レスラーノート

木戸修

1950年2月2日
神奈川県川崎市出身
180cm 105kg
血液型:A型

通称
いぶし銀
タイトル歴
IWGPタッグ
得意技
キド・クラッチ
脇固め
ネックブリーカードロップ

「いぶし銀」の異名を持ち、一瞬のスキをついて鮮やかに決める脇固め、キド・クラッチなど、職人肌のテクニックで見るものを魅了した。 小学校から柔道に熱中し、中学で初段を取る。63年に入門した兄の木戸時夫は、デビュー前に練習中の事故で頚椎を痛め、寝たきりの生活になってしまった。77年7月20日に死去。弟の木戸は兄の悔しさを背負ってレスラーを志望するようになる。高校を1年で中退し、父の経営する木戸工務店に勤務しつつ、レスラーを目指してボディビルに通う。68年10月、日本プロレスに入門。69年2月21日、後楽園ホールにおける北沢幹之戦でデビュー。当時、目黒のマンションに住んで日本プロレスのコーチに就任していたカール・ゴッチの徹底した指導を受ける。練習に真面目に取り組み、ゴッチからは「息子」と呼ばれるようになった。ゴッチには「一番私の領域に近づいた男」と絶賛された。ユセフ・トルコの付き人だったことから、トルコに従い72年3月の新日本プロレス旗揚げに参加。 75年6月に 藤波と共に欧州遠征に出発。12月に藤波と共にアメリカ・フロリダ州タンパへ渡り、カール・ゴッチと共にトレーニング。 76年2月に帰国。 84年9月より師ゴッチの勧めで第一次UWFに参加。 85年、UWFの日本人選手だけによるリーグ戦で優勝。崩壊後の12月に新日本プロレスに復帰。 86年8月、前田と組んで藤波、木村健悟組と対戦。キド・クラッチで木村を破り、第2代IWGPタッグ王者に輝く。 89年8月10日、両国国技館大会でビクトル・ザンギエフと対戦。6分15秒、首固めでフォール勝ち。 91年2月6日、札幌中島体育センター別館大会で藤波と対戦。9分31秒、グラウンド・コブラツイストにフォール負け。 94年にG1に出場して、藤原喜明に勝利したが、リーグ戦で最下位。 97年6月22日、後楽園ホール大会で小林邦昭と対戦。7分38秒、キドクラッチでフォール勝ち。 00年8月にはG1に出場。 01年11月2日に横浜文化体育館で引退試合。引退試合ではアントニオ猪木が入口でチケットのもぎり(木戸番)をして、その横で木戸がファン1人づつに握手していた。休憩後に猪木が登場し「木戸って(気取って)なくてバカになれ!とにかくプロレスを面白くしてくれ!」とマイクアピール。引退試合では長州力と組んで藤波、木村健悟組と対戦。10分時間切れ引き分けに終わった。引退セレモニーでは「昭和43年日本プロレスに入門。47年新日本プロレス旗揚げに参戦。以後33年。現役生活を続けることができました。15才でプロレス入りし、16才の時のケガで闘病生活を送ることになった兄の遺志をついでがんばってこれました。関係者の皆さん、ファンの皆さん、ありがとうございました。後は新日本プロレスに残り、後進の指導に当たっていきます。どうぞ今後も、木戸修、そして新日本プロレスをよろしくお願いします」と挨拶した。 03年5月1日、新日本プロレスの東京ドーム大会(前日イベント)で9人参加の新日本プロレスOBバトルロイヤルに出場。 05年9月11日、BIG MOUTH LOUDの旗揚げ戦の第1試合で現役復帰し、藤原喜明と対戦。試合は15分、時間切れ引き分けに終わった。12月29日、後楽園ホールで行われたビッグマウス・ラウドの第2弾興行に出場し、第1試合でドン荒川と対戦。4分31秒、キドクラッチでフォール勝ち。 06年2月26日、ビッグマウスラウドの徳島市立体育館大会で原学と組んでドン荒川、澤宗紀組と対戦。11分16秒、木戸がワキ固めで澤に勝利。3月22日、ビッグマウス・ラウドの後楽園ホール大会の第1試合で栗栖正伸と対戦。9分58秒、逆エビ固めで勝利した。4月19日、ビッグマウス・ラウドの後楽園ホール大会でウルティモ・ドラゴンとエキシビションマッチ。5分時間切れ引き分け。試合後、ウルティモ・ドラゴンがマイクを持ち「今日、上井さんからオファーされ木戸さんの試合中に絶対乱れない髪型をグシャグシャにしてやろうと思ってきたけど残念ながら失敗に終わりました。先輩との間に5分という時間は短すぎると思います。今度は時間無制限でお願いします」とアピールしてリングを降りた。6月18日、ビッグマウスラウドの後楽園ホール大会で高木三四郎と対戦。10分時間切れ引き分け。8月20日、ビッグマウスラウドの後楽園ホール大会で菊タロー、ドン荒川と3WAYマッチ。9分25秒、木戸がワキ固めで菊タローに勝利。 07年2月11日、大阪・はびきのコロセアムでの泉州力プロデュース興行で泉州力と対戦。7分29秒、キドクラッチでフォール勝ち。4月30日には後楽園ホールでの「UWAI STATION 5」で西村修と組んで宮本、本間組と対戦。21分55秒、西村の足4の字固めで勝利。木戸も本間をワキ固めでとらえ、勝利をアシストした。 08年5月12日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」に出場。胃ガン手術のためセミリタイア状態の藤原喜明とエキシビションマッチ「ワキ固め対決」で対戦。若手を相手に電光石火のワキ固めを見せた木戸に対し、藤原はアレクサンダー大塚を相手に、流れるようなワキ固めで会場を沸かせ、勝負は引き分けに終わった。6月10日、後楽園ホールでの「武藤祭」で松田納、西村修と「オサム軍団」を結成し、NOSAWA論外、MAZADA、TAKEMURAの「東京愚連隊」と対戦。13分28秒、松田のサムライクラッチでNOSAWAからフォール勝ち。10年2月22日、IGFのJCBホール大会で藤波と組んで初代タイガーマスク、藤原組と対戦。藤原と関節技の応酬を繰りひろげ、15分時間切れ引き分けに終わった。 23年12月11日、神奈川県横須賀市内の病院で死去。



