レスラーノート

蝶野正洋

1963年9月17日
東京都三鷹市出身
186cm 108kg
血液型:O型

通称
黒のカリスマ
タイトル歴
IWGPヘビー
NWA世界ヘビー
IWGPタッグ
WWAヘビー&TV選手権
CWFタッグ
カナダ・インターナショナル・タッグ
得意技
ケンカキック(旧称、ヤクザキック)
STF
シャイニイングケンカキック

父は大手製薬会社のエリート社員。父の転勤先だったシアトルで生まれる。高校時代はサッカー部。 84年4月、新日本プロレス入門。10月5日、越谷市体育館の武藤敬司戦でデビュー。 87年3月のヤングライオン杯に優勝し、6月に海外遠征。12月までヨーロッパのトーナメントに出場。その後、アメリカに遠征。 88年2月、マイク・ジョージを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得。同年秋にヨーロッパのトーナメント大会に出場。 89年1月からアメリカ・アラバマのCWFに出場。4月24日、初開催となった東京ドーム大会でIWGPヘビー級王座決定&闘強導夢杯トーナメントに参戦し、1回戦でビッグバン・ベイダーと対戦。5分52秒、ジャンピング・ボディプレスに敗れた。9月にバージニア州のルー・テーズのジムに1ヶ月間入門し、STFをマスター。10月に帰国。その後は武藤、橋本と共に闘魂三銃士として新日本プロレスの中心選手として活躍した。 90年4月、武藤と組みIWGPタッグ王座を獲得。90年度のプロレス大賞で武藤と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1991

91年5月30日、大阪城ホール大会(藤波のデビュー20周年記念大会)のメインで藤波のIWGP王座に挑戦。18分33秒、ドラゴンスリーパーで勝利した。8月、第1回G1クライマックスに出場。8月7日、愛知県体育館大会で長州力と対戦。14分17秒、STFで勝利。8月9日、両国国技館大会で橋本と対戦。30分時間切れの引き分け。8月10日、両国国技館大会でビガロと対戦。12分38秒、卍固めで勝利。2勝1引き分けで橋本と並んで同点1位。8月11日、両国国技館大会で橋本を相手に優勝戦進出決定戦。15分50秒、STFで勝利。同日のメインで武藤を相手に優勝決定戦。ムーンサルトプレスを両膝を立てて防ぎ、29分3秒、パワーボムで勝利してG1クライマックスに優勝した。この優勝をきっかけにトップグループ入り。11月5日、日本武道館大会で藤波のIWGP王座に挑戦。19分49秒、足を抱えこんでのヘッドロックに敗れた。12月にドイツ人のマルティナ・カールスさんと結婚。

1992

92年1月4日、東京ドーム大会でレックス・ルガーのWCW世界ヘビー級王座に挑戦。15分9秒、ダブルアックスハンドルをくらってフォール負け。8月6日、G1クライマックスに出場。優勝者はNWA世界ヘビー級王座を獲得する大会だった。8月12日、両国国技館大会での決勝でリック・ルードと対戦。29分44秒、ダイビング・ショルダーアタックで勝利して優勝。2連覇を達成し、第75代NWA世界ヘビー級王者となった。8月16日、福岡国際センター大会で橋本真也と組んでリック・スタイナー、スコット・スタイナー組のIWGPタッグ王座に挑戦。15分25秒、合体ブルドッギングヘッドロックをくらってリックに橋本がフォール負け。

1993

93年1月4日、東京ドーム大会でIWGPヘビー級王者のグレート・ムタを相手に、自らのNWA王座も賭けてダブルタイトルマッチ。19分48秒、ムーンサルトプレスに敗れて王座転落。

1994

94年1月4日、東京ドーム大会で橋本真也のIWGP王座に挑戦。28分、ジャンピングDDTに敗れた。5月1日、福岡ドーム大会で藤原喜明と対戦。8分8秒、STFで勝利。8月、G1の3度目の優勝を機にヒールに転向。9月23日、横浜アリーナ大会でグレート・ムタと対戦。19分40秒、腕決めエビ固めでフォール勝ち。

1995

95年2月に天山ヒロ斎藤と狼群団を結成。10月15日から始まったSGタッグリーグ戦に天山と組んで参戦し、優勝。10月28日、UWFインターの国立代々木競技場第1体育館大会で安生洋二と対戦。ゴング前にハイキックをくらってダウン。8分17秒、急所蹴りからの変形足4の字固めに敗れた。95年度のプロレス大賞で天山と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1996

