レスラーノート

ジャンボ鶴田

本名:鶴田友美
1951年3月25日
山梨県東山梨郡牧丘町出身
196cm 127kg
血液型:O型

通称
怪物
タイトル歴
三冠ヘビー
AWA世界ヘビー
インターヘビー
UNヘビー
インタータッグ
PWF世界タッグ
世界タッグ
得意技
バックドロップ
ジャンピングニー

ブドウ園農家の次男に生まれる。66年、日川高校に入学しバスケット部に入部。全国高校選手権大会に優勝。3年生の時には山梨県内の相撲大会にも出場し、3位に入賞。 70年、中央大学法学部法律学科に進学。バスケットボールのオリンピック強化選手に選ばれた。日本チームがオリンピックを予選落ちすると、自衛隊体育学校に通いレスリングを習得。大学時代の71、72年にアマレス全日本選手権を2連覇。大学4年の時にミュンヘンオリンピックにグレコローマン100キロ以上級日本代表として出場。結果は2回戦敗退7位。

1972

72年10月31日、東京・赤坂プリンスホテルにて全日本プロレスへの入団を発表。会見では「全日本プロレスに就職します」という名言を残した。

1973

73年3月22日、テキサス州アマリロのファンク道場に遠征。ドリー・ファンク・シニアに指導を受ける。3月23日、アマリロのTVスタジオでエル・タピア戦でデビュー。デビュー戦で勝利した。5月20日、ニューメキシコ州アルバカーキでデビュー2ヶ月にしてドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦。10月1日、6ヶ月間、約150戦を消化して帰国。10月6日、後楽園ホールでムース・モロウスキーを相手に国内デビュー。ダブルアームスープレックスを決めて勝利。10月9日、ジャイアント馬場と組んでドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクのインターナショナル・タッグ王座に挑戦。
1本目 鶴田(ジャーマン・スープレックス・ホールド23分57秒)テリー
2本目 テリー(ローリング・クラッチ・ホールド17分24秒)鶴田
3本目 時間切れ引き分け
10月27日、ファン公募によりリングネームがジャンボ鶴田に決定。

1974

74年春、エキサイトシリーズとチャンピオンカーニバルの間の期間に北米遠征。ハードスケジュールをこなす。

3月23日(オレゴン州ポートランド)ダッチ・サベージ戦(勝ち)
25日(バンクーバー)ミスターX(ガイ・ミッチェル)、ボブ・ラムステッド戦(勝ち)パートナーはレオ・マドリル
26日(バンクーバー)フランク・ジム・ブッチャー戦(勝ち)テレビマッチ。
27日(テキサス州ラボック)カンフー・リー(グレート小鹿)、ザ・ビースト戦(勝ち)パートナーはリッキー・ロメロ
28日(アマリロ)カンフー・リー、ジム・デュラン戦(勝ち)パートナーはディック・マードック
29日(アトランタ)ボビー・ダンカン戦(勝ち)
30日(アトランタ)ジム・ガービン戦(勝ち)
30日(アトランタ)ロン・ガービン戦(勝ち)テレビマッチ。2試合収録。
4月1日(ニューヨークMSG。WWFの中心地)ジョニー・ロッズ戦(勝ち)
2日(タンパ)ダニー・ホッジ戦(引き分け)
3日(ジョージア州コロンバス)ボビー・ダンカン戦(勝ち)
4日(グリーンズボロ)ネルソン・ロイヤル戦(引き分け)
5日(セントルイス、キール・オーデトリアム。NWAの中心地)ビル・ハワード戦(勝ち)
15000ドル争奪バトルロイヤルにも参加。
6日昼(アマリロ)ボブ・バックランド戦(勝ち)テレビマッチ。
6日夜(テキサス州ハッフォード)キラー・カール・コックス、ザ・ビースト戦(勝ち)パートナーはジェリー・コザック
7日(アルバカーキ)キラー・カール・コックス戦(勝ち)ジャーマンでピンフォール。

