レスラーノート

平田淳嗣

本名:平田淳二
1956年12月20日
神奈川県平塚市出身
183cm 115kg

タイトル歴
IWGPタッグ
アジアタッグ
英連邦ミッド・ヘビー
得意技
魔神風車固め (魔界1号の時には魔界風車固め)

高校を2年で中退し、上京。住みこみの新聞配達をしながらボディビルで体を鍛える。全日本プロレスに入門したが、短期間で退団。いったん実家に戻るが、再び上京し新聞配達をしながらボディビルを続ける。78年5月、新日本プロレスに入門。入門後、すぐにアントニオ猪木の付き人になる。8月26日、飯山市体育館の藤原喜明戦でデビュー。デビュー後は坂口の付き人になる。82年11月、保永昇男と共にメキシコ遠征に出発。83年10月にカナダ・カルガリーに転戦。カルガリーではモヒカン刈りにしてインディアンレスラーのソニー・ツー・リバーを名のった。11月18日にザ・コブラを破り英連邦ミッド・ヘビー級王座を獲得。 84年8月に帰国してストロングマシンに変身。9月7日、福岡スポーツセンター大会での帰国第1戦でアントニオ猪木と対戦。卍固めをしかけられたところで若松が乱入してノーコンテスト。将軍KY若松をマネージャーに、マシン軍団として活躍。9月13日、宇部大会でストロングマシン2号と初タッグ。10月3日、ストロングマシン3号と新日本道場を襲撃。 85年1月1日、後楽園ホール大会でストロングマシン4号が出現。4月18日の両国国技館大会で藤波辰爾と対戦。正攻法のスタイルで真っ向勝負をしたが、若松のパウダー攻撃がマシンの顔面に誤爆し、最後はドラゴンスープレックスに敗れた。この試合の誤爆をきっかけにマシン軍団が仲間割れ。5月10日、正義の心に目覚めたマスクマンとしてスーパー・ストロングマシンに改名し、他のマシン軍団と抗争。5月17日の熊本大会で、乱入してきたマシンに対して藤波が「おまえは平田だろ!」と、マイクアピール。正体が平田であることはファンの間では公然の秘密だったが、生中継中に言ってのけた藤波の発言は周囲に大きな波紋を呼んだ。公然の秘密を、あたかもたった今気づいたかのように芝居がかって発言したため、さらに反響が大きかった。正規軍入りを期待しての発言との見方もあるが、結局マシンはマスクを脱がなかった。6月4日、盛岡大会での高野俊二戦で魔神風車固めを初公開。8月29日、ヒロ斉藤、高野俊二とカルガリー・ハリケーンズを結成し新日本プロレスを離脱。 ジャパン・プロレスに合流し、86年4月より全日本プロレスに参戦。5月2日、後楽園ホール大会でジャンボ鶴田と初シングル。16分48秒、ラリアットがレフリーに当たってしまい反則負けに終わった。6月12日、日本武道館大会で天龍源一郎のUN王座に挑戦。15分17秒、首固めにフォール負け。10月30日に阿修羅原と組んでアジアタッグ王座を獲得した。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦に阿修羅原と組んで参戦。3戦(3敗)して負傷を理由に欠場。リーグ戦は全敗に終わった。 87年6月に新日本プロレスに復帰。 89年3月16日、横浜文化体育館大会でジョージ高野と組んで長州力マサ斎藤組のIWGPタッグ王座に挑戦。試合終盤、斎藤と高野の場外戦となり、マシンがコーナートップからダイブしてマサがダウン。その隙に斎藤がリングに上がり、19分20秒、リングアウト勝ち。IWGPタッグ王座を獲得した。 90年1月にブロンド・アウトローズの一員となり、12月にはヒロ斉藤と組みIWGPタッグ王座を獲得。 92年3月30日、チーム名をアウトローズからレイジングスタッフに改名。7月31日、札幌中島体育センター大会で長州のIWGP王座に挑戦し、敗れた。 93年から94年にかけてWARで活躍した。93年10月、レイジングスタッフが解散。 94年1月4日、東京ドーム大会で後藤達俊と対戦。8分51秒、ダイビングヘッドバットで勝利。10月、蝶野正洋と組んでSGタッグリーグ戦に参戦。10月30日、両国国技館大会での優勝決定戦で武藤組と対戦。試合中に蝶野と仲間割れ。マシンがマスクを脱いで素顔になり、蝶野にラリアット。蝶野が退場してからも1人で戦い続けたが、武藤のムーンサルトプレスに敗れた。試合後、「しょっぱい試合をしてすいません」とマイクで観客に詫びた。その後、素顔の平田として出場。 95年7月13日、札幌中島体育センター別館大会での王座決定戦で、橋本と組んでスコット・ノートンマイク・イーノス組と対戦。16分46秒、橋本が垂直落下式ブレーンバスターでイーノスに勝利。IWGPタッグ王座を獲得した。9月25日、大阪府立体育会館大会で武藤のIWGP王座に挑戦。ライガーボムやダイビングヘッドバットで追いこんだが、14分53秒、雪崩式フランケンシュタイナーからのムーンサルトプレスに敗れた。 99年5月、新日本プロレス選手会長に就任した。 00年10月20日、福岡国際センター大会で6年ぶりにスーパー・ストロングマシンになってT2000マシンと対戦。5分56秒、魔神風車固めで勝利した。10月29日、神戸ワールド記念ホール大会でT2000マシンと対戦。4分41秒、ダイビングヘッドバットで勝利。 01年2月、目の負傷(上斜筋および下直筋麻痺)のため長期欠場。 02年8月8日の広島大会で星野総裁が率いる魔界倶楽部のメンバー、魔界1号として出場。再びマスクマンになった。