96年1月4日、東京ドーム大会で越中詩郎と対戦。9分45秒、スモールパッケージホールドにフォール負け。4月29日、東京ドーム大会でレックス・ルーガーと対戦。14分34秒、STFで勝利。9月19日、岡山県体育館大会で日米対抗スーパースターズ・トーナメントに参戦し、1回戦でスティングと対戦。11分4秒、サソリ固めを狙ったが、首固めに切り返されてフォール負け。12月にWCWに許可を受けてNWOジャパンを設立。96年度のプロレス大賞で天山、ヒロ斎藤と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1997

97年1月4日、東京ドーム大会で大日本プロレスの中牧昭二と対戦。1分7秒、ケンカキックで勝利。同大会で藤波辰爾、木村健悟組を相手にタッグ王座の防衛戦。16分10秒、藤波のドラゴンスリーパーに蝶野が敗れて王座転落。4月12日、東京ドーム大会でグレート・ムタと対戦。14分9秒、ムーンサルトプレスに敗れた。11月18日からはじまったSGタッグリーグ戦に武藤と組んで参戦し、優勝。12月20日、ドイツに遠征し、CWAのブレーメン大会でエキー・クリスチャン・エクスタインと対戦。13分49秒、ツームストンパイルドライバーからのヤクザキックで勝利。97年度のプロレス大賞でMVPを受賞した。

1998

98年1月4日、東京ドーム大会で越中と対戦。15分5秒、ケンカキックで勝利。4月4日、東京ドーム大会で橋本真也、西村修組を相手にタッグ王座の防衛戦。18分23秒、蝶野が羽根折り固めで西村に勝利。8月8日、大阪ドーム大会で藤波辰爾のIWGP王座に挑戦。19分53秒、STFで勝利。IWGPヘビー級王座を獲得した。椎間板脊椎症のため防衛戦を行わずに王座を返上した。

1999

99年4月10日、東京ドーム大会で大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ。試合は16分10秒、両者爆破KOで終わったが、大仁田とは対照的に防具をつけて試合した。5月にはドン・フライアキラらとT2000を結成。8月28日、 神宮球場大会で橋本真也と対戦。15分45秒、腕決め原形STFでレフリーストップ勝ち。

2000

00年1月4日、東京ドーム大会で武藤と対戦。25分、クロス式STFで勝利。4月7日、東京ドーム大会でグレート・ムタと対戦。16分21秒、ムタがレフリーに毒霧を吐いて反則勝ち。5月5日、福岡ドーム大会で藤波辰爾と対戦。6分30秒、ケンカキックで勝利。9月、全日本プロレスに初参戦しに快勝。

2001

01年1月4日、東京ドーム大会で佐々木健介と対戦(IWGP王座決定トーナメント準決勝)。11分28秒、ストラングルホールドγに敗れた。8月11日、両国国技館大会でのG1クライマックス準決勝で永田裕志と対戦。13分44秒、ナガタロックに敗れた。10月27日、全日本プロレスの日本武道館大会のメインで武藤敬司の三冠王座に挑戦。22分52秒、フランケンシュタイナーに敗れた。11月30日から始まったG1タッグリーグにジャイアント・シルバと組んで参戦。3勝4敗でリーグ戦を終えた。

