57年ごろ、モントリオールのサーカスで怪力男として出演。59年1月、テキサス州でプロレスラーとして出場。5月から7月までカルガリーて活躍。10月22日、ミネアポリス・オーデトリアムで
バーン・ガニアと対戦。1本目はボディプレスで勝利。2本目はスリーパーホールドに敗れた。3本目はリングアウト負けに終わった。60年5月から8月までニューヨークで
パンピロ・フィルボと組んで活躍。
61年4月に日本プロレスに初来日。「カナダの密林男」の異名で満員の大型バス4台を鎖で引っぱるデモンストレーションを行い日本で人気獲得。5月1日、東京体育館大会での初戦で遠藤幸吉と対戦。5分15秒、ボディプレスで勝利。その後もハンディキャップマッチで活躍。6月2日、蔵前国技館大会で力道山のインター王座に挑戦。1本目は4分、場外でめった打ちにされてリングアウト負け。2本目は1分58秒、タックルを自爆して体固めに敗れた。シリーズ途中で帰国。帰国後、8月にオクラホマ地区に出場。10月にアマリロ地区に出場。その後はセミリタイア。77年10月に新日本プロレスに登場。この2度目の来日にも、バスを引っぱるデモンストレーションが新宿の京王プラザホテル前で企画されたが、道路交通法の違反で新宿警察からストップがかかり中止。代わりに巡業先の北海道の室蘭市で行われたが、大きな話題にはならなかった。12月8日、蔵前国技館大会で
猪木と対戦。グレート・アントニオが本気のパンチを後頭部に4発振りおとした後に、猪木がエキサイト。猪木に顔面を蹴りまくられて、鼻血を出しながら3分49秒で惨敗。日本での知名度は高いが、実際はカナダの一部でしか活躍していなかったローカル・レスラーで、アメリカではほとんど無名に近かった。03年9月7日、心不全のため死去。