レスラーノート

ジョニー・バレンタイン

JOHNNY VALENTINE

本名:ジョナサン・ウィスニスキー
1929年9月22日
ワシントン州シアトル出身
190cm 115kg

通称
妖鬼
タイトル歴
WWWF・USタッグ
ミズーリ・ヘビー
フロリダ・ヘビー
インターナショナル・タッグ(トロント版)
ミッドアトランティック・ヘビー
得意技
エルボードロップ

その風貌の迫力から「妖鬼」とあだ名された。46年、元世界王者、スタニスラウス・ズビスコにスカウトされプロレス入り。NWA王者バディ・ロジャース、WWWF王者ブルーノ・サンマルチノの好敵手として名を上げた。 63年2月28日、カナダ・オンタリオ州トロントでブルドッグ・ブラワーと組んでインターナショナル・タッグ王座(トロント版)を獲得。12月5日、トロントでジム・ハディと組んでインターナショナル・タッグ王座2度目の獲得。 64年8月13日、トロントでホイッパー・ビリー・ワトソンと組んでインターナショナル・タッグ王座3度目の獲得。10月9日、トロントでホイッパー・ビリー・ワトソンと組んでインターナショナル・タッグ王座4度目の獲得。 66年10月、東京プロレスにアントニオ猪木の対戦相手として初来日。10月12日、東京プロレス旗揚げ戦で猪木と対戦。鉄柱攻撃で猪木の額を流血させたが、バレンタインも額から流血。必殺のエルボーで猪木を追いこんだが、コブラツイストやアントニオ・ドライバーをくらい、最後は場外戦で2発目のアントニオ・ドライバーをくらって、31分56秒、リングアウト負け。名勝負として語り継がれた。10月25日、宮城県スポーツセンター大会で猪木を相手にUSヘビー級王座の防衛戦。1本目は30分15秒、コブラツイストに敗れた。2本目は23分30秒、リングアウト勝ち。3本目は時間切れの引き分けに終わった。 68年5月10日、アトランタでマスクマンのビッグOとしてジョージア・ヘビー級王座を獲得。5月24日、素顔になる。11月8日、ジョージア・ヘビー級王座を獲得。 73年3月2日、日本プロレスの横浜文化体育館大会で坂口征二を破りUN王座を獲得。3月8日、佐野市民会館大会で高千穂明久に敗れて王座転落。 74年1月、ミッドアトランティック・ヘビー級王座を獲得。 75年10月4日にリック・フレアーらと同乗していたセスナ機が墜落事故を起こし、腰と足の骨を折って現役を引退。松葉杖をつきながらマネージャーとして活躍した。90年9月30日、横浜アリーナでの「アントニオ猪木デビュー30周年記念大会」に来日した。息子のグレッグ・バレンタインもレスラーになった。01年4月24日、テキサス州フォートワースの自宅で心臓発作により死去。
スクラップブック
(村松友視『当然、プロレスの味方です』巻末付録「燃える哲学」より)
村松 ジョニー・バレンタイン。
猪木 すごかったですね、もう、ほんと。のどが裂けるまでのパンチで殴られた。私があの人を最初に見たのはセントルイスなんです。東京プロレスで旗揚げして、とにかく選手が呼べない。全部ストップくってましたからね。それで、セントルイスのプロモーターを頼って試合会場へ行き、リングを見ていたんですが、なんだこの選手かっていうような感じだったんです。ところが、いざ招聘してみてびっくりした。もうとにかく息が切れんばかりに振り回されて、それに殴るの蹴るで、ほんとにね、胸が破裂するんじゃないかっていうような感じでね。で、闘った相手だったんだけど、ファンになっちゃったんですよ。私のプロレス人生をふりかえってみても、もう絶対にはずせない、素晴らしい、まあ一番の強敵だったと思う、当時のね。いまは、交通事故で、車イス生活になってしまいましたけれど。


凄かったね、バレンタインという選手は。本当に迫力があったですよ。テクニックはなかった。だけど、迫力があって、やたらと力が強かったんです。あのパンチ。あれはきつかった。だってロープに押さえつけられてね。上からバシーン!とぶっ叩く。「わあ!」という感じで怖かった。本当に殴るのがうまかったんですよ。ボディーにもうまくパンチを入れてくるんです。首筋にパコンと入れてくるのもあった。痛かったねえ。あの目をカッと開いた怖い形相でね。有名なエルボードロップをやられた。これも凄かったですよ。エルボードロップに入る前に振り上げた上のところでグッと溜めるんですよ。何をやるのかというのをじっくりとお客さんに見せるわけだけど、溜めてからスカーンと落としていくから、やられたほうはたまったもんじゃなかった。その落としの速さがもの凄い。だから迫力があった。打撃力も凄かったですよ。バレンタインがエルボーを振り上げたら、もう覚悟しなきゃならなかった。
(週刊プロレス NO1422 ザ・グレート・カブキのインタビューより)


