映画評 |
2000年/アメリカ/117分 監督:ボビー・ファレリー/ピーター・ファレリー 出演:ジム・キャリー/レニー・ゼルウィガー/クリス・クーパー | |
とにかく邦題がだめだ。始まるまでコメディ映画だと思わなかった。制作期間は三日で撮ったようなチープさだ。シーンごとに撮った細切れの場面を、ナレーションでつなげる荒っぽさだ。あんなに身障者を出した意味が分からない。知的な笑いを提供するつもりが悪趣味になっている。脚本の弱さがひどすぎ。脇役の人たちの名前を一人残らず紹介するエンドロールがよかった。ジムキャリーの演技は、ベタな動きで満たされていてすばらしい。スタンダップコメディアンの王道を行く役者だ。しかもウッディアレンとかトムハンクスより芸の幅が広い。あと、一番印象に残ったのは、三人の子供だった。ノリのよい天才っていうアイデアがすごい。あの人たちを主役にした映画を見たい。 | |
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2000年/日本/108分 監督:須賀大観 出演:伊藤英明/真田麻垂美/大塚明夫 | |
フィギュアを探す旅という設定が面白い。実際のアメリカへの旅はキャンセルさせられてしまう部分も面白く感じた。カットが短く、どんどん展開をつなげていく所がよかった。ぽかんと口を開けたまま、最後まで見てしまった。「ちっ、またダブった・・・」と、ヤケでガチャガチャする場面が面白かった。ロボットオタクが、高校時代の友人そっくりだ。その友人同様に「確信に満ちた口調でしゃべるオタク」という性格が魅力的だった。登場人物全員がセリフをぼそぼそしゃべっていて聞き取りにくかった。説明も多い。ライトがきれいだがほとんど自然光を使ってない作られた照明だ。セットがきれいすぎて生活感がない。CMなら、あれでいいのだろうが。物語に加え、作り方も、内に内にこもる部分が興味深い。登場人物たちが、パッケージに入ったままのフィギュアに思えた。韓国の造詣師関連の話の上手すぎる展開などを見ると、ドラマ部分でリアルに描かれていない欠点がある。なんであれほどまでにフィギュアを集めているのか、誰にでも分かるような説明がない。あの収集熱は、病気に近いように思う。病気の主人公に、観客は感情移入できないのではないだろうか。最後に出てくるフィギュアに対する思い入れの描写もあったほうがいいと思う。レアなのはよく分かったが、なぜ、あのフィギュアでなければならなかったのだろう。もう少し、物語がふくらみそうな気がするなあ。なぜフィギュアが好きなのか自己分析しない点で、村上春樹の1973年のピンボールに似ている。もともと自分がないせいなのかもしれない。フィギュアによって自分を語ろうとしているのだろうか。世の中に、たった1つのフィギュアと自分を求めたのだろうか。そうなると、フィギュアじゃなくてもいいんだよな。 | |
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1986年/アメリカ/121分 監督・脚本:デイヴィッド・リンチ 音楽:アンジェロ・バダラメンティ 撮影:フレデリック・エルムス 出演:カイル・マクラクラン/イザベラ・ロッセリーニ/デニス・ホッパー/ローラ・ダーン/ジョージ・ディッカーソン | |
アメリカ人の感じる、日常の中での恐怖と違和感。アメリカでの日常生活が身近であればあるほどわき上がってくる恐怖であり、違和感であるのかもしれない。4時間の映画がカットされて現状の物になったらしい。カットされたシーンはカットする必要があったからカットされたわけで、これで全く問題ない気がする。混乱しつつも整合性が取れている。後年のデイヴィッド・リンチの映画のようにダラダラした不条理が続くよりもこっちのほうがいい。しかるべき編集作業を経た上で上映したほうが誰にでも共感できるいい映画になる。雰囲気に流されずにしっかりとドラマを描いた点で、リンチの中では一番好きな映画だ。画面に広がる青いベルベット。冒頭から漂う怪しげな雰囲気が大好きだ。危険というものは、魅力的だ。日常とは明らかに違和感のある場面場面に出くわしてのめりこんでいく主人公をうまく描けている。日常生活で耳を発見した時の違和感。いつのまにか、危険な雰囲気に巻きこまれていく。現実の裏側に潜む影が怪しい輝きを放ち、くっきりと輪郭をもって浮かび上がる。芝生の奥でうごめく昆虫。冒頭の芝生を分けていくだけのカットに、ものすごい緊張感を感じる。炎のアップでは、消え去る瞬間が激しく揺らめいて、ぞっとする。撮影部分での魅力にあふれる。階段を上っていく、けだるさ。そこで出会う女性が、謎めいていて美しい。「お菓子のピエロ」と言われていたロイ・オービソンの「イン・ドリームス」の甘いけだるさが緊張感ある場面で使われていて、現実から遠く離れていく違和感がある。アップになったホッパーが、歌詞をつぶやく。デニス・ホッパーの怪演が衝撃的だ。ドラッグ中毒からの復帰作がこの映画だったようだが、治ったのか治ってないのか、全く分からない。限りなく不条理でありながら人間はそもそも不条理だ。見たことのない暗黒部分を照らしだすホッパーの表情は、どこか魅力的である。不条理に行きつきすぎて、最後は主人公もそのまま飲みこまれてしまいそうな雰囲気になる。一人では手に負えない現実を表現できている。人数や人間関係や話はシンプルだ。舞台も日常である。それでいて、この怪しい感じはなんだろう。退廃した、けだるい雰囲気が好きだ。埋没した日常の積み重ねにさらに埋没して奥に奥に入りこんだ、歪んだ日常だ。出口のない、終わりなき日常だ。被害者も加害者も、なにかのプレーをしているように見える。ホッパーは完全に崩壊しているので状況をコントロールしているように見えない。女も、この状況を喜んでいるようにも見え、ほとんど壊れかかっている。女は店でけだるい歌を歌い、ホッパーは店でそれを聴いて涙する。壊れているので利害関係が歪んでいる。支離滅裂である。そこに巻きこまれた主人公がかわいそうだ。逃げ出すこともできそうだが、女の怪しい魅力に引きよせられていく。壊れているものを直したくもあり、壊したくもある。この流れが自然だ。ハッピーエンドを越えた現実の不思議さが後味として残った。 | |
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1972年/フランス/102分 監督・脚本:ルイス・ブニュエル 脚本:ジャン=クロード・カリエール 撮影:エドモン・リシャール 出演:ジャン=ピエール・カッセル/フェルナンド・レイ/ポール・フランクール/デルフィーヌ・セイリグ/ステファーヌ・オードラン/ビュル・オジェ | |