9月22日、なみはやドーム大会で新日本対魔界倶楽部4対4シングル勝ち抜き戦に次鋒として参戦し、先鋒の蝶野正洋と対戦。38秒、魔界風車固めで勝利。次鋒の天山広吉と対戦。15分時間切れ引き分けに終わった。勝ち抜き戦は、セコンドの村上和成の挑発に気を取られた大将の永田に、背後から大将の安田が右ストレートを決めて勝利。納得のいかない新日本プロレス側が8人タッグ戦を要求。安田忠夫、柳澤龍志、魔界2号と組んで永田裕志、天山広吉、蝶野正洋、中西学組と対戦。5分24秒、永田のワンハンドクラッチ式エクスプロイダーに魔界2号が敗れた。11月22日から始まったトライアスロン・サバイバーに柳澤龍志、安田忠夫と組んで参戦。1勝4敗に終わった。 03年3月8日、平塚総合体育館大会で高山善廣と対戦。4分46秒、ジャーマンスープレックスに敗れた。4月26日、別府ビーコンプラザ大会でマイク・バートンと対戦。7分10秒、バートンバスターに敗れた。8月24日、後楽園ホール大会で井上亘と対戦。6分29秒、魔界風車固めで勝利。10月15日から始まったG1タッグリーグに安田忠夫と組んで参戦。3勝3敗1引き分けに終わった。 04年2月29日、名古屋レインボーホール大会でスーパー・ストロング・マシンとしてジョシュ・バーネットと対戦。3分16秒、ヒールホールドに敗れた。5月23日、後楽園ホール大会で魔界1号として矢野通と対戦。6分36秒、レフリー暴行で反則勝ち。5月30日、幕張メッセ大会で魔界1号として西村修と対戦。7分10秒、逆さ押さえこみにフォール負け。8月14日、両国国技館大会で魔界1号としてヒロ斉藤と対戦。7分34秒、エビ固めでフォール勝ち。9月3日、全日本プロレスの横浜文化体育館大会に登場し、TAKAみちのく率いるRO&Dに痛めつけられていたを救出し、嵐にマスクを手渡した。その後、全日本プロレスでマスクマンのスーパー・ラブマシンとしてラブマシン・ストームやミニ・ラブマシン(グラン浜田)らと組んでRO&Dと抗争。タッグ戦では相手をリストラボックスに閉じこめて分断する戦法を使った。9月15日、魔界倶楽部が解散。9月17日、全日本プロレスでスーパー・ラブ・マシンとして登場し、ラブ・マシン・ストームとタッグを結成。11月21日から始まった世界最強タッグ決定リーグ戦にラブマシン・ストームと組んで参戦。リーグ戦は2勝1敗1引き分けに終わった。12月5日、全日本プロレスの両国国技館大会でスーパー・ラブマシンとして小島聡と対戦。16分52秒、ラリアット2連発に敗れた。この試合後、ブラック・ストロング・マシンとして蝶野率いるブラック・ニュージャパンの一員となり新日本プロレスに復帰。 05年、現場責任者に就任。7月13日、山形市総合スポーツセンター・サブアリーナ大会で後藤達俊と対戦。6分54秒、DDTで勝利。10月24日、長州により現場監督を解任された。10月28日、博多スターレーン大会で山本尚史と対戦。5分18秒、魔神風車固めで勝利。 06年4月20日、福知山三段池公園総合体育館大会でNEW JAPAN CUPに参戦し、1回戦で長州力と対戦。6分46秒、ラリアットに敗れた。4月26日、鹿児島アリーナ大会で飯塚高史と対戦。10分16秒、ラリアットで勝利。5月13日、久しぶりにスーパー・ストロングマシンとして出場。7月7日、明石市立産業交流センター大会で宇和野貴史と対戦。6分34秒、ダイビング・セントーンで勝利。9月8日、千葉公園体育館大会で宇和野貴史と対戦。9分39秒、魔神風車固めで勝利。9月16日、久喜市総合体育館大会で宇和野貴史と対戦。8分45秒、ラリアットで勝利。 07年4月7日、久喜市総合体育館大会で平澤光秀と対戦。6分52秒、ダイビング・セントーンで勝利。5月20日、アクロス福岡大会で本間朋晃と対戦。11分1秒、魔神風車固めで勝利。 09年9月にはスーパー・ストロング・マシンとして永田井上亘平澤と共に青義軍を結成。12月23日、ディファ有明でのノアの丸藤プロデュース興行のメインでスーパー・ストロング・マシンとして登場し、スーパー“S”マシン(杉浦)と組んで丸藤、青木組と対戦。13分28秒、“S”マシンの魔神風車固めで青木に勝利。 10年10月にはキング・ファレと組んでG1タッグリーグ戦に出場したが、リーグ戦敗退。 11年8月27日に日本武道館で行われた「ALL TOGETHER」でのバトルロイヤルを最後に長期欠場。 13年3月3日、後楽園ホール大会で久しぶりに登場し、8人タッグ戦に出場した。 14年4月2日の後楽園ホール大会での6人タッグ戦を最後に出場が途絶えた。 18年4月12日、新日本プロレスが公式ホームページで引退を発表。6月19日、後楽園ホール大会のメインで「スーパー・ストロング・マシン引退記念試合」として、スーパー・ストロング・マシン・エース、スーパー・ストロング・マシン・バッファロー、スーパー・ストロング・マシン・ジャスティス、スーパー・ストロング・マシン・ドン、スーパー・ストロング・マシン・No.69組対内藤EVILSANADABUSHI高橋ヒロム組との試合に、将軍KYワカマツと共にセコンドとして参戦。場外でラリアットを内藤に決めた。15分33秒、No.69が魔神風車固めでBUSHIに勝利。試合後に引退セレモニーを行なった。 19年4月10日、息子のストロングマシーン・Jがドラゴンゲートの後楽園ホール大会でデビューした。



