レスラーノート

藤波辰爾

本名:藤波辰巳
1953年12月28日
大分県国東郡出身
184cm 105kg
血液型:O型

通称
炎の飛龍
ドラゴン
タイトル歴
IWGPヘビー
IWGPタッグ
パシフィックノースウェストヘビー
WCWA世界ヘビー
WWFインターナショナル・ヘビー
WWWFジュニア
NWAインターナショナル・ジュニア
KO−Dタッグ
HEAT−UPユニバーサルタッグ
HEAT−UPユニバーサル
PWL世界王座
得意技
ドラゴンスリーパー(飛龍裸絞め)
ドラゴンスープレックス
ドラゴンスクリュー
ドラゴンロケット

中学卒業後、職業訓練校を経て大分県別府市の松本自動車に就職。ボディビルで体を鍛え、70年6月、日本プロレスに入門。同郷の北沢(魁勝司)を頼って九州巡業についていって、性格の優しい北沢は追い返すわけにもいかず、なし崩しのような入門だった。

1971

71年5月9日、岐阜市民センターの北沢幹之戦でデビュー。7分50秒、首固めに敗れた。猪木の付き人となる。

1972

72年3月、新日本プロレス旗揚げに参加。

1974

74年の 第1回ゴッチ杯に優勝。74年度のプロレス大賞で新人賞を受賞した。

1975

75年6月、木戸修と共に海外遠征に出発。欧州、主にドイツで活躍。12月からアメリカに移動し、フロリダ州タンパで木戸修と共にゴッチのトレーニングを受ける。

1976

76年2月に木戸修が帰国してからは、カール・ゴッチの家に住みこんで24時間体制のトレーニングを受けた。その後、ミッドアトランティック地区でリック・フレアーなどと対戦。

1977

77年3月にメキシコ入り。リング・フヒナミの名でルードでスタートしたが、1ヵ月後にリンピオに転向した。レネ・グァハルドのUWA世界ミドル級王座、エル・ソリタリオのUWA世界ライトヘビー級王座に挑戦したが奪取はならなかった。

1978

78年1月、マジソンスクエアガーデンでホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスで破りWWWFジュニア王座を獲得。3月1日に凱旗帰国。ドラゴン・ブームを巻き起こした。新日本プロレスは藤波を売り出すためにマンドー・ゲレロとアンヘル・ブランコに、ドラゴン・スープレックスを受けた後に「失神」させ「負傷欠場」させた。

1979

79年10月に、剛竜馬に敗れて王座から転落したが、2日後にベルトを奪還。

1981

81年10月、WWFジュニア王座を返上し、ヘビー級に転向。81年度のプロレス大賞で猪木と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1982

82年8月30日、ニューヨークのマジソンスクエアガーデンでジノ・ブリットと対戦。12分39秒、延髄斬りからのブレーンバスターで勝利し、WWFインターナショナルヘビー級王座を獲得した。

1983

83年4月3日、蔵前国技館大会で長州を相手に防衛戦。16分39秒、ラリアットに敗れて王座転落。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。

1985

85年9月19日、東京体育館大会で猪木と対戦。リング中央で藤波の足4の字固めが決まり「折ってみろ!」と猪木が挑発。7分間も、4の字固めのせめぎ合いが続いた。猪木にジャーマンをかけられたがドラゴンスープレックスでやり返した。終盤には猪木の卍固めを2度ロープブレークしたが、3度目の卍固めにレフリーストップ負け。12月、木村と組み初代IWGPタッグ王者となる。85年度のプロレス大賞でMVPを受賞した。

1986

86年6月12日、大阪城ホール大会で前田と対戦。22分5秒、両者KOに終わった。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。お互いのスタイルを超越した名勝負と長く語り継がれた。

1988

88年4月22日、沖縄・奥武山体育館大会での控室でアントニオ猪木との口論から藤波が決起をアピール。「やりますよ!」と吠えながら突然ハサミで前髪を切る。この藤波の決起は「飛龍革命」と呼ばれた。5月8日、有明コロシアム大会でベイダーを相手に王座決定戦。16分2秒、反則勝ち。第2代IWGPヘビー級王座を獲得。5月27日、宮城県スポーツセンター大会で長州力を相手に防衛戦。22分55秒、無効試合。無効試合のため、王座はコミッショナー預かりになった。6月24日、大阪府立体育会館大会で長州力と対戦。18分46秒、首固めで勝利。第3代IWGP王者になった。8月8日、横浜文化体育館大会でアントニオ猪木を相手に防衛戦。白熱の名勝負を展開。60分フルタイムドローの引き分けで王座防衛。10月、アメリカに遠征。10月15日、オレゴン州ポートランドでザ・グラップラーの王座に挑戦。31分28秒の激闘をサソリ固めで勝利。パシフィックノースウェスト(PNW)ヘビー級王座を獲得した。10月17日、テネシー州メンフィスでジェリー・ローラーのAWA世界ヘビー級王座に挑戦。試合のほとんどを支配していたが、35分20秒、エキサイトしすぎてレフリーと衝突し、反則負け。10月21日、テキサス州ダラスでWCWA王者のケリー・フォン・エリックとダブルタイトルマッチ。5分40秒、AWA王者のローラーの乱入で無効試合に終わった。12月5日、愛知県体育館大会でザ・グラップラーを相手にPNW王座の防衛戦。18分53秒、胴絞め式ドラゴンスリーパーで勝利。12月9日、後楽園ホール大会でケリー・フォン・エリックとダブルタイトルマッチ。試合は序盤からヒートアップ。11分45秒、場外でケリーがアイアンクローを離さずに両者リングアウト。再試合となり、ケリーのイスを取り上げて逆に頭を殴打。6分41秒、鉄柱に叩きつけ大流血に追いこむと、ケリーは半失神となりレフリーが試合を止めた。WCWA世界ヘビー級王座を獲得し、三冠王となった。12月10日、試合内容の反省と翌年2月のAWA世界王座挑戦を視野に入れるため、WCWA王座を返上。同日、オレゴン州ポートランドでザ・グラップラーに敗れてPNW王座から転落。12月17日、WWCのプエルトリコ サンファン・バヤモンスタジアム大会でドクター・デスと対戦。8分8秒・サソリ固めで勝利。