普通の映画は、ある程度、観客に説明しつつ話を続けていくはずだ。「ここはこういう場面、次はこうだよ」というお約束のもとに映画は動いている。現実もそういうふうに動く場合もある。ここでは、約束事に縛られた映画から、現実から、軽やかだ。夢のシーンを続けられると、だんだん、自分がなにを見ているのかよく分からなくなる。夢の中で撃ち殺し、撃ち殺される。現実においても命を狙われ、撃ち殺し、逮捕される。軍事演習も近所で行われる。日常とは違った、どこか過激な世界だ。コカインを密輸している腹黒い外交官。登場人物の3人の男は、ドラッグの影響下にあるのかもしれない。ドラッグで作られた白昼夢のような現実。空想の世界も薬のせいで驚くほどリアルになっているのかもしれない。頭のどこかを刺激され、最も生存に必要な食欲が大きな要素を占めた夢を見ているのかもしれない。アメリカ映画だと、この状況をドラッグの影響として合理的に説明しそうだ。ただ、この映画では、なにか不吉な感覚がある。主な登場人物ではない兵士2人と警官の夢のシーンが、途中で唐突に挟まれている。その3つの夢の中では死者がよみがえる。刺激的な状況。夢の中ではなんでもありだ。ありきたりでうわついた気分へのカウンターパンチ。どこか反社会的要素を秘めている。ドタバタ喜劇のように見えて気品がある。即興で作られたように見えてしっかりしている。スタイリッシュとでもいうべきなのか。特にストーリーが存在しなくても外見だけでなんとかなる。立派な室内装飾や立派な服装や優雅な身のこなしの役者があってはじめて成り立つ映画だ。男女6人が無言で道を歩くシーンが印象に残った。このシーンが3回くり返される。おそらくは目的地では晩餐会が行われるのだろう。しかし、どこまでもどこまでも道が続く。黙ったままだと、見ている方は不安になる。見ている側としては、説明不足のこの状況に不満がつのる。しかし、現実自体も説明不足だ。私たちも、長い長い道のりを無言で歩いているのかもしれない。あのまま行ったら、きっと彼らの人生は崩壊する。最終的には、なにも持たず、食事からも遠く、あのように歩きつづけるだけの人生が待っていそうだ。それは異常なことだろうか。どことなく彼らの歩みは自然だ。無駄口をたたかないだけ好感が持てる。食事の邪魔をされるのは、この映画の場合は非現実的な状況が多くて喜劇の要素もあるが、不吉な意味も含んでいる。思想的なテーマではなく、求めるものは美味しい食事。食欲は重要。食べないというのは死に近づく行為だ。逃れられない悪夢のように食事にありつけない登場人物たちに、なにかが近づきつつある。最後、夢から覚めて、冷蔵庫から肉を取り出して食べる。一瞬だけ死から遠ざかる。しかし、食後はおそらくベッドに入り、そしてまた夢を見るはずだ。台所で必死に食べてはいるが、夢の中では食事ができず、死に近づくことになるだろう。夢の中に死のイメージが入りこみ、現実を侵食し、だからこそ食べることができない。死から離れることができない。登場人物は、どことなく疲れている。司祭が庭師になるという意味は、意外性があって面白い要素もあるが、死が身近に入りこんだことの表れでもある。兵士たちが何人も家に入りこんだ意味も同じだ。兵士も死に近い存在だ。最初の場面では、レストランに死者が明らかに存在している。生活に、死が近づく。監督はブニュエル。1900年生まれだから、製作時は72才。若者の発想とは明らかに違う。彼の中には「さあ、いよいよ自分に死が近づいてきたぞ!」という感慨もあったのかもしれない。夢と死と食欲。老境にあって、夢と死が身近だ。だからといって、絶望しているわけではない。最後の道のりも優雅だ。道の向こうで待っているものに対して特に怖れてはいない。前へ前へ進む。発想の意欲と映画の魔力。力強い生命力。誰もが同じ道を歩いている。ここでは時間が止まっている。腹をすかせたまま、道を歩き続ける。映画という手段を使って、永遠の命を手に入れているような気がする。むさぼり食うように映画をむさぼり撮っている。映画欲。夢に重きを置き、流れるような自動記述。アンドレ・ブルトンの「溶ける魚」のようだ。必殺のシュールレアリスムだ。映画史としてはヌーベルバーグの即時性、即興性も秘めている。文化の基盤がないと存在さえも許されない映画だ。アメリカで作られる可能性は低い。フランス映画の栄養が行き届いている。「ブニュエルの密かな愉しみ」に満ちた映画だ。 | |
1997年/イギリス/91分 監督:ピーター・カッタネオ 出演:ロバート・カーライル/トム・ウィルキンソン/マーク・アディ/レズリー・シャープ | |
負けちゃった奴や負けている奴が集まって何かをやる設定の映画は、今までたくさん作られてきたように思う。今回は、男がストリッパーになる話だ。ストリップ場面を映画の最後に置くだけじゃなくて、もっとストリッパーとして活躍させた方が面白くなったはずだ。脱ぐまでの葛藤を描く方がイギリス人には面白いのかもしれないが。映像的にはイギリスの暗さが全編を覆っていた。物語の背景も暗い。でも主人公達は、活き活きと描かれている。失業中の身なのに、明るさ、軽さが感じられて、その部分がリアルだ。仕事に行かなくていいのだから、彼らにはエネルギーがあるのだ。子供と親の関係が面白かった。どっちが保護者だか分からないほど逆転している。子供みたいな大人を描いた部分が面白かった。 | |
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1954年/フランス/104分 監督・製作・脚本・台詞:ジャン・ルノワール 原案:アンドレ=ポール・アントワーヌ 撮影:ミシェル・ケルベ 音楽:ジョルジュ・ヴァン=パリス 出演:ジャン・ギャバン/フランソワーズ・アルヌール/エディット・ピアフ/ミシェル・ピコリ | |
この映画は、ラストのカンカン踊りが全てだ。ここで喜びが爆発する。このシーンはすばらしい。ベル・エポック!それは暑気払い。華やかで美しき、うるわしのパリ!ムーラン・ルージュ!2012年の夏。早稲田松竹でなぜか「フレンチ・カンカン」と「ゲームの規則」が上映された。50年前とは思えないほど、迫ってくるような熱気があり、活気がある。見ていてとても元気になった。映画製作自体も同じように、フレンチ・カンカンをプロデュースするようなものなのかもしれない。まるで劇中劇のように。なにかを作りだす喜び。そして苦悩。そして気概。劇場空間を作りだすことによって生き続けることができるような、生命力。冒頭のベリーダンスから、軽やかで騒がしい。全てが踊りつづけている。絵本のような鮮やかさ。ザワザワして揺れ動く、色彩のリズム。活気の良さ。なにかの祭り。ひたすら楽しげである。ボロ拾いの老女、ピアノ弾きのおじいさん。個性的な役者がそろっていて、とてもにぎやかだ。特に司会者役のフィリップ・クレイが印象に残った。長身で動きにキレがあり、歌に張りがある。コラ・ヴォケールが歌う「モンマルトルの丘」の歌声があまりにすばらしくて涙が出た。憂いがあり、のびやかな広がりがある。全ての歌い手、ダンサーたちに自由な気風があり、きらめきがある。規律というよりも華やかさを優先。これはお国柄なのかもしれない。フランスのいい部分がつまった映画である。カンカンを代表するかのような、プロのダンス。大画面で見ると迫力がある。大画面で見る必要がある。そして、テクニカラーである。やはり、今のカラーとは感触が違う。かわいらしくもあり、記憶に残る冴えがある。映画全体が原色のきらびやかな発色であふれかえっている。撮影している側の喜びを感じる。ただ歌って踊っているわけではなく、大部分は大人の悲哀というか舞台裏のシーンが続く。