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アントニオ・ロッカANTONIO ROCCA本名:アントニーノ・バイアセットン Antonino Biasetton 1927年4月13日 イタリア・トレビソ出身 176〜183p 102kg |
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通称
鳥人
タイトル歴
テキサス・ヘビー
AWA世界ヘビー(オハイオ版) WWC北米タッグ 得意技
アルゼンチン・バックブリーカー
その場跳びのドロップキック エアプレーン・スピン フライング・ヘッドシザース |
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幼少の頃に移住したアルゼンチンでスポーツ選手として才能を発揮。41年(42年説あり)にデビュー。48年ごろにアメリカに渡る。同年8月6日にテキサス州ヒューストンでテキサス・ヘビー級王座を獲得。その後、ニューヨークに進出して華麗な空中殺法で大活躍。49年から62年まで、ニューヨークのマジソン・スクウェア・ガーデンでスーパースターとして活躍し続けた。53年3月5日、オハイオ州クリーブランドでバディ・ロジャースを破り、AWA世界ヘビー級王座を獲得。MSGでのジン・スタンレーとの対決は戦後最大の興業収益を上げた。素足でのファイト、必殺のドロップキックと背骨折りで数々の強豪を苦しめた。57年3月からミゲル・ペレスと組んでタッグでも活躍。75年8月、アントニオ猪木対ルー・テーズのNWF選手権試合にレフリーとして初来日。76年9月11日、プエルトリコでミゲル・ペレスと組んでWWC北米タッグ王座を獲得。77年3月15日、心臓発作のために49歳で死去。アントニオ猪木の名の由来でもある。
スクラップブック
「実際、ロッカと初めて対戦した時は、私も面食らった。レスリングはガッと組んでから始まるものと教わっていたのに、ロッカは組ませず、いきなり裸足の足が飛んで来た。組もうとすれば、ピョンピョンはね回る。まるで大男がバッタを追いかけ回しているようなものだ。だがロッカは逃げ回るのではなく、恐るべきジャンプ力でいきなり私の首にフライング・ヘッドシザーズが巻きついて来たりする。アルゼンチン・バックブリーカーの開祖だけあって、見事な筋肉とパワーも持っていた。ロッカは陽気な性格で若手の面倒見も良く、仲間うちでの信望も厚かった。私はいつも葉巻きをもらっていたから言うわけでは無いが、この大先輩が人間的にも好きだったし、その全く新しいタイプのプロレスは、大いに勉強にもなった。実力は文句なく超一級品だったと思う」(ジャイアント馬場「王道十六文(完全版)」より)
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