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保坂秀樹1971年8月5日新潟県糸魚川市出身 180cm 115kg 血液型:AB型 |
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タイトル歴
WEWハードコアタッグ
インディペンデントワールドジュニア 新潟無差別級 得意技
ビルディングボム
フランケンシュタイナー |
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関東学園高校時代はレスリング部に所属。1年生の時、レスリング部の3年生に折原昌夫と木村浩一郎がいた。高校卒業後、レスリングの推薦で東京農業大学に入学。格闘家を目指し、90年5月、木村浩一郎に誘われてSAW(サブミッション・アーツ・レスリング)に入門。
91年8月7日、SAWから派遣される形で、後楽園ホールでのW★INGの旗揚げ戦でザ・グレート・ウォージョを相手にデビュー。6分10秒、スロイダーをくらってフォール負け。
W★ING崩壊後、PWCに入門。ミスター・ヒトの指導を受けた。
93年、PWCにいた黒田哲広と共にFMWに移籍。ポーゴ軍の一員としてヒールで活躍。その後はFMWで活躍。FMWではインディペンデントワールドジュニア、WEWハードコアタッグ王座を獲得。
1996 96年9月20日、FMWの札幌中島体育センター大会で非道と組んでヘッドハンターズのブラスナックルタッグ王座に挑戦。12分26秒、ヘッドハンターAのムーンサルトプレスに非道が敗れた。11月29日、FMWの秋田県立体育館大会で金村と組んでヘッドハンターズのブラスナックルタッグ王座に挑戦。12分37秒、ヘッドハンターAのムーンサルトプレスに保坂が敗れた。12月10日、FMWの後楽園ホール大会でスーパー・レザーと対戦。初公開のマヒストラルまで出して健闘したが、15分14秒、スラッシュバスターに敗れた。1998 98年5月に全日本プロレス初の東京ドーム大会に出場。グラジエーター、黒田と組んで田上、大森、井上雅央組と対戦。17分43秒、大森のダイビング・ニードロップに保坂が敗れた。2001 01年2月にFMWを退団。2002 02年のチャンピオンカーニバルから全日本プロレスに正式入団。全日本プロレス時代には天龍の付き人となった。4月の「保坂秀樹試練の5番勝負」ではマイク・バートン、ブッチャー、太陽ケア、ジョニー・スミス、ジョージ・ハインズと対戦。5戦して全敗した。5月10日には同時進行で5番勝負をしていた本間朋晃と「最終戦」として対戦し、敗れた。2003 03年6月に全日本プロレスを退団。7月に全日本プロレスのアジアタッグ決定リーグ戦に黒毛和牛太と組んで参戦。1勝2敗1引き分けで優勝戦には出ることができなかった。2004 04年6月10日、塩尻市体育館大会でディーロ・ブラウンと対戦。2分12秒、トペの着地に失敗し、レフリーストップ負け。右膝を陥没骨折して長期欠場。欠場中、全日本プロレスを退団。その後はスポーツジムでインストラクターとして勤務。2006 06年9月24日、新宿FACEでの維新力の30周年記念大会で復帰。菅原伊織と対戦し、5分53秒、ビルディングボムで勝利した。2007 07年1月からWMFプロレスに出場。11月17日、新木場1stリングでの宮本和志自主興行で、佐々木恭介と組んで長井、相島勇人組と対戦。17分17秒、長井のストレッチプラムに佐々木が敗れた。2008 08年1月5日、ビッグバン・クラッシュのディファ有明大会でシャドウWXと対戦。9分12秒、垂直落下式ブレーンバスター2連発に敗れた。2009 09年5月29日、W★INGの新木場1stRING大会で戸井マサルと組んで田中将斗、黒田哲広組と対戦。10分41秒、黒田の後方回転エビ固めに戸井がフォール負け。8月21日、W★INGの新木場1stRING大会で闘龍(マグニチュード岸和田)と対戦。ダイビングボディプレスに敗れた。