ジャン・ギャバン演じるダングラールは才能にあふれているとはいえ、資産家ではないので金がなくなれば終わりである。出資者が手を引いて、落ちぶれていく姿も描かれている。そこにアラブの王子様が現れたり、仲直りがあったりして、ゆっくりと計画が進んでいく。ざわめきや喧騒が、キラキラしている。新しいものが誕生する瞬間をもりあげていく演出がすばらしい。アラブの王子様がイスにもたれて落ちこむ姿が非常に印象に残る。夜までずっと座っているところが面白かった。絵になる美しさだった。まさに玉座に座っていて、最後にギャバンの座っているイスと同じものであるところも印象に残った。ジャン・ギャバンが渋い。全編にわたり絶好調ではなく、綱渡りである。落胆しつつも、どこか楽しげである。最後、なんとか舞台に立ってほしいと思いつつも、ニニに対してごまかしの言葉で取り繕うのではなくて、実際に自分の主義主張をたたきつける姿がかっこよかった。物作りに対する男の情熱がほとばしる。これは気分がよかった。プロの心意気である。自ら踊ることを決めたニニは、彼の言葉を通じてプロの芸人として成長している。主役を張るために必要な心意気である。最後の最後まで葛藤があり、最後にカンカンが爆発する。客席になだれこんで客をつきとばしながら激しく踊る。もっとおとなしいものだと思っていたが、とても激しい。ここは、実際のムーランルージュよりも楽しい場所のような気がする。どこまでも続いていくようなたくましさがある。なんのために踊るのかというと、観客を楽しませるため。映画についてもそれは同じだろう。なんのために撮るのか。どんな気持ちで撮っているのか。バックステージで、ジャン・ギャバンが最後に満足の笑みを浮かべる。監督自身の、制作者自身の不動の人生観がしっかりと描きだされている。最後、強大な敵に打ち勝つわけでもない。人生としての幸せからも、どこか離れている。絵空事とは違う。終わりかたにどこか手応えのある感触が残る。ニニは、金持ちとの結婚や市井の市民との結婚から身を引いて、ショービズの世界に身を投じる。大盛況があり、一瞬の夢がある。この劇場限定の、一夜だけの幸福。同時に、表裏一体となった冷たさや寂しさを感じる。楽しいだけの人生では決してないだろう。現在進行形のハッピーエンド。それは我々と同じなのである。だからこそ、最後のダンスが愛おしく、身に迫り、美しいのかもしれない。 | |
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2001年/アメリカ/123分 監督:テッド・デミ 出演:ジョニー・デップ/ペネロペ・クルス/ジョルディ・モリャ/フランカ・ポテンテ | |
物語は特に面白くなかった。でも映像が良すぎる。デップの演技もいい。持ち味はうろたえぶりである。父を前にしての演技や子供が生まれる時の演技、家の中で金の置き場を探す演技に本領発揮。ビジュアルよりも生身の人間らしさを滲み出させる所に価値があるいい役者だ。構図がいい。妻が席を立つと後ろに子供が立っている面会シーン。牢屋の鉄格子にもたれている顔のアップの向こうでデップが寝ている構図の美学。導入シーンもみごたえがあった。移動するときに、車のボディだけを見せるとり方も良かった(車を横から撮って、後ろの荷台に荷物を運ぶシーンの後に車体を前方向に移動させ、車の先頭になったらもう到着場所のシーンになっていて、荷物が降ろされている)。会話には常に背中が見えて、背景もよく撮れている。立体感のある構図だ。 | |
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1994年/アメリカ/98分 監督・脚本:ウディ・アレン 脚本:ダグラス・マクグラス 撮影:カルロ・ディ・パルマ 出演:ジョン・キューザック/チャズ・パルミンテリ/ダイアン・ウィースト/ジェニファー・ティリー | |
監督はウッディ・アレン。出演はしていない。監督として、これだけ多くの場面と登場人物をまとめ上げるにはたいへんな労力が必要とされたことだろう。出演していないせいで、作りこみに力を入れている。晩年の彼の映画は、本人が出てきてしまうと力なく、本人が引っこんでいると力強い。映像は、古風な気品を求める彼の趣味の要素が強い。音楽についても同じだ。時代を感じさせる小道具や、セットの作りについても完成度が高い。手間暇かけて当時の雰囲気を再現するのは楽しい行為だと思う。きめ細かいセンスを感じる。反面、当時を再現するのにこだわりすぎて、刺激的ではない。すばらしいのは脚本だ。書いたのはウディ・アレンとダグラス・マクグラス。人間がきちんと描けている。骨太な男を描けている。ギャングのボスに雇われた売れない劇作家。普通の作り手だったら、その設定だけで終わる。しかしこの映画では、手下のギャングが思いもよらぬ才能を持っていて、脚本を書き換えて傑作を作りあげていく。このシナリオ展開の演出がこの映画のすばらしいところだ。ブロードウェイと銃弾、劇作家とギャング。2つの組み合わせは、普通であれば相反する意味合いが強い。しかし劇作家とギャングはどこか共通する要素を持っている。意外性。この映画は、そこが面白い。主人公は劇作家でありながらも、普通の市民だ。「僕はアーティストだ」というセリフで映画が始まる。最初はギャングの介入を激しく拒否しているが、個性的な役者や環境のせいか、やがて自分の状況を受け入れてしまう。決められた仕事をコツコツこなすだけで精一杯だ。その逆を行くのがギャングのチーチだ。最初は嫌々同席していたのに、いつのまにか芝居にのめりこむ。台本の改善案を出し「芝居の流れがまったく変わってくる」とプロデューサーが感心し、実際のこの映画の流れも変わってくる。さらにチーチは、身の危険を顧みずに、本来なら守るべきはずの大根役者を始末する。自分の組織にたてつくことになるので結果は明らかだ。理解しているのに行動する。芸術家は芸術のために全てを犠牲にする。死の間際であっても、自分のことではなく作品のことをしゃべっている。それを目の当たりにすれば、主人公も、自分が芸術家なのかどうかの判断は、はっきりしてしまう。ここまでたどりつけない。孤高の存在だ。しかし主人公は、自分の限界に気づくが、幸せを手に入れている。たしかに、ギャングや芸術家ばかりだと、社会はうまく回っていかない。最後のアパートを見上げながらの口論は、いかにもウッディ・アレンの映画。笑いの中に真実がある。アーティストとして成功せず、人生として成功している。挫折でありつつも、成長を描けているので不思議な感動がある。この劇作家は、これだけの体験をしたのだから、その後、傑作をものにすることもあるかもしれない。私はこの映画を見ながら、自分でも驚くほどの発作的な大きな笑いが、あまり笑いとは関係ないようなシーンで飛びでた。女優の銃殺のシーン、チーチの最期の言葉のシーンなど。「命が大切?」「もちろん!芝居より命だ」「美しい芝居をメタメタにされても?」と言う一連のシーンにも、いつのまにか芝居に対する立場が替わっていた状況を表していて面白かった。派手に笑いながら考えさせられてしまう。会話の軽みとテーマの重み。どちらも充実している。ギャングがどんどん芸術にのめりこむ。ドタバタコメディーとして機能しつつも、芸術を追い求める者の真剣な姿勢がそこにある。いくら才能にあふれていても、魅力がなければここまでのめりこまない。一度とりこになったら逃れられない。芸術の甘美な魔力を感じた。劇中劇である。自分の世界を舞台にしている。「こんな時、手助けしてくれる人が現れたら」と脚本の段階でアレン自身も悩むことがあるだろう。その苦闘の中で「僕の脚本を手直ししてくれる人がギャングだったら?」と思いついたのかもしれない。舞台裏こそが、この映画の主な舞台だ。役者が演じているだけあって、役者を生き生きと描けている。舞台が生き生きとして自ら良い方向に向かっていく。シナリオが補完され、大根役者が抹殺される。理想的なパターンだ。この一つの成功の流れを、舞台裏にいるかのように体験できるので、見ていてワクワクした。 | |
