小市民ダークロのありがちで気の抜けた感じのやつ
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大学に入学して二、三ヶ月も経つと、だんだん授業に行かなくなる。朝は9時から始まり、ドイツ語だけで週に4コマもある生活のために、入学したわけではない。面白いことがほかにないか、キョロキョロしだしたころの話だ。
SF研究会のラウンジに行ったら浦口というサングラスのOBがいた。いつものようにサングラスをかけタバコをふかしている。がっしりした大男である。ここは、サークル活動の場だけではなく、麻雀のメンツ集めのための待合室でもあるのだ。誰か来ないかと、ポーカーをしながら二人でのんびりと時間をつぶしていた。そのうち明日の競馬の情報交換から、話題はその日に引っ越す戸辺さんの話になり、様子をうかがいに家まで行くことになった。僕は戸辺さんとはそれほどの付き合いではなかったが、この前に雀荘で、 「おれ、今度引っ越すから手伝ってくれない?」 と言われていて、その報酬が絶版になった一冊千円以上するサンリオSF文庫だったので、ただちに了解していた。 浦口はふらふらと揺れるように薄暗い通りを歩いていった。戸辺さんの家は大学の近くにあった。浦口の話だと、そこは実際には戸辺さんの家ではないという。本当は松本さんの部屋で、そこへ戸辺さんが転がりこんできたそうだ。戸辺さんも自分の部屋を持っているが何年も帰っていないという。 「だから引っ越すんじゃなくて奴が家に帰るだけなわけ」 「それじゃ、松本さんは?」 「おれもそこんとこ知りたくて、今、行ってみるんだけどな」 実は、僕は先日の雀荘で、戸辺さんの口から聞いていた。 「アイちゃんは生みの親んとこに、帰る」 僕は黙っていたが、本当は浦口も知っているのかもしれない。 アパートに着いた。階段を上りドアを叩いても返事がない。部屋をのぞくと、そこは混沌とした惨状だった。あらゆるゴミや衣類で部屋があふれかえっている。僕がその場で突っ立っていると、浦口は部屋に入って誰もいないのを確かめて戻ってきた。 「全く不用心だな・・・」 しばらく外で待っていると、二人が帰ってきた。戸辺さんはいつものようにメガネをかけて派手なシャツを身にまとい、髪を脱色させて後ろで束ねていた。 「よぉ久しぶり。どうしたの?」 「明日引っ越すらしいってんで、どうしてんのか見にきたんだけどよぉ」 「連絡来ないから来たんですけど・・・」 「いやぁ悪いねー。わざわざこさせちゃって。これからみんなに電話しようと思ってるんだけど。浦口も手伝ってくれんだろ?」 「え?おれはこいつがおまえんち分かんねえから連れてきただけだぜ」 「そんな、頼むよぉ。人手が足りなくて困ってるんだ。ここぞという時に引っ越しのプロがいれば助かるんだよぉ」 浦口の職業は、引っ越しの運送や部屋の模様替えである。 「おれは明日、馬券買わなきゃなんねえから」 「人手不足なんだよ。軍手だってこんなに買ったんだぜ」 戸辺さんは軍手の束を見せた。どうやら明日使うものを買いに行っていたようだ。少し言い合いが続いて、結局浦口は明日、場外馬券売り場に寄ってからここに来ることになった。 「じゃ、ま、あがってくれよ」 「入んなよ」 さっきまで彼らの口喧嘩を笑って見てた松本さんが僕に声をかけた。松本さんは小柄で、肩まで髪があってTシャツとブルーのジーンズを着てサンダルを履いていた。普通の大学生に見える。このような部屋で暮らしている人とはとても思えない。松本さんに対する印象が少し変わった。 「カギくらいかけていけばいいんじゃないっすかねぇ」 と僕が言った。 「カギなんて一度もかけたことないよ」 松本さんが笑いながら言った。