1989

89年4月24日、初開催となった東京ドーム大会でIWGPヘビー級王座決定&闘強導夢杯トーナメントに参戦し、1回戦でウラジミル・ベルコビッチと対戦。4分51秒、三角絞めで勝利。同日の準決勝でビッグバン・ベイダーと対戦。14分37秒、ジャンピング・ボディプレスに敗れた。6月22日、佐久市総合体育館大会でのベイダー戦で腰を負傷。以後、椎間板ヘルニアのため長期欠場。

1990

90年9月30日、横浜アリーナ大会での越中詩郎とのエキシビションマッチで復帰。この試合から藤波辰爾に改名した。12月26日、浜松アリーナ大会で長州力のIWGP王座に挑戦。18分46秒、回転足折り固めでフォール勝ち。IWGPヘビー級王座を獲得した。

1991

91年1月17日、横浜文化体育館大会でベイダーに敗れて王座転落。2月6日、札幌中島体育センター別館大会で木戸修と対戦。9分31秒、グラウンド・コブラツイストでフォール勝ち。3月4日、広島サンプラザ大会でベイダーを破りIWGP王座を奪回。3月21日、東京ドーム大会で、IWGPヘビー級王者の藤波はNWA世界王者のリック・フレアーに挑戦し、23分6秒、グランド・コブラツイストで勝利。NWAのベルトを一度は腰に巻いたが、試合後にWCWの役員ダスティ・ローデスバリー・ウインダムが「藤波はオーバー・ザ・トップロープの反則を犯していた」とベルトを藤波から剥奪。渡米した藤波は5月19日のフロリダ州セントピータースバーグ大会でフレアーと再戦。18分6秒、チョップ合戦を分けていたレフリーが藤波と激突してダウンしているスキに、背後からタイツをつかまれてのエビ固めでサブレフリーにフォールを取られて敗れた。5月30日、大阪城ホール大会で20周年記念大会。メインで蝶野正洋を相手に防衛戦。ドラゴンロケットを決めるなど絶好調の動きを見せ、18分33秒、ドラゴンスリーパーで勝利した。8月、第1回G1クライマックスに出場。8月7日、愛知県体育館大会でベイダーと対戦。12分14秒、逆さ押さえ込みでフォール勝ち。8月9日、両国国技館大会で武藤と対戦。13分56秒、首固めにフォール負け。8月10日、両国国技館大会でスコット・ノートンと対戦。7分56秒、両者リングアウト。1勝1敗1引き分けでリーグ戦に敗退した。9月10日、大阪府立体育会館大会のメインで馳浩と対戦。19分20秒、延髄斬り2連発からの足4の字固めで勝利。10月、第1回SGタッグリーグ戦にベイダーと組んで参戦し、優勝。11月5日、日本武道館大会で蝶野を相手に防衛戦。19分49秒、足を抱えこんでのヘッドロックで勝利。

1992

92年1月4日、東京ドーム大会のメインでグレーテスト18クラブ王者の長州力を相手に自らのIWGPヘビー級王座も賭けてダブルタイトルマッチ。12分11秒、ラリアット3連発に敗れて王座転落した。

1993

93年1月4日、東京ドーム大会で石川敬士と対戦。11分41秒、ドラゴンスリーパーで勝利。8月、G1クライマックスに出場し、決勝で馳浩と対戦。21分49秒、サソリ固めで勝利してG1クライマックス初優勝を達成。

1994

94年1月4日、東京ドーム大会でハルク・ホーガンと対戦。13分33秒、アックスボンバーに敗れた。4月4日、広島グリーンアリーナ大会で橋本真也のIWGP王座に挑戦。14分55秒、グラウンドコブラでフォール勝ち。IWGPヘビー級王座を獲得した。5月1日、福岡ドーム大会で橋本真也を相手に防衛戦。6分4秒、DDTに敗れて王座転落。

1996

96年4月29日、東京ドーム大会で天龍源一郎と対戦。9分16秒、ラリアットに敗れた。9月20日、大阪府立体育会館大会で日米対抗スーパースターズ・トーナメントに参戦し、1回戦でリック・フレアーと対戦。10分31秒、足4の字固めを狙ったところを首固めに切り返されてフォール負け。

1997

97年1月4日、東京ドーム大会で木村健悟と組んで蝶野、天山組のタッグ王座に挑戦。16分10秒、藤波がドラゴンスープレックスで蝶野に勝利。IWGPタッグ王座を獲得。同王座は武藤、平田組(2月8日)、小島中西組(2月16日)、越中、後藤達俊組(3月20日)を相手に防衛を重ねたが、4月12日、東京ドーム大会で長州力、佐々木健介組を相手にタッグ王座の防衛戦。15分35秒、長州のラリアットに木村が敗れて王座転落。

1998

98年4月4日、東京ドーム大会で佐々木健介のIWGP王座に挑戦。21分18秒、ジャーマンスープレックスで勝利。IWGPヘビー級王座を獲得した。6月5日、日本武道館大会で橋本を相手に防衛戦。20分38秒、裸締めで勝利。7月14日、札幌中島体育センター大会で天山を相手に防衛戦。16分7秒、卍固めで勝利。8月8日、大阪ドーム大会で蝶野正洋を相手に防衛戦。19分53秒、STFに敗れて王座転落。

1999

99年4月10日、東京ドーム大会で天龍源一郎と組んで佐々木健介、越中詩郎組のIWGPタッグ王座に挑戦。17分33秒、越中のパワーボムに藤波が敗れた。6月に新日本プロレスの社長に就任。

2000

00年5月5日、福岡ドーム大会で引退カウントダウンを表明し、蝶野正洋と対戦。6分30秒、ケンカキックに敗れた。その後、引退を白紙に戻し、8月、G1クライマックスに出場。10月9日、東京ドーム大会の第1試合でこの日が復帰戦となった橋本真也と対戦。14分18秒、チキンウイング・アームロックに敗れた。