スクラップブック
―― ストロング・マシンという名前の由来についておもしろい説がありまして。マネージャーの若松さんが記者にマスクマンの名前を聞かれて。思わず言った言葉がそのまま名前になったという話ですが・・・。
マシン その通りです(笑)。名前は考えてもなかったし、つけようとも思ってなかったんです。謎のマスクマンでいいじゃねえかって思ってたんですね。でも囲みの会見があって俺はしゃべらなかったんですけど、名前を聞かれたんですね。困ってたらワカマツさんが「ストロングなマシンだ」って(笑)。そのときの「ストロングマシン」っていうのがすごい気に入って、「ワカマツさん、それにしましょう」って。ワカマツさんは名前のつもりで言ったんじゃないんだけど、それをもらいまして。
(週刊プロレスNo.1464 ストロング・マシンのインタビューより)


マシン デビューして5年目で、アントニオ猪木とメインイベントでシングルマッチ。自分の思うような試合ができた。こんな素晴らしいことはない。もう絶対にマスクは離せないです。あれが素顔だったら延髄斬り一発で終わっていたかもしれない。ビデオはまだそんなに普及してない時代だから、友達に生中継を見てもらって試合後、ホテルに帰って「どうだった!?」って(笑)。
― いくら“凱旋シリーズ”とはいえ、相手はアントニオ猪木ですからのまれてもおかしくありません。
マシン 遠慮しちゃう。それがまったくなかった。俺はお前のライバルだという感じです。自由気ままにやりたい放題できたのは、すごく不思議だった。カナダで自信はつけてましたけど、それだけが理由じゃない。マスクの魔力ですよ。
(週刊プロレス No.1697より)


