レスラーノート

アンドレ・ザ・ジャイアント

ANDRE THE GIANT

本名:アンドレ・レネ・ロシモフ
1946年5月19日
フランス・グルノーブル出身
223p 200kg

通称
人間山脈
タイトル歴
WWF世界タッグ
IWA世界タッグ
得意技
ボディプレス
エルボードロップ
ギロチンドロップ

フランスの農家の出身。14歳の時にパリに出て家具の運送会社に勤める。その巨体を見込まれて64年にプロレス入り。イバ・アモールを相手にデビュー。デビュー当初は、フランスの伝説的な木こりの名前であるジーン・フェレを名のっていた。アンドレ・ロシモフを名のることもあった。 70年1月、モンスター・ロシモフの名で国際プロレスに初来日。1月18日、福岡市九電記念体育館大会での王座決定戦でマイケル・ネイダーと組んでサンダー杉山グレート草津組を破りIWA世界タッグ王座を獲得。2月3日、広島県立体育館大会で杉山、草津組に敗れてタッグ王座から転落。この日本遠征中にバーン・ガニアの目に留まってアメリカに渡り、人気選手となる。 71年春、国際プロレスの第3回IWAワールドシリーズで、カール・ゴッチビル・ロビンソンらを押しのけて優勝。 73年からはWWF入り。アンドレ・ザ・ジャイアントを名のり人気選手となる。フランク・バロアをマネージャーに活躍。 74年2月、新日本プロレスに登場。「人間山脈」と実況された。12月、ブラジル・サンパウロで猪木の持つNWF世界ヘビー級王座に挑戦。 猪木、アリ戦の行われた76年6月26日にはチャック・ウェップナーとの異種格闘技戦に快勝。10月に猪木との格闘技世界一決定戦を行った。 77年6月には猪木のNWF王座に再挑戦。 78年4月21日から始まった新日本プロレスの第1回MSGシリーズに参戦。5月30日、大阪府立体育会館大会での決勝で猪木と対戦。16分32秒、カナディアンバックブリーカーをリバーススープレックスに切り返されてリングアウト負け。 79年4月、新日本プロレスの第2回MSGシリーズに参戦。6勝3引き分けで3位に終わった。 80年4月、新日本プロレスの第3回MSGシリーズに参戦。5勝4引き分けでハンセン坂口と共に同点2位。6月5日、蔵前国技館大会で決勝者進出トーナメントに参戦。1回戦は坂口に勝利。決勝でハンセンと対戦。1分48秒、リングアウト負けに終わって決勝進出を逃した。 81年9月23日、田園コロシアムでハンセンと対戦。ハンセンのボディスラムで投げられたり、ラリアットをくらって場外に転落するなどの強烈な印象を残した。12月、レネ・グレイと組んで第2回MSGタッグリーグ戦に優勝。 82年3月、第5回MSGシリーズに参戦。11勝2引き分けの1位で決勝に進出。4月1日、蔵前国技館大会での決勝でキラー・カーンと対戦。16分42秒、ブレーンバスターからのヒップドロップで勝利して優勝した。マシン軍団が活躍した頃にはマスクをかぶりジャイアントマシンとして試合を行ったこともある。 86年6月17日、愛知県体育館大会で猪木と対戦。9分30秒、猪木の延髄斬りからの腕固めにギブアップ負け。このシリーズが新日本プロレスでの最後の来日となった。WWFではハルク・ホーガンとの抗争で売り出す。 87年3月29日、レッスルマニア3でホーガンと対戦。ボディスラムで投げられて、レッグドロップで初のフォール負け。 88年にホーガンからベルトを奪取した。 90年4月13日、東京ドームで行われた「日米レスリングサミット」でジャイアント馬場と組んでデモリッションズと対戦。6分39秒、馬場の16文キックからアンドレがエルボードロップをスマッシュに決めて圧勝した。その後、全日本プロレスに参戦。馬場と大巨人コンビを結成した。同年の世界最強タッグ決定リーグ戦では馬場と組んで参戦。全勝を続けていたが、馬場のケガにより惜しくも途中棄権した。 91年11月からの世界最強タッグ決定リーグ戦では馬場と組んで参戦し、準優勝。 93年1月29日、フランス・パリのホテルで急性心不全により47歳で死去。
スクラップブック
村松 で、やっぱり強いですか、アンドレは。
猪木 強いですね。ほんとに強いです。これはどうにもならない(笑)。私が歩んできた道の中で、アントニオ猪木の辞書を作ったとすれば、その辞書にない存在(笑)。そうでしょ。私は練習して強くなる主義ですよ、それなのに練習もしなくてあんなに強くなってしまう存在なんてのはね、面白くないんですよね(笑)。ビール飲んでるだけで、どんどん力が増していって、やることといえば、町の中を足早でさっさ、さっさと歩くだけでね(笑)。だから、世界には強い奴がいっぱいいるんだなと思いますよ。
村松友視『当然、プロレスの味方です』巻末付録「燃える哲学」より


