レスラーノート

ダニー・ホッジ

DANNY HODGE

本名:ダニエル・アレン・ホッジ
1932年5月13日
オクラホマ州ノーブル・ペリー(カウンティー説あり)出身
178cm 100kg

通称
怪鳥
タイトル歴
NWA世界ジュニア
TWWA世界ヘビー
インタータッグ
得意技
オクラホマクレイドルホールド(揺りイス固め)

「怪鳥」の異名。最強のジュニアヘビー級選手と呼ばれる。少年時代からアマチュアレスリングを学ぶ。高校卒業後、海軍に入隊。52年、19歳でヘルシンキ・オリンピックにレスリングのフリースタイルで出場。3回戦で敗退した。その後、オクラホマ大学に入学し、レスリングで大活躍。NCAA(全米大学体育協会)の通算成績は46戦全勝(36のフォール勝ち)となり、スタンディングの体勢から一度もテイクダウンを奪われなかった。56年にメルボルン・オリンピックに出場してフリースタイルの174ポンド級で銀メダルを獲得。大学卒業後、57年からヘビー級アマチュアボクサーとして活躍。58年3月24日にゴールデン・グローブ・ヘビー級全米王者になる。アマチュアボクシングでは無敗を誇った。6月10日にプロボクサーとしてデビュー。59年7月に引退を表明。プロでの通算成績を8勝2敗。10月、オクラホマのプロモーターで元NWA世界ジュニア王者のレロイ・マクガークにスカウトされてデビュー。マネージャーについたエド・ストラングラー・ルイスのトレーニングを受けて実力をつける。60年7月22日、アンジェロ・サボルティを破りNWA世界ジュニア王者となる。以後、NWA世界ジュニア王座を管理するリロイ・マクガークが運営するトライステート地区(オクラホマ、ルイジアナ、ミシシッピー、アーカンソー)を中心に活動。同王座には通算12年5ヶ月も君臨した。67年1月、国際プロレスの旗揚げシリーズに王者として来日。1月5日、開幕戦の大阪府立体育会館大会でヒロ・マツダを相手に防衛戦。60分時間切れ引き分けの熱戦を演じた。68年1月に国際プロレスに2度目の来日。1月24日、台東体育館大会でTWWA王者のルー・テーズに挑戦。テーズに勝てる日本人の不在(草津杉山、豊登は敗退)、大木の出場キャンセルという事情があったため、この試合が日本初の外国人同士のタイトルマッチとなった。ホッジは次期シリーズに残留が決まっていたが、テーズはこのシリーズで帰国してしまうため、作ったばかりのベルトを海外に持ち出されてしまうのを防ぐ必要があった。1本目は30分50秒にテーズの勝利、2本目は18秒にホッジの勝利、3本目は4分46秒にホッジの勝利。テーズを破りTWWA世界ヘビー級王座を獲得した。ホッジがテーズに勝ったのはおそらくこの1度だけである。4度目の来日となった68年1月には日本プロレスでウィルバー・スナイダーと組んで馬場猪木組を破りインタータッグを奪取。74年7月に全日本プロレスに登場(選手としては最後の来日)。鶴田と30分時間切れ引き分けの好勝負を演じる。76年3月にマツダを破りNWA世界ジュニア王座に返り咲いた直後の15日、運転していた車が運河に転落。首の骨を折って王者のまま引退。85年5月、新日本プロレスにレフリーとして来日。引退後は調理器具の販売会社に入社。オクラホマではアマレスのコーチを務めた。05年10月15日、高円寺にある道場「UWFスネークピッド・ジャパン」でのトークショーのため来日。トークショーでは道場のコーチ、ビル・ロビンソンと約3分間のスパーリングを行った。08年10月24日、両国国技館でのプロレスエキスポに来日。開会式でリンゴ潰しパフォーマンスを披露。25日の午前の部でも登場し、リンゴ潰しパフォーマンスを披露。午後の部では閉会式でスピーチし「世界中からこのようなすばらしい選手が集まって、すばらしいイベントとなりました。優勝するのは1人、1チームですが、みなさん全員がチャンピオンです」と静かに語った。14年5月26日、UWFスネークピットジャパンの招きで来日。5月30日に「アメリカン・キャッチレスリング・セミナー」を開催。5月31日に「スペシャル・トークイベント」を開催した。20年12月24日、オクラホマ州ペリーの病院で死去。