レスラーノート

スタン・ハンセン

STAN HANSEN

本名:ジョン・スタンレー・ハンセン
1949年8月29日
テキサス州ナックシティ出身
195cm 140kg

通称
不沈艦
タイトル歴
三冠ヘビー
PWFヘビー
インターナショナル
UNヘビー
AWA世界ヘビー NWF世界ヘビー WCW・USヘビー 世界タッグ
インターナショナルタッグ
PWFタッグ
NWA・USタッグ(トライステート版)
得意技
ウエスタンラリアット

入場テーマ曲はサンライズ。通称、不沈艦。ウエスト・テキサス大学に入学後、NFLのボルチモア・コルツで活躍していたが、ヒザの故障で退団。その後一年間、大学に戻り卒業。卒業後、サンディエゴ・チャージャーズの一軍テストに参加するが、知人の紹介で教職につく。9月から12月まで中学で地理の授業とフットボールのコーチをする。教師の給料が少ないのを理由にプロレス転向を決意。テキサス州アマリロのドリー・ファンク・シニアのコーチを受ける。

1973

73年1月1日にデビュー戦を行い、エル・パソ体育館大会でアレックス・ペレスと組んでジェリー・コザックニック・コザック組と対戦。ペレスがレフリーを暴行して反則負け。3ヶ月後にフロリダに転戦。8月にアマリロ地区に復帰。

1974

74年8月、トライステート地区(オクラホマ&ルイジアナ地区)でフランク・グーディッシュ(ブルーザー・ブロディー)とタッグを結成。10月、グーディッシュと組んでジョニー・イーグルス、テリー・ラザン組を破りUSタッグ王座を獲得。

1975

75年9月、全日本プロレスに初来日。11月、ダラス地区に転戦。ブッカーのレッド・バスチェンにヒールとして抜擢され、メインイベントにもたびたび出場した。この頃からウエスタン・ラリアットをフィニッシュにするようになった。ハンセンを大スターに押し上げた「ウエスタン・ラリアット」はアメフトのカウンター・タックルからヒントをつかみ、あみ出された。ブルーザー・ブロディーとはオクラホマ時代からコンビを組んでおり、長くUSタッグ王座を保持していた。

1976

76年4月、ニューヨークのWWWFに進出。4月26日、マディソン・スクエア・ガーデン大会でブルーノ・サンマルチノのWWWFヘビー級王座に挑戦。ボディスラムを失敗し、サンマルチノの首を負傷させ、ドクターストップ勝ち。規定により王座の移動はなかった。サンマルチノは第六頚部脊椎骨骨折の重傷を負い、長期欠場。一夜にしてWWWFのトップヒールとなった。6月25日、シェアスタジアム大会で、復帰したサンマルチノと対戦。リングアウト負けに終わった。

1977

77年1月から新日本プロレスに参加し、アントニオ猪木の好敵手となる。全日本プロレスに電撃移籍するまで5年間で14回にわたって来日し、通算9回、猪木とNWF戦を行っている。2月8日、東京体育館で猪木からNWF認定ヘビー級王座を初奪取。猪木に奪われるまで2ヶ月間保持。

1979

79年4月、新日本プロレスの第2回MSGシリーズに参戦。6月7日、蔵前国技館大会での決勝で猪木と対戦。9分3秒、ダイビング・ボディシザースドロップに敗れた。

1980

80年4月、新日本プロレスの第3回MSGシリーズに参戦。6月5日、蔵前国技館大会での決勝で猪木と対戦。7分49秒、反則負け。

1981

81年5月、新日本プロレスの第4回MSGシリーズに参戦。6月4日、蔵前国技館大会での決勝で猪木と対戦。7分45秒、リングアウト負け。9月23日、田園コロシアムでアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。「不沈艦」対「大巨人」の大迫力のパワーファイトが展開。アンドレをボディスラムで投げつけた。試合は8分26秒、両者リングアウトで終わったが延長戦が行われ、ラリアットを放ってアンドレを場外に転落させた。最後はアンドレがレフリーにラリアットをしたため、4分22秒、ハンセンの反則勝ちに終わった。