81年9月23日、田園コロシアムでのハンセン戦。観衆13,500人。
まずはハンセンが入場。「ウィー!」の一声。マネージャーのアーノルド・スコーランに従ってアンドレが入場。トップロープをまたいでリングに上がったばかりのアンドレにハンセンが飛びこむがキックで撃退。ゴング前からチョップ、ヘッドバットで攻撃するアンドレに対し、ハンセンもキック、エルボーで対抗。ゴングが鳴った後、ハンセンにコーナーに投げられたが、キックでダウンさせる。なおも向かってくるハンセンに対しベアハッグで絞めつける。大ハンセンコールの中、40秒以上絞めつけるがショートレンジラリアットで外される。ロープにもたれるアンドレにエルボーを打つハンセン。アンドレは左腕をつかんでリストロック。そのままグラウンドで左腕を絞めつける。左腕にヘッドバット、さらに立ち上がって踏みつける。観客席を向いてハンセンコールに不快な表情を見せる。立ち上がったハンセンは水平チョップ2連発。アンドレはヘッドバットでお返し。ロープに左腕を巻きつけて絞めあげる。コーナーに振ったアンドレがタックルに行くがハンセンがよける。アンドレが肩口からコーナーに激突してエプロンにダウン。ハンセンがボディスラムに上げようとするが失敗。ハンセンの左腕をアームロックで絞める。アームブリーカーの体勢に行くがハンセンが髪の毛をつかんでダウンさせる。アンドレはなおもアームロックをかけ、ブレーンバスターでたたきつける。ヘッドバットを落とそうとするがハンセンがよけたので踏みとどまる。ハンセンの背中に腕を叩き落し、チンロック。ハンセンの胸に腕をたたきつけた後にロープを使ったヒップドロップ。アンドレがロープを振ってかがんだところをハンセンがキックで防御。ボディスラムでアンドレを完璧に持ち上げて叩き落す。観客が拍手喝采。エルボードロップはアンドレがかわす。腰に手をやるアンドレに蹴りを放ち、腕を落す。ハンセンがキャメルクラッチ。アンドレがなんとかかわす。後頭部にエルボードロップを落としアンドレがダウン。アンドレが足を取って場外乱闘。ハンセンを鉄柱にぶつける。8分26秒、両者リングアウトで終わったが、アーノルド・スコーランとアンドレがレフリーのミスター高橋に抗議。アンドレは高橋の胸をつかむ。高橋がマイクで再試合をアナウンス。観客大喜び。試合再開後、ハンセンがキック。エルボー2連発の後、迫力の一本背負い。蹴り、エルボー、膝を打ちつけるとロープに両腕を巻きつけてアンドレダウン。ハンセンのパンチ2連発の後、アンドレが体を入れかえてハンセンの胸にパンチ。大笑いをあげてからヘッドバット。さらにヘッドバットを落としてハンセンダウン。ハンセンをコーナーに打ちつけようとしたがハンセンが逆に打ちつけアンドレダウン。エルボーを落としたハンセンの腕をつかんで、そのままアームロックで絞める。サーフボードストレッチに移行し、ハンセンは苦悶の表情。アンドレがボディスラムでたたきつけた後、ロープの反動をつけてとどめのボディプレスを放つがかわされる。直後のハンセンのエルボードロップはアンドレがかわす。アンドレはヘッドバットを落とす。アンドレがロープに振った後、ビッグブーツを出すがハンセンがかわし、アンドレが振り向いたところをカウンターでウエスタンラリアット。強烈な一撃を受けて、アンドレが派手に場外転落。場外に落ちたアンドレは右腕に青いサポーターを巻く。あやしいサポーターをレフリーのミスター高橋がチェックしようとするが、アンドレがミスター高橋をロープに振ってラリアット。4分22秒、アンドレの反則負けに終わった。両者の乱闘をセコンド陣が止めようとするがしばらく収まらず、若手の前田がハンセンのラリアットをくらってふっ飛んだ。場外からリングにイスを投げつけハンセン退場。その後、アンドレも興奮した足取りで退場。この試合は「不沈艦」対「大巨人」という、当時絶好調だった大スターのド迫力の真っ向勝負として伝説的な試合となった。


