レスラーノート

橋本小助

本名:橋本祐卓
1952年1月14日
滋賀県大津市出身
165cm 80kg
※写真左が橋本小助。


学生時代は器械体操とアマレスを経験。73年暮れに新日本プロレスに入門。74年9月21日、福岡県吉井町の田主丸青果市場大会での魁勝司戦でデビュー。75年8月、メキシコのUWAに遠征。デビューから23連敗し、1勝もできないままのメキシコ遠征となった。ハシ・マサタカの名で7月に現地入りしたグラン浜田と共に活躍。11月12日、パラシオ・デ・ロス・デポルテスでグラン浜田と組んでレナート・トーレス、エル・ビキンゴ組とカベジェラ戦(敗者髪切りマッチ)で対戦し勝利。遠征前の宣材写真でベルトを巻いていたことから、設立間もないUWAのフローレス代表が橋本をAI王座として紹介。12月21日、モヌメンタル・モンテレイ闘牛場でマティマティコを相手に防衛戦。1本目は変型の股裂きに敗れ、2本目はジャーマンスープレックスで勝利し、3本目はコブラツイストに敗れて王座転落した。76年1月から4月にかけて、ビジャノ3号のUWA世界ウェルター級王座に挑戦した。6月4日、帰国。7月10日、藤沢市青果市場大会で小林邦昭と対戦。15分時間切れ引き分け。この試合を最後に引退。



スクラップブック
――浜田さんがメキシコに出発したのは、75年6月5日でした。さらに、その1ヶ月後に橋本小助がメキシコに出発します。前年9月にデビューした橋本は試合数も少なく、1勝もしていないのに先輩たちを差し置いて海外修行に行けた理由は、どこにあったんでしょうかね?
浜田 フローレスが俺のパートナーを欲しがったのかどうか・・・。どうして来たのかは俺も知らない。
カーン 橋本も身体は小さかったよなあ。
――体操とアマレスをやっていたようで、熱心な売り込みの末に新日本入りしたみたいです。
浜田 運動神経は良かったけど、プロレスをするセンスはなかったよ。
――翌年6月に橋本は帰国し、新日本で1試合してから廃業しました。一説には、浜田さんがメキシコから追い出したのではと言われていますが。
カーン ハハハハ!
浜田 俺がそんなことするわけないだろ!何で帰ったかなんて知らないよ。
(Gスピリッツ Vol. 43 キラー・カーンとグラン浜田のインタビューより)


「マサタカがキャリア9ヶ月で1回も勝ったことのない選手だなんて初めて知ったよ(笑)。だが、彼は素晴らしい才能のある選手だった。私はハマダよりもマサタカの方がレスラーとして優秀だと思っているし、モンテレイでも彼の方が人気があったよ」

「マサタカは私のいいライバルだったよ。彼はビジャノ3号の持つ世界ウェルター級王座に挑戦しているが、体重を考えるとライトよりウェルターの方が良かったはずだ。ただ、彼はハマダと仲が悪くてね。どこだったか忘れたが、同じホテルに泊まった時に2人が殴り合いの喧嘩をしたんだ。勝ったのはマサタカだったよ。それからはハマダに足を引っ張られてさ。結局、マサタカはノイローゼになって日本に帰ってしまった。惜しい選手だったなあ」
(エル・マテマティコのインタビュー。GスピリッツVol.35より)