ダークロHP / レスラーノート

デビル紫

本名:村崎昭男
1942年4月30日
大阪府大阪市出身
178p 100kg
タイトル歴:インターナショナルタッグ(カルガリー版)
得意技:ドロップキック ニードロップ

海上自衛隊を除隊後、実家の大衆食堂を手伝いながらレスラーを目指して難波ボディビル・ジムに通う。国際プロレスの吉原社長がジムに訪れた際にプロレス入りをアピールし、67年8月に国際プロレスに入団。ロビンソンや田中忠治らのコーチを受ける。68年1月5日、小倉市三萩野体育館大会で仙台強を相手にデビュー。2月13日、和歌山大会での藤井戦でプロ初勝利。4月8日、本名から村崎鬼吉に改名。7月に村崎小助、69年6月に村崎鬼三、70年7月に紫鬼三、72年5月にデビル紫に改名。ラフファイトに磨きをかける。10月には全日本プロレスの旗揚げシリーズに参戦した。12月、ハワイでのAWAの大会に吉原社長と同行し、試合は行わなかったが、その場でアメリカ遠征を通達されてテネシーに移動。テネシーではタロー・ムラサキの名で出場。トージョー・ヤマモトがマネージャーにつき、グレート・フジ(大位山勝三)と組んでハッピ、田吾作タイツのヒールとして活躍。73年7月、ミツ・アラカワの紹介でインディアナポリスのWWAをサーキット。アラカワは帰国した浜口に代わるパートナーを求めていたところだった。WWWAではグレート・サキと改名し、デトロイトやシカゴにも遠征。74年3月からカナダのカルガリー地区に出場。スタンピード・レスリングに定着し、トーキョー・ジョー(大鋼)と組んでインターナショナルタッグ王座を獲得。3月18日、大剛鉄之助とカルガリーに移動中に、デビル紫の運転する車がスリップ。路上で車を点検中の大剛に他の車が衝突。大剛は片足を切断されてしまう事故に遭う。7月からメキシコのEMLLをサーキット。アキオ・ムラサキの名で各地でトップヒールとして活躍。アキオ・ムラサキと改名し、リキドーセン2号(百田光雄)と組んでヒールとして活躍。8月には鶴見五郎もメキシコに遠征してきて、3人で共同生活をしていた。75年5月にグアテマラとエルサルバドルをサーキット。6月、鶴見と共にヨーロッパに遠征し、各地を転戦。8月に西ドイツ・ハンブルグのトーナメントに出場。ベルリン、スイス、オーストリアなどにも転戦した。海外では素顔で出場していたが、マスクマンとして帰国。76年10月24日からの国際プロレスのシリーズに登場。ラフファイト中心の試合内容だった。77年1月20日、岩瀬町体育館大会で寺西勇のIWA世界ミッド・ヘビー級王座に挑戦。その後は同じマスクマンのマッハ隼人の台頭もあり、大きな活躍はなかった。11月の全日本プロレスとの対抗戦ではサムソン・クツワダ天龍百田光雄伊藤正男、ミスター林と対戦し、いずれも敗退。78年2月の国際・全日・韓国3軍対抗戦では梁鎮王と対戦し敗退。80年5月16日の厚木大会でのマイティ井上戦を最後に、内臓疾患のために引退して国際プロレスの営業部員となった。81年には、国際プロレスの末期ということもあって、選手不足のために復帰が予定されていた(実際には出場しなかった)。国際プロレス崩壊後は綜合警備保障に就職。定年まで働き、横浜の日本銀行まで現金輸送をしていた。17年10月23日、食道がんのため死去。

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