レスラーノート

ザ・デストロイヤー

THE DESTROYER

本名:リチャード・ベイヤー
1931年7月11日
ニューヨーク州バッファロー出身
183cm 110kg

通称
白覆面の魔王
タイトル歴
WWA世界ヘビー
AWA世界ヘビー
USヘビー
アジアタッグ
インターナショナルヘビー(モントリオール版)
得意技
フィギュア4レッグロック(足4の字固め)

通称「白覆面の魔王」。その必殺技、足四の字固めは社会的流行語にまでなっている。バラエティ番組「噂のチャンネル」にレギュラー出演していたことでも有名。シラキュース大学時代はフットボールとレスリングの名選手として活躍。大学卒業後、54年にスカウトされてプロレス入り。当初は素顔でディック・ベイヤーの名でファイトしていた。ハワイで活躍した後、62年4月のロス地区入りを機に覆面レスラーに転身。同年7月にサンディエゴでフレッド・ブラッシーを破り第4代WWA世界ヘビー級王者に輝く。当時、覆面レスラーの世界チャンピオンは異例のことであった。ロスでは熊を相手にしたエキジビションマッチまで行っている。通算3回にわたりWWAのベルトを腰に巻いている。王者のまま63年に初来日。力道山を相手にレフェリーストップによる両者痛み分けで防衛した一戦は、日本中を興奮させ、力道山の生涯のベストバウトと語り継がれている。テレビで放送されたこの試合は、最高視聴率64%を記録した。日本プロレスには9回来日した。63年12月2日、東京都体育館大会で力道山のインター王座に挑戦。1本目は17分40秒、ニースタンプをたたきこんでからロープを利用しての体固めで勝利。2本目は3分26秒、水平チョップからフォール負け。3本目は7分33秒、場外でバックドロップをくらってリングアウト負けに終わった。12月4日、大阪府立体育館大会で力道山のインター王座に挑戦。21分25秒、足四の字固めをかけたが、そのまま場外に転落して両者リングアウトに終わった。65年6月3日、札幌中島体育センター大会で義兄のビリー・レッド・ライオンと組んで豊登、馬場組を破りアジアタッグ王座を獲得。6月4日、札幌中島スポーツセンター大会で馬場と対戦。1本目は両者リングアウト。2本目は時間切れで引き分けに終わった。6月22日、馬場、吉村組を相手にアジアタッグ王座防衛に成功。7月15日、駿府会館大会で豊登、馬場組に敗れてアジアタッグ王座から転落。7月16日、台東体育館大会で馬場と対戦。1本目は55秒、首投げを切り返されてアトミックドロップからフォール負け。2本目はデストロイヤーの足四の字固め、馬場の首四の字固めの応酬。場外乱闘後に、馬場の32文ドロップキックをくらったが、時間切れ引き分けに終わった。68年にはAWAでドクターXと名のり、黒タイツ、黒マスクをつけて活躍。8月17日にドクターXとしてバーン・ガ二アからAWA世界王座を奪う。31日にバーン・ガニアに敗れて王座陥落。全日本プロレスには旗揚げ第2弾シリーズで「負けたら日本陣営として助っ人をする」と言ってジャイアント馬場と対戦。敗れたデストロイヤーは、そのまま助っ人として6年3ヶ月にわたり活躍した。この間、USヘビー級王座の防衛戦でのアブドーラ・ザ・ブッチャーとの抗争や、覆面世界一決定十番勝負ではミル・マスカラススーパーデストロイヤーとの対決などで大いに全日本プロレスを盛り上げた。79年6月19日の後楽園ホール大会を最後に帰国。83年1月10日、カナダ・ケベック州モントリオール地区でインターナショナルヘビー級王座を獲得。84年にセミリタイア。ニューヨーク州バッファロー郊外のアクロンの自宅でウィルマ夫人と共に生活。地元のアクロン・セントラル・スクールで体育教師として活躍。93年7月29日、全日本プロレスの日本武道館大会で引退。息子のカート・ベイヤーと馬場と組んで、永源井上雅央組と対戦。