1975

75年2月5日、テキサス州サンアントニオで馬場と組んでファンクスからインターナショナル・タッグ王座を獲得。

1976

76年3月10日 日大講堂大会で「ジャンボ鶴田・試練の十番勝負」がスタート。第1戦でバーン・ガニアと3本勝負で対戦。1本目は19分12秒、裸絞めに敗れた。2本目は9分54秒、原爆固めで勝利。3本目は13分51秒、バックドロップを狙ったガニアがバランスを崩した結果、両者ノックアウト。3月28日、蔵前国技館大会でラッシャー木村と試練の十番勝負第2戦(全日本プロレスと国際プロレスの全面対抗戦の第8試合。3本勝負)。1本目は13分27秒、ブレーンバスターに敗れた。2本目は6分34秒、ダブルアームスープレックスで勝利。3本目は4分53秒、鶴田のジャーマンが崩れ、両者フォール。この試合で76年度プロレス大賞のベストバウトを受賞した。6月11日、蔵前国技館大会でテリー・ファンクと試練の十番勝負第3戦(3本勝負。NWA世界選手権。テリー・ファンクがNWA世界王者として日本で行なった唯一の防衛戦)。1本目は15分50秒、回転エビ固めでフォール勝ち。2本目は6分5秒、ゆり椅子固めにフォール負け。3本目は5分12秒、フライングボディシザースをロープに打ちつけられて片エビ固めにフォール負け。7月17日、北九州市三萩野体育館大会でビル・ロビンソンと試練の十番勝負第4戦(3本勝負)。1本目は29分5秒、欧州式足折りエビ固めにフォール負け。2本目は21分52秒、回転エビ固めでフォール勝ち。3本目は時間切れ引き分け。10分間の延長戦が行われたが時間切れ引き分けに終わった(前年12月に猪木はロビンソンに引き分け。このシリースで馬場はロビンソンに2対1で勝利)。8月28日、ジャック・ブリスコを破りUNヘビー級王座を獲得。9月9日、大阪府立体育会館大会でボボ・ブラジルと試練の十番勝負第5戦(3本勝負)。1本目は11分15秒、ココバットからの体固めにフォール負け。2本目は5分15秒、リングアウト勝ち。3本目は2分57秒、ジャンピングニーパットで勝利。10月22日、愛知県体育館大会でアブドーラ・ザ・ブッチャーと試練の十番勝負第6戦(3本勝負)。1本目は5分55秒、毒針エルボーに敗れた。2本目は3分49秒、ジャンピングニーパットで勝利。3本目は3分45秒、反則勝ち。12月3日、川崎市体育館大会でクリス・テイラーと試練の十番勝負第7戦(3本勝負。ミュンヘン・オリンピックの日米代表の対決)。1本目は11分20秒、トップロープからのミサイルキックで勝利。2本目は3分7秒、ボディプレスに敗れた。3本目は3分26秒、リングアウト勝ち。12月9日、馬場と組んで大木キム・ドク組に勝利しインター・タッグ王座の奪還に成功。

1977

77年3月23日、フロリダ州マイマミビーチでビル・ロビンソンのUNヘビー級王座に挑戦し勝利。UN王座2度目の獲得となった。6月11日、世田谷区体育館大会でハーリー・レイスと試練の十番勝負第8戦(3本勝負。NWA世界選手権)。1本目は8分26秒、ダブルアームスープレックスで勝利。2本目は8分8秒、インディアンデスロックに敗れた。3本目は5分24秒、首固めにフォール負け。7月28日、品川スポーツセンター大会で大木金太郎 と試練の十番勝負第9戦(3本勝負。UN、アジア両ヘビー級選手権)。1本目は8分35秒、ダブルアームスープレックスで勝利。2本目は8分8秒、頭突きからの体固めにフォール負け。3本目は8分39秒、両者リングアウト。11月7日、韓国のソウル市文化体育館で大木、キム・ドク組に敗れ、インター・タッグ王座から転落。