1982

82年1月から全日本プロレスに参戦。2月4日、東京体育館大会でジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦。執拗な左腕への攻撃を受けつつもラリアットを決めたが、馬場が場外にエスケープしたためフォールを奪うことができず、そのままレフリーを巻きこんでの場外乱闘となり、12分39秒、両者反則により引き分け。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。

1983

83年9月、ジャイアント馬場からPWFヘビー級王座を獲得。3度の防衛に成功した。

1985

85年9月ごろからAWAに登場。12月29日、ニュージャージー州メドーランズ・アリーナでAWA王者のリック・マーテルに挑戦。27分5秒、逆エビ固めで勝利してAWA世界ヘビー級王座を獲得し、6ヶ月間保持。

1986

86年9月、ジャンボ鶴田からインターナショナル王座を奪取。これを機に王座統一(三冠)を目指す。

1988

88年7月27日、長野市民体育館大会で天龍源一郎のPWF、UN王座に挑戦。14分33秒、エプロンからコーナーに登ろうとした天龍にラリアットを決めてリングアウト勝ち。二冠王座を獲得。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。

1989

89年4月、ジャンボ鶴田との三冠統一戦に敗れる。

1990

90年2月10日、新日本プロレスの東京ドーム大会でベイダーのIWGP王座に挑戦。外国人頂上対決となり、大迫力の試合となった。ハンセンのヒジがベイダーの右目に当たり、腫れあがっても試合を続行。予告ラリアットはドロップキックで返され、強烈なベイダーハンマーをくらったが、ロープの反動でハンセンがラリアット。ラリアットをくらってもベイダーは倒れなかった。15分47秒、両者リングアウトの引き分けの結果だったが強烈な印象を残した。6月8日、テリー・ゴディを破り三冠王者となる。6月12日、新日本プロレスの福岡国際センター大会でベイダーのIWGP王座に挑戦。22分11秒、両者反則の引き分けに終わった。7月に王座決定戦で三沢光晴を破り、再び三冠王者となる。

1991

91年4月、ダニー・スパイビーと組んで、テリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムス組から世界タッグ選手権を獲得した。

1992

92年1月、鶴田から1年ぶりに三冠王座を奪回し、第9代王者に返り咲いた。4月のチャンピオン・カーニバルでは全勝優勝を飾り、三冠王者としての威信を示した。6月5日、日本武道館大会で川田利明を相手に防衛戦。強烈なラリアットで勝利。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。

1993

93年、チャンピオンカーニバルで2連覇を達成。7月29日、日本武道館大会で小橋と対戦。22分35秒、ラリアットで勝利。WWFを離脱したテッド・デビアスと6年ぶりにコンビを結成。9月3日、日本武道館大会でテッド・デビアスと組んで川田、田上組の世界タッグ王座に挑戦。13分12秒、ハンセンがラリアットで田上に勝利。世界タッグ王座を獲得した。10月14日、松本市総合体育館大会で川田、田上組を相手にタッグ王座の防衛戦。18分15秒、ハンセンがラリアットで川田に勝利。10月23日、日本武道館大会のメインで三沢の三冠王座に挑戦。22分10秒、前方回転エビ固めにフォール負け。

1995

95年1月25日、福島市体育館大会で田上を相手に三冠王座挑戦者決定戦。17分59秒、ラリアットで勝利。3月4日、日本武道館大会で川田の三冠王座に挑戦。31分26秒、ラリアットで勝利。三冠王座を獲得した。5月26日、札幌中島体育センター別館大会で三沢を相手に防衛戦。25分6秒、ヘッドシザース固めにフォール負けして王座転落。

1996

96年1月24日、松本市総合体育館大会でゲーリー・オブライトと組んで川田、田上組の世界タッグ王座に挑戦。22分40秒、ハンセンがラリアットで川田に勝利。世界タッグ王座を獲得した。2月20日、岩手県営体育館大会で川田、田上組を相手にタッグ王座の防衛戦。20分53秒、田上ののど輪落としにハンセンが敗れて王座転落。9月5日、日本武道館大会で小橋の三冠王座に挑戦。26分7秒、ラリアットに敗れた。

1998

98年年末の世界最強タッグ決定リーグ戦ではベイダーと組んで優勝。98年度のプロレス大賞でベイダーと共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1999