僕たちは洗っていない食器が積まれた台所を抜け、服や靴下や下着が乱雑に散らばっている布団の上に座った。生活臭にどっと包まれた。 「けっこう片づいてますね」 僕は冗談で言った。一箇所だけ、物が何も置かれてない場所を見て、この部屋に畳があると分かった。戸辺さんが笑った。 「でしょー?これでも少し片づけたんだ」 「むこうの戸辺んちは、こんなもんじゃねえぞ」 浦口が僕に言う。 「うん・・・三年も帰ってないからねえ。一度だけ帰ったことあったけど、新聞が積み重なって中に入れなかった」 「おい。おめー新聞をまだあっちでとってるわけ?」 「ああ。まだ毎朝配達されてるんじゃないかな。まずは新聞を片づけることから始めなくちゃなぁ」 「まじー?明日はもしかしてとんでもないことになるんじゃ・・・」 それっきり僕は黙った。 「君には、サンリオ三冊ぐらいは持ってってもらわないとね」 戸辺さんが笑ってタバコから灰が落ちる。灰は、もちろんさっきからそのままだ。浦口も 「おいおい。そんなんじゃ足りねーよ」 と声をひきつかせて笑う。 楽しそうだ。 それから明日の予定について話した。僕らの仕事は、この部屋から戸辺さんの荷物を持っていくことと、むこうの部屋を掃除することだ。松本さんの荷物は親が車で取りにくるという。 「なに、たいしたことない。ほとんどがアイちゃんの物だから」 戸辺さんが笑った。 「しかし、ほんと、どうなってんだろうねー。いつものように生活していた状態から突然帰らなくなったから、三年前の生ゴミとかがあるんだよ」 「風化してたりして」 「ダニが繁殖して真っ黒いじゅうたんみたいになってるかも。なんかこわいな。変な生物が発生してたらどうしよう」 「それで明日来る人って誰ですか?」 と僕が聞いた。 「えっと青山が来てくれるっていうだろ。ナベは来ない。あいつに、小説家になるんならこんなことでもしないといい小説は書けないよって言ったんだけどね・・・」 「た、たしかにいい経験にはなるわな。しかしよぉ戸辺、それじゃ少なすぎるぜ」 「浦口が三人分くらいになるから」 「もっと呼んでよ!」 僕は叫んだ。 「ほかにこんなことに誰か来てくれる人っているのかなぁ」 と松本さんがニヤニヤ笑う。 「飯島は?」 「こんなことやらせちゃかわいそうだよ」 「じゃ、スギ。あいつバイトやってないから一日中ヒマなんだろ」 戸辺さんが電話しに外へ出た。ここの電話は料金を払っていないので使えなかった。松本さんも後を追おうとしたが、 「ねえ、少し片づけませんか」 と僕が言ったのでいっしょに片づけはじめた。 「なんか、さっき座ってても君、居心地悪そうだったもんね」 この部屋にはタバコの空き箱があった。ぐちゃぐちゃしたチリ紙があった。腐ったバナナがあった。ギターやキーボードのコードがあった。下着があった。空き缶があった。派手なステージ衣装があった。卵の殻があった。みかんの皮があった。文庫本があった・・・。完全にゴミと言いきれない物は、一つ一つ松本さんに聞いた。捨てなかった物の中には、歌詞を書いた黄色に変色した紙切れや、「浦口に乱歩賞を取らせる会」と表紙に書かれた小説の原稿もあった。大きなビニールのゴミ袋五つを一杯にして、ようやく畳が見えはじめたころ、戸辺さんが帰ってきた。 「いやぁ悪いね。こんなことやらせちゃって」 「おい。ここは明日引っ越すような環境じゃねえっての。おめー引っ越しをなめてねーか?」 「スギさんは?」 「ああ。一応来るって言ってた。はじめ電話した時には「え、麻雀ですか?行きます行きます!」とかすげー明るかったのに、話していくうちにうすうす事情が飲みこめてきたみたいで、だんだん暗くなっていった」 こうしてこの部屋の大掃除が本格的に始まった。