2001

01年8月にも出場し村上を秒殺した。9月23日、なみはやドーム大会で西村修と組んで天山、小島組のIWGPタッグ王座に挑戦。26分4秒、西村が回転足折り固めで小島にフォール勝ち。IWGPタッグ王座を獲得した。10月7日、無我の後楽園ホール大会でボブ・バックランドと5分間のエキシビションマッチ。3分間の延長戦も行われ、時間切れ引き分けに終わった。10月8日、東京ドーム大会でバックランドと組んでドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク組と対戦。10分40秒、藤波が逆さ押さえこみでドリーにフォール勝ち。10月12日、上田市民体育館大会でバックランドと組んでトニー・セントクレアー、スティーブ・カーン組と対戦。11分59秒、バックランドが首固めでセントクレアーにフォール勝ち。10月13日、四日市中央緑地公園体育館大会でスティーブ・カーンと組んでドリー・ファンク・ジュニア、ボブ・バックランド組と対戦。23分22秒、ドリーのスピニング・トーホールドにカーンが敗れた。10月19日、別府ビーコンプラザ大会で武藤、ライガー組を相手にタッグ王座の防衛戦。24分12秒、藤波が足4の字固めで武藤に勝利。10月28日、福岡国際センター大会で世界タッグ王者の武藤、太陽ケア組を相手にダブルタイトルマッチ。23分47秒、武藤のシャイニングウィザードに西村が敗れて王座転落。12月11日、大阪府立体育会館大会で武藤敬司の三冠王座に挑戦。藤波はドラゴンスリーパー、ドラゴンスクリュー、足四の字、さらには武藤の得意技シャイニングウィザードを出すなど積極的に試合を展開。武藤はコーナー上段にいた藤波にシャイニングウィザードを放ち形勢逆転。15分32秒、最後は武藤のこの日6発目のシャイニングウィザードに敗れた。

2002

02年7月19日、北海道立総合体育センター大会で安田忠夫とG1出場者決定戦。5分30秒、スリーパーホールドにレフリーストップ負け。10月6日、無我の後楽園ホール大会で棚橋弘至と対戦。7分30秒、腕ひしぎ逆十字固めをエビ固めに切り返してフォール勝ち。10月9日、無我の大阪府立体育会館・第2競技場大会で西村修と対戦(4分15R)。4R1分、スピニング・トーホールドをエビ固めに切り返してフォール勝ち。11月22日から始まったトライアスロン・サバイバーに蝶野正洋、天山広吉と組んで参戦。3勝2敗に終わった。

2003

03年1月4日、東京ドーム大会の第1試合で西村と対戦。8分10秒、ジャパニーズ・レッグロール・クラッチ・ホールドにフォール負け。その後、長期欠場。

2004

04年1月に胆石を手術。同年、社長を辞任し、副会長に就任。

2005

05年3月26日、両国国技館大会で復帰戦を行い、西村修と対戦。15分時間切れ引き分け。4月24日、大阪府立体育会館大会で中嶋勝彦と対戦。3分59秒、ドラゴンスリーパーで勝利。8月4日から始まったG1クライマックスに51才ながら4年ぶりにG1クライマックスに出場。開幕戦の福岡国際センター大会でケンドー・カシンと対戦。4分50秒、グラウンド・コブラツイストで勝利。8月6日、大阪府立体育会館大会で川田利明と対戦。飛龍裸絞めに逆さ押さえこみと技を繰り出したが、12分3秒、顔面への右ローキックに敗れた。8月7日、大阪府立体育会館大会で永田裕志と対戦。9分37秒、バックドロップホールドに敗れた。8月8日、横浜文化体育館大会で鈴木みのると対戦。10分17秒、腕ひしぎ逆十字固めをエビ固めに押しつぶしてフォール勝ち。8月10日、ツインメッセ静岡大会で西村修と対戦。11分29秒、巻きこみ式前方回転エビ固めにフォール負け。8月11日、愛知県体育館大会で天山広吉と対戦。12分49秒、ムーンサルトプレスに敗れた。8月13日、両国国技館大会で蝶野正洋と対戦。11分19秒、シャイニング・ケンカキックに敗れた。リーグ戦は2勝5敗に終わった。10月23日、長崎県立総合体育館大会で山本尚史と対戦。4分29秒、ドラゴンスリーパーで勝利。

2006

06年6月20日に新日本プロレスを退団。新団体「無我ワールド・プロレスリング」に参加。8月2日の後楽園ホールでのプレ旗揚げ戦で第1試合に出場し、マーク・マッカイと対戦。7分54秒、逆さ押さえこみでフォール勝ち。9月15日、アクロス福岡大会で長井満也と対戦。10分16秒、ドラゴンスリーパーで勝利。9月16日、無我ワールドの杉乃井ホテルひかりホール大会で後藤達俊と対戦。8分24秒、後方回転エビ固めでフォール勝ち。9月18日、大阪ABCホール大会でマイク・バートンと対戦。8分35秒、足4の字固めで勝利。9月22日、広島グリーンアリーナ・小ホール大会でヒロ斉藤と対戦。11分59秒、ワンハンドバックブリーカーで勝利。9月25日、無我の旗揚げシリーズ最終戦の後楽園ホール大会で西村と3本勝負で対戦。ラリアットやチョップ合戦のないクラシカルなムーブで観客を魅了。1本目は20秒で西村が首固めで勝利。2本目は13分12秒で藤波が足四の字固めで勝利。3本目は10分28秒に、藤波の足四の字固めを反転させた西村が裏四の字固めで勝利した。11月5日、大阪府立体育会館・第2競技場大会で吉江豊と対戦。8分27秒、ダイビング・ボディプレスに敗れた。12月3日、無我ワールドのグリーンドーム前橋サブイベントエリア大会で竹村豪氏と対戦。12分35秒、ドラゴンスリーパーで勝利。12月7日、EBiS303大会で正田和彦と対戦。8分20秒、ドラゴンスリーパーで勝利。