99年年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では田上と組んで参戦。12月3日、日本武道館大会で小橋、秋山組を相手に優勝決定戦。20分15秒、秋山のエクスプロイダーに田上が敗れた。

2000〜

00年、ジャイアント・シリーズ中に行われた、新・三冠王者決定トーナメントでは、1回戦で新崎人生と対戦。得意のウエスタン・ラリアットで勝負を決めたが、試合途中から持病の腰痛を悪化。下半身の感覚が無くなっていた。その後、2大会を欠場してまで備えた準決勝では、7月に全日プロに復帰したばかりの天龍源一郎と対戦し、惜しくも敗れる。その後、1月28日の東京ドーム大会までの長期欠場が発表される。11月19日、後楽園ホールのリング上で、全日本プロレス馬場元子社長より引退表明がアナウンスされ、01年1月28日の東京ドーム大会で引退セレモニーが行われた。引退後はPWF会長に就任。たびたび全日本プロレスに来日した。15年11月15日、両国国技館での天龍の引退興行に来場。テリー・ファンクと共にリングに上がり、引退試合を終えた天龍に花束を渡した。
スクラップブック
不沈艦ハンセン ラリアット誕生秘話、3度の大手術
(2020年4月8日14:10配信 日刊スポーツより)
現役時代と同じテンガロンハットをかぶったハンセンさんは、取材中ずっと柔和な笑顔だった。リングに別れを告げて18年。19年8月には70歳の古希を迎えた。目尻を下げて穏やかに語る姿に、あのたけだけしい“不沈艦”の片りんはなかった。
「週に5、6回はジムに通って、自転車をこいだりしています。それから日本人の妻が心臓外科の看護師をしているので、私が代わりに毎日食事の準備をします。昔は肉ばかり食べていましたが、今は週に1、2度ほどで、魚を週2、3度食べるようになりました。ベジタリアン(菜食主義者)ではありませんが、野菜もすごく食べるようになりました。いい生活です」
現役時代は195センチ、140キロの巨体を生かした桁外れのパワーとタフネスで、日本人レスラーたちの高い壁となり、その妥協のない全力ファイトは日本のファンからも支持された。一方で長い間、肉体を酷使し続けた代償は決して小さくなかった。
引退直後に2度の大手術を受けた。1つは背中の腫瘍の除去手術。マットにたたきつけられ続けた影響でできた背中の腫瘍が、脊椎を圧迫して体の一部がまひしていたためだ。もう1つが関節が摩耗して、骨が砕けていた両ひざに人工関節を入れる手術だっだ。幸い日常生活を送れるまで回復したが、代償はそれだけではなかったという。
「実はその後、両肩も手術して人工関節に取り換えました。これから右手首も手術する予定です。でも、それ以外は今のところ健康です。気分はいいですし、元気ですよ。たぶんね(笑い)」
アメリカンフットボールの選手だったハンセンさんは、ウエスト・テキサス大を卒業した72年、NFLのボルティモア・コルツに入団したものの、ほどなくして解雇された。ちょうどその頃、大学の先輩で日本でも人気レスラーだったテリー・ファンクの誘いを受けてプロレスに転向した。
75年、26歳の時に全日本プロレスに参戦するため初来日した。77年には新日本と契約してアントニオ猪木の宿敵としてトップ外国人レスラーに君臨。81年の全日本復帰後は馬場、鶴田、天龍、三沢ら日本の歴代王者らと名勝負を繰り広げた。どの試合も激しく、白熱した。あのタフネスとパワー、無尽蔵のスタミナはどうやって身に付けたのか。