ストロングマシン2〜4号の正体について
 その後、このマスクマンは増殖を繰り返し、マシン軍団を形成。その正体については諸説あるが、3人目のマシンとしてフィル・ラファイヤー(ダニー・クロファット)が1度だけ乱入したこともあった。
「増殖したのも俺が関知するところではないですね。若松さんが考えたのかどうかは知らないけど、パートナーがいなければマッチメーク上、シングルマッチしかできないですから。フィルはカルガリーで仲が良かったから、面倒を見てやりたかったんですよ。それで誘ったんだけど、あの時はたまたま体調を崩していてね。痩せすぎちゃって、とても戦力にならないから、あれだけで終わっちゃった。だから、何号でもない(笑)。正式メンバーは2号が韓国の力抜山、3号がヤス・フジイ、4号が何とかアティサノエという小錦(現在はタレントのKONISHIKI)の兄弟の長兄。猪木さんと戦ったアノアロ・アティサノエのお兄さんですよ。フジイさんがハワイに住んでいたというコネクションもあって、その人が4号になったんです。プロレスはあまりできなかったけど、ゴツいし、力は強いし、置いとくだけでもよかったから」
(Gスピリッツ Vol.29 ストロングマシンのインタビューより)


【新日】S・S・マシンが引退セレモニー 将軍KY若松も駆けつける
(東スポWeb 2018年6月20日より)
 1980年代から活躍したスーパー・ストロング・マシン(年齢不詳)が19日、新日本プロレスの後楽園ホール大会で引退セレモニーを行った。
 選手として引退試合のリングに上がることこそかなわなかったものの、引退記念として行われたマシン軍団とロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンの10人タッグ戦にセコンドとして登場。さらに、なんとデビュー当時からマシン軍団を率いたマネジャーの将軍KY若松(76)も援軍に駆けつけた。
 チームのピンチに立ち上がったマシンは、場外で内藤哲也(35)に豪快なラリアートを発射しアシスト。最後はS・S・マシン69(田口隆祐)がBUSHIに魔神風車固めを決め、マシン軍団が勝利を収めた。
 その後の引退セレモニーでは若松、ヒロ斎藤、魔界2号、村上和成、柴田勝頼、井上亘、永田裕志、本隊の選手らから花束を贈呈された。
 マシンは「生涯現役でと思ってましたが、リングで受け身を取れるような状態ではなくなってしまいました。なぜ引退するのか。それはケジメです。今まで応援してくださったファンの皆さまに最後のごあいさつをしたいと思い、決断しました。こんなに多くのユニットに参加したのは、私ぐらいじゃないですかね。全部が楽しいユニットでした。プロレス人生に全く悔いはありません。やりきった、という感じです」とあいさつした。
 引退の10カウントゴングを聞くと、最後に「もう一人、大事な人に感謝の言葉を送りたい。1月25日、28年間連れ添った妻・マサミが天国に旅立ちました。天国の妻へ、感謝の言葉をささげたいと思います。マサミ!ありがとう!」と家族への言葉を残してリングを去った。