2012 12年5月11日、新宿FACEでの大仁田厚の自主興行で大仁田、矢口と組んで初代タイガーマスク、サスケ、グラン浜田組と有刺鉄線ボードストリートファイトデスマッチで対戦。15分20秒、大仁田と矢口の合体サンダーファイヤーパワーボムで初代タイガーマスクに勝利。7月8日、ZERO1の後楽園ホール大会で大仁田、矢口と組んで曙、菅原、藤田峰雄組とスクランブルバンクハウス・ストリートファイトデスマッチで対戦。17分42秒、大仁田がサンダーファイヤーパワーボムで藤田に勝利。8月5日、札幌テイセンホールで行われた葛西純プロデュース興行でデスマッチトーナメントに参戦し、1回戦で杉浦透を相手にスクランブルバンクハウスデスマッチ。10分23秒、イス盛り&有刺鉄線バット上へのパワーボムで勝利。8月19日、フリーダムズの東成区民センター大会での2回戦でバラモンケイを相手にエニウェアフォールストリートファイトデスマッチ。8分58秒、横入り式エビ固めにフォール負け。12月7日、リアルジャパンプロレスの後楽園ホール大会で松崎と組んでタイガー・シャーク、スーパー・ライダー組と対戦。10分31秒、シャークのシャークデスバイロックに松崎が敗れた。12月9日、ノアの両国国技館大会で大仁田、矢口と組んでKENTA、高山、マイバッハ谷口組と対戦。12分27秒、KENTAのgo2sleepに保坂が敗れた。2013 13年7月7日、ノアの有明コロシアム大会で大仁田、矢口と組んで杉浦、高山、平柳組とストリートファイトトルネード6人タッグデスマッチで対戦。8分34秒、大仁田と矢口が有刺鉄線ボードへの合体サンダーファイヤーパワーボムを決めて、大仁田が平柳を踏みつけてフォール勝ち。2014 14年7月25日 、大仁田厚プロレスの新宿FACE大会で大仁田、矢口と組んでミスター・ポーゴ、グレート・ポーゴ、茂木組と対戦。16分59秒、大仁田がサンダーファイヤーパワーボムで茂木に勝利。7月26日、新潟プロレスの新発田市中央商店街大会でシマ重野の王座に挑戦。ビルディングボムで勝利。新潟無差別級王座を獲得した。8月23日、新潟プロレスのデンカビッグスワンスタジアム大会でス−パ−ササダンゴ・マシンを相手に防衛戦。12分23秒、ラリアットで勝利。9月23日、ノアとZERO1の合同興行となった新潟市体育館大会のメインで大仁田、矢口と組んで高山、杉浦、平柳組を相手にノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ。電流爆破戦史上初となる6人同時爆破が起きる大激戦を展開。8分37秒、合体サンダーファイヤーパワーボムで大仁田が平柳にフォール勝ち。12月7日、新潟プロレスのコモプラザ大会でコシ☆ヒカ〜ルを相手に防衛戦。12分39秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。2015 15年7月17日、両国国技館での佐野直の自主興行で茂木、吉田和則を相手に3WAYマッチ。10分時間切れ引き分け。9月27日、新潟プロレスのサントピアワールド大会でビッグ・THE・良寛を相手に防衛戦。14分41秒、スモ−ルパッケ−ジホ−ルドでフォール勝ち。2016 16年4月9日、超花火プロレスのいわき市平体育館大会で小幡優作と対戦。7分31秒、ダイビングダブルニードロップに敗れた。4月14日、超花火プロレスの別府市総合体育館大会でマトリックスと対戦。8分42秒、脇固めで勝利。6月16日、ZERO1の新木場1stRING大会での火祭り出場決定戦で小幡優作と対戦。13分12秒、ダイビングダブルニードロップに敗れた。8月18日、ZERO1の新木場1stRING大会で磐城利樹と対戦。9分2秒、逆片エビ固めで勝利。9月30日、千葉県袖ケ浦市議会議員選挙に無所属で立候補することを発表。10月16日に開票され、落選した。11月20日、ZERO1のいわき市平体育館大会で将軍岡本と対戦。13分43秒、バックドロップに敗れた。2018 18年4月4日、新宿FACEでの「はぐれIGFインターナショナル旗揚げ戦」のメインで田中将斗、黒田と組んで藤田和之、カシン、論外組と対戦。13分5秒、カシンのぶら下がり首4の字固めに黒田が敗れた。2019 19年9月13日に緊急入院。検査の結果、医師から大腸がんステージ4で、肝臓にもがんが転移していることを告知された。10月15日に手術を受けたが、腹膜炎を発症し、10月24日に再手術した。2021 21年8月2日、死去。スクラップブック