「自分のストロングポイントは実はパワーではなく持久力でした。だからパワーより心肺機能を高めてスタミナをつける練習を重視していました。毎日、朝食前にホテルの階段を上り下りするトレーニングを続けていたのです。それが私のプロレス人生を支えてきたのだと思っています。あの(225センチ、230キロの大巨人)アンドレ・ザ・ジャイアントとの対戦前だってパワー系の特別なトレーニングはしていません。試合の流れの中でチャンスをうまくつかもうと考えていました」
そのハンセンさんのファイトスタイルは、見事に日本のプロレスにマッチした。当時、いわゆるWWF(現WWE)に代表されるキャラクターやストーリーを重視するエンターテインメイト色の強いアメリカンスタイルのプロレスは、桁外れのパワーや、筋骨隆々の肉体などの分かりやすさが重宝されていた。ハンセンさんが目にした日本のプロレスはまったく異質だったという。
「日本のプロレスは特別でした。ファイトスタイルも試合運びも異なりました。他の国よりもスピードがあり、フィジカルも強かった。選手はすごく一生懸命トレーニングをしていたし、試合内容もとてもタフでした。多くのアメリカ人レスラーは、パワーがあっても、日本のプロレスに対応できるだけのスタミナがなかった。だから日本で戦うことはとても難しかった。これまでの長い歴史の中で、海外から日本にきて成功したレスラーは15人くらいしかいないと思います。それだけタフなリングでした」
ハンセンさんも自分のスタイルを「ジャパニーズスタイル」に適応させたという。そして、いつしか日本人をもしのぐスタミナとタフネス、スピードでハンセンさん自身がジャパニーズ・スタイルのけん引車になった。
「私は最初は(エンターテインメント色の濃い)アメリカンスタイルでしたが、彼らとの戦いを重ねて、あの激しい日本のプロレスに変わっていったのです。あの時代、日本のレスラーたちみんなが、あのスタイルを好んでいました。だからトレンドになった。私もその力になれたと思っています」
馬場、猪木、鶴田、天龍、三沢、小橋・・・日本のリングで一時代を築いたトップレスラーとの幾多の激闘は、世代をまたいで日本のプロレスファンを熱狂させ続けた。それはハンセンさんにとっても貴重な財産になっている。
「みんなスタイルが違うし、試合運びも違う。だからそれぞれ違う思い出があり、すべて懐かしいメモリーだ。トップ選手はみんな強い技、ストロングポイントを持っていました。例えば馬場には大きくて強い足があった。鶴田にはジャンピング・ニーパットがあった。もちろん天龍にもありましたよ。私はいつもそれを気をつけながら戦っていました。だから今の選手も自分のスタイル、自分のストロングポイントを見つけて、そこにフォーカスすればいいと思います」
そしてハンセンさんの代名詞になったのが必殺技ウエスタン・ラリアット。黒いサポーターを巻いた左腕をフルスイングして、相手の首にたたきつける豪快なオリジナル技は、一撃で失神させる破壊力で一世を風靡(ふうび)した。
「今では禁止されているアメフトの(相手の突進を止める)タックルをヒントに考えました。プロレスでは私が最初に使った技だと思います。アメリカではクローズラインとも呼ばれますが、故郷のテキサス州の言葉だったラリアットと名付けたのです」
野球に熱中した2人の息子は、プロレスラーにはならなかった。06年には兄弟そろって米国高校選抜の一員として来日。長男のシェーバーさんは内野手として09年に米ドラフトでマリナーズから6巡目指名されるほど実力があった。その縁でハンセンさんも地元コロラド州ホッチキスで息子が所属する少年野球チームの監督をしていた。今ではそんな父親業からも卒業して、孫に囲まれた生活を満喫しているという。
「毎日、1時間半ほどのトレーニングを終えてから、息子の2人の娘を幼稚園に迎えに行きます。その“おじいちゃん業”が、今の私の一番の仕事なんです」