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1990年/イタリア/121分 監督:フェデリコ・フェリーニ 出演:ロベルト・ベニーニ/パオロ・ヴィラッジョ/ナディア・オッタヴィアーニ/マリーザ・トマージ/アンジェロ・オルランド | |
力の抜けた感覚と、優しい雰囲気。フェデリコフェリーニの場合、舞台っぽくて、作り物のからすが飛ぶ映像だ。まあ、その割り切り方が絵になっていて、今回も月のシーンが魅力的だった。カメラ割重視の手法だ。演技する側のレベルの高さが要求される。だけど硬くならずに、出演者はみんな楽しそうだ。物語は現代アメリカ小説っぽい。会話で語らずに、登場人物の独白が重要だったりする所が、演劇みたい。照明の当て方はとてもきれい。パッパッパっと映像が変わるので、何回見ても飽きない。主人公の後頭部が禿げなところとマフラーの格好がかっこよかった。 | |
2002年/アメリカ/120分 監督:マイケル・ムーア 出演:チャールトン・ヘストン/マリリン・マンソン/マット・ストーン/ジョージ・W・ブッシュ | |
「事件の直前に犯人たちがボーリングをやっていたのを考えると、なぜボーリングに対し人々は悪く言わないのか?」という視点がなかなか鋭かった。銃撃の的にボーリングのピンを使う小話を入れたところも鋭い。この映画は、作り手が画面に出て、役者まがいの動きをする。最後の方で、少女の写真を置いて立ち去るシーンなど、ちょっと撮るべき対象がずれている気がした。取材する側を映さずに、少女の写真だけを映し続けたほうがいい。まあ、カメラワークを作るか、それとも役者を作るかの違いでしかないとも言えるが。マリリンマンソンのクレバーすぎる会話が、台本を読んでいるかのような不自然なものだった。しかもその台本は30年前のものだ。カメラに背を向けて泣き始める校長先生のほうが、我々の心を打つ。全米ライフル協会の会長から人種についての発言を引き出した部分が、1番光っている。あとは、そのへんの人々の意見をだらだら聞いていった場面が多かった。アポなし取材が多いので、関係者全員の話は聞けない。一つの事件に対し深く突き進めることもできない。でも、このだらだら聞いていく場面こそ、もっとも必要だったのかもしれない。テレビニュースの報道を聞く機会よりも、その辺の人々の会話を聞く機会の方が、アメリカ人にとって少ないだろうから。この映画では、アメリカの銃社会に対し、人種問題のおぼろげな輪郭を提示した以外に、はっきりした結論は出なかった。出そうともしなかったのだろうけど。銃社会に対するたくさんの疑問点を提示しただけだと思う。それだけで高い評価を得たのだとしたら(本当に高い評価だったのか定かではないが)、それだけ社会が病んでいる証明なのだろう。正直こういう散漫なドキュメントは嫌いだ。アメリカ白人の微妙な感覚に少し触れられたような気がしたので、よかったけど。 | |
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2008年/アメリカ/101分 監督:ミシェル・ゴンドリー 出演:ジャック・ブラック/モス・デフ/ダニー・グローヴァー/シガーニー・ウィーヴァー | |
小学生の頃、休み時間に友達と漫画をかいていたが、下手くそすぎる絵だったのに、周りの友達はけっこう面白がっていたことを思い出した。あと、深夜放送のコント番組がゴールデンタイムに昇格したとたんにつまらなくなっていく現象も思い出した。映画館に入り、この映画の前に延々と流された予告編では、なんの悩みもなさそうな若者たちの退屈な映画、地球が危機に陥る映画が大々的に宣伝されていたため、映画が始める前に逃げだしそうになった。本当にみんな、喜んで見ているのだろうか。なにを求めて映画を見ているのか。さらに、私の価値観は、ちょっとずれていないだろうか。もちろん、自分の価値観を正当化する理由などないのだが、はなはだ、映画を好きなんだけど、映画館でやっている9割がたの映画は、とても見る気がしない今日この頃だ。この映画の存在を、仕事中、たまたま開いてしまった映画の紹介ページから知った。「ビデオテープの中身を消してしまったため、自作自演で名作や旧作映画を撮るハメになったレンタルビデオショップ店員」というあらすじの文を読んだだけで、仕事中、爆笑してしまった。設定に、深みがある。レンタルビデオショップ店員にとって、商売道具を全部消すのは、地球規模の災害である。コントだったら面白そうだが、映画として大丈夫なのか。という無意味に危険な香りを感じたのだ。普段は深夜まで続く仕事を8時に切り上げ、バルト9へ。まず、受付で座席を選ぶ時に、あまりに座席数の少ないスペースに爆笑。「大作映画がたてこんでしまいまして」と店員がなぜか言い訳していたが、100人も入らないんじゃないか。しかも半分以上が埋まっていなかった。ジャック・ブラックは、なかなかのくせ者で、「絶対に相手を食ってやろう」とする、コメディ役者の「業」を常に感じる、危ない役者だ。竹中直人に近い。ともすれば作品全体を壊しかねないほどの破壊力を持っている。この映画でも空虚なほどのエネルギーの爆発ぶりを見せたが、役柄としても「一風変わった人」という位置づけだったせいか、監督の繊細な撮影のせいか、作品から逸脱しつつもかろうじてギリギリの線でストーリーを成り立たせている。なぜか彼のスーパーオーバーな演技は、見終わった後に、非常に「リアル」な印象を持った。ジャック・ブラックすらも受け入れるだけの大きな空間が、この映画にあるのだ。大きな空間は、アメリカの開放感でもあるのかもしれない。ほとんど全ての場面で1対1の退屈な会話場面を作らなかった点に、非常に好感を持った。ここがこの映画の最大の魅力だ。どこかで開かれているのだ。最後の場面でも象徴的だったが、閉じたようでいて、非常に開放的なのだ。「店がつぶれそう」、「商売道具が全滅」、「すぐに映画を自分たちで作らなければならない」というシナリオ上のカセが非常に上手に展開されている。なぜかみんなに喜ばれて、そこから、主人公たちは、みんなを巻きこむ。ここに開放感がある。そこから、観客にもクリアに理解できる障害のため、絶対回復不可能なピンチに陥る。この流れも自然だ。夢物語が現実に負ける展開は、悲劇的である。しかし、この映画では、さらなる高みを目指している。「なんのために映画を撮るのか」という理由づけが、感動的だ。静かなピアノが流れる中で、道路にいるみんなに説得されて映画を撮ろうと決心する店長のシーンで、涙が出てきた。最後のエンディングテーマ、Jean-Michel Bernard and Moe Holmesの「Mr. Fletcher's Song」は、一度くらい聞いたほうがいい名曲だ。帰り道、気分が良かった。簡単なことなのだ。こういう映画を見るために、私は映画館に行くのである。 | |