入院中やリハビリ中も大仁田や天龍といった縁の深い先輩たちは気にかけてくれた。ある時、天龍から電話で「オマエ、まだ(プロレス)やりたいか?」と聞かれた保坂は、スポーツトレーナーという目標が見えてきて前向きになっていたこともあり、「やりたい気持ちはあります」と答える。その後、天龍から連絡が入り、「維新力の興行にオマエの名前も入れといたから」と、復帰の舞台が用意された。
(週刊プロレスNo.1759より。06年の復帰について) 大仁田厚 “天国の弟” 保坂秀樹さんへの思い「俺のサンダーファイヤーパワーボムを一番食らった人間だった」 (21年8月8日7:00配信 東スポWebより) ――どんな存在だった。 大仁田 そうだな、弟みたいだったよ。最初はFMWの時、W★INGから(故ミスター・ポーゴさん率いる)ポーゴ軍としてやってきたんだよ。俺のサンダーファイヤーパワーボムを一番食らった人間だった。 ――病院送りにされたことも多かったと聞く。 大仁田 病院に行ったと思うよ。でも不思議なもんで、レスラーって技をきれいに受けてくれる人をリスペクトするんだよ。だから俺のサンダーファイヤーを毎日のように受ける保坂を見て「すごいやつだな」って思うようになった。もともとレスリングをやっていたから、いろいろと器用だったよ。 ――長い付き合いだ。 大仁田 そのあと別々になって、7〜8年くらい前かな。ゼロワン(超花火プロレス)でタッグを組むようになってからだよ。パートナーとして、いつも俺を引き立ててくれる存在だったから本当に感謝してるよ。 ――一番の思い出は。 大仁田 (2017年8月に)アメリカに一緒に行った時かな。「電流爆破をやりたい」って、マット・トレモントの「CZW」から俺にオファーが来たんだけど「飛行機のランクを落としてもいいから、保坂も一緒に連れていっていいか」ってお願いしたんだ。そうしたらオッケーが出たんだけど、本当に俺のチケットがエコノミークラスに変更されてたよ。 ――それだけ保坂さんを頼りにしていた。 大仁田 ちょうど(8月5日に米国で)保坂の誕生日を迎えたんだよ。それでアメリカ人の俺のファンの人がケーキを用意してくれてさ。あの時の保坂がさ、本当にうれしそうだった。いつものようにビールをかけつけで5杯飲んでね(笑い)。あの時の笑顔が今でも忘れられないんだ。 ――タッグパートナーとしていつもサポートしてくれた。 大仁田 「僕はいつも大将を守ります」って言ってくれた。(19年9月に大阪で)藤原喜明さんと電流爆破で戦った時かな。身をていして俺を守ってくれて、自分から爆破に突っ込んでいった。そういうやつだったんだ。 ――17年に保坂さんがアゴの骨折で欠場中、生活費を工面したと聞いた 大仁田 レスラーって保障がないからね。そういう時もあったな。試合に復帰するまではって。それだけ保坂のことを大切に考えていたから。 ――最後に一緒に組んだのは19年7月13日の大仁田興行新木場大会だ。 大仁田 あの時、痩せていたんだ。「大丈夫か?」と聞いたら「お酒をやめたんです」と言ってたけど、今思えば病を患っていたんだろうな。亡くなる1か月前に電話で話した時は、元気がない声だった。でも回復したらFMW−Eに上がってもらいたいと思っていた。いつもFMW−Eのことを気にかけてくれたみたいだから。 ――7日には葬儀・告別式に参列した。 大仁田 家族葬だったんだけど、仲間が集まってくれた。すごくきれいな顔をしていたな。骨も納めさせてもらったけど、寂しいというか、まだ実感がない。別れじゃないような気がする。俺は7回引退して7回カムバックした男だけど、これからも保坂が俺たちに力をくれるのかなってね。 |
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