ハンセンがいきなり全日本のリングに。ホーガンの移籍ドタキャンで結成されたブロディとの「最強タッグ」
(2021年9月17日10:55配信 webスポルティーバより)
 1973年にプロレスデビューしたハンセンは、2年後に全日本プロレスの興行で初来日した。当時はほとんど注目されなかったが、1976年にWWWF(現WWE)に参戦すると、同年の試合で「必殺技「ウエスタンラリアット」で王者ブルーノ・サンマルチノの首を折った(※)」という触れ込みで、一躍スポットライトを浴びることになる。
(※)実際はハンセンがボディスラムで手を滑らせ、サンマルチノが首を強打して骨折したと言われている。
 そして1977年からは新日本プロレスに参戦。以後、アントニオ猪木のライバルとしてトップ外国人レスラーの地位を築いた。
 そのハンセンに転機が訪れたのが1981年12月だった。新日本にアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜かれた全日本が、逆にハンセンを引き抜いたのだ。12月13日に蔵前国技館で行なわれた「世界最強タッグ」最終戦で、ザ・ファンクスと対戦するブロディ、ジミー・スヌーカ組のセコンドに就いてファンを驚かせた。
 和田は、大事件になったハンセン引き抜きに至る秘話を明かした。
「ハンセンの引き抜きを主導したのはテリー・ファンクなんです。テリーとドリーは、全日本の外国人を招聘する「ブッカー」の仕事もしていたので、ブッチャーを引き抜かれた仕返しに、新日本さんの外国人を引き抜いていった。
ただ、最初はハンセンではなくて、ハルク・ホーガンに声をかけたんですよ。馬場さんもテリーのアイディアに乗って、交渉を任せたんですね。それでホーガンも一度はOKしたんですが、土壇場になって「やっぱり、ニュージャパンに残る」と決断を翻した。これにテリーが激怒して、ホーガンが泊まっていた新宿のホテルに弟分のディック・スレーターと一緒に乗り込んだんです。
 それ以降、ホーガンは2度と全日本には関わらなかった。それでテリーはハンセンにターゲットを変えて、引き抜きに成功したんですよ」
 ハンセンは、デビュー時にドリーとテリーからプロレスの指導を受けており、そうした縁から移籍が実った。初登場した蔵前国技館の控室で、和田はハンセンの姿を目撃している。
「試合前に控室へ行くと、ハンセンがテンガロンハットを被ってブロディたちと会話していたんです。その時点で俺は事情を知らなくて、2人は同じ大学(ウエスト・テキサス州立大)の同級生だったから「仲がいいから遊びに来たのかな」と思っていた。それが、入場で一緒に出てきたから驚きましたよ。場外戦でテリーにラリアットを食らわせたりしたので、『全日本に来るんだ』とわかりましたけど、とにかくあの登場は衝撃的だったよ」
 1982年1月から全日本に参戦したハンセンは、そこでも一気にトップ外国人レスラーとして活躍した。
「全日本への参戦が決まった時、馬場さんとハンセンの間で約束を交わしたんです。それは、具体的な額はわからないけど、破格のギャラと、年間全シリーズに呼ぶという約束。馬場さんの「俺が目の黒いうちは保証する」というお墨つきです。
 さらにアメリカとの往復の飛行機はファーストクラス。待遇は全日本の歴史を振り返ってみてもトップでしょうね。これは有名な話ですが、いつもハンセンは日本に手ぶらで来るんだけど、帰りはアタッシュケースを持って帰った。その中には、『ドルの札束が詰まっていた』という都市伝説があるくらい稼いでいましたね」
リング上では、ウエスタンラリアットを振り回して猛威を振るっていたが、実は極度の近視で視力が悪かった。
「試合中はコンタクトもしてないから、ラリアットがどこに当たるかわからない。だから相手は怖がっていましたよ。馬場さんも「あいつは、どこへ突っ込んでいくかわからない」と苦笑いしていました。
 お客さんにも迷惑をかけてね。一度、大阪の試合での入場で、トレードマークだったブルロープを振り回したら、最前列に座っていたおばあちゃんに当たってしまって。さすがにハンセンも「マズイ」と思ったのか、リングサイドを一周したあとにおばあちゃんのところに行って、耳元で「ごめんなさい」と囁いて謝っていましたよ(笑)」
 そして試合から離れると、意外な行動を見せていたという。
「彼は地方に行くと、ひとりでお寺を巡るのが好きでね。俺も、お寺でハンセンを何度か見たことがありました。スタッフに聞いた話では、日本の神社仏閣が好きで、時間があればお寺を回っていたそうです。もしかしたら、日本人よりもいろんな寺や神社に行っているかもしれないね」
 そんなハンセンは、自分の試合を和田がレフェリングすることに難色を示していたという。1972年の旗揚げから1980年代中盤まで、全日本のメインレフェリーはジョー樋口で、和田は"その下"だった。
「ハンセンと俺には、簡単に言うと信頼関係がなかったんです。ハンセンには『俺の試合を裁くのは、ジョーさんだ』というプライドがあって、『和田京平は格下だ』みたいな感じだったんだと思います」
 ハンセンが和田への態度を変えたのは、馬場が亡くなり、2000年6月に三沢光晴らが大量離脱して「プロレスリング・ノア」を旗揚げし、全日本が分裂した時だった。分裂直後のシリーズに参戦したハンセンが、団体に残留した和田を見た時に感激を露わにしたという。
「控室でハンセンが俺を見て、向こうから握手を求めてきたんです。「お前は、三沢と仲がよかったのになんで残ったんだ」と感動してくれて、『お前は裏切らなかったのか』って手を握りしめられてね。その時、初めてハンセンから認められたんです。それからは、俺が試合を裁くことも快く受け入れてくれましたよ」


