF勢は、それまでのプロレスのように相手の技を受けることなく、相手の顔面への蹴りなど危険な技を連発。ケガのリスクが高いスタイルに新日本勢は不満を抱き、リング上だけでなくリング外でも険悪なムードが漂っていた。
 その対立軸の中で実現したのが、大阪城ホールでの「藤波vs前田」だった。
 試合は、IWGPチャンピオンシリーズで行なわれた。このリーグ戦は、前年まで全選手の総当たり制だったが、この年は選手が2ブロックに分けられた。藤波と前田は同じBブロックに、猪木はもう一方のAブロックに入った。
「新日本としては、『危険な技を仕掛ける前田と猪木さんを戦わせるわけにはいかない』と考えたんだと思います。ただ、団体としてUWFを受け入れた以上、誰かが前田と対峙しなくてはいけなかった。そうでないと、新日本が成り立たない。『ここは自分がいくしかないな』と思いました」
 試合は、前述したように凄まじい攻防となり、藤波は現在も残る深い傷を負った。試合後の控室では、藤波にケガをさせた前田に憤る選手が何人もいたという。
「何人かの選手が前田に怒り、いきり立っている状態でした。だけど僕は、『そんなに騒ぐ問題じゃない』となだめました。彼は既存のプロレスを壊そうとして新日本にきた。逆に言えば、そういう方法でしかUWFという団体をアピールできない、生き残ることができないと考えていたんだと思います。その部分は、同じレスラーだからわかるところではあるんですが・・・ただ、振り返ると、一歩間違ったら僕のレスラー生命が終わっていた試合でしたね」
 藤波は、自らの存在をファンに示すためにスタイルを崩せない前田を理解し、技を受け続けた。その覚悟が伝説の死闘を生んだ。
「前田も、いつかのインタビューで『蹴っても蹴っても立ち上がってくるから、どうしようかと思った』と答えていましたね。ファンも同じように、僕が立ち上がってくることに驚いたんじゃないでしょうか。あんな猛攻を、どうして耐えられたのかは自分でもわかりません。ただ、危険な試合だったけど、ファンの反応を見る限り、前田と試合をやったことは正解だったと思っています。『あの緊張感が新日本プロレスなんだ』と、伝えることができたと思うので」
 その死闘後も、新日本とUWFの選手が噛み合うことはなかった。翌年1月には険悪なムードを和らげようと、副社長の坂口征二が巡業中の熊本の旅館で試合後に宴席を開く。だが、ここで前田と武藤敬司が殴り合いをはじめたことが発端となり、旅館のトイレや大広間の壁などを破壊する事件が発生した。
「あの時は、自分は乾杯だけしてロビーにいたんだけど、階段から水が流れてきて。なんだろうと思いましたよ(笑)」
 これまで、さまざまなレスラーや関係者が「熊本旅館破壊事件」について証言しているが、親睦会が乱闘に発展するほど、新日本とUWFのプロレスへの考えはかけ離れていた。
 徹底して自らのスタイルと信念を曲げなかった前田は、1987年11月19日、後楽園ホールでの6人タッグマッチで長州力の顔面を蹴り、眼窩底骨折を負わせたことが原因で新日本プロレスを解雇された。
「前田の考えや試合を見ていて、いずれはそういうことが起きると思っていました。僕と試合をした時もそうですけど、前田は前田なりの考えと、UWFの理想を守ろうとしたんだと思います。それを貫いたから、多くのファンから支持を得ることができたんでしょう」


【前田日明氏コラム】表向きは猪木さんを裏切ってUWF結成
(2022年9月9日16:00配信 東スポWebより)
【前田日明(11)】1983年の夏に新日本プロレスでクーデターが起き、最終的に新間(寿)さんがユニバーサル・レスリング連盟(UWF)を結成。個人としては、どっちがいいとか悪いとか、どうでもよかった。山本(小鉄)さんにも新間さんにも、みんなに世話になってるからさ。
 ただ、当時の(アントニオ)猪木さんと新間さんのことを考えると、銀行が融資してくれないから新日本の資金繰りがヒヤヒヤなんだよ。資金的な土台をつくらないといけないと「アントン・ハイセル」って事業に取り組むけど、失敗。そこで猪木さんの起死回生の策は、新日本の放映権を持つテレビ朝日にフジテレビを加えた2局放送で権料を今までの倍取ろうとした。
 でも、新日本と交わした契約書にテレビ朝日の独占契約の文言が入ってるから、別団体のUWFをこっそり子会社としてつくったってこと。かん口令を敷いた上で俺たちが「新日本に不満があるから辞めた」という建前を言われた通りにしゃべったよ。気持ちもなにもない。俺らの時代は「イエス」しかないから「UWFに行け」と言われたら行くしかないんだ。
 それが嫌だったら自分でメシを食うしかないんだけど、当時母親(幸子さん)が大きなケガをし、多額の手術代や入院費が必要で「ユニバーサルは新日本よりギャラがいい」と言われて入団を決めた。母親の件がなければ、試合の経験を積みたいと思っていたから藤波(辰爾)さんみたいに海外へ行っただろうね。