足4の字固めで井上に勝利した。95年に体育教師を退任。アクロン・セントラル・スクールで高校男子の水泳ヘッドコーチとして活躍。日本にいる間は麻布十番に住んでいた。年に1度の麻布十番祭りには、引退後も毎年顔を出しつづけた。07年12月20日、アントニオ猪木の団体「IGF」の有明コロシアム大会で特別ゲストとして登場。休憩時間のラップの曲に合わせて踊ったり、場外戦でケンドー・カシンの振りあげたイスを制止したり活躍。カシンと対戦したカート・アングルは、デストロイヤーに敬意を表し、4の字固めを試合中にかけた。11年8月27日、日本武道館での全日本、新日本、ノアの合同チャリティ興業「ALL TOGETHER」に来日。バトルロイヤル優勝者の志賀賢太郎にデストロイヤーのマスクを記念に贈った。19年3月7日、ニューヨーク州バファロー郊外の自宅で死去。
スクラップブック
(デイリースポーツWEB版より 12/2金 19:46配信)
86歳のザ・デストロイヤーが近況明かす 米国でゴルフ場を経営
 往年の人気プロレスラー、ザ・デストロイヤー(86)が、2日放送のTBS系「爆報!THEフライデー」に出演し、近況を明かした。
 62歳で現役を引退した人気レスラーは番組に白覆面で登場。歩行器のお世話になりながら歩く姿や覆面からのぞく白い眉毛に時の流れを感じさせたが、「コンニチワ」と流ちょうな日本語であいさつした。
 現在は故郷の米国でニューヨーク州バファロー市の5LDKの大豪邸に、妻のウィルマさんと2人暮らし。東京ドーム7個分という34万平方メートルの自宅敷地内に、「デストロイヤー・パークゴルフ場」をオープンしたという。運営は長女のクリスさんに任せているという。
 1963年に亡くなった力道山の最後の相手としても知られるデストロイヤーは、「力道山は俺がいれば殺されなかった」と激白。力道山はナイフで刺された傷がもとで帰らぬ人となったが、刺される直前に2人は会っていたといい、その後も力道山と行動を共にしていれば、助けられたと力説した。
 「今でも後悔している」とデストロイヤー。「もう一度、試合をしたかったよ」と盟友を偲んでいた。
シャワー室で「ボク、デストロイヤー」。全日本レフェリーが目撃した「白覆面の魔王」の素顔
(2021年9月13日10:50配信 webスポルティーバより)
「白覆面の魔王」と呼ばれたデストロイヤーは、1963年5月、力道山の宿敵として初来日した。5月24日に東京都体育館で行なわれた力道山との対決は、中継した日本テレビの視聴率が64パーセント。現在も歴代4位の記録となっている国民的関心事となった。
 必殺の「足4の字固め」で力道山を苦しめるなど、デストロイヤーは日本人に鮮烈な印象を与えた。その後、日本プロレスを退団した馬場が全日本プロレスを設立すると、手薄だった日本陣営の"助っ人"として1973年から同団体の所属選手になり、日本に移住した。
 当時、「リング屋さん」と呼ばれる全日本のリング設営スタッフだった和田は、デストロイヤーが住んでいた東京・麹町の一軒家に招待された日のことをこう語る。
「場所は当時、麹町にあった日本テレビの裏で、広い芝生の庭がある豪邸でした。ある時、そこに俺たちリング屋を招待してくれたんです。庭でバーベキューをしたんだけど、そのころはバーベキューなんて見たことなかったし、しかもアメリカ式のでっかい肉を豪快に焼くやり方でね。『すっげぇな、これがアメリカか』って感動したもんです」
和田ら「リング屋さん」を招待したのには理由があった。デストロイヤーは、全日本のシリーズにレギュラー参戦して間もなく、試合前の会場ロビーで自らの覆面の販売を始めた。和田らスタッフがその売店の手伝いをしていたため、そのお礼で自宅に招いたのだ。
