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ストロング小林本名:小林省三1940年12月25日 東京都青梅市出身 188cm 108kg |
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通称
怪力無双
タイトル歴
IWA世界ヘビー
IWA世界タッグ USAヘビー 北米タッグ 得意技
カナディアン・バックブリーカー
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青梅農林高では野球部で活躍。卒業後、国鉄で勤務する傍らボディビルで身体を鍛えボディビルダーとしてテレビにも出演したことがある。後楽園の田辺ジムでボディビルを鍛えた。
66年10月、日比谷公会堂でのボディビルコンテストを観戦中に国際プロレスの吉村社長に勧誘され、国際プロレスへの入団を決意する。
67年7月にマスクマンの覆面太郎として大磯武を相手にデビュー。ダイビング・ボディプレスで勝利。日本人初の覆面選手だった。マスクマンでの成績は14勝1引き分け。
68年1月、TBSの放送が開始されると素顔で再デビュー。10月に欧州に遠征。
69年5月、豊登と組んでIWA世界タッグ王座を獲得。6月に帰国し、ストロング小林に改名。6月27日、足利市月見ヶ丘学園会館大会でのウィリアム・ホール戦で凱旋帰国試合。3本勝負で行われ、1本目は10分50秒、ベアハッグからコーナーポストにぶつけ、ワンハンド・バックブリーカー、ボディスラム、ニードロップ2連発を決めてKO勝ち。2本目は立ち上がれないホールが試合放棄した。
70年8月に再渡欧。冬にはアメリカのAWAに転戦。
71年6月にビル・ミラーからIWA世界王座を獲得し(実際には試合は行われていない)凱旋帰国。7月6日、東京都体育館大会での帰国第1戦でチャック・カルボにバックドロップで勝利して初防衛に成功。以後、IWAヘビー級王座を25回防衛し、国際プロレスのエースに君臨。
72年6月18日、盛岡市体育館大会での決勝でモンスター・ロシモフを破り第4回IWAワールドシリーズに優勝。7月7日、大田区体育館大会での王座決定戦でグレート草津と組んでビル・ミラー、バロン・シクルナ組を破りIWA世界タッグ王座を獲得。
73年11月9日、ワフー・マクダニエルに敗れてIWA王座から転落。11月14日にワフーに勝利して王座奪回。2度の防衛に成功したが、
74年2月にフリー宣言し、国際プロレスを離脱。3月19日、新日本プロレスの蔵前国技館大会でアントニオ猪木と対戦。猪木にとってはNWF王座の初防衛戦でもあった。日本人のエース対決ということで、会場は16,500人もの空前の観客数であふれかえり、入場できなかったファンが3,000人いたともいわれている。フルネルソン、アームブリーカー、ベアハッグとパワー殺法を全開。猪木のコブラツイストからもつれ合って両者が場外転落し、鉄柱攻撃で猪木の額を流血させ、ロープ越しのブレーンバスター、さらに必殺のカナディアン・バックブリーカーで勝負を決めにかかったが、猪木に体を切り返されてリバーススープレックスからバックドロップをくらってしまう。最後は29分30秒、ジャーマンスープレックスにフォール負け。敗れはしたが歴史に残るベストバウトとして語り継がれた。プロレス大賞のベストバウトも受賞。その後、フロリダに遠征。3ヶ月間、パク・ソン・ナムと組んで覆面コンビのコリアン・アサシンズとして活躍。7月からはWWWFにも登場した。
75年1月、フリーとして新日本プロレスにシリーズ参加。5月、新日本プロレス入団。
76年には坂口とのコンビで北米タッグ王座、アジアタッグ王座を獲得。北米タッグ王座は3年2ヶ月保持していた。
77年9月21日、フィラデルフィアでブルーノ・サンマルチノのWWWF王座に挑戦。11月18日、マディソン・スクエア・ガーデンでペドロ・モラレスと対戦。チーフ・ジェイ・ストロンボーと抗争した。
78年4月4日、フィラデルフィアでバッファロー・アレンと異種格闘技戦を行い、カナディアン・バックブリーカーで勝利。
81年10月16日の試合を最後に腰痛のため長期欠場。
82年に映画「伊賀忍法帖」に金剛坊役で出演したのを機にストロング金剛に改名。レスラーとしての復帰を目指していたが、84年8月26日に福生市民体育館大会で引退式を行ない現役を引退。引退後はタレントとしてテレビ、映画などで活躍。 18年から下半身が動かなくなり、青梅市内の特別養護老人ホームで1週間のうち4日間、青梅市内の自宅で3日間生活。21年から老人ホームで生活。11月、肺を患い青梅市内の病院に入院。12月31日、のう肺により死去。
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