1978

78年1月20日、帯広市総合体育館大会でハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。1本目は28分9秒、ブレーンバスターに敗れた。2本目は16分30秒、首固めでフォール勝ち。3本目は時間切れ引き分け。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。5月11日、大阪府立体育会館で馬場と組んで大木、キム・ドク組を破りインター・タッグ王座を奪回。11月3日から始まった国際プロレスの日本リーグ争覇戦に参戦(予選シードとなり決勝トーナメントからの参戦)。11月25日、蔵前国技館大会でのトーナメント1回戦でマイティ井上と対戦。16分38秒、回転エビ固めでフォール勝ち。11月28日、鶴岡市体育館大会での準決勝でプロフェッサー・タナカと対戦。タナカの凶器を奪って反撃し、反則負け。12月の世界最強タッグ決定リーグ戦では馬場と組んで優勝。78年度のプロレス大賞で馬場と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1979

79年1月5日、川崎市体育館大会でフリッツ・フォン・エリックと試練の十番勝負最終戦(3本勝負)。1本目は5分53秒、アイアンクローからの体固めにフォール負け。2本目は3分27秒、反則勝ち。3本目は1分5秒、ドロップキックからのボディプレスで勝利。十番勝負は4勝2敗4引き分けに終わった。2月14日、ハワイ・ホノルルでニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に挑戦。1本目は31分28秒、足4の字固めに敗れた。2本目は17分52秒、コブラツイストで勝利。勝負をかけた3本目は4分55秒、コブラツイストを決めたが、ニックがレフリーを暴行したため反則勝ち。規定により王座奪取に失敗した。8月26日、東京スポーツ新聞社創立20周年記念「夢のオールスター戦」が日本武道館で行われ、藤波辰巳ミル・マスカラスと夢のトリオを結成。マサ斎藤、タイガー戸口、高千穂明久組を破る。10月、馬場と組んでブッチャーレイ・キャンディ組を破り、インター・タッグ王座を獲得。

1980

80年5月、第8回チャンピオン・カーニバルでディック・スレーターを破り優勝。12月の世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝。80年度のプロレス大賞で馬場と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1982

82年度のプロレス大賞で馬場と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1983

83年6月8日、蔵前国技館でNWA世界王者のリック・フレアーに60分3本勝負で挑戦。29分39秒、バックドロップで1本目を勝利。2本目は時間切れ引き分けに終わり、NWAルールによりタイトル獲得に失敗した。6月18日、テキサス州ダラス・リユニオン・アリーナでテッド・デビアスを破り、UN王座の6度目の防衛に成功。試合後、復活したインター・ヘビー級王座奪取に専念するためUN王座を返上した。8月31日、蔵前国技館でブルーザー・ブロディにリングアウト勝ちしてインター・ヘビー級王座を獲得。83年度のプロレス大賞でMVPを受賞。さらに天龍と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1984