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2000年/イギリス/98分 監督:テレンス・グロス 出演:トニ・コレット/ダニエル・クレイグ/カトリン・カートリッジ/スティーヴン・トンプキンソン/ヒュー・オコナー/ヘレン・マックロリー/ダニエル・クレイグ | |
暗いケロッグ博士と言えばいいか?予告編の印象は、アダムスファミリーみたいなグロテスクコメディみたいだったが、実際の映画は違う。寓話的なお話。中世のお城を若い女性が再生しようとする物語は、いろいろ出典がありそうだ。話は分かりやすくもあり、比喩なども入っている。最後、水が怖い青年が裸で海に飛び込むシーン。母なる海とも言うし、水は女の寓意もあるのか。生前の声が録音されたレコードをまな板に使っていたのは、死から生への以降を表現しているのだろう。イギリス映画らしく、暗い映像だ。古めかしさを演出していて効果的なのだが。中世の油絵みたいな、落ち着きを持った独特の映像だ。メタンガスから発電する永久装置の最初の火で火葬したため、永遠に炎となって生き続けるホテルの女主人という発想が強烈だった。暖房で鳴リだす金属の管が、大学時代を思いおこさせて懐かしかった。暖房が揺れてトイレは逆流しメタンが流れ出すホテルの演出が有機的で面白い。いかにもなファンタジー要素をなくし、現実で説明できる世界を描いた脚本も個性的だ。 | |
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1993年/アメリカ/109分 監督・脚色:スティーブン・ザイリアン 製作総指揮:シドニー・ポラック 原作:フレッド・ウェイツキン 撮影:コンラッド・L・ホール 出演:ジョー・モントーニャ/ローレンス・フィッシュバーン/ジョアン・アレン/マックス・ポメランツ | |
チェスというものの奥深さを覗きこめた気がした。一度入りこむと、抜けることのできそうもない大きな魅力も感じることができた。行方不明になった天才、ボビー・フィッシャーの話がおとぎ話のように要所要所で現れる。特に話には関係ないように見える。非常に興味深い演出方法だ。ただの天才ではなく、行方不明になった天才だ。天才の栄光を軽やかに画面に踊らせて華やかさを演出している。同時に、天才であっても行方をくらませてしまうような、なにかに追いこまれるような緊迫感、さらには勝負に関する狂おしいまでの熱情も演出している。分かりやすい人物描写も印象に残った。大会に出場しないチェスの先生。公園でスピードチェスで稼いでいる男。チェスの天才を子に持った父。この3者の対照的な人物配置で、主人公の周りの世界に奥行きを持たせている。父はチェスはそれほど強くないが、子供に強い影響を与える。反面、子供の成功に有頂天になり、回りが見えていない。公園の男は自由奔放で攻撃的なチェスをする楽しい仲間だ。反面、生活態度は子供に悪影響を与えそうだ。先生はチェスの技術的な指導に長け、証明書を伝授することで栄光を子供に与える。反面、つきあっても楽しい相手ではない。3人とも子供以上に問題児だ。そもそものきっかけは楽しくて始めただけなのに、本人とは全然関係ない大人の強力なエゴによって大きくゆがんでいく流れがよく描けている。母親に存在感がある。チェスを越えた達人の境地だ。子供の幸せを願う、親としての正しいありかたが心に残る。教育物、家族物の黄金比。子供を取り巻く人間関係がよく描けている。役者として見ても、父は雨のシーン、公園の男は叱咤激励しながらチェスを指すシーン、母は教師に向かって出ていけと命じるシーン、教師は賞状を渡すシーン、それぞれに見せ場が用意されていて、誰もが素晴らしい演技だ。魅力的なキャスティングだった。大人のどんな思惑が邪魔しようとも、最終的に解決を選び出すのは子供だ。「分かるまで駒に触るな。私の顔を見るな。頭の中で1手ずつ動かすんだ。キングを隅に追いつめる手が見えるはずだ。こうしよう」とチェスの駒を払い落とすシーンが印象に残った。観客の目の前を飛び散る駒。映画的に奥行きを生かした素晴らしい構図だ。子供は何も置かれていない盤上で正解を見出す。ほとんど禅の修行のようだ。この部分が、この映画の面白いところだ。ここに、なにかの真理が隠されている気がする。クライマックスでも頭の中に言葉が流れていく。「Don't move until you see it. I can't see it. Don't move until you see it. I can't see it. Don't move until you see it. I'm sorry, Dad.」そして修行の瞬間が訪れる。「Here I'll make it easier for you.」分かるまで動かず、目の前のものから離れて考える。そうすることで見えてくるものがある。子供の成長が描かれている素晴らしいシーンだ。相手に勝ったというよりも、自分に勝った瞬間だ。感情も越えて、勝敗も越えて、なにかの流れを読んだ感覚だ。天才でもなく、行方不明者でもない。ボビー・フィッシャーの世界に近づいた瞬間だろう。どこか、世界と離れたような場所がチェスの盤上には存在し、全てをはっきりと理解できる瞬間がある。そこに魅力があるのだろう。チェスの神髄に触れたような気がした貴重な瞬間だった。話の流れ以外にも、画面自体が面白い。「なるほど、ここに照明を当ててるのか。なるほど。ここにピントを合わせているのか」と、1シーンごとに感心した。画面を何度見ても新たな発見ができる映画だ。撮影監督のコンラッド・L・ホールは「明日に向って撃て!」や「アメリカン・ビューティー」など、数多の名作に起用されているアメリカ映画の至宝ともいうべき存在だ。限定された照明で絵画的な画面構成を構築する名人芸のような技術は健在。画面の一部分に強烈な光を当てて、逆光になろうとも人物が浮かび上がる。対象物は美しいグラデーションを身にまとっている。白黒映画の技術に近い気もする。色を持たなくても画面として成立しそうだ。このモノトーン的な映像表現は、チェスの世界と調和している。身近な視点で対象をきれいに描くことのできる素晴らしい撮影監督だ。ブロック玩具が並ぶシーンや、公園の男が新聞を読んでいるシーン、ラストの2人が並んで歩くシーンが印象的だ。ぼかしやソフトフォーカスのような存在の淡さ。全編にわたり子役の素朴な表情がかわいく撮れている。かわいい孫を撮っているかのような優しさ、人間のぬくもりを感じた。 | |
