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ヒロ・マツダ

本名:小島泰弘
1937年7月22日
神奈川県横浜市鶴見区出身
188cm 105kg
タイトル歴:NWAジュニア 南部タッグ NWAタッグ アジアタッグ 北米タッグ
得意技:コブラツイスト ジャーマンスープレックス ジャパニーズ・レッグクラッチホールド

荏原高校の野球部で活躍。空手の練習もしていた。57年、日本プロレスに入門。先輩の吉原功から「アマチュアを習ってこい」というアドバイスを受け、早稲田大学や中央大学のレスリング部で練習し、さらには日本拳法空手の山田辰雄にも師事した。60年4月に日本プロレスを離脱しペルーに遠征。製薬会社に勤めていた親戚がペルーに住んでいた関係があった。エルネスト・コヒマの名で活躍。その後、メキシコで活躍した後、61年8月にアメリカのテキサス州ヒューストンに進出。カンザスシティの団体に転戦した時に、ヒロ・マツダに改名。62年12月にフロリダに転戦。63年11月にオハイオ州コロンバスにいたカール・ゴッチを訪ね、3ヶ月間特訓。ジャーマンスープレックスを習得した。64年11月、フロリダ州タンパでダニー・ホッジを破り、NWAジュニア王座を獲得。65年からデューク・ケオムカと共にNWAフロリダエリア(CWF)の株の大部分をエディ・グラハム、クレランス・ルットレルから買い、プロモーターとしても活躍しはじめる。同年12月、テネシー州ナッシュビルで猪木と組んで南部タッグ王座を獲得。66年1月、猪木と組んでNWA世界タッグ王座を獲得。5月、日本プロレスに登場。日本人初のジャーマンスープレックスホールドを披露した。シューズをはかないスタイルで、関節技主体のファイトスタイルを展開。5月28日に吉村と組みアジアタッグ王座を獲得。7月、デューク・ケムオカと組んでNWAタッグ王座を獲得。その後、吉原功と国際プロレス設立に動く。69年1月5日、大阪府立体育会館での国際プロレス旗揚げ戦でダニー・ホッジのNWAジュニア王座に挑戦。60分時間切れ引き分けに終わった。2シリーズを終えて、国際プロレスはブッカーをグレート東郷に変更したため、その後は国際プロレスから離脱した。75年6月、フロリダ州でケン・マンテルを破り、NWAジュニア王座を獲得。12月に全日本プロレスに来日。12月11日、全日本プロレスの日本武道館大会(力道山13回忌大会)でマイティ井上を相手にNWAジュニア王座の防衛戦。2対1で勝利して防衛に成功。78年12月、プレ日本選手権の優勝戦で猪木と対戦し敗れる。79年4月にマサ斎藤と組んで坂口小林組を破り北米タッグ王座を獲得。セミリタイア後はNWA、WCWでブッカーとして活躍。本拠地のフロリダ州タンパではジムを開設。ハルク・ホーガンディック・スレーターポール・オンドーフロン・シモンズらを育てた。高千穂マサ斎藤剛竜馬らの遠征時に世話をした。90年12月26日、新日本プロレスの浜松アリーナ大会に出場し、木戸修とエキシビションマッチを行った。99年11月27日、肝臓ガンのため死去。


「ひと言でいうと、ひじょうに厳格なトレーニングでした。ヒンズー・スクワットとかプッシュアップとか基本的なメニューが何日も何日もつづき、なかなかリングには上げてもらえませんでした。レスリング以前の基礎トレーニングを反復させることで、彼は私がどのくらい真剣にプロレスと取り組んでいるかを試していたんですね。ミスター・マツダは、これと思った選手しかコーチしませんから」
−−厳格なトレーニング、ですか。
「たったひとつだけ救われたのは、スクワットでもシットアップでも、いつも彼が私と同じだけのメニューをいっしょにこなしてくれたことです。自分にできないことは他人にも要求しない。彼はそういう人物です。でも、私よりはるかにトシをとっている彼がプッシュアップを200回やったら、私も当然、同じ回数のプッシュアップをやらされましたよ(笑)。ミスター・マツダは私に、プロレスラーが選ばれた人材の集まりなのだ、という感覚を植えつけてくれました」
(週刊プロレスNo.458 レックス・ルガーのインタビューより)
― ご自身が実際に肌を合わせてみて一番強かったのは誰ですか?
ホッジ そうだなぁ、やっぱりヒロ・マツダだと思うよ。
― ヒロ・マツダですか!
ホッジ アマでもプロでも彼は凄いレスラーだと思うよ。彼とは何度も闘ったけど、いつでもコンディションが抜群だった。彼は本来なら私の階級なのにヘビー級で闘い、ルー・テーズとも何度も試合していたよね。それは凄いことだよ。
(kamipro No.93 のダニー・ホッジのインタビューより)

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