【プロレス蔵出し写真館】「ハンセン失神事件」から始まった潰し合い その時、天龍は笑った
(2021年5月2日10:00配信 東スポwebより)
 今から33年前の昭和63年(1988年)3月5日、秋田市立体育館でその事件は起こった。テリー・ゴディと組み、天龍源一郎&阿修羅原の「龍原砲」と対戦したハンセンは、龍原砲のサンドイッチラリアートからのサンドイッチ延髄斬りを食らいダウン。蹴った天龍が右足の甲を押さえて痛がるほど、強烈な蹴りがハンセンの左顔面にさく裂したのだ。
 意識が飛んだハンセンは、寝たままの状態で動かなくなってしまった。原のストンピングにも反応はなく、フォールにいくとそれはゴディがカット。ハンセンの異変に気づいたゴディは原、天龍を場外へ放り、天龍と乱闘を展開した。
 1分近く失神していたハンセンは、覚醒すると怒髪天の形相で場外にいた天龍に向かい、リング内からダイブした。巨体のハンセンがなんとトペスイシーダばりに飛びついた。
 その後は、殴る蹴る、イスを叩きつける。大振りの平手で天龍の顔面をフルスイングするなど、錯乱状態で誰も手を付けられない状況に陥った。まさにブレーキの壊れたダンプカー≠セった。さんざん天龍を痛めつけると、テレビ解説席の本紙・山田隆記者にまで八つ当たり。返す刀でゲスト解説のジャイアント馬場の胸元にもチョップ一発を見舞って引き揚げた。
 ハンセンは、控室に引き揚げた後も怒りが収まらなかったようで、天龍がいる控室を探しまわった。
 天龍の控室に飛び込んできた和田京平レフェリーが天龍、そして取材していた報道陣に「ハンセンがあちこち探し回っているから、早く会場から出た方がいいです」と伝えてくれた。天龍と原は裏口から、マスコミの中には窓から外に出た者もいたほど、皆ほうほうのていでその場を離れたのだった。
 ハンセンは翌6日、青森・三沢大会ではメインに出場したのだが、セミの試合に出場する天龍を試合前に襲撃するという暴挙も働いた。
 そんな背景もあり、9日に横浜文化体育館で行われたPWF王者・ハンセンとUN王者・天龍とのダブルタイトル戦は、非情にごつごつとした武骨な試合となった。ハンセンのニースタンプ、エルボードロップはエグかった。まさに潰しにかかるという表現がしっくり。
 試合は天龍が首固めで勝利し2冠王になったのだが、試合後のハンセンの行為に切れた天龍はハンセンの控室を襲った。原とゴディに止められたものの、控室から通路に出て来てまでやり合っていた。
 その後のシリーズでも同様に、ハンセンは天龍の試合に乱入し、天龍を入場時に襲うという行為を繰り返す。それは、7月27日に長野市民体育館で天龍を破りPWF&UNヘビー級2冠を奪取する前日まで続いた。
 天龍は試合後、長野市内の急病センターに直行して15針を縫った。それでも、胸中はわからないが、病院を後にする天龍の表情が晴れやかで、笑顔を見せてくれたのは意外だった。
 本紙で連載中の「龍魂激論」でホスト役の天龍は前田日明との対談で、ハンセンがずいぶん経ってから「実はPass Out(気絶)した」と認めたと語っていた。ハンセンの新日本、全日本プロレスでトップを張った外国人レスラーとしてのプライドをみた思いだった。
 さて、長年のレスラー生活の代償も大きく、今ではハンセンの両ひざ、両肩が人工関節。天龍は先日、うっ血性心不全で入院していたが退院して関係者、ファンを一安心させてくれた。まだまだ二人には老け込まず、元気でいてほしい。