 猪木さんは俺に「後から(ユニバーサルに)行くから」「旗揚げ戦(84年4月11日、大宮)にはちゃんと出る」って。ポスターに写真も入っていたけど、テレ朝との契約違反で違約金が発生するから当然、試合に出られない。旗揚げ戦では観客から、試合に出ない猪木コール、長州(力)コール、藤波コールが起こっていたね。
 表向きは新日本の在り方に異を唱えて、猪木さんを裏切って旗揚げしましたよ、というストーリー。その通り忠実にやったよ。猪木さんが合流しないのは「話が違うな」と思ったけど、以前、猪木さんに付き合って「アントン・ハイセル」の借金返済へ行ったことあるんだ。そこで苦労してる姿も目撃してるから「まあまあ」ってね。
 でも、それじゃプロレスは盛り上がらないからね。経験の少ない当時の俺の頭では「猪木さんに捨てられた」「ぶっ殺してやる」って言うしかなかったんだよ。


1986年 伝説の「前田 VS アンドレ」 船木誠勝が目撃していた試合前の “不穏” な会話
(2021年9月12日7:00配信 東スポWebより)
【THE FACT〜船木が見た事件の裏側(8)】カードが発表されたときから「大変なことになるかもしれない」と自分たちは思っていました。そして試合が始まると(アントニオ)猪木さんをはじめ全レスラーが見てました。全員です。何かが起きると思っていたからでしょう。
 自分は試合前に偶然ある場面≠ノ出くわしていました。前田さんがレフェリーのミスター高橋さんに「どうしたらいいんですか」と大声でかみついてるんです。高橋さんは「そんなの知らないよ。アンドレがそういうふうに言ってるんだから」と言って立ち去っていく。前田さんはポツンと立ちつくしていました。どうなるんだろうと思いましたね。
 前田さんは試合を何とか成立させようとしていました。でも、アンドレは全く応じない。セメントで危険な攻撃を続ける。さすがに前田さんも業を煮やしてリングサイドの星野(勘太郎)さんに「行っていいんですか」と何度も聞いてました。星野さんは黙ったままです。そしたら藤原(喜明)さんが出てきて「何してんだ。早く行け!殺されるぞ!」と。
 藤原さんの言葉で前田さんもようやく攻めだしました。危険なキックです。膝を真正面から直角に蹴ったりしていくと、アンドレはリングに寝転んだまま立とうとしなくなりました。効いたんでしょう。アンドレは両手を大きく開いて薄笑いしながら寝そべるだけでした。戦意喪失に見えました。
 そこに「前田、勝負だ勝負だ」と猪木さんがリングに乱入。藤原さんたちUWF勢もリングに入ってきて、猪木さんに突っかかっていって揉み合いになりました。ここで無効試合のゴング。お客さんも異様な雰囲気で騒然としてましたが、レスラーたちも変な空気になってましたね。
 前田さんは相当な恐怖だったと思います。何といっても相手は大巨人アンドレです。223センチ、236キロですから、殺されるかもしれないと思ったでしょう。事実、そういう場面が何度かありましたし。試合後、前田さんは星野さんに「何で助けてくれないんですかっ」と泣いて大声で訴えてましたから。タクシーに乗り込むまで付いてきた東スポの記者さんにも「俺にも家族がいるんだっ」と顔面蒼白で声を震わせてたそうです。
 でも、アンドレとあそこまでやったのは世界中で前田さんだけで、しかも倒しちゃった。そしてアンドレが倒れたときにトドメを刺そうと思えば刺せたのに、刺さなかった。結果的に前田さんの株を上げることになりましたね。アンドレの面子も保ったわけですから。
 この前、前田さんにあの時どう思っていたのか聞いたんです。そしたら「セメントになるならなるで仕方ない。でも潰したら、それがテレビで流され自分、UWFの品が下がる。もうテレビに使ってもらえなくなる。だから、どうしようか。ちゃんと試合を成立させないと、と思ってたよ」と話してました。前田さんはこの時からUWFを再興するつもりだったんでしょうね。
 それはともかく、何でこんなセメントマッチになったのかということです。UWFのスタイル、特に前田さんはそのスタイルを崩そうとしなかった。なので他のレスラーからは嫌がられていました。そのうえ、誰も前田さんを直すことができない。それでアンドレにやってもらおうとなったんじゃないかと考えられますよね。アンドレは前田さんと特に接点はなかったんですから。
 試合を組んだのは当時のマッチメーカーである坂口(征二)さん、藤波(辰爾)さん、ミスター高橋さんですが、当事者のアンドレが亡くなってしまったので、真相は藪の中です。
 ただ、自分は大きさ・強さ世界一のアンドレを倒した前田さんは「プロレス」を食っちゃった(制した)と思いました。その年の10月のドン・中矢・ニールセン戦と合わせて完全に「UWFの方が正しい!」となりましたね。