幼少時代より第2次大戦前の英国マットで活躍した父フランク・グレゴリーにレスリングの英才教育を受け、67年にデビュー。兄のロイ・セントクレアーと組んで、「ザ・セインツ」なるコンビを結成して活躍。77年5月には英国マット伝統の大英帝国ヘビー級王座を獲得し、欧州マットの第一人者となる。79年1月、新日本プロレスに初来日。以来、常連外国人選手となる。84年12月22日、ドイツのCWAでCWA世界ミドル級王座を獲得。CWA世界タッグ王座も88年から97年にかけて3度獲得した。85年5月、ヒロ斉藤が保持していたWWFジュニア王座に挑戦。86年1月には初代IWGPジュニア王座決定リーグに出場している。来日が途絶えた後は、イギリスやドイツのCWAで活躍。93年にCWA英国連邦ヘビー級王座を獲得。96年10月5日、CWAのハノーバー大会でロード・スティーブン・リーガルと対戦。自らのコモンウェルス王座とリーガルのWCW・TV王座をかけてのダブルタイトルマッチ。8R、両者リングアウトに終わった。01年10月7日、無我の後楽園大会に来日し棚橋弘至と対戦。試合は9分45秒、首固めで勝利した。10月13日、西村修と対戦し、16分32秒、西村のグラウンド・コブラツイストに敗れた。02年10月12日、西村修とキャッチルールで対戦。試合は5R時間切れ引き分けに終わった。06年8月の無我ワールドの旗揚げ戦で藤波と対戦する予定だったが、7月5日にドイツの自宅で脳梗塞に倒れる。その後は自動車を運転できるまで回復。
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