浦口は散らばった衣服を見下ろして言った。 「この服をどうにかしなきゃなんめえ」 「そうですよ。このこぎたない服をどうにかしましょう」 僕は服を足でかき集めた。 「こぎたなくて悪かったわね」 すぐに松本さんが言ったがその顔は笑っていた。 「この、豹柄の黄色いスパッツ、これ、捨ててもいいかな」 「だめよ。それ、私が買ってきたんだから」 「でもぜったい二度とはかない気がする」 「似合ってたよ、かっこいいよ」 「そうかな」 浦口のおかげでかなりはかどった。僕は本をダンボールへ入れていった。戸辺さんはタバコを吸いながらステージ衣装の品評会を松本さんとしていた。 「おい。もう9時になるぜ」 浦口が言った。 「え、おれはまだ帰らなくてもいいけど」 「そうじゃねえよ。こんなに騒いじゃ近所迷惑だろ」 「でも明日引っ越すんでしょ?」 「なかなか味なこと言うねー」 戸辺さんが笑った。浦口が僕に苦笑した。 「しかしよぉ、今日来てみて、まさかこんなことになるとは思わなかったよなぁ」 かなり畳が見えてきた。僕は部屋の隅に小さな穴があるのに気づいた。穴は下にのびていた。 「これ何?」 「昔飼ってたハムスターが逃げちゃったの」 松本さんが大きなダンボールを持ってきた。 「これが家だったんだけど」 箱の中にはハムスターの生活用品があった。ハムスターが中に入るとくるくる回るやつもあった。 「そんなもんまで取っとくから、いつまでたっても部屋が片づかねえんだよ」 浦口がうめいた。 「だって戻ってくるかもしれないから・・・」 「ここになんでヒマワリの種があるのかと思ったら、そうだったのか・・・」 十時になってもうやめにした。気がつくと戸辺さんはギターを弾いていた。 集合時間は十一時。お昼近いが僕達にとってはまだ早朝の時間帯だ。大学でこんなに早くラウンジに行っても誰にも会えない。戸辺家へ来たのは僕が最初で、松本さんは歯磨きをしていて戸辺さんは寝ていた。窓からさしこむ朝日に小バエがきらめいていた。しばらくして青山とスギさん一緒に来た。青山は僕の隣で布団の上に座って新聞を読んでいたが、スギさんは座ろうとしなかった。最後に浦口が全レースを買って訪れた。 「おれは、これ持っていこうと思うんだけどね・・・」 戸辺さんは押入れから大きなギターケースを出した。コントラバスだ。ゴミ捨て場から拾ったという。戸辺さんのロックバンドで演奏しているらしい。年代物のケースにパンクなステッカーがベタベタ貼ってあった。出発だ。それぞれ物を持ちながら、僕たちは駅まで歩いた。普通は単純に引っ越し屋にでも頼むのだろうけど、今回は家財道具や楽器やワープロを手で運ぶ。集団の夜逃げみたいだ。コントラバスを抱えた戸辺さんが追いつくまで何度か立ち止まった。僕の荷物は重いが、戸辺さんのふらふら歩く姿を見てると笑えて気がまぎれた。 「今日は朝早くから大変ですね」 僕は青山に言った。彼は旧式の大きく重たいワープロを持っていた。 「いや、君こそごくろうさまだよ。おれの場合は戸辺さんとのつきあいが長いからいいけど」 「サンリオ文庫が目当てで、もらうもんだけもらっていこうと思って」 「なるほど。お互い、目的は同じみたいだね」 青山は僕と歳が同じだけど、学年は1つ上だった。スギさんの方を見ると機嫌が悪そうだ。CDラジカセをガードレールにゴツゴツ当てながら歩いていた。このラジカセは、後で持ってみたのだが、僕の荷物よりかなり重かった。今回かわいそうなのは、サンリオ文庫なんか興味ないスギさんだ。スギさんは戸部家の家の散らかりようにあきれていた。 「あれでも昨日、掃除したんですよ」 「まじ?ありゃ人の住むとこじゃねえよ」 「今から行くとこは、あれ以上だそうです」 「おい、ちょっとやめてくれよぉ。