スクラップブック
燃える闘魂もプロレスの神様も格闘王も認めるいぶし銀*リ戸修さんの人柄と功績
(2023年12月15日5:16配信 東スポWEBより)
 新日本とUWFで木戸さんと苦楽をともにした前田氏は、本紙の取材に応じ「ビックリしたね。選手の中でも一番健康に気を使ってたイメージ。一事が万事、控えめな人だったね。出しゃばらないしさ。すごく寡黙で喜怒哀楽を表さない。自分のやるべきことを黙々とやる、本当の意味で昔かたぎの職人みたいだったね」と故人をしのんだ。
 前田氏が新日本に入門した77年の夏、練習後に木戸さんから呼ばれたことがあった。「『背中にニベア塗ってくれ』って言われて、その時初めてプロレスラーの体を触ったんですよ。木戸さんの背中の筋肉の厚くて硬いこと。背中に一枚コンクリートの板が入ってるみたいな感じだったね」と、当時の衝撃は今も忘れられないという。
 UWFでも木戸さんの加入は大きかった。先輩である木戸さんに意見を求めた時も、必ず一歩引いて前田氏を立ててくれたという。「木戸さんがいることで心強かった部分はあるよね。自分たちがやってることの正しさというか。それまではどちらかと言ったら、まがいもん扱いみたいな感じだったけど『あの木戸修もUWFに行ったんだ』って(見られ方の変化が)あったんじゃないかな。ゴッチさんもずっと最初のころから『木戸は呼ばないのか』って、ことあるごとに言ってたからね」
 木戸さんはゴッチさんからは「息子」と呼ばれ、猪木さんからも厚い信頼を寄せられていた。前田氏は「ゴッチさんも亡くなって、去年猪木さんも亡くなって・・・。2人に呼ばれたんだね。そうとしか思えないよ。あの木戸さんががんで死ぬなんて。今は3人でいろいろなこと話してると思うよ」と天を見上げた。
 娘の木戸愛は人気プロゴルファーで、2012年の国内ツアー「サマンサタバサレディース」で優勝するなど活躍している。前田氏は「いろんなことをやってあげたんだろうね。でもそういうのを一切苦にせずやってる姿は目に浮かぶよね。さすがだな、プロレス界でそういうことができるのは木戸さんしかいないなって思ったよね」と父親としての木戸さんにも敬意を示した。
「プロレス界では本当に、表向きの派手な部分は藤波さんが引っ張って、木戸さんが縁の下の力持ちだったからね。その2人がいたから新日本もUWFも回ったと思うね。長い間お疲れさまでした」と追悼した前田氏。燃える闘魂もプロレスの神様も格闘王も、業界の誰もが認める男が、いぶし銀と呼ばれる名レスラーだった。