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2007年/アメリカ/84分 監督:ラリー・チャールズ 出演:サシャ・バロン・コーエン/ケン・デヴィティアン/ルネル | |
副題は「栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」。黒人が黒人を笑い、ユダヤ人がユダヤ人を笑うのはスタンダップコメディアンの常套手段だ。ブッシュマンやクロコダイルダンディなど、田舎者が都会に来た時のギャップをコメディにするのも数多く作られた。前提として、主演がイギリス人であるものの、アメリカ映画である。「アメリカ人がどこまでアメリカの中で無茶ができるか」という部分のせいか、すごく単純明快に笑える作品というわけではない。短館上映で、しかも客が少ないのもある程度はしょうがないかもしれない。開始した瞬間に笑ってしまったのはこの映画がはじめて。あまりの毒の強さ。毒気にやられて、私は次の日会社を休んでしまったほどだ。「ユダヤ追いの祭り」が爆笑もので、裸の格闘、宗教イベントなど、いくつかの場面ではカタルシスさえ覚える。主演のリポーター役が相手をするのは、役者ではなく、一般市民。「栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」のために取材している、とウソをついての撮影だ。ドッキリカメラ的な映像は、かなりスリリング。笑いの対象がどこに向けられているか考えないと、このシャレはきつすぎる。有名になってしまい続編が作れない、最高の一発もの的なお笑い企画だ。映画館の「ヒゲ割引」はいいアイデア。イージーライダーの主題歌「ボーントゥビワイルド」をカザフスタン的にアレンジしたエンディングテーマはなかなかよかった。 | |
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2007年/ノルウェー/90分 監督・脚本:ベント・ハーメル 撮影:ジョン・クリスティアン・ロセンルンド 出演:ボード・オーヴェ/ギタ・ナービュ/ビョルン・フローバルグ/エスペン・ションバルグ | |
運転手たちが立ち上がり、シュッシュッシュと腕を回して胸を叩きながら「フォゥフォォー!」と汽車のようにして仲間を称える場面が楽しかった。定年退職した勤続40年の運転士ホルテンさんを淡々と追う。同じレールを40年間進み続けてきた人間が定年になったら、その先にはレールがあるのか。レールがないまま放り出されるのか。脱線してしまうのか。レールがあるとしてもその先はどこまで続いているのか。私も39になろうとしているので少し気になる。ホルテンさんは古びた一両編成の車両だ。家庭もなければ勤め先もない。完全に自由人だ。出勤最終日から、どこか、やんわりと現実を離脱していく。この、よるべき対象を持たない現実のフワフワ感。見ていて少し不安になる。なんとなく私の予備校時代を思い出す。「人生は短い。待ってるヒマはないぞ」進め!ホルテン!目隠し運転の車の助手席へ。フワフワしているがゆえに、極端な方向へ足を向けてしまう。危険もあるが、新しい発見もあることだろう。その時、その人の心の中は自由だ。映画の作りに目を向けてみると、1対1の会話しか存在せず、1人でいることのほうが多い。退屈に感じる人も多いはずだ。大きな盛り上がりもなく、スリルもない。ちょっと経つと次の駅。各駅停車の旅のような、ゆったりしたリズムの映画だ。静かに眺めていると、最小限の光を上手に取り入れた画面がひっそりと美しい。北欧人は、光に対して敏感なのか。印象的な画面構成だ。リズムよくトンネルを抜けていく、運転席から見た雪景色の美しさ。病室の母の横顔とチューリップの静かな美しさ。フローの黄色い車を押していくシーンでの、その向こうに見える街灯や針葉樹林の雪景色に映える美しさ。犬と共にその場を立ち去るシーンは真上から俯瞰で撮っていて、静かな色合いと街路に落ちる影が美しい。登場人物が少ない分、構図やライティングなど、いつくしむように丁寧に1場面1場面を撮影している。「キッチン・ストーリー」と同じ監督だが、美しい画面構成のおかげであの映画よりも退屈には感じなかった。撮影はジョン・クリスティアン・ローゼンルンド。彼のサイトの映像作品を見てみたが、ただのコマーシャルでも味わい深い美しさを持っていて驚いた。人の笑顔を上手に撮れている。丁寧なライティングで透明感のあるシーンを撮るなかなかの逸材だ。「人生は手遅ればかりだ。違うか?逆に考えれば何だって間に合う」と、エキセントリックな好人物が言う。そうだ。物事を逆に考えよう。遅すぎることはない。無限の可能性は、その人それぞれに常に持っている。私も少し、楽しい気分になった。きれいな夜景を前にして、47億年をかけて旅をしてきた隕石を懐にいれ、ホルテンさんが滑走する。隕石もまだ、旅の途中だ。隕石と一緒にどこかに飛んでいき、そしてすぐに落ちるホルテンさんは、終わったようでいて、とても若々しい感覚を手に入れたような気がする。こういった感覚は、若者だけの特権ではなくて、誰もが持てるものなのではないだろうか?経験が増えている分、その冒険の感動は大きなものになっていくような気がする。人は自由なのである。ホルテンさんの冒険はこれからなのである。出発進行だ。このホルテン号は、どこに続いているのか、どこまで続いているのか定かではないが、その車窓からの眺めは格別のものがあるだろう。犬を引き連れて今や二両編成だ。三両編成になる可能性も十分にある。なかなか幸せなラストではなかろうか。 | |
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2000年/アメリカ/123分 監督・出演:エド・ハリス 脚本:バーバラ・ターナー 撮影:リサ・リンズラー 出演:マーシャ・ゲイ・ハーデン/エイミー・マディガン/ジェニファー・コネリー/ヴァル・キルマー | |
ジャクソン・ポロックの伝記映画。2012年に東京国立近代美術館でポロック展があって、売店でこのDVDが売ってたので図録と共に買ってきた。なにも描かれていない巨大なキャンバスに自分の影が映るシーンがいい。批判を受けて色を塗ろうとしても塗れないシーンにも感銘を受けた。長い生涯にわたって一つの絵を描いたわけではなくて、その絶頂期は50年を頂点として非常に短いことだとあらかじめ知っていると、この映画で描写された時期がいかに彼の人生にとって重要な地点だったかとわかる。芸術活動と映画の長さとの調和が取れている。気高くも恐れ多い敵に挑むかのような、孤独な戦いをしている雰囲気が刺激的である。そもそもこれは勝てる戦いなのだろうか?映画でもよく表現されていたが、グッテンハイムがいなかったら、ポロックは画家として存在できなかった。しかし、そのチャンスをつかみ取ったのは完全に本人である。しかも完璧な天才というよりも、かなりギリギリのところで踏みとどまっての表現活動である。才能にあふれながらも突破口をつかみ取れなかった芸術家の、表現をつかむまでの瞬間がよく撮れている。「慣れない環境下で絵画風景を撮影される」というシーンは、どれをどこまで表現するべきなのか、演技的になかなか見応えあった。