2002

02年1月25日、後楽園ホール大会での12人参加の時間差入場バトルロイヤル「ヘビー・ニュージャパンランボー」で優勝。2月1日、北海道立総合体育センター大会で猪木から新日本プロレスの現場責任者に任命される。猪木は期待を込めて「蝶野は力があるから。チョーノー力」と記者団に対し語った。2月16日、両国国技館大会でのIWGPヘビー級王座決定トーナメントに準決勝から参戦し、安田忠夫と対戦。6分36秒、肩固めに敗れた。3月14日、京都市体育館大会でIWGPタッグ王座決定トーナメントに天山広吉と組んで参戦し、1回戦で佐々木健介、棚橋弘至組と対戦。18分57秒、天山がTTDで棚橋に勝利。3月24日、尼崎市総合記念公園体育館大会での決勝で永田裕志、中西学組と対戦。23分16秒、天山がムーンサルトプレスで永田に勝利。IWGPタッグ王座を獲得した。4月5日、東京武道館大会で西村修と対戦。19分6秒、バタフライロックで勝利。5月28日、宮城県スポーツセンター大会で永田裕志と対戦。12分36秒、ケンカキックで勝利。6月5日、大阪府立体育会館大会で中西学、西村修組を相手にタッグ王座の防衛戦。60分時間切れ引き分け。7月19日、北海道立総合体育センター大会でスタイナーブラザーズを相手にタッグ王座の防衛戦。19分8秒、蝶野がヤクザキックでリックに勝利。8月3日から始まったG1クライマックスに参戦。開幕戦の大阪府立体育会館大会で永田裕志と対戦。16分、ナガタロック2に敗れた。8月4日、大阪府立体育会館大会で西村修と対戦。30分時間切れ引き分け。8月5日、高松市総合体育館大会で中西学と対戦。16分17秒、前方回転エビ固めでフォール勝ち。8月7日、福岡国際センター大会で鈴木健想と対戦。17分33秒、STFで勝利。8月8日、広島グリーンアリーナ大会で安田忠夫に不戦勝(UFOに参戦したため)。同大会で星野勘太郎率いるマスクマンX(柳澤龍志)と対戦(魔界倶楽部の初登場)。2分48秒、他の2人のマスクマンが乱入したため反則勝ち。3勝1敗1引き分けでリーグ戦を突破。8月10日、両国国技館大会での決勝トーナメント準決勝で天山広吉と対戦。22分3秒、クロス式STFで勝利。8月11日、両国国技館大会での決勝で高山善廣と対戦。20分23秒、ヤクザキック2連発で勝利。8月11日、両国国技館大会での決勝で高山善廣と対戦。20分23秒、ヤクザキック2連発で勝利。8年ぶり4度目のG1クライマックス優勝となった。9月8日、静岡・グランシップ大会で越中詩郎と対戦。11分54秒、ヤクザキックで勝利。9月16日、愛知県体育館大会で安田忠夫と対戦。8分18秒、ヤクザキックで勝利。9月22日、なみはやドーム大会で新日本対魔界倶楽部4対4シングル勝ち抜き戦に先鋒として参戦し、魔界2号と対戦。3分21秒、ヤクザキックで勝利。次鋒の魔界1号と対戦。38秒、魔界風車固めに敗れた。勝ち抜き戦は、セコンドの村上和成の挑発に気を取られた大将の永田が背後から安田の右ストレートをくらって敗北。納得のいかない新日本プロレス側が8人タッグ戦を要求。永田裕志、天山広吉、中西学と組んで安田忠夫、柳澤龍志、魔界1号、魔界2号組と対戦。5分24秒、永田がワンハンドクラッチ式エクスプロイダーで魔界2号に勝利した。10月14日、東京ドーム大会で女子レスラーのジョーニー・ローラーと対戦。11分35秒、ヤクザキックで勝利。10月26日、福岡国際センター大会で永田裕志のIWGP王座に挑戦。60分時間切れ引き分け。10月27日、神戸ワールド記念ホール大会のメインでジョーニー・ローラー、カブキ組を相手にタッグ王座の防衛戦。12分40秒、蝶野がSTFでカブキに勝利。11月22日から始まったトライアスロン・サバイバーに藤波辰爾、天山広吉と組んで参戦。3勝2敗に終わった。12月10日、大阪府立体育会館大会で安田忠夫、柳澤龍志組を相手にタッグ王座の防衛戦。21分28秒、天山がTTDで安田に勝利。

2003

03年1月10日、ノアの日本武道館大会で三沢光晴と組んで小橋建太、田上明組と対戦。22分29秒、小橋の垂直落下式ブレーンバスターに三沢が敗れた。2月16日、両国国技館大会で安田忠夫、村上和成組を相手にタッグ王座の防衛戦。20分36秒、天山がダイビング・ヘッドバットで安田に勝利。3月9日、名古屋レインボーホール大会で高山善廣、真壁伸也組を相手にタッグ王座の防衛戦。17分29秒、蝶野がタックルで真壁に勝利。3月21日、国立代々木競技場・第2体育館大会で真壁伸也と対戦。2分30秒、横入り式エビ固めでフォール勝ち。4月26日、別府ビーコンプラザ大会のメインで真壁伸也と対戦。試合開始直後にスピアーとラリアットをくらって、わずか10秒ほどで3カウント。片足がロープに届いていたため、ミスジャッジと認められて試合再開。ケンカキックを放った際に軸足がずれて左ヒザを負傷。3分34秒、リングアウト勝ち。4月28日、博多スターレーン大会で吉江豊、棚橋弘至組を相手にタッグ王座の防衛戦。19分45秒、蝶野が片羽根折り固めで棚橋に勝利。5月2日、新日本プロレスの東京ドーム大会でGHCヘビー級王者の小橋建太に挑戦。左ひざをケガしていた蝶野は大苦戦。高角度バックドロップ4連発、ケンカキック、STFで小橋を追いつめたが、ハーフネルソンスープレックスを6発くらってリング上で大の字。28分27秒、最後はラリアット2連発で敗退した。6月13日、日本武道館大会で吉江豊、棚橋弘至組を相手にタッグ王座の防衛戦。26分8秒、吉江のダイビング・ボディプレスに天山が敗れて王座転落。7月21日、月寒グリーンドーム大会で高山善廣のIWGP王座に挑戦。24分12秒、エベレストジャーマンをくらった直後に両者KO。8月10日から始まったG1クライマックスに参戦。開幕戦の神戸ワールド記念ホール大会で西村修と対戦。24分8秒、首固めでフォール勝ち。8月11日、愛知県体育館大会で中西学と対戦。11分39秒、ヒザ固めに敗れた。8月12日、静岡グランシップ大会で棚橋弘至と対戦。13分11秒、ヤクザキックで勝利。8月14日、宮城県スポーツセンター大会で天山広吉と対戦。21分21秒、アナコンダバイスに敗れた。8月15日、両国国技館大会で秋山準と対戦。30分時間切れ引き分け。リーグ戦は2勝2敗1引き分けに終わった。8月28日、大阪府立体育会館大会で高山善廣のIWGP王座に金網デスマッチで挑戦。34分6秒、スリーパーホールドにKO負け。10月13日、東京ドーム大会でハルク・ホーガンと対戦。19分46秒、アックスボンバーに敗れた。10月15日から始まったG1タッグリーグにライガーと組んで参戦。10月18日、福岡国際センター大会で吉江豊と対戦。14分36秒、逆エビ固めに敗れた。この試合で投げっぱなしジャーマンをくらって首を負傷し、救急車で福岡市内の病院へ運ばれて入院。重度のケイ椎ねんざと診断されて、長期欠場。その後のリーグ戦は不戦敗となった。

