レスラーノート

テリー・ゴディ

TERRY GORDY

1961年4月23日
テネシー州ロアビル出身
195cm 135kg

通称
人間魚雷
タイトル歴
世界タッグ
三冠ヘビー
NWA世界タッグ
WCW世界タッグ
ジョージアタッグ
ミッドアメリカンタッグ
WCCW6人タッグ
得意技
パワーボム

通称「人間魚雷」。パワーボムの本家であるパワーファイター。ジョージア地区のインディ団体IWAで、わずか13才でデビュー。この当時、ルー・テーズテリー・ファンクディック・スレ−ターらのコーチを受けている。 77年にマイケル・ヘイズとファビュラス・フリーバーズを結成して全米を暴れ回る。 81年からはバディ・ロバーツをマネージャーにしてトリオを結成。ジョージア、ミッドアメリカンの両タッグ、WCCW6人タッグ王座を獲得した。 83年8月に全日本プロレスに初来日。やがて全日本プロレスの常連となる。 86年5月30日にはテキサス州ヒューストンでハクソー・ジム・ドゥガンを破り初代のUWFヘビー級王座を獲得。 88年12月、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦にスタン・ハンセンと組んで優勝。 90年3月、スティーブ・ウィリアムスとの殺人魚雷コンビで世界タッグ王者を獲得。6月にジャンボ鶴田を破って三冠王者にも輝いた。世界タッグ王座はウイリアムスとのコンビで計5回獲得。最強タッグ決定リーグ戦では91年、92年に2回優勝。92年7月5日にウイリアムスと組んでスタイナー・ブラザーズ(リック・スタイナースコット・スタイナー)を破りWCW世界タッグ王座を獲得。7月12日にバリー・ウインダムダスティン・ローデス組を破りNWA世界タッグ王座を獲得。NWA、WCWの両タッグ王座を統一した。 93年ごろから持病の心臓病でセミリタイア状態となり、インディ回りをしていた。 94年6月3日にテキサス州ダラスの団体GWFでジム・ガービンと組んでファビュラス・フリーバーズとして、ジョン・ホーク(後のジョン・ブラッドショー・レイフィールド)、ブラック・バート組を破りGWFタッグ王座を獲得。 95年8月20日、IWAジャパンの川崎球場大会でキャクタス・ジャックと画鋲デスマッチで対戦。画鋲の上へのパワーボムで見せ場を作ったが、6分58秒、DDTに敗れた。12月7日、IWAジャパンの姫路市厚生会館大会でターザン後藤と対戦。14分54秒、イスの上へのフェイスバスターで勝利。 96年11月から、WWFで怪奇派マスクマンのジ・エクスキューショナーとして短期間出場した。 01年9月16日、心不全のため40才の若さで急死した。息子のレイ・ゴディはノアに入団し、その後、WWEに登場した。娘のミランダ・ゴディもレスラーとなった。酒好きで有名だった。好きな酒はジャックダニエル。
スクラップブック
― まずはテリー・ゴディですが、彼のパワーボムの日本犠牲者第1号が天龍さんですね。
「あれは怖かったね、マジで。担ぎ上げられた時に後楽園の天井から南側の客席まで見えて怖かったよ。上がっていく自分の過程がわかるんだから。それで頂点に行った時に、“ヤバイ!”って。この受け身に自信がある俺がだよ」
― 当時、天龍さんもおぼろげながらパワーボムを開発中だったんですよね。
「そうそう、カナディアン・バックブリーカーの形から相手の肩を膝に叩きつけるショルダーバスターを使っていて、これをリングに叩きつけたらどうなるかなと思っていたの。自分が考えていたことをやられたのと、怖さの二重のショックだったよ。でもまあ、凄い技だという確証を得たよね。パワーボムは昭和の技のベスト3に入ると思うよ」
― リングを降りたら、天龍さんとゴディは仲が良かった記憶がありますが。
「俺がアメリカにいた頃に、まだ20歳そこそこでトップとしてジョージアに来てたから。マイケル・ヘイズ、バディ・ロバーツとのフリーバーズでね。まだアンチャン過ぎて3人の中では下っ端で。パワーボムも使っていなかったけど。あいつは日本に来て一番成長したレスラーですよ。日本のファンはハチャメチャで、愛くるしさもあるゴディを支持したと思うしね。ファンに育ててもらってトップを取ったと言ってもいいんじゃないかな。センスがあったというか、あの体で動けるし、飛べるし、器用なデブですよ。さすがに14歳からプロレスをやってたこともあって、攻守のタイミングはパーフェクトでしたよ。彼は多分ね、“プロレスは俺が一番巧い”と思って試合してたと思う。それが試合やっている中で端々に見えたもん。ガンガン来る時は、日本人レスラーにない馬力があったしね。ブロディ、ハンセンとはまた違う馬力がありましたね」
(「Gスピリッツ vol.17」の天龍のインタビューより)


