レスラーノート

キラー・カーン

KILLER KHAN

本名:小沢正志
1947年3月26日
新潟県西蒲原郡吉田町出身
185cm 108kg

通称
蒙古の怪人
タイトル歴
WCCW・TV
北米ヘビー
フロリダUSタッグ
ルイジアナ・ヘビー
ミシシッピ・ヘビー
得意技
モンゴリアンチョップ
フライングニードロップ

モンゴル人スタイルの、アメリカでも大活躍したレスラー。奇声と共に放つダブル・ニードロップなどのファイトスタイルはアルバトロス殺法と呼ばれた。吉田中学ではバスケットボールで活躍。中学卒業後、大相撲の春日野部屋に入門。越錦の四股名で幕下まで進む。71年1月に日本プロレスに入門。吉村の付き人となる。6月26日、大船駅前特設リングでの木戸修戦でデビュー。7分32秒、逆エビ固めに敗れた。(「11月20日、栃木県太田原市体育館の桜田戦でデビュー」という説があるが、Gスピリッツ第4号でのインタビューでは木戸修戦がデビュー戦だと本人が主張している)。73年3月、坂口らと共に新日本プロレスに参加。軽量のリトル浜田との対戦が人気を呼び、前座で活躍した。76年に藤原喜明と共にドイツのカイザー派のトーナメントに出場。77年12月6日からメキシコに遠征。カール・ゴッチのアイデアでモンゴル人スタイルに変身し、テムヒン・エル・モンゴル(テムジン・エル・モンゴル)の名でUWAに出場。78年1月29日、ミル・マスカラスのIWA王座に挑戦。世界王座初挑戦だった。マスカラスのIWA王座には計4度挑戦した。10月にはカネックのUWA王座に挑戦。79年3月にフロリダに遠征し、キラー・カーンに改名。パク・ソン・ナムと組んでUSタッグ王座を獲得。ジョージア、ルイジアナ、テキサスを転戦し、WWFに登場。フレッド・ブラッシーをマネージャーに、ヒールとして活躍。 80年12月29日、マジソン・スクエア・ガーデンのメインでボブ・バックランドの世界王座に挑戦。その日に出場した谷津(この日がデビュー戦)、猪木をさしおいてのメイン登場だったが、日本のテレビでは猪木がメインという形で放映された。 81年5月2日、ロチェスターでアンドレ・ザ・ジャイアントの足をダブルニードロップで折る(実際はヒビを入れて入院させる)。その名を全米に轟かせる。ニードロップを誤ってアンドレの足に落としてしまった試合中の事故だった。ケガから復帰したアンドレと再戦し、敗退。 82年3月、新日本プロレスに凱旋帰国。第5回MSGシリーズに参戦。9勝1敗3引き分けの3位に終わったが、2位の猪木がケガのため欠場。4月1日、蔵前国技館大会の決勝でアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。アンドレを何度もよろめかせる大激戦となったが、16分42秒、ブレーンバスターからのヒップドロップに敗れた。7月6日、ルイジアナ州バートン・ルージュでジャンクヤード・ドッグを破りルイジアナ・ヘビー級王座を獲得。8月18日、ルイジアナ州シュリーブポートでマイク・シャープに敗れて王座転落。8月27日、ルイジアナ州シュリーブポートでミスター・オリンピアを破りミシシッピ・ヘビー級王座を獲得。9月26日、ミシシッピ州ジャクソンでミスター・オリンピアに敗れて王座転落。年末に新日本プロレスに登場。タイガー戸口と組んでMSGタッグリーグ戦に参戦。リーグ戦を2位で突破。12月10日、蔵前国技館大会での優勝決定戦で猪木、ホーガン組と対戦。31分17秒、猪木の卍固めに戸口が敗れた。 83年1月、長州力マサ斎藤の革命軍(後の維新軍)に加入。 84年1月20日にカナダ・カルガリーで北米ヘビー級王座を獲得。9月26日、ジャパン・プロレスに所属。 85年2月21日、ジャパンプロレスの大阪城ホール大会でジャイアント馬場と対戦。9分20秒、場外乱闘中にリングに上がる階段を使って馬場とレフリーを攻撃したため反則負け。 87年のジャパン・プロレス分裂を機にアメリカに遠征。5月7日にWCCW・TV王座を獲得。11月のニュージャージーでの試合を最後に帰国。引退後は芸能活動のかたわらで、89年にスナックを経営。長年、新宿区の中井で経営していた。97年、歌舞伎町に移転。 04年から音楽事務所に所属。5月17日に都内の介護老人養護施設で熱唱し、本格的な音楽活動をスタートさせた。 08年5月12日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」に出場し、木村健悟と歌対決。河島英吾の「酒と泪と男と女」をしっとりと謳いあげた木村に対し、カーンは自らの「新宿三百六十五夜」と「夕月子守唄」の2曲をフルコーラスで熱唱。観客判定で勝利した。11月2日、新宿FACEでのカブキの自主興行で「新宿三百六十五夜」を熱唱。12月18日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」でいとうかなこと歌合戦。持ち歌の「新宿365夜」、さらに布施明の「愛の終わりに」を熱唱した。 12年12月22日、歌舞伎町の店を閉店。13年1月15日、大久保駅近くに「居酒屋カンちゃん」をオープン。15年8月29日、閉店。9月3日、歌舞伎町で「歌謡居酒屋カンちゃん」をオープン。16年8月27日、「歌謡居酒屋カンちゃん」が閉店。9月14日、新大久保で「居酒屋カンちゃん」を開店。21年5月22日、新宿区百人町の「居酒屋カンちゃん」が閉店。22年4月、S状結腸がんで入院し、手術。23年3月6日、76歳の誕生日に西新宿で「カンちゃんの人情酒場」をオープン。12月29日、営業中にカウンターで意識を失い、動脈破裂のため死去。
スクラップブック
――カーンさんのプロレス哲学を聞かせてください。
カーン プロレスというのはリングに上がって試合をやりながら、いまお客さんが何を求めてるのかをきちんと把握しながら体を動かさなきゃダメなんですよ。それをできるのが一流。俺ができたとは言わないけど、ある程度できたからアメリカでお客さんを呼べたわけですよ。お客さんがいま悔しがってるだろうなと思ったら、もっと悔しい思いをさせるわけです。こんなことを言ったらアレだけどバカじゃメインイベントは取れないですよ。アメリカにはあれだけ数多くレスラーがいるんだし、上に行くのはその中のほんの一握り。やっぱり厳しい世界ですよ。
――なるほど。
カーン もうひとつ、人と違うことをやらないといけない。いまのプロレスラーは、悪いけど最初から最後まで同じ技をバンバンバン、それも人のコピーを繰り返すでしょ。映画でもなんでも泣かせるシーンがあったりクライマックスがある。ボクシングだってチャンスだと思ったらガンガン打ちにいく。そういうメリハリが必要なんですよ。
(週刊プロレス No.1755より)