アカデミー助演女優賞を獲得したマーシャ・ゲイ・ハーデンの演技も迫真性がある。彼女の表情だけで成立させているシーンも多い。人間ドラマとしてよく描けている。演技力を要求されるシーンも多い。ただ、もう少しアート寄りに撮ってもよかった気がする。この画家を題材にするのであれば、アクション・ペインティングをもっと強調してほしかった。いかにこの手法が革新的なのか伝えてほしかった。ハンス・ネイムスが当時試みたガラスを使った撮影を、もっときちんとしてみてもよかったかもしれない。最新技術を使って絵の具が飛び散り、したたり、重なりあい、どこまでも縦横無尽にのびていく様子をクローズアップ、スローモーション、CGなどを活用して表現してみると、作品自体の本質に迫り、作品ごとの個性を際立たせることができ、映画に躍動感を持たせることができたはずだ。さらに言うならば、これは私個人の印象でしかないが、展覧会や図録から想像する私自身のポロックのイメージが、ちょっとこの映画とずれている。芸術家としての内面も、もう少し掘り下げてもよかった気もする。この映画だと、ただの気の難しいアル中のペンキ職人のように見える。古き良きアメリカの歴史と地続きの、等身大の人間として描かれすぎている。メキシコ壁画に圧倒されたり、ピカソなどの同時代の作家にインスパイアされた作品もあり、彫刻や版画を手掛けるなど、かなり多様で、自由で、経験豊富な芸術家だ。一流の部分もあったはずだ。外国映画だったら、違った雰囲気になったはずだ。 | |
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1984年/日本/109分 監督・脚本:和田誠 出演:真田広之/大竹しのぶ/鹿賀丈史/加賀まりこ | |
最初に見た時は「新しい映画なのに、なんで白黒なのだろう」と納得いかず、興味を持てなかった。その時は私も小学生だったのでしかたがない。「野良犬」のような雑踏の生命力がなく、趣味よくインテリジェントでスタイルよく撮影されているのが気になる。80年代なのだ。しかし、時代の雰囲気が出ていて、今見ても新鮮で、気分よく見ることができたので、「白黒」は、いい演出だったように思う。最初の印象では、昔かたぎの趣味的な映画だと感じた。私的な知的遊戯。蛾が壁に止まるシーンが必要以上に美しい。少し踏みこんでみると、きれいで分かりやすい構図が印象的。カメラの構図が理論的。かき氷屋で二人が向かいあう構図、女の表情は気にしなくていいし、ひっぱたく場面も分かりやすく、すぐ後にラムネを取りにいく流れも自然だ。「この位置しかないよなあ」と、一場面ごとに納得する。動きをしっかり撮ろうとしている。考えぬかれた構図が小気味よく流れていくのを眺めるのは快感だ。マージャンしている最中に麻雀卓の周囲をグルグル回るように映しているシーンが面白い。話の流れ以上にカメラが雄弁である。見た後に最後まで残るのは、セリフ。会話に無駄がなく、スタイリッシュだ。セリフが生々しく耳に残る。「おまえさん人買いらしいが、度胸がねえんだな」というのも、説明セリフのはずだが、妙に印象深い。全てが挑発的で、内に感情がこめられたセリフだ。一番印象的なセリフは「どうなってもいいのはてめえのほうだ。てめえら家つき飯つきの一生を人生だと思ってんだろ。そんな保険のおかげで、この女が自分の女か他人の女か見分けもつかねえようになってんだよ。てめえらにできるのは長生きだけだ。糞たれて我慢して生きてるだけだ」だった。開放感のある楽しさではなく、のめりこむような、つんのめるような、前のめりのような荒々しさ。本物の演技が魅力的だ。鹿賀丈史の無頼派そのものの演技が光る。「こんなやつはふつういないだろ、でもいるのかもな」というようなリアリティあふれる演技だ。ドサ健の単体の魅力で存在している映画だ。 | |
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2000年/イギリス/92分 監督:ジョン・フォート 出演:ケリー・ラッセル/ ウィリアム・アッシュ/ブライアン・コックス | |
ビバリーヒルズ高校白書みたいにしたいんだけど現実がそれを許さないような物語だった。軍隊がいたり、階級差があったり、宗派の違いがあったり、シビアな状況が描かれていたが、楽しそうな場面や風景も多かった。同じような家が並んでいる風景が、興味深かった。映像が、テレビ映画のような軽い感触で、内容にもあっていたような気がする。BGMも軽やかで楽しかった。プールでのダンスシーンと最後のダンスシーンが、印象に残った。マンボ大会でのぶち壊れ具合もなかなか楽しかった。ラストシーンのすがすがしさは、気持ちよかった。サッカーのシーンがいくつかあるが、みんな下手だったので、なんとかしてほしかった。 | |
2007年/イスラエル・フランス/87分 監督・脚本:エラン・コリリン 撮影:シャイ・ゴールドマン 音楽:ハビブ・シェハーデ・ハンナ 出演:サッソン・ガーベイ/カリファ・ナトゥール/ロニ・エルカベッツ/サーレフ・バクリ | |
こんなに美しい画面に出会えるとは思ってもみなかった。撮影したシャイ・ゴールドマンとは何者なのだろうか。フランス映画のような落ち着いた質感。現代アートに近いような優れたセンス。落ち着き払って動かない。徹底した構図勝負。背景のボケまでが鮮やかで美しい。つまらないシーンまでもが深く心に残る。原色が一切なく、美しい配色。淡い色彩が画面に漂っている。天才ではなかろうか。コントラストを抑えきった画面が、温かく、優しい。豊かな世界を表現している。コントラストの弱さは、ゆったりと流れる穏やかなシナリオと調和が取れている。平和な安らぎを感じる。民族紛争の緊張感は存在しない。そんな紛争はどこか別世界で行われているかのようだ。冒頭で、ずっと停まっていたライトバンが発車したら、その向こうには、空よりも青い制服を着た8人が並んで立っている。この違和感が印象的だ。まさに、迷子。雰囲気が迷子。存在自体が迷子である。本人たちの心細そうな表情に親近感を覚える。「わが楽団は25年間自力でやってきた」あわてず騒がず。なかなか素晴らしい心構えだ。しかし心細そうだ。少し心配になる。カメラを持った観光客のような人に撮影を求められたので、迷子なのに、横一列で写真に収まる。君たちは、そんな場合なのか。すごく、人当たりがいい人たちだ。またもや親近感を覚える。そこに掃除人が堂々と前を突っ切る。この演技と演技の間。表情と表情の間。場面と場面の間にある素朴な空気に思わず笑ってしまう。「異国をさすらう音楽隊」というコンセプトはレニングラードカウボーイズなどで見たことがあるが、ここではどこまでも飾り気がなくて素朴だ。夜の公園のシーンは、なかなか味わい深い。2人だけで、場所は関係なくて、そこでは釣りのこと、亡くなった妻のことを話している。静かな夜の会話だ。そして次のシーンは、ナイトパブのような場所で3人横一列になって、絶妙な間を使った演技。静かな夜の情景だ。こういう、会話がなくてもどんどん流れていくような、自然な長回しの撮影は見ていてとても気持ちがいい。自分もその場にいるように感じる。膝に手を置く2人の男。そして手を置かれる2人。正直、この長回しには感動した。大笑いした。