「今では、会場で選手のグッズを売るのも普通ですが、それを日本で初めてやったのがデストロイヤーです。それまで全日本の会場ではパンフレットを売るだけで、Tシャツ、帽子、ポスターといった選手のグッズは売っていなかった。そんな時代にデストロイヤーはアメリカから覆面を持ってきて、それにサインを入れて、確か1500円か2000円ぐらいで売り始めたんです。
 馬場さんはデストロイヤーに対しては特別待遇にしてたんで、覆面を売ることを認めていたんですが、最初は『変なことをやるなぁ』という目で見ていましたよ。だけど、それがファンに受けたことを見て、自分も16文キックの足型をイラストにしたTシャツを売り始めた。それから他の選手もグッズを作るようになったんです。だからデストロイヤーは、日本のプロレス界では"グッズ販売の元祖"ですね」
 リング上だけでなく、歌手の和田アキ子がMCを務める日本テレビ系『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(1973年10月〜1979年6月)にレギュラー出演し、お茶の間の人気も獲得した。
「『うわさのチャンネル』に出てから、さらに人気がすさまじくなってね。毎年夏になると麻布十番で『納涼祭り』があるんですが、そこでデストロイヤーが試合会場と同じようにサイン入りの覆面を売ったら、1日の売り上げが100万円くらいになったのかな。飛ぶように売れたから、デストロイヤーには『ここでこんなに売れるんだから、試合会場ではもっと売れるはずだ』とハッパをかけられましたけど(笑)」
デストロイヤーは日本で生活する際、絶対に人前で覆面を脱がなかった。和田は1974年からレフェリーになったが、ある時、それまで一度も見たことがなかった素顔を偶然目撃してしまう。
「たぶん後楽園ホールだったと思うんだけど、試合が終わってシャワー室をのぞいたら、知らない外国人のおっさんがシャワーを浴びていて。『誰だ、このおっさん』と思ったら、向こうも俺が怪しんでいるのがわかったんでしょうね。目が合った時に『ボク、デストロイヤー』と言われて、俺もビックリして目が点になったよ(笑)。当時、パンフレットを売っている人に似ていたかな。『デストロイヤーの素顔っておっさんだったのか』って思いました」
 ただ、絶対に外では覆面を脱がなかったデストロイヤー。それには、ある"狙い"も隠されていたという。
「素顔だと町の人は誰も気づかない。例えば、飲食店に入ってもサービスされないんですが、マスクを被れば違うわけです。車を運転する時も必ずマスクをしていましたね。高速道路に入る時に、料金所の係員に『ボク、デストロイヤーです』と言うと通してもらえたんですよ(笑)。今の時代では信じられないだろうけど、本当の話。愛車は真っ赤なホンダのシビックで、俺が助手席に乗せてもらった時も、本当にそうやって料金所を通過していましたからね」
 1979年まで全日本にレギュラー参戦したデストロイヤー。その後も定期的に来日し、1993年7月29日に日本武道館で引退試合を行なった。引退後も、2011年の東日本大震災の際にはチャリティーの興行で特別立会人を務めるなど、日本での活動も継続した。
 2017年には日米の友好親善に貢献した実績が評価され、秋の叙勲で「旭日双光章」を受章。文化の懸け橋として多大な功績を残したデストロイヤーは、2019年3月7日に88歳で生涯を閉じた。
「全日本が旗揚げして間もなくは、馬場さんしか"看板"がいなくて、団体として苦しい時期だった。その時にデストロイヤーが、家族と一緒に日本に移住してくれて助けてくれたことは、全日本の歴史を振り返る上で絶大な功績です。彼の存在なくして、その後の全日本はないと言ってもいいくらい。リング上では、しっかりしたレスリングでファンをうならせ、素顔は茶目っ気があった。デストロイヤーは忘れられないレスラーです」