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アブドーラ・ザ・ブッチャーABDULLAH THE BUTCHER本名:ラリー・シュリーブ 1941年1月11日 (1936年1月1日説あり) アフリカ・スーダン出身(自称) カナダ・オンタリオ州ウィンザー出身という説が有力 186cm 150kg |
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通称
黒い呪術師
タイトル歴
PWFヘビー
UNヘビー インタータッグ 大日本デスマッチヘビー ジョージア・ヘビー インターナショナル・ヘビー(モントリオール版) 得意技
ジャンピング・エルボードロップ(毒針エルボー)
地獄突き 凶器攻撃 |
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入場テーマ曲 ピンク・フロイド「吹けよ風、呼べよ嵐」
凶器攻撃や流血試合を得意とする有名悪役レスラー。少年時代は空手や柔道に熱中。20歳のころ、ジノ・ブリットのコーチを受けてプロレス入り。デビュー当時はグレート・ゼラス・アマーラの名前で、トルコ出身を自称し、トルコ帽をかぶりストライプの入っただぼだぼのパンツをはいて活躍。デビューして3年後、バンクーバーに転戦した時にプロモーターのロッド・ピットンのアイデアでアブドーラ・ザ・ブッチャーに改名。70年8月に日本プロレスに初来日。 72年12月から全日本プロレスの常連として、ジャイアント馬場、テリー・ファンクらと抗争。地獄突き、ヘッドバット、凶器攻撃、毒針エルボーなど数多くのムーブメントで大ヒール人気を博した。 75年2月21日、アトランタでジョージア・ヘビー級王座を獲得。7月11日、ジョージア・ヘビー級王座2度目の獲得。76年に全日本プロレス「第4回チャンピオンカーニバル」に出場。5月1日、日大講堂大会での大木金太郎戦では、試合は6分12秒に両者リングアウトで終わったが、試合後の乱闘にハーリー・レイスが乱入。レイスとブッチャーは街頭まで乱闘を展開し、交差点の真ん中でもつれ、周辺住民を巻きこみ警察も出動した。5月8日、札幌中島スポーツセンター大会での優勝決定戦で馬場と対戦。大流血戦となった。馬場がダイビングボディプレスを放ったが、そのあおりを受けてレフリーのジョー樋口が場外に転落して失神。馬場はエプロンにダウンするブッチャーにストンピングを続けた後、場外に降りてチョップを打ち続けた。馬場が副審のディック・マードックの制止を突き飛ばしたため、9分53秒にブッチャーの反則勝ち。驚異のチャンピオンカーニバル初優勝を決めた。 78年10月にビル・ロビンソンを破りPWFヘビー級王座を獲得。 79年の「第7回チャンピオンカーニバル」に2回目の優勝。10月にレイ・キャンディと組んで馬場、鶴田組からインタータッグ王座を獲得。77年から79年のタッグリーグ戦ではザ・シークと組んでファンクスと抗争。 80年10月に鶴田を破りUNヘビー級王座を獲得。81年5月に新日本プロレスに登場。87年2月22日、カナダ・ケベック州モントリオールでインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。11月に全日本プロレスに再登場。東京プロレス、WAR、大日本プロレスと多くの団体で暴れ回る。 1991 91年10月27日、WCWのPPV「ハロウィン・ヘイボック」で電気イスKO8人タッグ金網デスマッチに参戦。ベイダー、キャクタス・ジャック、ダイヤモンド・スタッド(スコット・ホール)と組んでリック・スタイナー、スコット・スタイナー、スティング、ヒガンテ組と対戦。リック・スタイナーに電気イスに座らされ、そのまま感電して敗れた。1996 96年10月8日、東京プロレスの大阪府立体育館大会で、UWFインターのエースの高田延彦と対戦。必殺のエルボードロップをカウント2で返され、8分15秒、右ミドルキック4連発からのフォール負けに終わった。1999 99年1月10日、大日本プロレスのアクロス福岡大会でシャドウWXのデスマッチ王座に挑戦。12分4秒、エルボードロップで勝利して大日本デスマッチヘビー級王座を獲得した。