レスラーノート

ブルーザー・ブロディ

BRUISER BRODY

本名:フランク・ドナルド・グーディッシュ
1946年6月18日
ニューメキシコ州アルバカーキ出身
198cm 135kg

通称
超獣
キングコング
インテリジェント・モンスター
タイトル歴
USタッグ(トライステートバージョン)
PWF世界タッグ
インター・ヘビー
NWA・USタッグ(オクラホマ&ルイジアナ地区版)
WWA世界ヘビー
得意技
キングコングニードロップ

ユーゴスラビア系アメリカ人。スタン・ハンセンと同じウェスト・テキサス州立大学でフットボール選手として活躍していた。卒業後はスポーツ記者や酒場の用心棒をしていたが、フリッツ・フォン・エリックにスカウトされてプロレス入り。 72年、ヒューストンにおける対スカンドル・アクバ戦でデビュー。 74年8月、トライステート地区(オクラホマ&ルイジアナ地区)でスタン・ハンセンとタッグを結成。10月、ハンセンと組んでジョニー・イーグルス、テリー・ラザン組を破りUSタッグ王座を獲得。 76年夏にWWWF入り。9月4日のサンマルチノとの初対決はブロディがほぼ一方的に攻め、一度はスリー・カウントが入った。が、その後裁定が覆り、反則負けとされた。10月4日の第2戦ではサンマルチノにKO負け。 77年にWWWFを離脱。テキサスを中心に闘い、オーストラリアにも遠征。 78年にはカンザスシティでハーリー・レイスを破りNWA世界ヘビー級王座を奪取したかに思えたが、これは幻に終わる。 79年8月4日、インディアナ州インディアナポリスでディック・ザ・ブルーザーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得。同年、エリックに帯同して全日本プロレスに初来日。 81年にはジミー・スヌーカとのタッグで最強タッグに優勝。インターヘビー級王座をめぐってはジャンボ鶴田と幾多の死闘を繰り広げた。 82年にハンセンが全日本に移籍してくると超獣コンビを結成。文字通りの最強タッグとして猛威を振るった。 83年年末の世界最強タッグ決定リーグ戦にスタン・ハンセンと組んで参戦。12月12日、蔵前国技館大会での最終戦でジャンボ鶴田、天龍源一郎組と対戦。17分45秒、ハンセンがラリアットで天龍に勝利。世界最強タッグ決定リーグ戦に優勝した。 84年4月に初代PWF世界タッグ王者を獲得。 85年3月に新日本に移籍。3月21日の初登場時にはベートーベンの「運命」をBGMに、鎖を片手にスーツ姿で入場。アントニオ猪木とも対戦。猪木とは通算7回対戦し、一度もフォール決着はなかった。同年暮れのIWGPタッグリーグ戦では、自分を優勝させない新日本プロレスの方針に反抗、優勝戦をボイコットして途中帰国した。その後、再び全日本プロレスに登場。

1988

88年3月27日、日本武道館大会でインター王者の鶴田に挑戦。終盤に鶴田のバックドロップをくらったが、ロープに足をかけてエスケープ。直後のフライング・ボディシザースを抱えあげて、鶴田の首をロープに打ちつけダウンさせ、最後はキングコング・ニードロップで完全勝利。インターヘビー級王座を獲得。試合後にベルトを渡したPWF会長ロード・ブレアースや客席のファンと抱きあって喜んだ。4月19日、宮城スポーツセンター大会で鶴田を相手に防衛戦。雪崩式ブレーンバスター、バックドロップをくらってフォール負けし、王座転落。同年、プエルトリコでサーキット中、同地のボスのカーロス・コロンとトラブルになる。7月17日、カーロス配下のブッカー兼レスラー、ホセ・ゴンザレスと試合のフィニッシュをめぐって口論になり、シャワールームで刺殺された。



スクラップブック
受け身を拒否!80年代最強外国人£エ獣ブロディの記憶に残るマスカラス兄弟戦
(2020年7月24日11:00配信 東スポWebより)
 全日本では初来日(1979年1月)直後から、グリーンボーイのまま一発で売れた唯一の選手です。全部が規格外。あの体格(198センチ、140キロ)でスタミナと技術とパワー、全部を兼ね備えていた。スタン・ハンセンより上。間違いなく80年代のトップ外国人だった。
 チェーンを持って独特の掛け声で入場するのは初来日した時、巡業中に(常連外国人選手の)キング・イヤウケアからアドバイスされたと思う。でも試合ではチェーンも凶器も使わない。「日本で目立つにはどうすればいいか」という教えを受けたんだろうけど、ヒールじゃなくて正統派。ジャンボ(鶴田)と長時間、互角で渡り合った最後の外国人だよね。あの一連の戦いはすごかった。
 リング外では180度別人。よく言われるようにインテリだった。コスチュームよりスーツが似合う、マンハッタンの一流上場企業のサラリーマンのよう。誰とも騒ぐことなく、黙って控室の隅でお地蔵様のようになって本を読んでいる。(80年代後半には)もうパソコンを使っていたんじゃないかな。とにかく近寄りがたかった。俺がコーヒーをいれて持って行っても「ノーサンキュー」だから。怖かったよ。
 自分の哲学というものを持っていて頑固。悪く言えば融通が利かない。一番記憶に残っている試合は、ハンセンと組んだ世界最強タッグ決定リーグ戦のマスカラス兄弟(ミル・マスカラスドス・カラス)戦(83年12月5日、福岡)。受け身を取らないんだよ。フライングクロスチョップを受けても立っているんだから不穏な試合だよね。「お前らごときに、なぜ俺たちが」という考えだったんでしょう。結局、ブロディとハンセンが初優勝したんだけどね。
 まだ当時は全日本のシステムが分かってなかったと思う。だからビジネスに徹して高いギャラを求めて新日本プロレスに移籍(85年3月)したんだろうけど、選手のサイズとか居心地とかで「これは少し違うぞ」と感じたんじゃないか。(87年10月に)全日本に戻ってからが一番良かったんじゃない。旧知のハンセンもアブドーラ・ザ・ブッチャーもいる。飛行機もファーストクラスになった。さあこれからという気持ちだったと思う。
 亡くなった日は忘れない。(ジャイアント馬場夫人の)元子さんが泣いていて、馬場さんが「どうした?」って聞いたら「ブロディが死んじゃった・・・」と答えた。馬場さんは「なにっ?」って言った直後に「うーん、でも仕方ないのかなあ」と。海外でトラブルを起こすことを心配していたんでしょう。
 だけど海外で亡くなった選手の追悼セレモニーを日本武道館(88年8月29日)で開催するなんて最初で最後じゃないかな。しかも米国から夫人と子供まで招待して。あれからもう32年か・・・。まあ間違いなく二度と出てこない80年代全日本最強の外国人選手ですよ。