2007

07年1月28日、後楽園ホール大会でグラン浜田と対戦。7分44秒、ドラゴンスリーパーで勝利。2月27日、明石市立産業交流センター大会でヒロ斉藤と対戦。9分4秒、足4の字固めで勝利。3月6日、大分イベントホール大会でジョン・ウォルターと対戦。9分4秒、コブラツイストで勝利。5月16日、大阪府立体育会館第2競技場大会で大阪プロレスのスペル・デルフィンと対戦。スイングDDTと大阪臨海アッパーをくらい苦戦したが、8分53秒、ドラゴン・スリーパーで勝利した。5月20日、無我の岡山県卸センター・オレンジホール大会で、国内3500試合出場記念試合として西村と対戦。西村のアピールで3本勝負になったこの試合。1本目を12分13秒、裏4の字固めで西村が勝利。2本目は5分42秒、首固めで藤波が勝利。3本目は3分18秒、卍固めで藤波が勝利した。6月21日、後楽園ホール大会でTAKAみちのくと対戦。11分39秒、ドラゴンスリーパーで勝利。7月1日、新潟フェイズ大会で征矢学と対戦。5分47秒、逆エビ固めで勝利。9月9日、ノアの日本武道館大会で西村と組んで三沢潮崎組と対戦。19分40秒、西村が足4の字固めで潮崎に勝利。10月19日、西村が征矢を連れて無我を退団。11月18日、国東体育館大会で長井と対戦。12分45秒、ドラゴンスリーパーで勝利。11月20日、大分イベントホール大会で後藤達俊と対戦。7分23秒、足4の字固めで勝利。12月3日、大阪府立体育会館・第2競技場大会で第2回DRAGON CUPに参戦し、1回戦で高岩竜一と対戦。11分53秒、ドラゴンスリーパーで勝利。12月13日、後楽園ホール大会での準決勝でTAJIRIと対戦。グリーンミストを噴射され、イス攻撃やバズソーキックで苦戦したが、12分20秒、ドラゴンスリーパーで勝利。同日に行われた決勝では吉江豊と対戦。ドラゴンスクリュー、足4の字固め、ローキックで左足を攻めたが最後は13分59秒、ダイビングボディプレスに敗れた。「無我」の商標は西村が持っていたため、西村の無我離脱をきっかけに、12月17日に団体名を「ドラディション」に変更することを発表。

2008

08年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会での10人タッグマッチに出場。2月23日、大阪府立体育会館第2競技場でドラディションのプレ旗揚げ戦。メインで蝶野正洋と組んでグラン浜田、ヒロ斉藤組と対戦。14分43秒、ドラゴンスリーパーで浜田に勝利した。3月20日、船橋アリーナ大会でドラディションの旗揚げ戦。メインでヒロ斉藤と組んで吉江豊、南野タケシ組と対戦。19分、ヒロのダイビングセントーンで南野に勝利した。5月11日、アレナ・メヒコでの闘龍門自主興行「ドラゴマニア3」で、ウルティモ・ドラゴンミスティコと組んでアトランティス、ウルティモ・ゲレーロ、レネ・デュプリ組と対戦。アトランティスの逆片エビ固めにウルティモがギブアップ負け。21年ぶりのメキシコマット登場だった。6月1日、デルフィンアリーナ大会でくらしま太郎と対戦。6分54秒、ドラゴンスリーパーで勝利。9月21日、後楽園ホール大会でミスター雁之助と対戦。7分57秒、卍固めで勝利。11月24日、IGFの愛知県体育館大会で初代タイガーマスクと対戦。新日本プロレス時代にもほとんど対戦経験がなかった相手だった。10分時間切れ引き分けに終わった。

2009

09年1月29日、ドラディションの新宿FACE大会で関本大介と対戦。14分17秒、ドラゴンスクリューからの足4の字固めで勝利。4月12日、ロックアップの後楽園ホール大会で長州と組んで藤原大森組と対戦。9分39秒、長州のサソリ固めで藤原に勝利。

2010

10年2月22日、IGFのJCBホール大会で木戸修と組んで初代タイガーマスク、藤原組と対戦。15分時間切れ引き分けに終わった。3月30日、新宿FACE大会で藤田峰雄と対戦。11分1秒、ドラゴンスリーパーで勝利。4月29日、新宿FACEでの華名の主催興行で石川雄規と対戦。10分46秒、ドラゴンスクリューからの足四の字固めで勝利。同日の新宿FACEでのベイダー主催興行では本田橋誠と組んでベイダー、スコーピオ、ジェシー・ホワイト(ベイダーの息子)組と対戦。22分55秒、ベイダーのチョークスラムからのベイダーアタックに橋がフォール負け。5月29日、アレナ・メヒコでの「ドラゴマニア」でマスカラスプラタ、ウルティモ・ドラゴンと組んでパルンボ、アトランティス、ブカネロ、アルカンヘル組と対戦。18分46秒、マスカラスのダイビングボディアタックでアルカンヘルに勝利。9月25日、IGFのJCBホール大会で初代タイガーマスクと対戦。10分、時間切れ引き分け。

2011

11年1月10日、後楽園ホールでのレジェンド・ザ・プロレスリングの旗揚げ戦のメインで長州と対戦。年末に胆石の手術をして体調が気づかわれたが、会場を埋めつくした超満員のファンの大歓声を受けて奮闘し、9分29秒、エビ固めで勝利。2月5日、IGFの福岡国際センター大会でミル・マスカラスと対戦。10分時間切れの引き分け。4月28日、IGFの東京ドームシティホール大会でベイダーと対戦。10分時間切れ引き分け。試合後に握手を交わし、ベイダーに肩車されて健闘を称えられた。5月7日、レジェンドプロレスの大阪府立体育会館第2競技場大会で長州力と対戦。観客動員記録となる1500人もの超満員の観客の前で熱戦を展開。10分52秒、雪崩式ブレーンバスターからラリアットを2発くらったが、3発目をブロックしてから逆さ押さえ込みでフォール勝ち。6月23日、ドラディションの新宿FACE大会で高木三四郎と対戦。9分6秒、ドラゴンスリーパーで勝利。7月10日、IGFの東京ドームシティホール大会でマスクド・ゲノム・ジュニアと組んで大谷橋本大地組と対戦。15分9秒、藤波がドラゴンスリーパーで橋本に勝利。8月11日、SMASHの後楽園ホール大会でMentalloと対戦。7分45秒、ドラゴンスリーパーで勝利。8月27日、IGFの両国国技館大会でミル・マスカラスと対戦。10分、時間切れ引き分け。9月3日、IGFの愛知県体育館大会で藤原喜明と対戦。6分53秒、逆さ押さえ込みでフォール勝ち。9月15日、ドラディションの新宿FACE大会で石川晋也と対戦。10分23秒、ドラゴンスリーパーで勝利。9月23日、レジェンドプロレスの名古屋国際展示会議場イベントホール大会で長州力と対戦。10分57秒、リキラリアットに敗れた。9月30日、レジェンドプロレスの札幌テイセンホール大会で長州力と対戦。6分45秒、逆さ押え込みでフォール勝ち。12月2日、IGFの両国国技館大会でウルティモ・ドラゴンと対戦。5分25秒、ドラゴンスリーパーで勝利。12月10日、大阪府立体育会館第2競技場大会でゼウスと対戦。11分55秒、逆さ押さえ込みでフォール勝ち。12月13日、ドラディションの新宿FACE大会でAKIRAと対戦。13分55秒、サソリ固めで勝利。