2月28日、後楽園ホール大会でシャドウWXを相手に防衛戦。14分26秒、フライング・ボディシザースドロップに敗れて王座転落。4月7日、後楽園ホール大会でシャドウWXのデスマッチ王座に挑戦。12分49秒、失神KO負け。10月10日、ミシシッピ州ベイ・セント・ルイスで行われたPPV「ヒーローズ・オブレスリング」でワンマン・ギャングと対戦。両者リングアウト。2001〜2008 01年に全日本プロレスに復帰。2000年以降も現役としてリングに上がる。アトランタなどでレストランを経営。07年11月、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に鈴木みのると組んで出場。08年12月13日、プエルトリコのWWCでボールズ・マホーニーを相手に、プエルトリコ限定で引退試合。カーロス・コロンが特別レフリーとなった。試合は両者リングアウトの引き分けに終わった。2009 09年7月19日、ドラゴンゲートの神戸ワールド記念ホール大会で、ハリウッド・ストーカー市川「暴走十番勝負」の最終戦の対戦相手として出場。2分34秒、エルボードロップで圧勝。勝利後、さらにエルボードロップを決めてみせた。7月26日、ハッスルの両国国技館大会でタイガー・ジェット・シンと組んでHG、RG組と対戦。ブッチャーの地獄突きがシンに誤爆し、7分35秒、RGにそのままフォール負け。試合後にシンと乱闘。7月30日、ハッスルの後楽園ホール大会でシンと対戦。延々と場外戦を続け、5分18秒、両者反則に終わった。11月7日、DRAGON GATEの後楽園ホール大会に出場し、CIMA、超神龍と組んで神田、新井、NOSAWA論外組と対戦。3分38秒、地獄突きからのエルボードロップで論外にフォール勝ち。2010 2012 12年1月、全日本プロレスに来日。1月2日、初戦の後楽園ホール大会で武藤、菊タローと組んで渕、西村、BLACK BUSHI組と対戦。歩行補助器を使って入場し、リングに上がることもできない体調だった。場外から地獄突きを見せるなど試合に参加し、13分8秒、武藤がシャイニングウィザードでBLACK BUSHIに勝利。試合後にマイクを持ち、2、3ヶ月以内の引退を表明した。体調不良のためその後のシリーズを欠場。1月5日に帰国した。2019 19年2月19日、両国国技館で行われたジャイアント馬場没20年追善興行で引退セレモニー。車イスでリングに登場し、「若い人たちに言いたい。自分の親が年取っても決して老人ホームにぶち込んで忘れるようなことだけはするな!いずれお前たちも年取ってそうなるんだから。ちゃんと親を大事にしろ!忘れるんじゃないぞ!」とメッセージを残し、最後は「サンキュー」を6回連呼し、引退の10カウントゴングを鳴らし、リングに別れを告げた。スクラップブック
「プロ」の悪役だったブッチャー。凶器攻撃はレフェリーとのアイコンタクトで発動した
(2021年9月15日10:50配信 webスポルティーバより) ブッチャーの初来日は、1970年に行なわれた日本プロレス「サマーシリーズ」でのこと。188cm、140kgと「あんこ型」の体型を思わせない俊敏な動きと、凶器を駆使する悪役として注目を集めた。 人気が急上昇したのは全日本プロレス旗揚げ後だった。なかでも1977年12月の「世界オープンタッグ選手権」最終戦の蔵前国技館大会では、テリー・ファンクの腕にフォークを突き刺し、その残虐行為で悪役としての地位を揺るぎないものとした。 和田が思い出すのは、全国どこへ行っても額から流血して会場を沸かせる"プロ魂"だという。 「ブッチャーは本当に毎回、どこの大会でも血を出していました。あの流血を見て『この人はどういう人なんだ。すげぇ』って驚いたことを覚えてますよ。とにかく、徹底していましたよね」 ブッチャーが場外乱闘で暴れまわる時には、恐怖も感じたという。 「ブッチャーは、場外で暴れまわる時にお客さんを追いかけるんだけど、それには彼なりの法則があって、自分が知っている人しか追いかけないんです。知らない人に手を出してケガをさせたら大変ですから。俺もよく追いかけられましたね。 あと、(馬場さんの妻の)元子さんを見ると必ず追いかけていましたよ(笑)。