84年2月23日、AWA、インター・ヘビーのダブル選手権試合でニック・ボックウィンクルを32分の激闘の末に破り、第33代AWA世界ヘビー級王者となる。
AWA世界ヘビー級王座防衛戦全試合結果
84年2月26日 大阪府立体育会館
ニック・ボックウィンクル(両者リングアウト28分9秒)
3月4日 イリノイ州シカゴ・ローズモント・ホライゾン
ブラックジャック・ランザ(フライング・ボディシザース・ドロップからの体固め14分32秒)
3月11日 ウィスコンシン州グリーンベイ・ブラウンカウンティ・アリーナ
ビル・ロビンソン(逆さ押さえ込み19分47秒)
3月15日 ユタ州ソルトレイクシティ・ソルトパレス
ジム・ブランゼル(体固め15分59秒)
3月24日 蔵前国技館
ニック・ボックウィンクル(鶴田の反則負け。反則により王座の移動なし22分5秒)
4月19日 郡山市総合体育館
グレッグ・ガニア(体固め23分27秒)
4月26日 大宮スケートセンター
ジム・ブランゼル(パイルドライバーをリバーススープレックスに切り返しての体固め14分40秒)
4月28日 カリフォルニア州サンフランシスコ・カウパレス
ニック・ボックウィンクル(両者リングアウト18分12秒)
4月29日 イリノイ州シカゴ・ローズモント・ホライゾン
ニック・ボックウィンクル(鶴田の反則負け。反則により王座の移動なし10分52秒)
5月2日 ミネソタ州ローチェスター・メイヨ・シビック・オーデトリアム
バロン・フォン・ラシク(鶴田の反則負け。反則により王座の移動なし16分13秒)
5月4日 コロラド州デンバー・ミュニシパル・オーデトリアム
ニック・ボックウィンクル(鶴田の反則負け。反則により王座の移動なし15分1秒)
5月5日 イリノイ州ロックフォード・ハイスクール
ビル・ロビンソン(体固め25分10秒)
5月6日 ウィスコンシン州グリーンベイ・ブラウン・カウンティ・アリーナ
ニック・ボックウィンクル(鶴田の反則負け。反則により王座の移動なし21分37秒)
5月7日 オンタリオ州ケベック・ポール・サウベ・アリーナ
ニック・ボックウィンクル(鶴田の反則勝ち。17分2秒)
5月10日 ユタ州ソルトレイクシティ・ソルトパレス
グレッグ・ガニア(鶴田の反則負け。反則により王座の移動なし15分13秒)
5月11日 ウィスコンシン州ミルウォーキー・ミュニシパル・オーデトリアム
ブラックジャック・マリガン(リングアウト13分15秒)16度目の防衛に成功。
王座陥落 5月13日 ミネソタ州セントポール・シビックセンター
リック・マーテル(マーテルの勝利。フライングボディアタックからの片エビ固め22分24秒)

9月3日、天龍と組んでブロディ、クラッシャー・ブラックウェル組を破りインター・タッグ王座を獲得。9月23日、元日本航空ステュワーデスの荒牧保子さんと結婚。12月の世界最強タッグ決定リーグ戦で天龍と組んで優勝。84年度のプロレス大賞でMVPを受賞した。

1985

85年11月4日、大阪城ホールでのジャパンプロレス主催シリーズ第3戦で長州と両者リングアウトなしの完全決着ルールで初のシングル対決。60分時間切れ引き分けとなった。85年度のプロレス大賞で天龍と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1986

86年10月21日、ハンセンを破りインター王座を獲得。12月の世界最強タッグ決定リーグ戦で天龍と組んで優勝。

1987

87年7月3日、後楽園ホールでタイガーマスクと組んで、ハンセン、テッド・デビアス組を破り、PWFタッグ王座を獲得。7月11日にハンセン、デビアス組に敗れてPWFタッグ王座から転落。8月31日、日本武道館大会で天龍と4年4ヶ月ぶりにシングル戦。21分35秒、ロープ越しのラリアットをくらってリングアウト負け。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。12月の世界最強タッグ決定リーグ戦で谷津と組んで優勝。

1988

88年4月、ブロディを破りインター王座を獲得。6月谷津と組んで、天龍、阿修羅原を破りPWF世界タッグ王座を獲得。6月10日、日本武道館でインター・タッグ王者ロードウォリアーズと2冠統一戦を行ない、これに勝利することで初代世界タッグ王者となった。

1989

89年2月2日、カンザス州カンザスシティ・メモリアルホールで谷津と組んでハンセン、テリー・ゴディ組を破り、第7代世界タッグ王者となる。4月18日、大田区体育館で三冠統一戦を行ない、ハンセンを破ってインターナショナル・PWF・UNヘビー級選手権者となる。初の三冠王者となり、この時点で世界タッグも保有していたので、五冠王に輝く。6月5日、日本武道館大会で天龍を相手に防衛戦。24分5秒、パワーボムに敗れて三冠王座から転落。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。10月11日、天龍を破り第3代三冠王者となる。