アンドレ、ホーガン、ベイダー・・・。藤波辰爾が即答した「最高の外国人レスラー」は?
(2021年5月16日11:00配信 webスポルティーバより)
「アンドレは自分と対戦する時、どういうわけかリング上で手をもみながら喜んで試合をやっていました。小さな僕(183cm)を相手にすると、それまでやっていなかったいろんな動きが出せたりするから、楽しかったのかもしれませんね」
 しかし藤波は、逆にボディスラムでアンドレを投げたことがあるという。
「彼が突っ込んできた時にとっさに投げたんです。あのデカイ体を持ち上げた時は、自分でも『まさか』と驚きましたね。投げる時に、先に頭がマットにつきそうになりましたけど、思い切って投げ切りましたよ。アンドレは滅多に投げられなかったんですが、気に入っている選手には『投げられてもいいよ』という雰囲気を出していました。猪木さん、長州も投げたことがありましたね」
アンドレはヒールのイメージを守るため、日本のファンに対して冷たい態度を取るなどしていたことから、「日本が嫌いなのでは?」というイメージを持っていた人もいるかもしれない。しかし実際は日本が好きで、来日するたびに外国人レスラーのボスとして選手をまとめていたという。
「いつも楽しそうに巡業を回っていましたよ。アンドレはアメリカでトップの選手ですから、他の外国人レスラーたちも彼を慕っていた。試合前の控室で、アンドレを囲んでカードゲームをやっていたのを思い出します(笑)」


【前田日明氏コラム】突然組まれたアンドレ戦 仕掛けたのは「猪木さんだと思ったけど・・・」
(2022年9月14日16:00配信 東スポWebより)
【前田日明(15)】 新日本プロレスとユニバーサル(レスリング連盟=UWF)勢の緊張関係が続いていた1986年4月29日に三重・津市体育館大会でアンドレ(ザ・ジャイアント)とのシングルマッチが組まれた。テレビ中継(一部地域を除く)のある試合だったんだけど「突然、組まれたな」って感じだったよね。
 試合当日、会場へ着くと記者から「アンドレが前田を潰すって言ってるけど」と聞かれると、今度は(レフェリーのミスター)高橋さんが「アンドレがお前を潰すって言ってるからなだめてくれ」って。外国人控室ではディック・マードックたちが俺に対して「気の毒だな」みたいな感じで目も合わせないんだよ。当のアンドレには「ゲラウェイ(出ていけ)」と追い払われた。試合前に高橋さんが来て「レフェリーはアンドレのマネジャー(フレンチ・バーナード)がやる」と。一体どうなるんかなと思いながらリングに上がったんだ。
 いざ試合が始まったら全然プロレスにならない。タックルに行ったら潰されるし、ナックルで殴ってくるし、フルネルソンで捕まえられた時は首が折れる寸前でミシミシってね。アンドレは試合をしようとしてない。俺を潰しに来てる。星野(勘太郎)さんがいたから「俺もやっていいんですか。やらないとケガしますよ」って聞くと「俺に聞くな!」って言うんだよね。
 どうすればいいのかって困っていると藤原(喜明)さんが「何やってるんだ、殺されるぞ!行け!」と。これで「何かあっても藤原さんのせいにしたらいい」と思って真剣にやったんだ。アンドレは頑丈だったね。ローを蹴りまくっても倒れないからヒザ頭を何度も思い切り蹴った。あのころの俺にやられたら、普通は一発当たっただけで立てないよ。
 最後は倒れ込んだアンドレが「イッツ・ノット・マイ・ビジネス」と言って試合を放棄。当時WWF(現WWE)でアンドレから3カウント取ったら賞金20万ドル(約2800万円)とか、そんな話だったんだから「これ3カウント取れるんじゃないの?」って思ったけど、結局みんながワーッとリングに入ってきてノーコンテストになった。
 誰がアンドレにあんなことをさせたのか。諸説あったけど、俺は(アントニオ)猪木さんだと思った。でも試合後に猪木さんが「あれでいいんだよ」って。アレ?猪木さんじゃないんだって思って坂口(征二)さん見たら「チッ・・・」って顔したんだよ(笑い)。今になって考えると・・・坂口さんか高橋さんのどっちかかな。アンドレがやりすぎてしまった部分もあったんだろうけどね。