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栗栖正伸1946年11月15日鹿児島県肝属郡出身 175cm 100kg |
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通称
イス大王
得意技
栗栖スペシャル
イス攻撃 |
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父は営林署勤務。転勤のため小学校、中学校を2回ずつ転校する。中学では野球、高校では柔道、大学ではボディビルに熱中。国士舘大学を卒業後、建設会社に半年間就職し、アルバイトなどで渡米費用を稼ぐ。渡米後はプロレスラーを目指してロスの日本食レストランでアルバイトをしながらジムでトレーニング。72年、外国人獲得ルートを開拓するためにロスを訪れていた猪木に会い、新日本プロレス入団を決心。猪木と共に帰国。同年4月に新日本プロレスに入門した。9月26日、銚子市体育館のリトル浜田戦でデビュー。試合は10分時間切れ引き分けに終わった。猪木の付き人を経て前座で活躍した後、79年3月にメキシコ遠征。当地ではマサノブ・クルスのリングネームでトップ・ルードとして活躍。8月30日、ベラクルス州のアレナ・ハラパでドレル・ディクソンにカベジェラ戦で勝利。11月4日、エル・トレオで浜田を相手にUWA世界ライトヘビー級王座決定戦。2対1で敗れた。80年1月にはエル・ソリタリオを相手にUWA世界ジュニア・ライトヘビー級王座決定戦を行い、敗れた。2月29日、アレナ・メヒコでアルフォンソ・ダンテスのNWA世界ライトヘビー級王座に挑戦。2対1で敗れた。
81年12月21日、アレナ・プエブラでへクター・ゲレロとカベジェラ戦で対戦し、敗れて髪の毛を剃られた。
82年3月に帰国。
84年秋、ジャパンプロレス結成に参加。全日本プロレスに参戦。
ジャパンプロレス崩壊後、87年に全日本プロレスに正式入団。
1988 88年1月22日、西尾市体育館大会で百田光雄と対戦。10分37秒、回転エビ固めでフォール勝ち。この試合が全日本プロレスでの最後の試合となった。8月30日、全日本プロレスの大阪府立体育会館大会で引退セレモニー。8月31日、大阪の天王寺で栗栖正伸トレーニングジムを開設。ジムからはその後、金本浩二、奥村茂雄、中西百重、雷陣明を輩出した。1989 89年、FMWでカムバック。1990 1991 91年2月6日、札幌中島体育センター別館大会で蝶野正洋と対戦。5分19秒、ヤクザキック2連発にフォール負け。5月25日、東京ベイNKホール大会でヒロ斉藤を相手にフォール、リングアウト、反則なしの特別デスマッチで完全決着戦。セコンドのマシン、後藤達俊の介入を受けて大流血。イスの上へのパイルドライバーをくらってしまい、最後は10分23秒、ダイビング・セントーンにKO負け。新日本プロレスではヒールとして大活躍。WARにも登場した。マスクをかぶって栗カラスと名のるなどの茶目っ気を見せた。2004 04年2月29日、ZERO−ONEの両国国技館大会で渕正信と組んでドン荒川、藤原喜明組と対戦。15分46秒、渕が横入り式エビ固めで栗栖への浣腸攻撃に夢中になっていた荒川にフォール勝ち。同年にジムを閉鎖。2005 05年12月29日、後楽園ホールで行われたビッグマウス・ラウドの第2弾興行に出場し、臼田勝美と対戦。イス攻撃で流血させて見せ場を作ったが、6分23秒、臼田のチョークスリーパーでレフェリーストップ負け。2006 06年3月22日、ビッグマウス・ラウドの後楽園ホール大会で木戸修と対戦。9分58秒、逆エビ固めに敗れた。5月19日、ZERO−ONE MAXの大阪市中央公会堂大会で高橋冬樹と対戦。5分15秒、逆エビ固めで勝利。2008 08年12月18日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」で大仁田と組んでグラン浜田、鶴見五郎組と対戦。イス攻撃をレフリーに妨害されて鶴見のロープでの首吊り攻撃を受けた栗栖が場外からイスをリングに投げ続けたため、そのまま12分31秒にリングアウト負け。2013 13年2月8日、ZERO1の大阪府立体育会館大会でリッキー・フジ、黒田、ザ・シューター、超電戦士バトレンジャー、フライングキッド市原と組んで大矢、フレディ・クルーガー、クリプト・キーパー、BADBOY非道、ミス・モンゴル、悪行戦士ダークレンジャー組と対戦。11分42秒、フレディのムーンサルトプレスにシューターが敗れた。2015 15年10月3日、ドラディションのテクスピア大阪大会で藤澤忠伸、倉島信行と3WAYマッチで対戦。14分4秒、栗栖がチキンウィングアームロックで藤澤に勝利。2016 16年2月21日、アパッチプロレスの大阪大正沖縄会館大会で藤原喜明と組んでHASEGAWA、金村キンタロー組と対戦。13分30秒、藤原が脇固めでHASEGAWAに勝利。スクラップブック
新日本プロレス入団の経緯
俺は柔道とボディビルをやってたんだけど、国士舘大学を卒業した後、昭和46年(1971年)にプロレスラーになろうと思ってロスに渡ったのよ。何でアメリカに行ったかっていうと、日本の社会そのものが嫌だったの。何か日本って、しがらみみたいなのがあるじゃん。だから、プロレスをやるにしても日本の団体に入る気は全然なくて、外に出ようと。どうせならアメリカでプロレスラーになりたいと思ってたんだよね。それでボディビルの先輩を頼ってロスに行って、ボクシングジムとかにも通ったりしながら、自主トレーニングしてチャンスを窺ってたんだけど、そこで猪木さんを目の中に入れても痛くないってほど可愛がっていた日本食レストランの大将と知り合ってさ。そこはロスに行く日本人レスラーの溜まり場だったみたいね。その店で猪木さんに初めて会ったのよ。で、猪木さんはマッサージが好きだからさ、俺がしてあげたりして。そうしたら、新日本プロレスっていう新団体を猪木さんが旗揚げしたということで、俺も日本に帰って入ることになったんだよね。だから、自然と俺は猪木派みたいな感じになってたのよ。新日本はまだ旗揚げしたばかりで選手が少なかったから、厳しいものがあったよね。でも、俺はその厳しさは当たり前だって思ってたから。厳しさの中にもホンワカした雰囲気もあったし。 (GスピリッツVol.12 栗栖へのインタビューより) |
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