2012

12年2月19日、SMASHの東京ドームシティホール大会でエル・サムライと組んで大矢、AKIRA組と対戦。10分57秒、AKIRAのムササビプレスにサムライが敗れた。4月20日、後楽園ホールでデビュー40周年記念興行を開催。メインで長州、初代タイガーマスクと組んで蝶野、ヒロ斉藤、AKIRA組と対戦。9分24秒、藤波がドラゴンスリーパーでAKIRAに勝利。試合後、長男の怜於南にプロレス入りを志願された。5月5日、レジェンドプロレスの巌流島大会でヒロ斉藤と組んで長州、大谷組と対戦。7分29秒、長州のサソリ固めにヒロが敗れた。6月15日、広島グリーンアリーナでの齋藤彰俊の自主興業で長州、初代タイガーマスクと組んで藤原、カブキ青柳組と対戦。11分57秒、藤波がドラゴンスリーパーで青柳に勝利。6月24日、WNCの石和温泉ホテル石庭大会のメインでレザーフェイスと対戦。3分10秒、コブラツイストでレフリーストップ勝ち。7月22日、DDTの後楽園ホール大会でMIKAMIと対戦。7分1秒、弓矢固めで勝利。試合後にMIKAMIからタッグ結成を申し込まれて受諾。8月18日、DDTの日本武道館大会でMIKAMIと組んでKUDO、大石組のタッグ王座に挑戦。9分4秒、MIKAMIがヴォルカニックボムで大石に勝利してKO−Dタッグ王座を獲得した。11月22日、ドラディションの新宿FACE大会のメインでヒロ斉藤と対戦。7分10秒、ドラゴンスリーパーで勝利。12月16日、DDTの博多スターレーン大会で飯伏、伊橋組を相手にタッグ王座の防衛戦。14分59秒、MIKAMIがディープ“M”インパクトで伊橋に勝利。

2013

13年1月26日、全日本プロレスの大田区総合体育館大会で真田と組んで武藤、リック・フレアー組と対戦する予定だったが、リック・フレアーが直前で欠場を発表。代役として息子のリード・フレアーが出場した。15分31秒、真田がTHIS IS ITでフレアーに勝利した。7月7日、ノアの有明コロシアム大会で、復帰戦となった越中と組んで小川良成井上雅央組と対戦。10分18秒、藤波がドラゴンスリーパーで井上に勝利。11月19日、息子の藤波怜於南がLEONAのリング名でデビュー。12月7日、ノアの有明コロシアム大会で田上明の引退試合に出場。天龍、井上雅央、志賀と組んで田上、森嶋杉浦平柳組と対戦。10分40秒、田上のオレが田上に雅央が敗れた。12月28日、琉球ドラゴンプロレスのミュージックタウン音市場大会のメインでグルクンマスクと対戦。還暦記念の赤いタイツで試合に臨み、ドラゴンスリーパーで勝利。

2014

14年5月11日、ドラディションの後楽園ホール大会で金本浩二と対戦。5分時間切れ引き分け。同日のメインで藤原と組んで杉浦、齋藤彰俊組と対戦。9分44秒、藤原がワキ固めで齋藤に勝利。11月19日、ドラディションの後楽園ホール大会のメインでGHC王者の丸藤正道と対戦。虎王や不知火をくらってもフォールを返したが、10分28秒、逆さ押さえ込みを首固めに切り返されてフォール負け。

2015

15年3月28日、WWEの名誉殿堂「ホール・オブ・フェーム」に選出され、カリフォルニア州サンノゼのSAPセンターでの記念式典に出席。5月11日、ドラディションの後楽園ホール大会のメインで船木誠勝と対戦。8分47秒、腕ひしぎ逆十字固めに敗れた。9月3日、持病の椎間板ヘルニアに加えて脊柱管狭窄症も併発したため手術。10月31日、W−1の後楽園ホール大会で復帰。LEONAと組んで黒潮、吉岡組と対戦。14分35秒、藤波がドラゴンスリーパーで吉岡に勝利。

2016

16年1月25日、日本武道館で開催された音楽と格闘技の「対決コラボレーション」イベント「GUM ROCK FES.」のメインに登場。音楽の対バン対決(Thinking Dogs対Silent Siren)、東西のアイドル対決(HKT48対乃木坂46)、お笑い芸人とプロレスラーの対決(南海キャンディーズのしずちゃん対スーパーササダンゴマシン)の終了後、メインで長州と対戦。5分49秒、ラリアット2連発に敗れた。3月13日、K−DOJOのBlue Field大会のメインで関根龍一と対戦。7分5秒、足4の字固めで勝利。3月21日、DDTの両国国技館大会でLEONAと組んでアントーニオ本多、福田洋組と対戦。12分10秒、藤波がドラゴンスリーパーで福田に勝利。10月29日、後楽園ホールで日本・ネパール外交関係樹立60周年記念大会を開催。ネパールのヒマラヤン・タイガーを相手に5分間のエキシビションマッチを行なった。同大会で坂口征夫と組んで那須、スーパー・タイガー組と対戦。8分51秒、坂口が神の右ヒザで那須に勝利。