信じらんねぇなぁ〜」 僕たちは電車に乗った。都電荒川線の始発だ。休日だったので、リュックをしょった家族連れが乗っている。乗客がものめずらしそうに僕たちを見る。住宅を通り過ぎていき、そのうち乗客はまばらになっていく。ゆらゆら揺れながら僕たちは、わざと自分の牌を見せる浦口の戦法にはどんな意味があるのかしゃべったりした。松本さんは、みんなの話には加わらずに、少し離れたドアにもたれて外の景色を眺めていた。その時僕は、何日か前に、幹事長と話したことを思い出した。 何日か前、昼下がりのラウンジにはSF研究会の幹事長と僕がいて、隣のテニスサークルが騒がしかった。僕が戸辺さんに引っ越しを頼まれたことを話していると、突然幹事長が「え!」と声をあげた。 「どうしたんです?」 「だって君、アイちゃんが生みの親の所へ帰るとか言ってたけど、アイちゃんの生みの親って九州にいるんだよ」 「え、ほんとですか?」 幹事長はまじめな顔つきでうなずいた。 「生みの親って、戸辺さんは言ってたの?育ての親じゃなくて」 「はい、生みの親って言ってました。どういうことですか?」 幹事長は宙を眺めながらゆっくり話しだした。アイちゃん、松本さんは、九州で貿易の仕事をしている大金持ちの子だったけど、東京の知り合いの養子になったんだそうだ。幹事長が言うには、生みの親が海外の出張ばかりして、子供を育てる余裕がなかったからだそうだ。松本さんは今までずっと東京に住んでいたという。 「生みの親とか言って、あの時戸辺さんは冗談みたいに言ってたのかと思ったら、とっても深刻なことだったんですね・・・」 「充分深刻なことだと僕は思うよ」 幹事長はまた、どこかを見た。 「まあ、君は知らないと思うけど、去年だって、アイちゃんは大学の授業に全然出ていなくて、本当に進級できるのかみんな心配してたんだよ。去年進級できなかったら退学だからね。ラウンジにさえあんまり来ないでしょ?一応進級はできたようだけど、ただでさえこのサークルって中退してる人たちがかなりいるしねぇ。やっぱりアイちゃん、大学辞めちゃうのかなぁ・・・」 「そんな」 「だって、やっぱ九州に帰るんなら大学辞めるしかないしねぇ」 「そうしたら戸辺さんはどうすんだろう」 「うーん。戸辺さんね・・・。アイちゃん、大学に入って一人暮らし始めて、すぐにここであの人に引っかかったんだよね・・・。それ以来ああいう関係になっちゃってるし・・・。君も知っているように、あんなロックのアンちゃんみたいな人とつき合ってるんだから親も心配だろうしね・・・」 ガタンと電車が揺れた。松本さんは降りるまでドアのそばに立っていた。ほかのみんなは、終点近かったので座っていた。僕から見ても、松本さんは僕たちとは他人のように見えた。 「大丈夫。すぐ着く。ほんの十分」 戸辺さんがバックの上に座ってニヤニヤ笑う。 「それ、うそ」 浦口が応戦する。駅に降りたのは僕たちだけのようだった。三十分ほど歩いたそこは、出発地点とあまり変わらない古いアパートの二階だった。違うのは、たぶん家賃だけだ。むこうよりも月に2万円ほど安いはずだ。キャベツ畑でモンシロチョウが飛んでいる向こうに、それは建っていた。錆びた階段を上りながらスギさんが小声で言った。 「まだ、これから、あの部屋の掃除が待ってんだろ・・・・?」 新聞が、詰まって郵便受けに入りきれずに外の廊下まで散らばっている。ドアを開けると、腰の辺りまで新聞が積み重なっていた。新聞は、時の流れを僕たちに語りかけるかのように、じっと崩れることなくその場にたたずんでいた。笑い転げた。 「ほんとに、家に入るだけで一苦労だぜ」 「まずは家に入ることから始めなきゃ」 「これを見ただけで今日来たかいがあった」 青山が言う。