2004

04年2月6日、宮城県スポーツセンター大会でヒートと対戦。9分13秒、STFで勝利。2月15日、両国国技館大会でのIWGPヘビー級王者決定トーナメントに参戦し、1回戦で天龍源一郎と対戦。6分25秒、顔面へのキックにレフリーストップ負け。2月29日、名古屋レインボーホール大会で天龍源一郎と対戦。9分29秒、レフリー暴行により反則負け。3月7日、後楽園ホール大会で安田忠夫と対戦。8分29秒、セコンドの乱入で反則勝ち。3月21日、尼崎市記念公園総合体育館大会で佐々木健介のHCWヘビー級王座に挑戦。8分31秒、レフリー暴行により反則負け。3月28日、両国国技館大会で永田裕志と対戦。14分25秒、ナガタロック3に敗れた。4月17日、別府ビーコンプラザ大会で真壁伸也と対戦。11分57秒、羽根折り固めで勝利。4月24日、博多スターレーン大会で棚橋弘至と対戦。14分36秒、村上和成が乱入して反則負け。5月3日、東京ドーム大会で村上和成と組んで高山善廣、鈴木みのる組のIWGPタッグ王座に挑戦。15分50秒、鈴木のゴッチ式パイルドライバーに村上が敗れた。7月11日、岐阜産業会館大会で矢野通と対戦。8分36秒、レフリー暴行で反則勝ち。7月18日、札幌テイセンホール大会で長尾浩志と対戦。7分34秒、ケンカキックで勝利。8月7日から始まったG1クライマックスに参戦。開幕戦の相模原市立総合体育館大会で柴田勝頼と対戦。15分5秒、スリーパーホールドからのPKに敗れた。8月8日、大阪府立体育会館大会で吉江豊と対戦。12分57秒、ケンカキックで勝利。8月9日、神戸ワールド記念ホール大会で永田裕志と対戦。11分59秒、シャイニング・ケンカキックで勝利。8月10日、愛知県体育館大会でブルー・ウルフと対戦。14分29秒、腕ひしぎ逆十字固めをエビ固めに切り返してフォール勝ち。8月11日、石川県産業展示館・4号館大会で天龍源一郎と対戦。38秒、パワーボムに敗れた。8月13日、両国国技館大会で鈴木みのると対戦。17分32秒、シャイニング・ヤクザキックで勝利。8月14日、両国国技館大会で中邑真輔と対戦。14分36秒、両者リングアウト。4勝2敗1引き分けでリーグ戦を終了。8月15日、両国国技館大会でのAブロック3位決定戦で中邑真輔と対戦。4分39秒、レフリー暴行で反則負け。9月15日、後楽園ホール大会で天山広吉と対戦。17分36秒、シャイニング・ケンカキックで勝利。9月16日、宮城県スポーツセンター大会で天龍源一郎と対戦。15分25秒、シャイニング・ケンカキックで勝利。10月1日、後楽園ホール大会で金本浩二と対戦。9分18秒、邪道と外道のスーパー・パワーボムから体固めでフォール勝ち。10月17日、福岡国際センター大会で天山広吉とランバージャック&チェーンデスマッチ。21分14秒、チェーンを首に巻きつけてのSTFから、シャイニング・ケンカキックで勝利。10月19日、熊本市総合体育館大会で矢野通と対戦。4分53秒、シャイニング・ケンカキックで勝利。11月3日、新日本プロレスの両国国技館大会のメインで「蝶野正洋20周年記念試合」として長州力と組んで天山広吉、永田裕志組と対戦。12分42秒、蝶野がシャイニング・ケンカキックで天山に勝利。11月13日、大阪ドーム大会で長州力と組んで永田裕志、西村修組とイリミネーションタッグマッチ。4分8秒、長州がラリアットでKO勝ち。9分27秒、永田の垂直落下式ブレーンバスターに長州が敗れた。10分38秒、永田のサンダーデスドライバーに蝶野が敗れた。12月9日、広島県立総合体育館小アリーナ大会で西村修と対戦。11分46秒、FTSで勝利。12月11日、大阪府立体育会館大会で永田裕志と対戦。13分23秒、FTSで勝利。