2017

17年4月、デビュー45周年記念ツアー(3大会)を開催。4月20日、後楽園ホール大会で長州、越中と組んでベイダー、武藤、AKIRA組と対戦。13分9秒、藤波がドラゴンスリーパーでAKIRAに勝利。試合後のセレモニーでは前田日明、木村健悟、猪木が登場した。4月22日、博多スターレーン大会で越中、金本と組んでベイダー、佐野、藤原組と対戦。10分30秒、藤波がドラゴンスリーパーで佐野に勝利。4月23日、大阪府立体育会館・第2競技場大会でベイダー、長州と組んで越中、藤原、佐野組と対戦。8分9秒、藤波がドラゴンスリーパーで佐野に勝利。10月27日、ドラディションの後楽園ホール大会でマスカラス、武藤と組んでKAZMA人生、カブキ組と対戦。12分40秒、マスカラスがフライングボディアタックでKAZMAに勝利。10月29日、ドラディションの大阪南港ATCホール大会で長州、マスカラスと組んで越中、カブキ、AKIRA組と対戦。8分53秒、マスカラスがフライングボディアタックでAKIRAに勝利。

2018

18年6月23日、HEAT−UPのカルッツかわさき大会で田村和宏と組んで新井健一郎、ヒデ久保田組のタッグ王座に挑戦。12分20秒、田村がアンドレ(腕固め)で久保田に勝利。HEAT−UPユニバーサルタッグ王座を獲得した。7月22日、ドラゴンゲートの神戸ワールド記念ホール大会でヒロ斉藤、望月と組んで藤原、フジイ、富永組と対戦。14分34秒、藤波がドラゴンスリーパーで富永に勝利。8月27日、HEAT−UPの新木場1stRING大会で長井、定組を相手にタッグ王座の防衛戦。16分8秒、田村がアンドレで定に勝利。9月28日、仙台サンプラザホールで行われたみちのくプロレス主催の「昭和プロレスフェスタin仙台」で東郷、GAINAと組んで長州、ヒロ斉藤、人生組と対戦。9分51秒、人生の極楽固めにGAINAが敗れた。10月31日、HEAT−UPのとどろきアリーナ大会サスケ、大谷譲二組を相手にタッグ王座の防衛戦。15分16秒、TAMURAがムーンサルトプレスで大谷に勝利。

2019

19年5月19日、HEAT−UPの新百合トウェンティワンホール大会で兼平大介、大谷譲二組を相手にタッグ王座の防衛戦。21分46秒、兼平のstrike of the kneeにTAMURAが敗れて王座転落。

2021

21年4月16日、後楽園ホールで1年半ぶりにドラディションの興行を開催。メインの長井の30周年記念試合で越中詩郎、高岩竜一と組んで長井満也、村上和成、魔界2号組と対戦。13分23秒、長井のハイパーニー空牙に高岩が敗れた。9月17日、HEAT UPのとどろきアリーナ大会でTAMURAの二冠王座に挑戦。16分18秒、コブラツイストで勝利。HEAT−UPユニバーサル王座とPWL世界王座を獲得した。12月26日、HEAT UPの新百合トウェンティワンホール大会でTAMURAを相手に防衛戦。17分52秒、初公開のドラゴンバスターで勝利。

2022

22年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会で19人参加のKOPW2022進出権争奪ニュージャパンランボーに18人目の選手としてサプライズ登場。背中に50と大書きされた「50周年記念ガウン」を羽織って入場し、バッドラック・ファレにドラゴンスクリューをくらわせ、真壁刀義にもドラゴンスクリューからの足4の字固めで退場に追いこんだ。最後は矢野通に押さえこまれて退場した。1月9日、2冠王座を返上。3月1日、新日本プロレスの旗揚げ50周年記念となった日本武道館大会のメインでオカダ・カズチカ棚橋弘至と組んで鈴木みのる、ザック・セイバー・ジュニア、藤原喜明組と対戦。18分12秒、オカダがレインメーカーで鈴木に勝利。4月10日、両国国技館でのZERO1の20周年&21周年記念大会で越中詩郎、LEONAと組んで藤原喜明、船木誠勝、アレクサンダー大塚組と対戦。10分18秒、藤波がドラゴンスリーパーで大塚に勝利。4月28日、新型コロナウイルスのPCR検査で陽性と判定され、出場を予定していた福岡PayPayドーム大会(5月1日)を欠場すると新日本プロレスが発表した。11月23日、GLEATの後楽園ホール大会でカズ・ハヤシと対戦。7分33秒、コブラツイストで勝利。12月1日、ドラディションの国立代々木競技場・第2体育館大会で棚橋弘至と対戦。11分44秒、ハイフライフローに敗れた。
スクラップブック
飛龍革命(1988年4月22日 沖縄・奥武山体育館大会での控室にて)
IWGP王者の猪木はベイダーとの2連戦が決定。この日程に藤波が異議を唱えたことから端を発し、藤波の「飛龍革命」がスタート。目標は「猪木越え」だった。
藤波「2連戦は無理。もう何年続くんだ。何年これが」
猪木「だったら破れよ。なんでおれにやらすんだ、おまえ」
藤波「だったら、やりますよ、おれが」
猪木「遠慮することはないって。リング上は闘いなんだからよ。先輩も後輩もない。遠慮されたら困る。なんで遠慮するんだ」
藤波「これは新日本プロレスの流れじゃないですか。そうじゃないですか」
猪木「じゃ、力でやれ、力で」
藤波「やります」
猪木「やれるのか、おい」
直後に、猪木が張り手。藤波も張り手を返す。藤波はハサミを出して自分の前髪を切る。
・・・・・・この禅問答のような解読不能なやり取りと、突然の髪切りで印象的なシーンとなった。5月2日に左足骨折のアクシデントで猪木は王座返上。5月8日にベイダーとの王座決定戦で藤波が王者となった。5月27日に長州と無効試合のため王座預かりとなったが、6月24日に長州に勝利し、藤波は再び王座を獲得。6月26日にベイダーを破り、ついに8月8日に防衛戦で猪木と対戦。時間切れで引き分け、シングルでの連敗を7で止めた。この後、猪木はIWGP王座に挑戦することはなかったが、完全な形での「猪木越え」はならなかった。
後日、藤波は「新日本をおれが変えなければという強い気持ちがあったからね。以前の自分なら猪木さんに殴られたらしょぼくれていたけど、あの時は無意識に殴り返した。猪木さんがよろめくほどだった。髪を切ったことに大きな意味はなかったけど、なにかアピールしなければと思っていた」と語った。