戸辺さんは毎日新聞の朝刊と夕刊をとっていたが、たまに読売新聞も紛れこんでいた。 「こんなになるまでほっといて、新聞配達の人もおかしいと思わなかったのかねぇ」 「郵便配達の人だって困るぜ」 「もしここで人が死んでいても、そのままにされるのかなぁ」 ようやくコントラバスを担いだ戸辺さんと松本さんがここまでたどり着いた。 「この機会に、日本の政治について学んでみようかなぁ」 と戸辺さんが笑った。 部屋に入る前に新聞を束ねる作業にとりかかった。浦口がひもで新聞を縛っていった。仕事がはかどり少し年月が経つと、ブッシュがイラクへミサイルを撃ちこんでいた。底辺近くになると、千代の富士が霧島に負けていた。お日様が照りつけ、湾岸戦争が終結するころ、僕は新聞の積まれた山でねっころがった。 「なにか飲みに行かない?」 とスギさんが誘ってくれた。向かいに酒屋があった。 「酒でも飲まなきゃやってらんねーよ」 とスギさんが自販機でワンカップを買った。僕は水割りウイスキーを買った。 「9パーセントか。あんまり入ってないなあ」 と僕が言った。最近はストレートで飲んでいた。 「そうか?けっこう入ってると思うけどな」 僕のを一口飲んでスギさんが言った。僕は一息で飲み干した。 「アルコールじゃないっす」 「そうかな。おれは何パーセントでもアルコールが入っていれば、アルコールだと思うよ」 スギさんは黙った。スギさんはあまりやる気がないようだった。錆びた手すりにもたれて、ちびちび飲みながらキャベツ畑をだらだら見ていた。僕は掃除に加わるべく部屋に戻った。 部屋に入ると、台所。横にトイレがあった。そのむこうに四畳、そして奥に六畳があった。思ったよりも広かったが、風呂がないので高い家賃ではないのだろう。帰るのを忘れて払いつづけていられるくらいの値段だ。帰るのを忘れるほどむこうの居心地がよかったのか、それともこの場所を常に確保しておく必要があったのか、見当がつかない。みんな土足で部屋に上がっていた。青山はワープロを作動させていた。 「おお、動く動く」 「戸辺さん・・・一行しか、画面に出てないですよ」 「だってそういう機能だもん。あんまり使えないんだよね」 「そんなの捨てればいいじゃないすか!こんな下らないものを運ばせないでくださいよ!」 「バカ、これでSF研の会誌を作ったんだぞ。まだ使えるのにもったいない」 松本さんが笑った。 「それもゴミ捨て場で拾ったんだよね」 窓から新鮮な空気や日光が入ってくる中を、戸辺さんと松本さんが語らいながら部屋を片づけている。浦口はその周りで、熱心に捨てるゴミをかき集める。ドアのノブにはラジオがかけてあって、競馬中継が流れていた。見たところ、そこにあるのは全部ゴミのようで、部屋ごと全部捨てたい気分だ。匂いはあまりしなかった。たぶんグチャグチャになったり発酵したり腐ったりしたのはだいぶ昔のことで、今は残り香しかないのだろう。あまりなじみのない匂いだった。そこにあるものは妙にほこりっぽく、二年以上の月日がこの部屋に流れたことを伝えていた。ジュースは変色していた。食いかけの弁当もあった。三年前の生ゴミも。冷蔵庫は水が漏れて畳に穴をあけ、畳の下の床板をも腐らせていた。結局冷蔵庫は、一度も開けることなくそのまま粗大ゴミ置き場へ直行した。ここから新しい生活が始まるとはとても思えなかったが、できるだけきれいにしてやろうと思った。部屋がきれいなら、彼らのその後の生活もなんとなく上手くいくのではないかと思った。 部屋とゴミ捨て場を数え切れないほど往復した後、ファミレスで休憩することになった。外を歩くと、なんだか現実離れした静けさだった。フラフラした気分になった。疲れのせいかもしれない。