伝説のアントニオ猪木VSジョニー・バレンタインを再現! 猪木の代名詞はこの時、生まれた
(2021年8月29日 10:00配信 東スポWebより)
【プロレス蔵出し写真館】東京スポーツ新聞社OBで、東スポ退社後は全日本プロレスの宣伝企画室長を務めた飯山和雄さんが8月9日、肺梗塞のため亡くなっていたことがわかった。84歳だった。
 飯山さんは1962年(昭和37年)に東スポに入社し、66年10月12日(東京・蔵前国技館)の東京プロレス旗揚げ戦で行われたアントニオ猪木VSジョニー・バレンタイン戦を取材した、数少ない記者だった。
 この試合は取材した記者、カメラマンが口々に「凄かった」と言っていた試合だが、映像が残されていないため会場にいた者だけ観ることのできた、まさに猪木の伝説の名勝負≠セ。
 飯山さんは生前、「54年前の試合だから、鮮明に覚えているわけじゃないけど・・・。バレンタインはエルボーがうまかったね〜。猪木はガウンを脱ぐのが格好よくて、試合の表情も迫力があった。バレンタインはアッパーカット気味のパンチも凄くて、猪木のアゴを集中的に攻撃してたね。でも、それにひるまず米国遠征でモノにしたひねりの利いた水平空手で対抗して、試合はえらい盛り上がりようだったね」と語っていた。
 飯山さんを偲び、当時の署名入り本紙記事をもとにこの試合を振り返る(一部加筆)。

 試合をやるのは8か月ぶり、日本のリングに上がるのは2年7か月ぶりという23歳の猪木は、日の丸とJAPANの文字が入ったガウンを着用し、斎藤昌典(後のマサ斎藤)とマンモス鈴木を従えリングイン。この試合は当時としては珍しい時間無制限1本勝負のデスマッチ・ルールで行われた。
 試合はバレンタインが先手を取り、執拗なスリーパーホールド。バレンタインの攻めに押された猪木は、10分過ぎにロープに逃れてブレークした瞬間、バレンタインの頬に平手打ち。これでヒートアップし、猪木は強烈な水平打ち6連打で一気にラッシュした。赤コーナーに詰め、パンチの連打からテキサスブルドーザーを連続50回。タフなバレンタインががっくりヒザを落とした。しかし、バレンタインも一歩も引かず必殺ブレーンバスター(当時の呼称=エルボースタンプのこと)を連発し、猪木を場外に落とした。
 第一のヤマ場、バレンタインのタックル2発目を猪木が機敏なフットワークでコブラツイストを決めると、弓なりになるバレンタイン。25分過ぎ、猪木は勝負に出た。バレンタインの額にナックルパンチ、空手チョップを集中、バレンタインの顔を血染めにした。
 第二のヤマ場、猪木はバレンタインの巨体をネックブリーカーに決めると、バックブリーカー気味にパイルドライバー(当時の表現=アントニオドライバー)。するとセコンドのザ・ヘラキュリーが助太刀。
 バレンタインは猪木をつかんでコーナーの鉄柱に叩きつけ、額を割る返礼。さらにエプロンからキック、パンチを決め、両者が血ダルマとなって文字通りのデスマッチの様相。
 試合は大詰め、猪木の水平空手でもんどり打って場外に飛ばされたバレンタインは、猪木の足を取って場外に引きずり下ろしパンチ、空手の激しい応酬。座布団が飛び交い、若手レスラーと警官の輪の中で両者は真っ向から渡り合う。猪木は場外でまたもパイルドライバー(アントニオドライバー)。水平空手を叩き込めば、バレンタインの目はもうウツロ。レフェリーのラッキー・シモノビッチのカウント18のとき、猪木は転がるようにロープをくぐった。その直後、レフェリーはバレンタインのリングアウトを宣し、猪木の手を挙げた。31分56秒、猪木がカウントアウトで勝利した。
 収まらないバレンタインはなおも猪木を追い回したが、すべてはあとの祭りだった。
 猪木は試合後、「(バレンタインと)何度でも、誰とでもやります。ボクはプロだ。プロレス以外のボクサー、空手マン、だれの挑戦でも受けて立ちますよ」と語った。

 猪木の名言「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」の原点は、この試合にあった。