そして、なぜか感動で少し涙が出た。少し自分も温かくなってくる。これはいい。心に残る名シーンだ。この映画には、エジプトとイスラエルの政治的背景も存在している。アラブ人に招かれてやってきたのに着いた先はユダヤ人の集合住宅。呼ばれた場所はペタハ・ティクヴァ市(petach tikva 日本語表記だとペタク・チクヴァ)。イスラエルの大都市だ。着いた先はベイト・ハティクヴァ。実際にどこにあるのか定かではないが、砂漠の中で集合住宅が見える。これはたぶん東エルサレムのユダヤ人用集合住宅がある場所だろう。舞台はパレスチナ紛争の象徴のような場所だと思う。ユダヤ人とアラブ人の対立はまだまだ根強いが、イスラエルとエジプトが戦った中東戦争は1973年だ。警察だけど銃ではなくて楽器を持っている。平和の使者が迷子になっている。交流のぎこちなさは、政治のぎこちなさでもある。イスラエル人は困っているエジプト人たちに優しい。激しい政治的な罵りあいは存在しない。市民同士の交流の瞬間。ぎこちないけれど平和な一夜である。イベント的な物ではなく、嘘くさくもなければ華々しさもない。でも、それでいいのだ。考えすぎかもしれないが、平和について、この映画はちょっとメッセージを言っているような気がする。赤ちゃんの寝顔を眺めながら、ユダヤ人の男が協奏曲を最後まで書けない音楽家に提案する。「なあ。こんな協奏曲のラストは?つまり・・・トランペットやバイオリンで盛り上げるんじゃなくて・・・こんな感じがいい。不意に静まるんだ。悲しくも楽しくもなく。まるで・・・小部屋のように。明かりと・・・ベッドだけ。赤ん坊が眠り・・・あとは・・・さびしい感じで」映画自体が、そのような、静かな感じでの平和を主張しているような気がする。声高な感じではなく、わざとらしさもなく、ほんとうに少しさびしげな調子で語っている。すばらしい気がする。パレスチナ人とイスラエル人の交流を描いた映画ができたら最高だ。そんな気分になった。 | |
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1985年/スウェーデン/102分 監督・脚本:ラッセ・ハルストレム 原作・脚本:レイダル・イェンソン 撮影:イェリエン・ペルション 音楽:ビョルン・イシュファルト 出演:アントン・グランセリウス/メリンダ・キンナマン/マンフレド・セルネル/アンキ・リデン | |
世の中には老人の経験者よりも子供の経験者の方が多い。子供時代は共感を得やすい題材だ。だけど世の中には、さまざまなインチキでうそつきな子役が登場する映画も多い。子役が子供の演技をしていないのだ。撮影している側は大人なのだから、経験はあったはずだ。なんでつまらない映画を撮るのだろう。忘れてしまったのだろうか。それらとは違い、この映画の登場人物たちには親近感を覚える。これが、男の子の正しい姿だ。そう、男の子は、この映画のように、誰もが激しく問題児なのだ。それは自分でも止めようのない物なのだ。私も当時はひどかった。コズルそうな子供の表情がよく撮れている。身近な感覚。子供の本質。子供が伸び伸びと演技できる環境を整えている現場の優しさを感じる。ゆったりとした撮影のリズムを感じる。そもそも完成させる気すらないのではないか、監督は一場面一場面を丁寧に楽しみながら撮っていたのではないか。観客が見ることのできないこのスクリーンの背後に、膨大なフィルムの集積と時間の集積と優しさの集積を感じる。牛乳のように、大自然が広がる牧場で育まれたような。自然に完成されたような。観客の心を成長させてくれるような、栄養価の高い映画だ。子供の喪失感、絶望感、心細さが、なぜか私にも共感できる。泣きわめいたり、叫んだり、ヒステリックな悲しみで表現されるわけではなく、生活のゆったりとしたリズムの中での、悲しみ。あまりにも的確に自然に演出されているため、主人公の気持ちが手に取るようにわかる。子供と子供の出会いと友情、そしてほのかな愛情が描かれている。そこがリアルだ。2人の前にはスタッフや監督やカメラや照明が存在しないような錯覚を覚える。2人だけが私の目の前にいて、演技ではない生活をしているように見える。スタッフの個性を無理に出そうとせずに、子供のそのままの姿を撮影している。これは一つの美学だ。素朴な人柄や、暖かさ。サッカーや日曜大工、ガラス工場。納屋の屋根裏のボクシングリング。そして宇宙船。主人公の悲しみを包み込むように、村の人々はどこまでも優しい。こういう優しい村の中で、人生が進んでいく。ラストの屋根のトンカチの音と同じように、緩やかで確実なリズムだ。主人公は悲しみを乗り越えたわけではなく、生涯続いていくようなものだろう。そういう喪失感、残念な気持ちを心に持ちつつも、生きぬいていくような強さも得たのではないか。氷の中で泳いでいたおじいさんを引きあげてから、みんなと共に少年が笑う。悲しみの絶頂で、この瞬間に笑いがこみあげてくる。このシーンは、宝物のような輝きを持っている。たった一人で悲しみに浸っている状態から、社会の中での温かさに触れた瞬間だ。少年の成長を描けている。人間の成長を描けている。監督はラッセ・ハルストレム。子供の時から映画を作っていたので、この時点で大ベテランだ。もはや自分を出そうとせず、映画全体に暖かく降りそそぐ日光のように、自然体なのではないか。役者の演技を最大限に引き出す特殊な才覚だ。 | |
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2001年/日本/110分 監督:和田誠 出演:真田広之/ミッシェル・リー/ 岸部一徳 /國村隼/ クニムラジュン/柄本明 | |
「ラウンドミッドナイト」というのかな。あんまりジャズに詳しくないけど、楽しかった。ジャズバーでこの映画の存在を知ったというのも新鮮だった。バーのコースターを見せると300円引きで、半券を見せるとバーで500円引きだ。チラシの裏には新宿のジャズバーマップ。手持ちのカメラがゆらゆらして気持ち悪かったけど、テレだとも思うし、いい味にもなっている。夜の街がきれいだ。安っぽい自動補正カメラで撮るような街の輝きがよかった。カメラワークもジャズなのだろう。いい絵が撮れている。主演の人がよかった。普段着の演技だった。最後までラッパを持ちつづけているのが、よかった。即興で動きつつも伏線が張られていて、いいシナリオだった。犬山商会の人と、刑事がよかった。映画館の中で、曲が終わると拍手する客がいて、少しよかった。「月の砂漠」がよかった。「ちょっと休憩。明日に仕事がない人は、真夜中まで待っていてください」とか、冒頭の演奏が終わった主人公が言う。遊び感覚というか、心の余裕が必要なのだろう。人の演奏を受け入れる気持ちが大切なのだ。気持ちよく生きているように見える人は、ジャズを演奏しているのだと思う。思いがけない不協和音も、その人にとってはすなわちそれがハーモニーなのだ。地に足がついていて、ひじょうに涼しいのだ。「クール」とでもいうのかもしれない。こういった日本映画をこれからも観に行きたい。 | |
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