1990

90年2月10日、新日本プロレスの東京ドーム大会に谷津とのコンビで出場。木村健悟木戸修組を破る。4月13日、東京ドームでの「日米レスリング・サミット」でキング・ハクと組み、リック・マーテル、カート・ヘニング組に勝利。4月19日に天龍を破り、三冠王座の2度目の防衛に成功。この試合を最後に天龍は全日本プロレスを離脱した。天龍との対戦成績は鶴田の4勝3敗2引分け。天龍離脱後は全日本プロレスの完全無欠のエースとして君臨。6月8日、選手大量離脱後の日本武道館大会で三沢光晴と対戦。明らかに格下と思われていた三沢に大苦戦。三沢のバックドロップを押しつぶしたが、体を一転させて切り返され、片エビ固めにフォール負け。7月、グレート・カブキと組んでゴディ、ウイリアムス組を破り、世界タッグ王者となるが、7月30日にカブキが全日本プロレスを退団して王座は返上となる。9月1日、日本武道館大会で三沢と対戦。バックドロップで勝利。

1991

91年1月、ハンセンを破り、第8代三冠王者となる。4月、9年ぶりに復活したチャンピオン・カーニバルで優勝。91年度のプロレス大賞でMVPを受賞した。

1992

92年2月27日、鶴田軍VS超世代軍の全面対抗戦が行なわれ、鶴田はメインで小橋健太と対戦。21分39秒、バックドロップからの体固めで勝利した。3月、田上と組んでゴディ、ウイリアムス組を破り、世界タッグ王座を獲得。11月13日、B型肝炎であることを発表し、長期欠場。

1993

93年6月20日、7ヶ月間に渡って入院していた東京・昭和医大を退院。10月23日、日本武道館で367日ぶりの復帰。馬場、ラッシャー木村と組んで、永源泉田組と対戦し勝利。復帰後は、完全に第一戦から退いた。

1994

94年10月、筑波大学院修士課程体育研究科コーチ学の社会人特別選抜枠として受験し、見事に合格。翌年から晴れて史上初の大学院生レスラーに。

1995

95年4月6日、茨城・筑波大学院に入学。修士課程体育研究科に籍を置き、週2回の講義を受けることに。8月4日、筑波大学で全日本女子柔道チームの臨時コーチを務めた。メンバーの中には田村亮子も参加。9月30日、後楽園ホールで行なわれた「ジャイアント馬場デビュー35周年記念試合」で馬場、ドリー・ファンク・ジュニアと組んで秋山大森本田組に勝利。

1996

96年4月、慶應大学、桐蔭横浜大学にて講師に就任。

1997

97年2月10日、日本スポーツ産業学会に参加。スポーツのプロ化とメディア・バリューと題したレクチャーを行なう。3月15日、筑波大学院を卒業。4月から新たに中央大学の講師にも就任。

1998

98年9月11日、日本武道館で馬場、ラッシャー木村と組んで渕、永源、菊地組と対戦。これが現役生活最後の試合となる。

1999

99年2月20日、永田町のキャピトル東急ホテル「銀の間」にて引退記者会見を開く。並びに全日本プロレスの取締役辞任を発表。3月6日、日本武道館で引退セレモニーを行なう。3月10日、アメリカ・オレゴン州立ポートランド大学に教授として渡米。