2005

05年1月4日、東京ドーム大会で闘魂杯巴戦に出場。最初に長州と対戦し、6分54秒、スライディング式ケンカキックを決めてフォール勝ち。次に天山と対戦し、11分33秒、FTSで勝利した。1月26日、宮城県スポーツセンター大会での新日本VSブラック・ニュージャパンのシングル勝ち抜き戦にブラック・ニュージャパンチームの4人目として出場し、3人目の真壁刀義と対戦。5分38秒、首固めでフォール勝ち。次戦で西村修と対戦。7分19秒、両者リングアウト。勝ち抜き戦は新日本チームの勝利に終わった。2月20日、両国国技館大会で新日本VSブラック・ニュージャパンの4対4のシングル勝ち抜き戦にブラックニュージャパンの先鋒として参戦し、佐々木健介と対戦。15分時間切れ引き分け。対抗戦はブラック・ニュージャパンの勝利に終わった。3月26日、両国国技館大会でIWGP王座への挑戦権をかけて天山広吉と対戦。19分2秒、アナコンダクロスに敗れた。4月19日、広島サンプラザホール大会でNEW JAPAN CUPに参戦し、1回戦で4代目タイガーマスクと対戦。10分29秒、シャイニング・ケンカキックで勝利。4月21日、後楽園ホール大会での準々決勝で中西学と対戦。14分16秒、ヘラクレスカッターに敗れた。4月23日、四日市市体育館大会で吉江豊と対戦。16分31秒、シャイニング・ケンカキックで勝利。8月4日から始まったG1クライマックスに参戦。開幕戦の福岡国際センター大会で永田裕志と対戦。17分2秒、首固めでフォール勝ち。8月6日、大阪府立体育会館大会で天山広吉と対戦。18分33秒、アナコンダクロスに敗れた。8月7日、大阪府立体育会館大会で鈴木みのると対戦。17分50秒、シャイニング・ケンカキックで勝利。8月8日、横浜文化体育館大会で西村修と対戦。20分55秒、足4の字固めに敗れた。8月10日、ツインメッセ静岡大会で川田利明と対戦。12分14秒、シャイニング・ケンカキックで勝利。8月11日、愛知県体育館大会でケンドー・カシンと対戦。1分45秒、裏STFで勝利。8月13日、両国国技館大会で藤波辰爾と対戦。11分19秒、シャイニング・ケンカキックで勝利。5勝2敗でリーグ戦を突破。8月14日、両国国技館大会での準決勝で中邑真輔と対戦。11分35秒、裏STFで勝利。同日の決勝で藤田和之と対戦。入場時には7月に亡くなった橋本のテーマ曲「爆勝宣言」をイントロに起用したテーマ曲を流した。STF、FTS、膝蹴りでダメージを加え、8分52秒、シャイニング・ケンカキックの連発で勝利。G1クライマックス5度目の優勝。試合後、天にマイクを突き上げた蝶野は「おい、橋本!05年G1チャンプはアイ・アム・チョーノ!!」と勝利を報告した。10月8日、東京ドーム大会でブロック・レスナー、IWGP王者の藤田和之を相手に3WAYでの王座戦。8分8秒、レスナーのバーディクトに蝶野が敗れた。10月30日、神戸ワールド記念ホール大会で天山と組んで棚橋中邑組のIWGPタッグ王座に挑戦。29分31秒、蝶野が裏STFで中邑に勝利。IWGPタッグ王座を獲得した。