―― 藤波さんは、社長として神経をすり減らす日々だったと思います。
木村 神経使ったでしょうね。でも、こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、藤波さんはあんまり(社長に)向いてないような気がしましたよ。イチプレイヤーのほうがよかった。彼はホントに優しいからね。会社の社長は厳しいことを言わないといけないときもあるし、非情にならないといけないときもある。だから藤波さんもそうだし、俺なんかも向いてない。非情になれないもん。
―― 優しさが災いしたと。
木村 猪木さんのように非情になれる、身内すら裏切れるようなところがあったら、藤波さんはもっとすごいレスラーになってたと思うよ。センスや運動神経でいえば猪木さんに勝ってると思うから。猪木さんは優しいところもあったけどそれ以上に非情さがあった。藤波さんは優しいところのほうが大きかったから。
―― ただ、その優しさがあったから、これだけ長い間ファンに愛されてきたのかなとも思います。
木村 藤波さんは大分の田舎から、僕は四国の田舎から出てきたけど、彼にはやっぱり人に愛されるいいところがすごくある。藤波辰爾っていうのはプロレスファンの心にずっと残っていく存在なんですよ。向こうは迷惑だったかもしれないけど、そういう藤波辰爾というライバルがいて僕は本当に幸運だったと思います。
(週刊プロレス No.1563 木村健悟のインタビューより)


藤波辰爾「50年の名勝負数え唄〜WRESTLING JOURNEY〜」<8>ニューヨークのベルト奪取【中編】
(2021年9月10日12:00配信 スポーツ報知より)
 闘いの中で頭にあったのは試合直前に新間寿から言われた「何かやれよ」だった。
 「新間さんから言われて僕も『何かやりたい』っていうのがあったけど、試合前には思いつかなかった。試合をやっているうちに「そういえばスープレックスがあったな」と思い出した」
 思い出したスープレックスは、ゴッチの自宅で教えられた相手をフルネルソンに固めて投げる技だった。
 「試合の途中に思い出して、あの投げを強引に持っていけるんじゃないかと思った。ただ、練習では人形を投げただけで、実際の人間を相手に試したことはなかった。だからぶっつけ本番。だけど、やってみようってひらめいた」
 その時が来た。エストラーダのボディプレスを自爆させると、背後に回った。フルネルソンで羽交い締めにすると一気に投げた。ブリッジで固め3カウントを奪った。ぶっつけ本番で繰り出したドラゴンスープレックスでベルトを獲得した。体重83キロ。細い体を弾ませリングで喜びをさく裂させた。
 「もう、うれしくて。頭の中は真っ白だった。ただ、ドラゴンスープレックスは自分も今までやったことなかったから、後で新聞を見て「あぁ、こんな形だったんだ」って分かったぐらいだった。今、思うと何で無難なジャーマンをやらなかったのか、とも思う。でも、気が付いたら羽交い締めにしていた。考える余地はなくて、そのまま投げていた。これぞ運命だね。それだけ必死だった。ただ、後から写真を見ると、エストラーダは、頭からマットに突き刺さっていた。よくケガしなかったなって思うけど、あの時は相手のことは考えなかった」
 満員のMSGは、世界で初めて公開されたドラゴンスープレックスに静まり返った。
 「MSGが水を打ったように静まり返ってね。反応がないから不安だった。でも、しばらくすると、スタンディングオベーションで大きな拍手がわき起こった。振りかえると、試合前に新間さんの「何かやれよ」のひと言がなかったら漠然と試合をこなしたかもしれない。あの言葉があったから、自分で何ができるかを考えたし、あれがなかったらドラゴンスープレックスに結びつかなかった」


藤波辰爾「50年の名勝負数え唄〜WRESTLING JOURNEY〜」<9>ニューヨークのベルト奪取【後編】
(2021年9月17日12:00配信 スポーツ報知より)
 初めてのニューヨークでベルトを奪取した藤波辰爾。観客が静まり返るほどの衝撃を与えたドラゴンスープレックスは、仲間のレスラーたちを刺激した。
 「当時、米国ではパイルドライバーとかいくつか危険な技が禁止されていた。羽交い締めにしたまま、後ろに投げるドラゴンスープレックスは、相手がケガをすると他のレスラーが感じたようだった。ベルトを取って、他のレスラーは、どうやって歓迎してくれるだろうって楽しみにして控室に戻ったら、これが針のむしろ。シーンとしてみんなが目を合わせようとしない。「お前、やっちゃいけない技をやったな。相手をケガさせる気か!」っていう怒りに満ちた無言の視線が矢のように突き刺さってきた。選手生命を危うくする技は暗黙で避けていた。モニター見てみんな歓迎はしない。ブルーノ・サンマルチノ、ゴリラ・モンスーン、スーパースター・ビリー・グラハム、ペドロ・モラレス・・・。すべてのトップ選手ににらまれた。あれは、きつかった。居場所がなくて汗をふいただけで、すぐに控室を出た」。
 当時のニューヨークを代表するすべてのスター選手から厳しい視線と無言の圧力がのしかかった。ただ、一人だけ称賛してくれた人物がいた。プロモーターのビンス・マクマホンだった。
 「ビンスが「素晴らしい試合だった。よかった」と握手して褒めてくれてね。あれが救いだった。ビンスまでも選手と同じように避けていたら僕のMSGはない。あれがきっかけで毎月ニューヨークに呼ばれた。当時のニューヨークは、ビリー・グラハムが王者でマッチョでいかつい選手が看板を張り続けてきた。マクマホンもそういう時代からスタイルを改善しなきゃいけない時期だと考えていた。だから、自分のスタイルを評価してくれた。それが証拠に、自分がベルトを取った直後に、ボブ・バックランドがグラハムを破ってチャンピオンになった」


