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ブルーノ・サンマルチノBRUNO SAMMARTINO本名:ブルーノ・レオパルド・フランセソ・サンマルチノ 1935年10月6日 イタリア・アブルーチ地方ピアザ・ヴェルダード出身 185cm 115kg |
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通称
人間発電所
タイトル歴
WWWFヘビー
インターナショナル・タッグ(トロント版) 得意技
カナディアンバックブリーカー
ベアハッグ |
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ニューヨークの帝王。類いまれな怪力とスタミナで「人間発電所」とあだ名された。イタリアの大工の息子に生まれ、51年に一家そろってアメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグに移住。18歳で兵役に就いて空軍の憲兵として勤務。20歳で除隊して建築作業の仕事に就く。ニューヨークのブルックリンにあるジムでウェイトリフティングに励んでいた所をアントニオ・ロッカにスカウトされプロレス入り。59年にニューヨークでデビュー。前座レスラーだったのでファイトマネーが少なく他のテリトリーに転戦を希望したがプロモーターのビンス・マクマホン・シニアに受け入れられなかった。マクマホン・シニアに無断でシカゴのテリトリーに出場。マクマホン・シニアは報復のため同時期にボルティモアの試合に彼をブッキングした。サンマルチノはシカゴの試合の後にサンフランシスコのテリトリーに向かったが、出場できなかった。マクマホン・シニアがダブルブッキングした結果、ボルティモアの試合を無断欠場したことになり、出場停止処分になってしまっていたのだ。以後、出場停止処分がどこに行ってもつきまとい、レスラー生活を断念。ピッツバーグに帰って建築作業の仕事に戻る。ある日、友人のユーコン・エリックから「なぜプロレスをやめたんだ」と電話がかかってきた。サンマルチノが事情を伝えると、エリックはカナダ・トロントのプロモーター、フランク・タニーを彼に紹介した。以後、61年から62年にかけてカナダ・トロントで活躍した。トロントには50万人以上のイタリア系移民が住んでいて、一躍スター選手になる。イタリア語の新聞・ラジオが連日彼の試合を報道した。62年9月27日、トロントでホイッパー・ビリー・ワトソンと組んでインターナショナル・タッグ王座(トロント版)を獲得。その後、マクマホン・シニアの説得によりニューヨークに復帰。63年、MSGでバディ・ロジャースを48秒で破り、第2代WWWFヘビー級チャンピオンになる。以後7年間にわたってニューヨークの帝王として君臨。初来日は67年3月の日本プロレス。3月2日、大阪府立体育館大会でジャイアント馬場のインター王座に挑戦。1本目は9分4秒にベアハッグで勝利。2本目はロープの反動を利用した馬場のカウンターのジャンピング脳天チョップで3分にフォール負け。3本目は3分52秒、両者リングアウトの引き分けに終わった。3月7日、蔵前国技館大会で馬場と再戦。1本目は17分30秒、ニードロップからフォール負け。2本目は13分9秒、フライング・ボディシザースからフォール勝ち。3本目は60分時間切れの引き分けに終わった。日本プロレスには通算3度来日。馬場のインター王座に4度挑戦。その後、腰痛に悩まされる。
71年1月18日、ニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンでイワン・コロフを相手に防衛戦。トップロープからのダイビング・ニードロップをくらってフォール負け。7年8ヶ月に渡り防衛を重ねていた王座から転落した。王座陥落の後、ニューヨークを離れてロス、セントルイス、カナダ・モントリオール、プエルトリコなど転戦。2月8日、マジソンスクエアガーデン大会でWWFに復帰。ジート・モンゴルと対戦し、カナディアンバックブリーカーで勝利。
72年9月30日、ニューヨーク・メッツの本拠地であるシェイ・スタジアムでペドロ・モラレスのWWWF王座に挑戦。マッチ・オブ・ザ・センチュリー(世紀の対決)と題されたこの大会は22508人もの大観衆を集めた。75分のマラソン・マッチの末、ニューヨーク州条例のカーフュー(午後11時に興行終了)による時間切れドローに終わった。
73年12月10日、スタン・スタージャックのWWWF王座に挑戦。12分35秒、トップロープに上がったスタージャックをボディスラムで投げつけて勝利。WWWF世界ヘビー級王座に返り咲いた。
ジャイアント馬場とは若手時代からの友人であり、全日本プロレスの旗揚げシリーズに参戦した。新日本プロレスがWWFと業務提携しても、全日本プロレスに参戦しつづけた。全日本プロレスには通算5度来日。
76年4月26日、マディソン・スクウェア・ガーデンでスタン・ハンセンを相手に防衛戦。試合開始から8分経過の時点でボディースラムで投げられて首を骨折。それでも15分過ぎまで試合を続け、額から流血し、レフリーストップ負け。その後、長期欠場。6月25日、首の負傷が癒えぬまま試合に復帰し、シェイ・スタジアムでハンセンを相手にリターンマッチ。3万2千人もの大観衆の前でリングアウト勝ち。
77年4月30日、メアリーランド州ボルティモアでビリー・グラハムを相手に防衛戦。13分43秒、ロープに足をかけての反則のエビ固めにフォール負け。WWWF王座から転落した。
引退後、84年にテレビコメンテイターとしてWWFに一時復帰。
90年9月から91年7月まで、インディ団体のヒーブ・エイブラム派UWFのテレビコメンテイターとして登場。
99年5月2日の全日本プロレス東京ドーム大会での馬場の「引退試合」に友人として参列。第6試合に時間無制限1本勝負として、馬場、ザ・デストロイヤー組対ジン・キニスキー、ブルーノ・サンマルチノ組が組まれ、その「試合」で「馬場、君に挨拶するために来た。君は体だけじゃなく、心もジャイアントだったね。君は全ての人に愛され、大切にされたすばらしい人物だった。今日この場にいられることをうれしく思うよ」とスピーチを残した。01年、故郷に銅像が建ち、彼の名前をつけた記念体育館が建設された。その後はホームページや自伝の改定やドキュメント映画(「ラ・ロカ」・・・故郷イタリアでの式典を収める。「ザ・ボーイズ・アー・バック」・・・レスリングビジネスの裏側を描く。「レジェンズ・ネバー・ダイ」・・・新旧レスラーのインタビューなど)などを製作。06年9月16日、ニューヨークでのROHの大会に来場。遠征していた丸藤、KENTAを激励し、大会ではスピーチを行った。18年4月18日、死去。
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