レスラーノート

ジミー・スヌーカ

JIMMY SNUKA

本名:ジェイムス・レイハー
1943年5月18日
フィジー諸島出身
185cm 115kg

通称
スーパーフライ
タイトル歴
パシフィックノースウェストヘビー
ECW世界ヘビー
ECW・TV
得意技
スーパーフライ(ダイビング・ボディプレス)
ダイビングボディアタック

「スーパーフライ」の異名を持つ空中殺法の使い手。デビュー前はボディビルダーで、67年から3年間ミスター・ハワイになった。フランキー・レインとディーン樋口に勧められて70年にデビュー。デビュー当時はラニー・ケオロハと名のっていた。インディアン・スタイルになっていたこともある。西海岸を中心に活躍、パシフィックノースウェスト王座を何度も獲得している。71年9月、日本プロレスに初来日。80年代に入るとミッドアトランティック地区でリック・フレアーリッキー・スティムボードと抗争しトップレスラーの地位を確立。81年、ブルーザー・ブロディとのコンビで全日本の最強タッグに優勝。その後WWFに進出。「スーパーフライ」のニックネームでWWFに定着した。82年6月28日、ボブ・バックランドのWWF王座に金網マッチで挑戦。金網最上段からのスーパーフライをかわされ、金網を脱出されて敗れた。83年10月17日、ドン・ムラコと金網マッチで対戦。金網を脱出されて敗れたが、試合後に金網最上段からのスーパーフライを決めた。85年5月に新日本プロレスに初登場。同年暮れにブロディとIWGPタッグリーグ戦に出場したが優勝戦を2人でボイコットした。87年11月にブロディと全日本プロレスに復帰し、世界最強タッグ決定リーグ戦で準優勝。91年2月、SWSに初来日。全2戦のシリーズだった。2月5日、熊本市体育館大会で谷津と対戦。15分8秒、レフリーを突きとばして反則負け。2月7日、長崎国際体育館大会でケンドー・ナガサキと対戦。12分18秒、ダイビング・ボディアタックで勝利。92年4月、ECWの初代チャンピオンになる。7月14日、ECW世界ヘビー級王座2度目の獲得。9月30日、ドン・ムラコに敗れて王座転落。93年3月12日、ECW・TV王座を獲得。10月1日、テリー・ファンクに敗れて王座転落。その後はインディ・マット中心に活動。95年7月、WARに来日し、ボブ・バックランド、ミル・マスカラスとタッグを組んだ。 99年10月10日、ミシシッピ州ベイ・セント・ルイスで行われたPPV「ヒーローズ・オブレスリング」でボブ・オートン・ジュニアと対戦。ダイビング・ボディアタックで勝利。同年、息子もジミー・スヌーカ・ジュニア(後にデュースと改名)の名でレスラーになった。 00年1月、WCWにゲスト参戦。 01年11月23日、FMWの横浜文化体育館大会でジェイソン・レイと組んでGOEMON、怨霊組と対戦。5分34秒、GOEMONのスワントーンボムにレイが敗れた。 07年6月24日、WWEの特番「ヴェンジェンス」でサージェント・スローターと組んでデュース・アンド・ドミノのWWEタッグ王座に挑戦。スヌーカのスーパーフライがデュースに決まったが、うまく体を回転されて押さえこまれて敗れた。実況では触れられなかったがデュースはスヌーカの息子で、この試合は親子対決だった。 09年4月5日、レッスルマニアでパイパーリッキー・スティムボートと組んでクリス・ジェリコと対戦。ウォールズ・オブ・ジェリコに敗れた。 10年5月24日、娘のタミーナがWWE・RAWでデビュー。 15年9月1日、交際相手を殺害したとして第3級殺人と過失致死容疑で、ニュージャージー州の自宅で逮捕された。10万ドル(約1200万円)の保釈金を支払い、釈放された。事件は83年5月、当時23歳だったスヌーカの交際相手がペンシルベニア州のモーテルで意識不明となり、搬送先の病院で死亡。死因は外傷性脳損傷で体には39か所にも及ぶ切り傷やあざがあった。スヌーカは女性がトイレに行く途中に自ら転倒し、頭を打ったなどと説明していたが、実際には口論の末、殴打していたという。 晩年はフロリダでホスピスケアを受けながら、胃がんと認知症の闘病生活。 17年1月2日、ペンシルバニア州の裁判所が、スヌーカの体調が悪化して公判の継続が不可能だと判断し、公判を停止した。1月15日、家族と過ごすため病院から帰宅し、死去。