【プロレス蔵出し写真館】40歳で早世・・・テリー・ゴディがガチで大暴れした「戦慄の記者会見」
(2021年11月14日10:00配信 東スポWebより)
 2001年(平成13年)7月16日、人間魚雷<eリー・ゴディが米テネシー州チャタヌーガの自宅で心不全により死去した。まだ40歳という若さだった。
 同年8月26日に全日本プロレスの後楽園ホール大会で、名コンビだったかつてのタッグパートナー、スティーブ・ウィリアムスが遺影を持ち追悼の10カウントゴングが鳴らされた。
 全日本の常連外国人レスラーで、3冠ヘビー級王者にまで上りつめたゴディだが、全日本での後半は心臓病に苦しめられ、欠場を繰り返すようになり、引退がささやかれるようになった。
 3冠王者時代の90年7月26日、群馬・伊勢崎大会の試合後、都内に戻り深夜まで飲酒していたゴディは、突然バッタリと倒れ意識不明になった。新橋の慈恵医大病院に救急車で運び込まれたが、一時は心臓も停止し、死を宣告される状態に陥ってしまった。担当医師も見放し、駆けつけた全日本の関係者も天を仰いだが、幸いにもゴディは翌日、意識を取り戻した。
 ジャイアント馬場は「もうゴディのレスラー生命は終わりだろう」と語っていたのだが、ゴディは奇跡的にカムバックを果たした。
 しかし、3年後の93年8月19日に成田空港に到着直後、緊急入院してシリーズを欠場した。機内で体調不良となり、そのまま救急車で成田市内の病院へ搬送されたのだった。翌94年に一度、全日本マットにカムバックしたゴディだが、かつての迫力はなくなっていた。
 ゴディの強烈な思い出のひとつとして今でも強烈な印象に残っているのは、今から37年前の84年(昭和59年)10月4日、東京・品川の東武高輪ホテルで行われた会見だ。
 ゴディは翌5日に開幕するシリーズにマイケル・ヘイズ、マネージャーも兼ねるバディ・ロバーツとともに自由の鳥軍団<U・ファビュラス・フリーバーズとして来日。成田空港からホテルに直行してきた3人はビール、ウイスキーを飲みながら会見を行った。
「ツルタ? 奴はペーパーチャンピオンだ」「カブキなんか粉々にしてやる」。ジャンボ鶴田、ザ・グレート・カブキに向け威勢のいいメッセージを発し、ひとしきり定番の質疑応答が終わった。
 ある記者が「好きなお酒はなんですか?」と質問した。ゴディは「ジャックダニエルのジンジャーエール割りだ」と答えると、一人のカメラマンが何気なく「ふふん」と笑った。悪気はなかったのだが、鼻で笑ったと感じたのだろうか、酔っ払ったゴディの気に障ったようだ。
「今、笑ったやつはだれだ!?」ゴディが急に怒り出すとテーブルのビール瓶、グラスをなぎ払い、机を叩き、ついたてを蹴破った。ゴディの大暴れにヘイズはあ然としていたが、上半身裸になり、なおも暴れるゴディに触発されたのか机を蹴とばした。
 会見が終わり、少しして「ここはどこ?」とゴディに聞かれた専門誌の記者が、「東京」と答えると「えっ、東京?」。心底、驚いていたようだ。
 23歳ゴディの、まさに酒が災いした、パフォーマンスではないガチ*\れの狂乱会見だった。