だから、俺が元子さんと一緒に客席の後ろでブッチャーの試合を見ていると、元子さんが『あっ!ブッチャーが来る』と俺を盾にして逃げるんだよね。あれは怖かったなぁ」 同じ「凶悪レスラー」でも、ブッチャーと対照的だった外国人レスラーがいたという。それは、1981年7月に新日本プロレスから全日本に移籍したタイガー・ジェット・シンだ。 「シンは、ブッチャーと違って無差別にお客さんを襲うし、会場の床を壊したり、窓ガラスを割ったりしてね。その頃に、全日本は観客のケガ、器物を破損した場合の補償として保険に入ったんです。シンには参りましたよ・・・。あんなヤツには二度と会いたくないです(笑)」 シンと違って、悪役としての"マナー"を守っていたブッチャー。ザ・シークとの「史上最凶コンビ」で暴れまわったが、実はシークとの仲はそれほどよくなかったという。その根底には、今以上に根強かった人種差別問題があった。 「シークとは控室もバラバラ。ブッチャーも差別的な空気を自分で感じていて、他の外国人レスラーと同じ控室にはいたくないようだった。例えば後楽園ホールだったら、控室から出て、エレベーターの前にひとりでポツンと座っていることが多かったです」 そんなブッチャーの気持ちを汲み取ったのが馬場で、「馬場さんはブッチャーのことを考えて、俺たちに『別の控室を用意してやれ』とよく言っていました。それで、試合前に別の控室を見つけて小さい部屋を用意すると、ブッチャーは『サンキュー。サンキュー』ってめちゃくちゃ喜んでくれましたよ」と和田は振り返った。 ヒールとして人気者になって以降も、ブッチャーは私生活では倹約家だったという。 「食事の時に、ご飯に砂糖をかけて食べていたことにはビックリしたね。他におかずも何もなし。"砂糖ライス"しか食べてない理由は、外国人レスラーの世話を担当していた先輩レフェリーのジョー樋口さんが、『あいつは金を使いたくないから、いつもご飯に砂糖かけて食うんだよ』って教えてくれて。ギャラは日本で使わずに、そのままアメリカへ持って帰りたいと考えていたんだよね。 でも、スタッフには感謝の思いを形で表していたよ。ある時、地方の居酒屋でスタッフみんなで飲んでいたら、店員さんが注文してないビールを瓶で5本ぐらい持ってきて。『あちら様からです』ってそっちを見ると、ブッチャーがいたんだ。あとは、サインを頼むと、俺たちには特別に自分の似顔絵入りのサインをしてくれたり。リングを離れるとかわいいというか、礼儀正しくて人柄のよさを感じました」 多くの外国人レスラーは移動の時はジャージ姿だったが、ブッチャーは白いスーツにサングラスで帽子をかぶっていた。和田は、常にレスラーとして威厳を大衆にアピールしていた姿が忘れられないという。 しかし、レフェリーとしては、リング上での凶器攻撃に"細心の注意"を払っていたようだ。 「レフェリーは凶器で攻撃しているところを見たらいけないんですよ。そこは"阿吽の呼吸"で、見ちゃうレフェリーは下手。ブッチャーとは、アイコンタクトじゃないけど、凶器を使いたい時は仕草でわかる。それでこっちは、『俺は見ないからやれよ』という感じです。 ただ、ブッチャーが凶器を隠す場所には驚きましたよ。タイツとか靴の中に隠していることもあったけど、胸の肉がたるんだ間に入れることもあって。あれは、どこに隠したのかまったくわからなかった。あそこに隠す発想はすごい。ブッチャーの体格だからこそ、成せる業だよね(笑)」 和田がもっとも印象に残っている試合は、1976年春のリーグ戦で最強を決める「チャンピオンカーニバル」の優勝決定戦。そこで馬場を破り、初優勝した時だった。 「それは俺が裁いた試合じゃないんだけど、優勝トロフィーを抱えて控室へ帰ろうとした時にブッチャーが転んでしまって。でも、倒れてもトロフィーを抱きかかえて離さなかった。すごいなって思ったよ。ブッチャーが、どれほど優勝してうれしかったのかがわかりました。 まず、当時は『外国人レスラーが優勝者になれるわけがない』という先入観があって、しかもブッチャーはヒールだから、なおさらハードルが高かった。そこを乗り越えて優勝できたからこそ、最高の喜びがあったんだろうね」 来日を重ねるごとに、リング上だけでなく、映画に出演するなど大衆にも人気が浸透していった。