37年ぶりの歌声・・・藤波辰爾の“伝説の珍盤”『マッチョ・ドラゴン』ってどんな曲?
(2022年9月9日17:02配信 Number Webより)
『マッチョ・ドラゴン』といえば、1985年11月に発売されたプロレスラー藤波辰爾のデビューシングルレコードであり、当時の入場テーマ曲。藤波による小学生を彷彿とさせるインパクト抜群の歌声が、発売から40年近く経った今でもプロレスファンや一部好事家に愛され続けている伝説の一曲だ。
 その『マッチョ・ドラゴン』が、なぜ突然ツイッターのトレンド入りしたのかと言うと、9月10日(午後11時30分)に放送されるNHKの『1オクターブ上の音楽祭』という番組で藤波自身が37年ぶりに伝説の歌声を披露することが発表され、それが一気に拡散されたためだった。
(中略)
 『マッチョ・ドラゴン』はオリジナルではなく、ガイアナ共和国出身のレゲエ歌手エディ・グラントが1984年に発表した『Boys in the Street』にオリジナルの歌詞を付けてカバーしたもの。当時、日本の歌謡界では洋楽のカバーが流行っており、『マッチョ・ドラゴン』も作詞は森雪之丞、編曲は若草恵というヒットメーカーを起用。しっかりとしたMVも製作され(B面の『ドラゴン体操』にもMVがある)販売元のポリドールレコードも力を入れていたことがわかる。
(中略)
 またアナログレコード版発売の数年後、一度は藤波自身がCD化の話を断ったこともあり、1999年にキングレコードから発売されたオムニバスアルバム『格闘音楽大全プロレスQ 第5回 プロレス紅白』に収録されるまで、長らく“封印”された幻の曲でもあったのだ。
 藤波が『マッチョ・ドラゴン』を封印していたエピソードとして、発売当時のタッグパートナーである“稲妻戦士”木村健悟は、こんな証言をしている。
「当時、試合会場でお客さんを入れる前、レスラーはリングの周りに集まってトレーニングしてたんだけど、リングアナウンサーの席には選手の入場曲を入れる機械が置いてあるわけよ。そこに誰かが面白がって『マッチョ・ドラゴン』の歌入りテープを持ってきて流し始めたら、藤波が血相変えて飛んできたからね。それで藤波は機械からテープを引っ張り出して、ゴングを鳴らすための木槌で叩いて割ったから。歌を流せないようにカセットテープごとぶっ壊したんだよ(笑)。頭から湯気を立てながら、それはもうもの凄い形相だったね」
(中略)
当時、新日本プロレスの各会場では、藤波と木村がそれぞれ即売サイン会を行い、リング上のライバル同士がレコード販売でも競い合っていた。この勝負、歌のうまさなら間違いなく木村健悟の勝ち。しかし現実は違った。
「悔しいことに、俺のレコードより藤波のほうが売れるんだよ。あんな“雑音”のほうに行列ができてさ(笑)。あんなの買ってどうするんだと思ったけどね。だいたい、夜寝るときに『マッチョ・ドラゴン』聴いて眠れるか? 俺の曲を聴いたほうが心が安らかになるよ!あれが俺の歌より売れるなんて、ふざけるなって!」


【前田日明氏コラム】俺の蹴りを全部受けられたのは藤波さんだけ
(2022年9月15日16:00配信 東スポWebより)
 1986年4月にアンドレ(ザ・ジャイアント)との一騎打ちでノーコンテストになって以降、新日本の選手も外国人選手も妙に腰が引けて、なんだか完全燃焼できない試合が続いていた。
 ユニバーサル(レスリング連盟=UWF)のような人脈も資金もない団体が、図らずも新しいことをやろうと思って、なんとなく形になったものができた。それを「新日本の選手とやったらもっとすごいものになるんじゃないか」と思っていたんだけど、誰もやらないし、誰もできなかったんだよね。
 そんななかで、86年6月12日(大阪城ホール大会)に藤波(辰爾)さんとの試合を迎えた。この対戦は藤波さんが大流血したシーンが有名だけど、あの時はコーナーにバーンと行って、ただの飛びヒザじゃつまんないなと思って俺が前転して足を開いて蹴り下ろしたんだ。鎖骨のあたりを狙ったんだけど、藤波さんが逆方向に避けてしまって顔面に当たってしまった。俺も最初は鎖骨を狙ったのに、何で流血してるんだろうと思ったんだよね。
 俺はいつもと同じことをやっただけだけど、やっぱり藤波さんがすごかった。世界中全部含めて、あの時の試合と同じように俺の蹴りを全部受けられた選手、誰もいない。藤波さんしかできなかったよ、あれは。藤波さんが自分勝手な俺にやれるだけやらしてくれてさ。でもあれを見て他の選手は余計ビビったんじゃないかな。「前田とはやりたくないな」って。
 試合は俺のニールキックと藤波さんのジャンピングキックの相打ちになって両者KOという決着になった。試合後に俺は「無人島だと思ったら仲間がいた」って言ったんだけど、その言葉通りですよ。藤波さんがたたえられるべき試合ですよ。
 この試合は、その年のベストバウトにも選ばれた。藤波さんは長州(力)さんとの試合が「名勝負数え唄」と呼ばれたじゃない。だから俺との試合もそうやって続いていくのかと思ったけど、あの1試合で終わった。でも確かにもう一度、同じ試合はできない。マッチメークする側も、あんまりやると藤波さんが壊れちゃうと思って、やらせられないんだろうね。
 藤波さんはいまも現役を続けていて、体もそんなに落ちてない。藤波さんならではだな、と思うよ。あの人は(アントニオ)猪木さんと並ぶプロレスの天才。両巨頭と同じレベルはもう二度と出てこないだろう。キング・オブ・スポーツをやった人たちですよ。練習量もあるし、プロレスに対する取り組み方もあるし、他の選手とは全然違ったよね。