2000

00年5月13日、フィリピン・マニラにある国立腎臓研究所にて、肝臓移植手術中にショック症状を起こし大量出血により死去。享年49。

スクラップブック
【龍魂激論】天龍が明かす!「幻のジャンボ鶴田クーデター事件」の真相
(2020年4月22日11:03配信 東スポWebより)
 ――5月13日の命日で、鶴田さんが亡くなって20年(享年49)。天龍さんとの最後の3冠戦(1990年4月19日、横浜)から30年という節目の年です。
 天龍:もうそんなになるのか。感慨深いね。
 和田レフェリー(以下和田):ああ、そう。30年前って横浜?懐かしいねえ。
 ――改めて鶴田さんとは。
 天龍:身近にいて「こうなりたいな」と思える存在だった。馬場さんに対する忠誠心が俺なんかとは全然違った。「全日本プロレスに就職します」っていう言葉は有名だけど、本当にそう思っていたからね。
 和田:そうそう。サラリーマン感覚なんですよね。
 天龍:だから俺なんかが「ジャンボ、馬場さんにちょっと言ってくれよ」と不満を告げると「源ちゃん、まあそう言わないでよ」と逆になだめられた。馬場さんに就職させてもらったという恩義を忘れないんだよ。あの体格と才能だから普通なら、「全日本に入ってやった」という意識を持つと思うんだけど、一切なかったね。
 ――格が違ったと。
 天龍:(72年ミュンヘン)五輪に(レスリングで)出た金看板は持ってるし、身体能力、力量は抜群だった。相撲で言えば横綱に推挙されてもおかしくない品格・・・あっ、品はなかったな。
 和田:(爆笑)。
 天龍:まあ大学でレスリングやって、プロレスに入ったら「ワーッ」と一気に注目を集めたんで少し浮かれてたのかな。ジャンボは中学時代の夏休みに朝日山部屋に入門して新弟子検査に合格してるんだ。叔父さんが力士だったんだよね。だから親近感を持っていた。
 和田:俺はあんまり若い時期のインパクトがないんだよね。ジャンボは最初からトップだったから。馬場さんからすれば、何でも「ジャンボ、ジャンボ」でしたからね。
 天龍:いや、馬場さんが認める人間はもう一人いたんだよ。サムソン・クツワダ(故人)って男が。朝日山部屋出身(元幕下)だったからジャンボと仲が良かった。体格もあったしね(190センチ、120キロ)。それでクーデターの一件につながるわけだ。
 ――77年末にクツワダさんが、鶴田さんをエースに新団体旗揚げを画策した一件ですね。複数の当事者から同時に話をお聞きするのは初です。
 和田:ジャンボとクツワダさんは仲が良かったからね。
 秋山:えっ、そんな大事件があったんですか?
 和田:意外にファンの人も知らないんだよ。
 天龍:サムソンがテレビ局と大物スポンサーを「ジャンボが来るから」って口説いたんだよ。結局、事前にバレてサムソンは即刻クビになったんだ。まあ、ジャンボは相づちを打った程度だったらしいけど。誰かが密告したんだろう。
 和田:誰でしょう。
 天龍:犯人はグレート小鹿(現大日本プロレス会長)しかいないな・・・。
 和田:間違いなく小鹿さんでしょうね。
 ――秋山選手も犯人は小鹿さんだと。
 秋山:いやいや勘弁してくださいよ。僕、まだ子供でしたよ。
 天龍:「犯人」は言い過ぎたな・・・。小鹿さんこそ全日本プロレスのお家騒動を収めてくれた陰の大功労者ですよ。
 和田:馬場さんのそばにいて、あれこれ話ができたのは小鹿さんが一番でしたからね。
 天龍:渕(正信)なんか、そばにいても足の爪すら切らせてもらえなかったからな。
 ――しかしあの鶴田さんが一度でも馬場さんを裏切ろうとしたとは・・・。
 天龍:人気はあったから、誰かがいいことを耳元でささやけば、その気になっちゃうよ。サムソンは口がうまかったから。馬場さんに対する初の自己主張だった。馬場さんが少し下り坂になって、ジャンボは一本立ちできてたしね。でも馬場さんはこの件を機にがっちり囲んで他人の声を入れないようになった。
 和田:ですね。クツワダさんをばっさり切った後は一切、馬場さんもクーデターについて語ることはなかった。ただ、2人の信頼関係にヒビが入ったのは間違いない。俺もトークショーで1回、話したことがあるくらいで、ファンの人たちも「えー?」って驚いてました。
 天龍:闇に葬られた全日本プロレスの暗黒史ですよ。