2006

06年1月4日、東京ドーム大会で大森、越中組を相手にタッグ王座の防衛戦。19分28秒、蝶野がシャイニングケンカキックで越中に勝利。2月19日、両国国技館大会でジャイアント・バーナード、中西学組を相手にタッグ王座の防衛戦。19分55秒、蝶野がシャイニング・ヤクザキック、天山がラリアットのサンドイッチ攻撃を決めて蝶野が中西にフォール勝ち。3月19日、両国国技館大会で永田裕志、山本尚史組を相手にタッグ王座の防衛戦。23分7秒、蝶野がシャイニング・ヤクザキックで山本に勝利。4月16日、後楽園ホール大会でNEW JAPAN CUPに参戦し、1回戦で棚橋弘至と対戦。25分12秒、スリングブレイド3連発に敗れた。6月10日の大会を最後に左肘の手術のため欠場。8月12日、両国国技館大会で復帰。9月24日、大阪府立体育会館大会で天山広吉と対戦。20分4秒、ムーンサルトプレスに敗れた。10月15日から始まったG1タッグリーグに中邑真輔と組んで参戦。2勝2敗でリーグ戦を突破。11月6日、後楽園ホール大会での準決勝でジャイアント・バーナード、トラヴィス・トムコ組と対戦。8分16秒、中邑のシャイニングウィザードからの蝶野グラウンド・コブラツイストでトムコにフォール勝ち。同日の決勝で棚橋弘至、金本浩二組と対戦。18分32秒、中邑がランドスライドで金本に勝利。G1タッグリーグに優勝した。12月9日、石川県産業展示館3号館大会で真壁刀義と対戦。10分49秒、シャイニング・ヤクザキックで勝利。

2007

07年1月4日、東京ドーム大会のメインで武藤敬司と組んで天山広吉、小島聡組と対戦。18分43秒、蝶野がクロス式STFで天山に勝利。3月11日、愛知県体育館大会でのNEW JAPAN CUP1回戦で長州力と対戦。8分44秒、横入り式エビ固めでフォール勝ち。3月13日、八王子市民会館大会での2回戦で永田裕志と対戦。17分25秒、ロケットキックに敗れた。6月のシリーズを左膝半月板損傷のため欠場。7月6日、後楽園ホール大会で復帰。8月5日から始まったG1クライマックスに参戦。開幕戦の大阪府立体育会館大会で天山と対戦。17分20秒、バッファロースリーパーに敗れた。8月6日、ツインメッセ静岡大会でジャイアント・バーナードと対戦。3分40秒、2段蹴りに敗れた。8月8日、横浜文化体育館大会でと対戦。7分45秒、後頭部へのシャイニングケンカキックからのSTFで勝利。8月10日、愛知県体育館大会で永田と対戦。16分15秒、シャイニングケンカキックで勝利。8月11日、両国国技館大会で真壁と対戦。11分17秒、ダイビングニードロップに敗れた。リーグ戦は2勝3敗に終わった。10月18日から始まったG1タッグリーグに曙と組んで参戦。3勝4敗でリーグ戦を終えた。12月9日、愛知県体育館大会でミラノコレクションA.T.と対戦。13分56秒、シャイニング・ケンカキックで勝利。

2008

08年8月30日、後楽園ホールでの新日本プロレス「PREMIUM」で大森隆男と対戦。大森にとっては休業前の最後の試合、蝶野にとってはその年初めてのシングル戦となった。30分時間切れの引き分けに終わった。

2009

09年8月23日、DDTの両国国技館大会でポイズン澤田JULIEと対戦。17分13秒、雪崩式ブレーンバスターをくらったが、澤田が立ち上がれずにKO勝ち。8月30日、全日本プロレスの両国国技館での武藤敬司デビュー25周年記念スペシャルタッグマッチに出場し、鈴木みのると組んで武藤、船木誠勝組と対戦。21分19秒、武藤のムーンサルトプレスにみのるが敗れた。10月12日、両国国技館で25周年特別興行を開催。メインで武藤、小橋と組んで中西小島秋山組と対戦。23分59秒、シャイニングケンカキックで中西にフォール勝ち。9月27日、神戸ワールド記念ホール大会でカール・アンダーソンと対戦。9分7秒、ダイビングショルダーアタックからのシャイニングケンカキックで勝利。

2010

10年1月22日の沖縄県立武道館大会を最後に新日本プロレスを退団し、フリーに転向。2月13日、兵庫県明石市のワーナーマイカル・シネマズ明石でイベントを行い、映画館でのプロレス映像上映という業界初の試みを実践した。2月22日、IGFのJCBホール大会に来場し、実況席で解説。メイン終了後に小川直也に挑発され、「てめえの試合をちゃんとやってから言え。なんだあの試合。あれがプロレスか」と蝶野が返答した。3月6日、さいたまスーパーアリーナでのゲーム会社コーエー主催のイベント「戦国武将祭」で織田信長に扮してAKIRA(明智光秀)と対戦。ツームストン・パイルドライバーで勝利。7日の大会2日目でもAKIRAと対戦。パイルドライバー、ダイビングショルダーアタックをそれぞれカウント2で返され、納得いかない蝶野がレフリーにケンカキックを見舞う。その隙をつかれてトラースキックからムササビプレスを浴びてしまい、カウント2で返したがレフリーに3カウント取られてフォール負け。11月5日、全日本プロレスの台湾興行に出場。台北・国立台湾大学総合体育館大会で武藤と組んでTARUレネ・デュプリ組と対戦し、14分5秒、シャイニングケンカキックでTARUに勝利。11月6日、台湾興行2日目(同会場)はメインで武藤、船木と組んでKENSO、デュプリ、ドーリングと対戦。20分37秒、武藤がムーンサルトプレスでデュプリに勝利。