しかし人気絶頂の1981年5月にライバルの新日本プロレスへ引き抜かれた。和田はその時の馬場の心情を、「あれだけブッチャーを大きくしたのは全日本だから、ショックだっただろうし、悲しかっただろうね」と推察する。 ただ、ブッチャーは新日本で輝きを失っていき、1987年11月の「世界最強タッグ」で再び全日本へ復帰した。 「馬場さんは"裏切った"選手は絶対に戻さないし、ブッチャーからも何度も頼まれていたのに断っていた。それでも最終的に戻ることを許したわけですから、馬場さんにとってブッチャーは特別な存在だったのかもしれません」 ブッチャーは、2019年2月19日、両国国技館で開催された「ジャイアント馬場没後20年追善興行」で引退式を行なった。馬場とブッチャーは、いつまでも特別な縁で結ばれていた。 全日本プロレスの「門番」が明かしたブッチャー「最凶」男のプロ魂は蓄財術でも「最強」だった (2020年5月15日11:00配信 東スポWebより) 真のプロフェッショナルですよね。あそこまでプロ意識を持った選手はちょっといない。お金を稼ぐためなら、憎まれようが流血しようが何でもやった。あの感覚は日本人にはないものだった。 大前提として黒人選手という事実があるわけです。米国では幼少時から差別の対象になっていただろうけど、毅然としたプライドを持っていた。絶対に白人選手と同じ控室には入らない。全日本の外国人には差別意識なんてなかったけど、ブッチャー自らがきれいに一線を引いて徹していた。だから我々はリングづくりを終えると、馬場さん、日本人選手、外国人選手、そしてブッチャーたちの控室をセッティングした。部屋がない時は、黙って体育館の倉庫を控室にしていたね。 リング上ではとにかくやりたい放題。国技館だろうが地方の会場だろうが、毎日毎日流血していた。俺は若い時期、怖くて怖くて逃げまくっていた(笑い)。だけどリングを下りると紳士。身なりもびしっとしていて、帽子に折り目がきちっとしたズボンとシャツで葉巻をくわえていた。 タニマチがいる土地では豪華な食事に行くんだけど、そうじゃない時はホテルのレストランでライスだけを注文して砂糖をかけて食べていたね。砂糖はタダだから。とにかく「日本で稼いでお金を残す」というプロ意識がすごかった。140回以上も来日してるのに、ほとんど家族を帯同したことがない。普通は奥さんや子供を連れてくるんだけど「そんな金があったら米国に持って帰る」という意識が強かった。だからその後にレストラン(ジョージア州アトランタ)を何軒も経営できたんじゃないかな。 一番記憶に残る試合は「チャンピオン・カーニバル」で初優勝した時(1976年5月)でしょう。黒人選手で優勝(76、79年)したのは彼だけ。しかも初優勝は馬場さんの4連覇を止めて外国人選手として初の快挙だった。決勝戦は馬場さんが反則負けしたんだけど、試合後に控室で1人になると「ミスター馬場には心から感謝している・・・」としんみりした表情でトロフィーを抱き寄せていた。どんなベルトよりも価値あるものだったと思います。 馬場さんの信頼も厚くて、来日すると米国産の葉巻をプレゼントしていた。でも馬場さんはもっと高価なキューバ産のを吸っていてね。彼はシリーズ途中で自分の葉巻が切れると、俺に「スモーク、スモーク」とねだるんですよ。それもあのクリクリッとした瞳を丸くさせて。馬場さんに伝えると「仕方ねえなあ」と5〜6本渡してくれたけどね。 81年に新日本プロレスに引き抜かれた時は馬場さんが激怒して逆にスタン・ハンセンやタイガー・ジェット・シンを引き抜いたんだけど、居心地が悪かったのか、86年ぐらいから全日本側に「戻れないか」と打診してきたんですよ。最初は馬場さんも許さなかったけど、87年に復帰してからは忠実だった。最後まで全日本を貫いて引退セレモニーも馬場さんの興行だったから、幸せな晩年だったんじゃないかな。 セレモニーの前に車椅子から「キョウヘイ」と呼んで抱き寄せてくれた。「ああ、これがお別れになるのかな」と考えたらこみ上げてくるものがありました。もう来年で80歳?来日は難しいだろうけど、長生きしてほしいと心から願います。 |
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