S・S・マシン本人が語る『お前、平田だろ!』事件 覆面にこだわった理由は「会社への不信感」
(2023年5月6日11:01配信 東スポWEBより)
 あの日、あの瞬間、当事者は何を思っていたのか。マット界を騒がせた事件、名勝負、レスラーを再検証する「プロレス紀行」。今回は1985年に熊本で起こった「お前、平田だろ!」事件の真相に迫る。藤波辰巳(現・藤波辰爾)が突発的に発したこのセリフは伝説の迷言として今でも語り継がれている。突然、宿敵に正体をバラされてしまったスーパー・ストロング・マシンはどんな心境だったのか。38年の時を経て平田淳嗣氏(66)が当時の葛藤を明かした。
 40年ほど前のセリフなのに今でもよく耳にする。「お前、平田だろ!」は「こんばんは、ラッシャー木村です」と並びプロレス界の二大迷言として知られる。それは85年5月17日の新日本プロレス・熊本大会で起こった。
 藤波はIWGPトーナメント1回戦勝利後、マシンと仲間割れしていた将軍KYワカマツに襲われた。そこに藤波との一騎打ちを熱望していたマシンが割って入り、ワカマツを蹴散らし、藤波を救助。ところが藤波はマイクを握るや「マシンよ、お前の挑戦を受けてやる。その代わりにマスクを脱げ。お前、平田だろ!」と言い放ったのだ。
 正体をバラされたマシンは自らマスクを脱ぎ捨てたが、タオルで顔を隠したため素顔をさらすことはなかった。それでも前代未聞の出来事に場内は騒然。これが事件の顛末だ。現役時は機械仕掛け≠セったため多くを語れなかった平田氏が、当時の心境を明かしてくれた。
 「まさかだよ。アドリブだから。藤波さんには突発的な言葉はよくあった。でも正体を暴露するなんてありえないでしょう。思わず受け身をとろうとしたよ(笑い)」
 藤波は「一番やっちゃいけないこと」と深く反省しつつも「ファンの99%がマシンを平田だと決めつけている」と主張。前年にカナダ・カルガリーで消息を絶った平田がマシンであることは承知の事実だったというが、本当にそうだったのか。
 「そんなことはない。身内とかはともかく、他はみんな外国人だと思っていたよ。俺もしゃべらなかったしね。だからあの発言は・・・」
 マスクマン最大の売りは正体不明の「ミステリアスさ」。そんな商売道具≠宿敵の勇み足によって失ったのだから、たまらない。今後ネタにされることは明白で、こうなった以上は素顔で戦うほうが気楽だったろう。それでも覆面をかぶり続けた。なぜか。
 「会社がマスクを脱がそうとするのなら、意地でもマスクを脱ぎたくなかった。藤波さんへの怒りとかはなく、あったのは会社への不信感。まだ海外にいたかったのに急に戻され、キン肉マンの話が出たんだ。それからずっと会社に振り回されていたから。そうはいくかと」
 キン肉マンは大ブームを巻き起こしたタイガーマスクの二匹目のどじょう≠狙ったもので、海外で実績を積み上げている平田に白羽の矢が立った。マスクまで出来上がっていたが、テレビ局の事情でボツになり、平田は急きょ目出し帽姿の謎のマスクマンに変身。その後、マシンになる。
 「キン肉マンはすごい人気だったけど、ピンと来なかった。そもそも俺はそんなに筋肉があるワケじゃないのに・・・。引っかき回されて、会社の望み通りマスクを脱いで正規軍に入ったら、藤波さんのかませ犬になることは目に見えていたから」
 翌18日の後楽園ホール大会ではアントニオ猪木に「お前は平田だ!」と突っ込まれ、観内はさらにヒートアップ。だが、マシンも負けていなかった。マスクを脱ぎ捨てたが、中にもう一枚マシンのマスクをかぶっていたのだ。「痛快だったよ。リングでは絶対に笑わないあの猪木さんが俺を見た瞬間、ニタッって笑った。あの時の猪木さんの表情は今でも忘れられない。勝ち誇ったよ」
 そんなマシンが覆面を脱いだのは94年10月30日の両国大会だ。蝶野正洋とSGタッグリーグ決勝戦に臨んだが、タッチを拒否するなど不可解な動きを見せた蝶野と仲間割れして敗北。マシンは脱いだマスクを蝶野に叩きつけ「しょっぱい試合してすみません!」と今度は自らがマット史に残る迷言を残した。
 「あれは蝶野がマシンのことを明らかにバカにしていたから、衝動的に脱いでしまったんだ」
 その後はしばらく素顔の平田で戦ったが、再びマシンに戻って2018年に引退。翌年には息子がマシンの遺伝子を引き継ぎ「ストロング・マシンJ」でデビューした。現在はプロレス界を離れ、のんびりと第二の人生を送っている。プロレス生活40年。「お前、平田だろ!」の反響はすさまじく悲しきマスクマン≠フイメージが最後までつきまとった。そんな覆面人生は本当に幸せだったのか。
 「カナダから帰ってから腹立たしいことばかりだった。でも、いろいろあったけどIWGPにまで挑戦させてもらったし、マシンのまま引退できた。それはそれで全部いい思い出だよ。『俺は平田だ!』というところを見せれたんじゃないかな」