ダークロHP / レスラーノート

ペドロ・モラレス
PEDRO MORALES


1942年11月3日
プエルトリコ・ポンス出身
182cm 110kg
タイトル歴:WWA世界ヘビー WWA世界タッグ サンフランシスコ認定世界タッグ NWAハワイタッグ ハワイ地区認定北米ヘビー フロリダタッグ WWWF世界ヘビー WWFインターコンチネンタル WWF世界タッグ WWC世界タッグ
得意技:アトミック・ボムズアウェー フライング・リバース・ドロップ ドロップキック

通称「ラテンの黒豹」。15歳の時、プエルトリコでスカウトされる。58年にロサンゼルスでプロレス入り。ジャンプ力を活かしたファイトで人気を獲得。64年末には海外修行中の馬場にドロップキックを教えた。65年3月12日、ロサンゼルスでザ・デストロイヤーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得。7月23日、ルーク・グラハムに敗れて王座転落。10月17日、グラハムを破り王座奪回。 66年3月、日本プロレスに来日。6月24日、ロサンゼルスでルイス・ヘルナンデスと組んでWWA世界タッグ王座を獲得。8月5日、バディ・オースチンに敗れて王座転落。その後、サンフランシスコ(ロイ・シャイアー派)に転戦。67年4月にペッパー・ゴメスと組んで同地区認定世界タッグ王座を獲得。69年にはハワイに進出し同地区認定北米ヘビー級王座を3度獲得した。その後、WWWFに進出し、 71年2月8日、ニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンでイワン・コロフのWWWF王座に挑戦。必殺のダイビング・ニードロップをかわし、ダイビング・ボディアタックはカウント2で返されたが、バックを取られた瞬間にコーナーのターンバックルを蹴って重なりあって後ろに倒れ、両者の肩がついていたが、ギリギリでモラレスが右肩を上げたためフォール勝ち。第4代WWWF世界ヘビー級王座を獲得した。2年10ヶ月、MSGの帝王となった。 72年9月30日、ニューヨーク・メッツの本拠地であるシェイ・スタジアムでブルーノ・サンマルチノを相手に防衛戦。マッチ・オブ・ザ・センチュリー(世紀の対決)と題されたこの大会は22508人もの大観衆を集めた。75分のマラソン・マッチの末、ニューヨーク州条例のカーフュー(午後11時に興行終了)による時間切れドローでモラレスが王座防衛に成功した。 73年12月にスタン・スタージャックに敗れ王座転落。王座陥落後はWWWFを離れてAWA、NWAフロリダ、サンフランシスコ(ロイ・シャイアー派)などアメリカ各地を転戦。74年5月には全日本プロレスに初登場(2度目の来日)。クツワダサンダー杉山ジャンボ鶴田高千穂に勝利してデストロイヤーと引き分け、MSG杯を獲得。6月13日、東京体育館大会でMSG杯を賭けて馬場のPWF王座に挑戦。1本目は11分52秒、バックドロップにフォール負け。2本目は4分15秒、アトミック・ボムズアウェーで勝利。3本目は50秒、ジャンピング・ネックブリーカードロップに敗れた。76年4月に新日本プロレスに登場。新日本プロレスには4回来日した。77年にロッキー・ジョンソンと組んでフロリダタッグ王座を獲得。80年にWWFに復帰。8月にボブ・バックランドと組んでアファシカのワイルドサモアンズからWWFタッグ王座を獲得。12月にケン・パテラを破りインターコンチネンタル王座を獲得。81年6月21日にドン・ムラコに敗れて王座陥落。10月19日、ムラコと対戦し、ムラコのダーティーファイトに怒り心頭。暴走し反則負け。11月23日にドン・ムラコを破りインターコンチネンタル王座を再び獲得した。12月13日のムラコ戦ではリングアウト勝利。83年1月22日にドン・ムラコに敗れて王座転落。WWFでシングル、タッグ、インターコンチネンタルの3つの王座を獲得した最初のレスラーとなった。83年4月にプエルトリコでカーロス・コロンと組んでWWC世界タッグ王座を獲得。87年にWWFのスペイン語版の解説者に就任。これを契機に引退。その後はプエルトリコで時折試合に出場したりWCWのスペイン語版のTV解説者をした。その後はプエルトリコとニュージャージーにアパートメントを建てて、家族で経営。03年、ニューヨークで現在(04年)撮影中のブルーノ・サンマルチノのドキュメンタリー映画にゲスト出演。晩年はパーキンソン病を患っていた。19年2月12日、死去。

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