【龍魂激論】天龍が没後20年の新証言「鶴田最強説」
(2020年4月23日11:02配信 東スポWebより)
 ――天龍さんは「鶴田最強説」の理由は一生懸命やらなかったからだと。
 和田レフェリー(以下和田):練習してるのは見たことがないね。
 天龍:秋山選手はレスリングやってたから分かると思うけど、190センチの人間が180センチの人間とやると楽だよねえ。
 秋山:そうですね。鶴田さんは196センチありましたし。僕も自分より小さい相手とやると、やっぱり楽です。
 和田:10センチの差って大きいよね。
 天龍:だからNWA世界王者のリック・フレアーやハーリー・レイス、AWA世界王者のニック・ボックウィンクルとも互角に勝負できたわけですよ。ジャンボのほうが大きいから。ペース配分も含めてやっぱり史上最強なんじゃないの。
 和田:そうですね。俺がジョー(樋口)さん(レフェリー)からメインを任されて、初めて天龍さんとジャンボの試合を裁いたら、やっぱり余裕が違った。天龍さんは直線的に前に出る。ジャンボは「ハイハイ源ちゃん、どうぞいらっしゃい」だもの。
 天龍:俺がガーッと行くと(両手で落ち着けというポーズで)「ハイハイ」だからね。コンチクショーって思ったよ。
 和田:ブレークして試合を止めても天龍さんは相手をにらんでるんだけど、ジャンボは「ハイハイ。分かってるよ、京平ちゃん」ってオーバーに両腕を広げるんだよ。その手が鼻に当たって開始5分で失神したことがある。目覚めたら、天龍さんが「京平ちゃん、反則負けだろ」ってアピールして。5分で終わらせられないから、鼻血流しながら裁いてた。
 天龍:どれだけ、ジャンボを本気にさせるかが勝負だった。天龍革命(1987年)から俺の人気が上がってきたら、ムキになってきたよね。ジャンピングニーは太ももの横を当ててきたのに、ヒザをガツンと顔面に入れてくるようになった。痛かったけど「やった!」って内心、ガッツポーズだよ。
 ――秋山選手はジャンピングニーを鶴田さんから直接伝授されている。
 秋山:確かに最初は鶴田さん、横から入ってましたね。今の僕はヒザからガツンと入りますけど。外国人選手との試合でも横からだった。当時、テレビで見ていても天龍さんが相手だとヒザを入れているのが分かりました。
 和田:だけどジャンボの本気って、どこがMAXだったのか最後まで分からなかったなあ。いつも試合が終わると天龍さんが控室で「ジャンボのヤロー、まだまだ本気出してないな」って悔しがってたのを覚えてます。
 天龍:御社の(東京スポーツ新聞社制定)プロレス大賞ベストバウト(89年6月5日、日本武道館での3冠ヘビー級戦)を頂戴した試合だってところどころで沸点はあったけど、トータルでは冷めてたね。自分に酔ってるクールなジャンボが嫌でねえ。彼にとって一番恥だったのは、天龍ごときや外国人相手に沸点で試合をすることだった。
 和田:(爆笑)。そうそう。たまに怒っても俺が「まあまあ」って間に入ると「ああ、そうだね」って。怒るのは恥だと考えてたんでしょう。
 天龍:秋山選手も馬場さんに教わったと思うけど、相手と対峙したら自分が動くんじゃなくて、相手を動かして、自分は泰然と構えていろという教えですよ。
 秋山:確かにそう教わりました。僕はすぐ沸点になりますけど(笑い)。
 天龍:いや、それがレスラーですよ。ジャンボは沸点になると「テーク・イット・イージー」と心の中でつぶやきながら試合していたからな。
 ――日本人として初めてAWA世界ヘビー級王者になったニック戦(84年2月23日、蔵前国技館)は、さすがに沸点に達したのでは。
 和田:ない、ない。全然ない。天龍さんとか阿修羅原は別として、外国人相手ならフレアーだろうがニックだろうが「ハイ、いらっしゃい」だもの。あの試合だって表面上は必死な顔してるけど、もっとガンガン攻めればもっと面白い試合になってた。
 秋山:最近その試合の画像を見直したら鶴田さん、試合直前ギリギリまで渕(正信)さんと遊んでるというか戯れてました。余裕を見せたかったのかなあと思いました。
 天龍:余裕という意識は常に持っていた。長州力と60分戦った試合(85年11月4日、大阪城ホール)後(フルタイムドロー)も余裕しゃくしゃくじゃなければ嫌だったんだよ。長州はフラフラだったのにな。
 和田:そうそう。引き揚げながら渕君の肩を抱いて「いやあ、渕君、勝てなかったよ。今日は食おうか」ですからね。それが10センチの差なんですよ。馬場さんは「俺は楽だよ。俺を投げるやつは俺の倍の体力を使うから勝手に疲れちゃう」って。だからジャンボも長州にどんどん投げさせてスタミナを奪っていた。馬場さんいわく「受け身で休め」という教えですよ。