2011

11年3月6日、ZERO1の両国国技館大会で、橋本真也の息子の橋本大地と、デビュー戦の相手として対戦。13分38秒、STFで勝利。4月5日、東日本大震災の25日後、アントニオ猪木に率いられ、鈴川真一澤田敦士らと共に、福島県いわき市と宮城県東松島市にある4カ所の避難所を訪問し、支援物資を届けた。8月27日、IGFの両国国技館大会で長島☆自演乙☆雄一郎と対戦。12分58秒、STFで勝利。9月18日、仙台市立蒲町小学校で入場無料のチャリティ興業を開催。メインで新崎人生と組んでAKIRA、気仙沼二郎と対戦。12分7秒、蝶野がシャイニング・ケンカキックからのSTFで沼二郎に勝利。10月3日、新日本プロレスの後楽園ホール大会での天山のデビュー20周年記念試合に出場。天山、ヒロ斉藤と組んで金本大谷西村修組と対戦。22分53秒、天山がムーンサルトプレスで西村に勝利。

2012

12年4月20日、後楽園ホールでの藤波の40周年記念興業に出場。メインでヒロ斉藤、AKIRAと組んで藤波、長州、初代タイガーマスクと対戦。9分24秒、藤波のドラゴンスリーパーにAKIRAが敗れた。

2013

13年3月17日、全日本プロレスの両国国技館大会に出場。ジョー・ドーリング、近藤と組んで曙、中之上組と対戦。7分11秒、ドーリングがレボリューションボムで中之上に勝利した。

2014

14年4月13日、道頓堀プロレスの大阪府立体育会館・第2競技場大会で正岡大介、HAYATAと組んでグラン浜田スペル・デルフィン、HUB組と対戦。12分49秒、HUBのバイパーストライクに正岡が敗れた。

2018

18年2月16日、後楽園ホールでのプロレスリング・マスターズのメインで天山、ヒロ斉藤、AKIRA組のセコンドとして出場し、藤波、長州、ライガー、武藤組と対戦。終盤にリングに上がり武藤にケンカキックを決めた。15分10秒、天山がアナコンダバイスでライガーに勝利。

2023

23年2月21日、ノアの東京ドーム大会で武藤敬司の引退試合を放送席で解説していたが、試合後に対戦を要求されて杖をついてリングに上がり試合開始。1分37秒、サミング、シャイニングケンカキックからのSTFで勝利。



スクラップブック
「右目故障で事実上引退、復帰はない」
(デイリースポーツ 19年5月27日10:00 蝶野の平成プロレス史より)
 新日本は04年6月に藤波辰爾さんから草間政一さん、05年5月にはサイモン猪木さんへと社長が交代し、05年11月には実質的オーナーだったアントニオ猪木さんの全保有株を買い取ったゲーム会社ユークスの子会社となった。
 そこから自分は次第に最前線からフェードアウトしていく。猪木さんが新日本から身を引いたことで、張り合いがなくなってしまったんだ。猪木さんは新日本の創業者、自分はそこに入った人間で、ある意味、親分子分。創業者が会社をつぶしてもしょうがない、10億円持ってこいと言われたら持ってくるしかない、というぐらいに思っていた。
 新しいオーナーがどれだけ会社のことを考えているといっても、プロレスの現場を知らない人間には求心力はない。神輿を担ぐのと同じで、その中には神がいる。神はプロレスラーでないといけない。張り合いがなくなったのは、そういう古い考えで新日本と関わってきたからだろう。今のように成果にしっかり対価がもらえる関わり方だったら、そんなこだわりもなかったかもしれない。そして、10年1月には新日本を退団した。前年の10月には自分の25周年興行を成功させたのだが、その時の会社が対応が素っ気なかったのもあって、契約を更新しなかったんだ。
 その後は全日本プロレスに参戦したり、橋本真也選手の長男、大地選手のデビュー戦で相手を務めたりしたが、14年4月を最後に試合をしていない。05年のG1クライマックス優勝決定戦で藤田和之選手と戦った時に右目が斜視になり、それが限界になったことが一番の理由だ。3本のロープが6本とか、物が二重に見えてしまい、怖くてもう試合はできないと思ったんだ。休業と言っているが、事実上の引退。復帰はない。
 そして今、自分はNWHスポーツ救命協会代表理事、日本消防協会消防応援団、日本AED財団AED大使などの社会貢献活動をしている。50代になって、社会にはいろいろな活動をしている人がたくさんいることを知った。そういう人を応援することが、自分の応援にもなっているんだ。


