中学卒業後、町工場で働いた後、60年に大相撲の朝日山部屋に入門。66年4月に東京プロレスに入団。10月12日、蔵前国技館大会での中川弘戦でデビュー。7分32秒、逆片エビ固めに敗れた。東京プロレス崩壊後は猪木の後を追って67年に日本プロレスに移籍。猪木の付き人となる。前座で修行をつみ70年5月にメキシコに遠征。現地ではシバタ、もしくはシバタヤマを名のり、ミステル・コマ(マシオ駒)と組んで田吾作スタイルのヒールとして活躍。8月28日にレイ・メンドーサのNWA世界ライトヘビー級王座に挑戦。10月2日、アレナ・メヒコでラウル・マタとカベジェラ戦で対戦し、敗れて髪の毛を剃られた。
11月にアレナ・メヒコでのワンナイト・タッグトーナメントでコマと組んで優勝した。コマがアメリカに転戦後は、71年から魁とのコンビで人気を獲得。72年2月に帰国し新日本プロレスの旗揚げに参加した。3月6日の大田区体育館での旗揚げ戦ではインカ・ぺルアーノと対戦し、17分10秒、両者リングアウトの引分けに終わった。設立当初は猪木のパートナーに起用されメインエベントに出場していた。戦力が充実してからは中堅選手として活躍。かきむしり、目潰しなどのメキシコ流のルード殺法を多用した。76年2月に現役を引退し、翌77年2月レフェリーに転向。的確なレフェリングで活躍。99年6月25日にレフェリー引退。東京・後楽園ホールにおいて「柴田レフェリー引退記念興行」が開催された。引退セレモニーでは、新日本プロレスに入門した息子の勝頼を、ボディスラムに投げて激励した。「最高の思い出は猪木さんとタッグを組んだことですよ」と語る。員弁郡東員町に「柴田道場」を開設した。08年5月12日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」にレフリーとして出場した。08年12月18日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」で、バトルロイヤルと、藤原対タイガーマスク戦のレフリーとして出場。10年1月16日、心筋梗塞のため死去。
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