それもあるけど、彼らと一緒に歩いているだけで、不思議な気分になる。ほんの二、三ヶ月前まで彼らとは他人だったのだ。ファミレスの照明は暗くて、またもやぼんやりした気分にさせられる。ただ座っているだけで、そのまま時間が流れていくようだ。なぜ今日はこんなことをしているのだろう。なんのために?つまりは僕の中でサンリオSF文庫以外の興味が出てきたというわけだ。戸辺さんはどうなってしまうのか。松本さんは本当に九州に帰ってしまうのか。僕は2人のことをあまりよくは知らない。なぜ?どうやって?どのように?どうして?疑問だらけだ。いろいろ聞いたほうがスッキリするのだが、どこから聞けばいいのだろう。この雰囲気で、なにを言ったらいいのだろう。松本さんは戸辺さんの膝の上に頭をのせてねころんでいた。浦口の握りしめた馬券とラジオは、それなりに見ていて楽しめた。 僕はトイレに入った。後から浦口も入ってきた。 「戸辺さんは、一人であそこに住むんですよね」 「うん・・・」 「松本さんは、どこに住むのかなぁ」 「さあ・・・。おれもアイちゃんのことはよく分かんなくてね。おれが大学辞めた後に入ってきたしな。そんな心配すんなよ。今日は早いとこ終わらせて麻雀打ちに行こうぜ」 ファミレスから帰るともうみんなだらけていて、青山と僕はサンリオ文庫を選んでいた。浦口の馬券は外れた。外の空気を吸って、だいぶ居心地のいい空間になってきたのを感じた。僕は本棚の隅で松本さんの写真を見つけた。黄色い光に照らされて、にこりともせずにこちらを見ていた。その後雀荘に行った。スギさんが端の不要牌をいじりながら戸辺さんを指さす。 「おれこの前、高田馬場の駅で寝そべっている汚い人に声かけられたけど、それが戸辺さんだった!どう見ても危ないよこの人!」 浦口がビール片手にリー棒を置いた。 「はい!戸辺はアイちゃんに捨てられて終わり!」 卓さえ囲めれば、大丈夫だと思った。 明日は月曜日。僕は授業が五コマある。僕たちは夜遅く駅で別れた。 「最後にはアイちゃんが決めることだったのよ」 数日後、ラウンジで、松本さんと同じ学科にいる先輩に会った。 「親の方でもどっちでもよかったんじゃないのかな。親といったって形式的なもんだしね」 先輩はタバコをもみ消し、こっちを向いた。 「大変だったね」 「え、なにが?」 「戸辺さんちの引っ越し手伝ったんでしょ?アイちゃんから聞いたけど、なんでも床をゴシゴシ磨いてたそうじゃない。でもそんなに一生懸命やったって、どうせ戸辺さんがめちゃめちゃにしちゃうわよ。前の部屋なんか今までに私が何度も掃除したことがあるけど、戸辺さんったら三日で元に戻しちゃうのよぉ」 「松本さんは九州に帰ったんですか?」 「知らないの?まだこっちに残るみたいよ。新しいマンションを借りたみたい。親と住んでるんだけど、出張で家にいないみたいだから、ほとんど一人暮らしよ」 「戸辺さんは?」 「ああ。また、あの部屋に居候するんじゃないの?でも、親も住んでるから、昔みたいにはいかないだろうけど」 「また。面白いことになりそうですね」 浦口にはあれ以来会っていない。公務員試験の勉強をしているんだそうだ。人の悪いスギさんは、早くも残念パーティーを開く計画を立てている。僕は雀荘に向けてラウンジを出て外を歩く。夕方の学生が長い影を引いて歩いていく。いろいろな人がいるものだ。 あの日のことを思い出す。駅の中に入る間際に後ろを振り向くと、ネオンが照って、電車の音がしている中、むこうで戸辺さんと松本さんが手を振っていた。信号が変わり、人々が動き出す。人ごみの中で小さな手の平が2つ揺れている。 |
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