川田 鶴田さんに向かっていったことだけは覚えてる。とにかくリングの上であれだけ余裕がある人は珍しいですよ。身体能力は外国人レスラーよりもすごい。体がデカくて、瞬発力があって、スタミナもある。このすべてを兼ね備えているところがすごいんですよ。筋肉隆々の外国人レスラーは、だいたい最初の5分ぐらいは元気なんだけど、そのあと肩で息をし始める。鶴田さんはそれがなかったから。
―― そういう鶴田さんと闘っている最中というのは、どういう感覚なんですか。
川田 そんなの考えたことない。いっぱいいっぱいだから。
―― 同じ大型レスラーでも、たとえばスタン・ハンセンとは違う?
川田 違うね。ハンセンの場合はぶつかってくる大きさがある。鶴田さんはぶつかっても、からんでも、何をしても通用する大きさというか。
―― 自分の技が効いている、という感触は持てましたか。
川田 感触が持てたときは、あの人が本当に怒ったときだから。
―― そういう状況までいかないうちは、あまり効いてないということ?
川田 そうそう。リング上でカッとなってる姿はほとんど見たことがないですよ。パフォーマンス上の怒りしか見たことないんで。
(中略)
―― でも、イキのいい超世代軍が鶴田軍にぶつかっていく試合は、全日本の看板カードになりましたよね。それこそ毎日のように闘うことでファンの支持を集めていきました。
川田 毎日やるのがイヤだったもん。口には出さなかったけど。
―― えっ!それは意外な・・・。
川田 何をやっても通用しないんだからさ。
(中略)
―― 対ジャンボ鶴田ということについて、やるべきことはやった、やり尽くしたという実感はありますか。
川田 やり尽くすというのは、途中があるということでしょ?その途中までも行ってない。入門したときも雲の上の人。闘っているときも別の意味で雲の上の人。そのまま終わっちゃったよね。
(週刊プロレス No.1526 川田のインタビューより)


驚愕のジャンボ鶴田
(スポーツ報知【ヒロ斉藤40周年ヒストリー】(18) 2019年10月18日12:06配信より)
全日本マットでは様々な選手と対戦した。
 「(ジャンボ)鶴田さん、天龍(源一郎)さん、(ハル)薗田さん、ロッキー(羽田)さんとかとやったのを覚えています。みんないい選手でした。ただ、この人はスゴイなと思ったのは、正直言って鶴田さんです。何をやっても掌の上に乗っけられているような感じでした。うまく言えないんですし、こういう言い方をすると変なんですけど、やってて楽なんです。鶴田さんとやる時は、自分は一生懸命やっているんですけど何か遊んでもらっている感じなんですね。あんな感じでやったのは、鶴田さんだけでした。あの人はスゴかったですね」


「ジャンボ鶴田ほどファンタスティックなレスラーはいなかったな。体も大きいし、テクニックも素晴らしかった。さらにタフでもあり、ハートもあった。レスラーとしてのすべてを兼ね備えていた男だった。彼と対戦したレスラーならわかると思うが、こちらが攻撃してもどれだけ効いているのかわかりづらい。怪物と言われていたが、まさにそのとおりだった。ツルタの本当の強さは闘った者でないとわからないかもしれないが」(週刊プロレスNo.1567 タイガー・ジェット・シンのレスラー評より)