(スポーツ報知【ヒロ斎藤40周年ヒストリー】(23)「狼群団。脱帽した蝶野正洋のプロデュース力」2019年10月23日12:06配信より)
 「蝶野と話すようになって、彼の考えは自分なんかと全然違うなって思いました。自分は、単純に試合だけをやればいいっていう考えでしたけど、蝶野は、その先も考えて試合をやって、コメントもしていました。それが分かると自分も試合中に今、蝶野は、こう考えているんじゃないかと予想するようになって、蝶野のためには、こうやった方がいいのかなって考えながらリングに上がっていたんです。そうすると、次第に蝶野の考えが分かるようになってきて、オレはこうやったら次に天山がこうやるだろう、それで最後は蝶野が締めるだろうってお互いが言葉を交わさなくてもやりたいことが分かるようになったんです」
 目の前の試合だけでなくその先の展開を常に考えながら動く蝶野にヒロは共鳴した。
 「正直言って武藤(敬司)も橋本(真也)も自分のことしか考えていないんです。だけど、蝶野は常にみんなのことを考えていて、他の選手が見ている場所よりもそれ以上の所にいるんですね。そのおかげで自分なんかも名前が知られるようになって、蝶野はすごいなって、後輩なんですけど逆に先輩に見えてきました。ハッキリ言って蝶野は長州(力)さんたちよりレベルが上でした」
 ただひとつ不満があった。
 「試合終わって、マイクで蝶野が良いことを言うんです。横で聞いていて“蝶野はいいこと言うなぁ”って思っていると、“ねぇ、ヒロさん”ってオレにマイクを振るんですよ。あれには、いつも困りました(苦笑)。だって自分は口下手で何を話せばいいのか分かりませんから、そこだけが蝶野の気に入らないところでした(笑)」


(2021年12月31日11:16配信 Number Webより)
――首を悪くされたのは、30歳になる前くらいですか?
蝶野 俺の場合はもっと早くて、新人時代からだね。素顔時代の(獣神サンダー・)ライガーのパワーボムを食らった時、自分はその技の受け身がまだわかってなくて、試合中にビーンと電気が走ったのが最初なんですよ。それで2シリーズくらい休んで復帰できたんだけど、一時は「これはもしかしたらこのまま引退じゃねえか・・・」っていうくらいだったんで。
――すでに新人時代から首に爆弾を抱えてたんですね。92年の9・23横浜アリーナで、スティーブ・オースチンのパイルドライバーで首を痛めたのは有名ですけど。
蝶野 あれはオースチンが原因じゃなくて、2回目のG1クライマックスが始まる前、札幌で越中(詩郎)さんとやったとき、すでに痛めてたんですよ。
ーーもしかして、またパワーボムですか?
蝶野 パワーボムだね。越中さんのパワーボムがまたしょっぱいんだよ(笑)。思いっきり上まで持ち上げて落とすから。それで大きく受け身を取ったんだけど首を痛めて。G1は痛み止めを打ちながら決勝のリック・ルード戦までやって。首を痛めたまま、9月にスティーブ・オースチンとの試合で、またドカーンとやっちゃったんだよ。
――そんな過酷な状況だったんですね。
蝶野 しかも、当時はNWA(世界ヘビー級)のベルトを持ってたんで、すぐにアメリカに行かなきゃならなくて。結局12月まで、半年近く首が痛くて夜も眠れないような状態で試合を続けてたんだよね。
――その後は、なんとか良くなったんですか?
蝶野 良くはなってないけど、だましだまし続けていて。次に98年にnWo JAPANをやっていたとき、初めてIWGPヘビー級のベルトを巻いたんだけど。また日本とアメリカを行ったり来たりする生活が続いていたんで、疲労で首の痛みが再発して。試合中に受け身を取ったら足まで痺れちゃって。病院に行ったら頸椎ヘルニアがひどくて、「これはもう危ないぞ」って言われて、ベルト返上して、また4カ月くらい休むことになってね。
――nWo JAPAN総帥、IWGPヘビー級王者として、日米で大活躍していたときに、首が悲鳴を上げてしまった、と。
蝶野 当時はなかなか休みがないし、4大ドームツアーなんかがあったり、ビッグマッチがやたら多かったんですよ。それでオフにはアメリカのWCWにも出るっていうのが続いていたんで、もう体が限界でしたね。