映画評 |
1984年/フランス・ドイツ/147分 監督:ヴィム・ヴェンダース 音楽:ライ・クーダー 撮影:ロビー・ミューラー 出演:ハリー・ディーン・スタントン/ナスターシャ・キンスキー/ディーン・ストックウェル | |
147分があっという間である。「どこへ行きたい?何がある?何もないだろ」たしかに何もない場所だ。酸素が薄いような気がする。息もできそうにない。アメリカの、地球規模の広大な土地。まず、その風景に圧倒される。全ての男の進む先には不毛の大地しか残されていない気もするし、「何もないだろ」と、向かう先を否定されても、悲しい気分になる。冒頭の25分間、主人公が全くしゃべらない点に興味を持つ。主人公の心の流れをわざわざ説明しようとせずに、ただ、あるべきものとして扱う。そもそも主人公自身も自分の心をわかっていないかもしれない。これも一つの描き方だろう。広大な人間の心が、荒野を突き進んでいく。私にとっては心の中も、アメリカも、未踏の地なので、見慣れぬ景色も多く、非常に有意義な旅の気分を味わえた。場所だけではなく、とても長い時間を主人公は旅している。たどり着こうと思っても、どこまで歩こうとしても、絶対に過去にはたどり着けない。宇宙の生成や光速の時の流れで証明できるように、時間というものは絶対で、過去には流れない。「どうしてもダメなんだ。何が起こったのかも思い出せない。空白が空白のまま。孤独に輪をかけ。傷はいっそう治らない」目指すは、ただただ荒野である。それが人生なのかもしれない。雄大な景色を大画面にたっぷりと描くことで、逆にそこに住む小さな人間同士の心の絆が心に迫る。誰もが本当にいるのではないか、そして実際に自然にこういうしぐさをするのではないか。演出過多にならないで、ありのままの映し方をしているせいで、どの人物にも共感できた。8ミリの上映会で親子の距離が近づくのは素晴らしいシーンだ。どちらも彼女を失ってしまった悲しさを背負って生きている。妻を見る視線に愛情を感じ取ったことで父として信用される。そこには時間軸もない。背負っている者同士の共感がある。背を向けて電話で話すシーンは、見ていて涙が出てくる。向こうが見えないことに同情して自然に背を向けたようにも見えるが、実際はもっと深い。結局のところ、実際に会える存在ではないのだ。遠くに行ってしまった関係なのだ。時間も場所も意味をなさない2人しか存在しない空間だ。そこでようやく自分の存在をありのままに語る。説明する。そこではお互いが理解しあえて、お互いを愛しているのかもしれない。だが、店から出るともしかしたら同じことを繰り返すのかもしれない。女性が近づく。近づいたせいで女性の顔の部分が暗くなり、自分の顔を映す。彼女に会いに行く旅は、自分に出会える旅でもあった。別に誰もが、今すぐに死ぬわけでもない。ただただ荒野を目指して生きていくだけである。しかし、誰もが優しさを持っているような気がする。優しくあるべきだと思われる。そこには望みがないだろうか。子供を抱き上げる彼女の姿はとても重要なシーンだ。車が走るカットと同じような感じで横からカメラが捉える。長いロードの終着点となる。これがあるだけで私としては救われた気分になった。子供はもはや大きくなったので、母を助けることもあるだろう。圧倒的にハッピーエンドだ。セリフも少なく、短いシーンだが、豊かな感情が表現されている。実際に演じる側に立つと、これは難しい演技だ。これを完璧にこなした彼女の演技力には感嘆する。「傷はいっそう治らない」」一生消えることのない、修復しようのない傷は、人生においてたしかに存在しているような気がする。この映画ではドラマチックに描かれないし、カメラで上手に表現しきれていないし、落ち込みかたも酒を飲み過ぎるようなありきたりのものだ。手紙という媒体で表現している部分も映画として弱いところだ。シナリオ的に重大な曲面が訪れてもそれまでと同じように演出過多にはしない。それまでの長い長い旅の描写で、見た目以上の心の流れを表現している。巨大な風景が、最後に絶望と孤独となって私に押し寄せてきた。あまりに広大なものが描かれ続けていると、孤独がさらに明確になる。歴史や自然と一体化した孤独だ。主人公の行動も、自然に感じた。嘘がない。納得できる。空が青いように、自然そのものだ。風のようだ。風は大地を流れるだけで、潤すことはない。風はなにかを育てることはない。風は居場所を持たない。葉のように、花のように、風はなにかを飛ばすことができる。この大陸で、風が吹いて、なにかが動いた。それをみんなで確認するのがこの映画だ。少なくとも、優しい風が吹いた気がする。 | |
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2001年/アメリカ/152分 監督:クリス・コロンバス 出演:ダニエル・ラドクリフ/ルパート・グリント/リチャード・ハリス/エマ・ワトソン | |
単純によくできた映画だと思った。だけど、この腑に落ちない気持ちはなんだろう。何も考えなくてもストーリーが分かるぞ。ビバ!ハリウッド!まるでディズニーランドをみているようだ。決められた制服に張り付いた笑顔にノンアルコールに持ち込みはNG。逃げ場のない映画館でこういう押しつけをされると逆に恐怖を感じる。最後の4クラス中1位になったからって、そんなにうれしいのだろうか。別に3位でも4位でもいいじゃん。クライマックスに競争社会を出してきたのは別の意味でのバトルロワイヤルなのか。今回は違ったが、あの薬教えてる先生は絶対に悪者だと思った。いい役者だ。きっと次回作では悪者として登場するはずだ。チェスの場面もホウキ乗ってる場面もハラハラしなかったな。ライトが落ち着いている。カメラは気持ちよく滑らかに動かされていて、安心して観られた。だけど、安心とエンターテイメントはイコールで結びたくない。グーニーズみたいにヘンなキャラ出せないのかね。荒唐無稽さがない。学校化社会賛歌みたいなものを感じた。彼ら三人の正義の信念に貫かれた行動は、頭良すぎで一元的でつまらない。いたずらっ子、はみだしっ子のいない世界。いろいろ想像してみたが、この映画の場合、勝利以外の結末は許されていないようだ。強いアメリカの物語なのだ。エリート子役のための世界。私はずっこけ三人組みたいな感覚がすきだ。「がんばれベアーズ」の最後、負けてもいいやっていう手放しの気持ちよさも好きだ。オールバックの悪役の子の方が屈折してていいじゃないか。 | |
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2008年/ドイツ・イタリア・フランス/108分 監督・脚本・製作:ヴィム・ヴェンダース 出演:カンピーノ/ジョヴァンナ・メッツォジョルノ/デニス・ホッパー | |
新宿K'sシネマ。ブルーレイでの上映。きれいだった。「死が間近に迫っている」、そのイメージ描写は素晴らしい。しかしこれは監督の個人的な心象風景であって、登場人物と今ひとつリンクしていない気がする。ライカやオープンカーや一流の撮影技術を持っていながら「死にたい」なんて、アホか、と思った。もっと、つらい人が、たくさんいるのではないか。説得力が全くない。監督であり、脚本家であり、巨匠でもあるベンダースの存在が災いしたのか。主人公を老人にしたほうがよかったんじゃないか。脚本的には前半部分は削除して、いきなりパレルモのシーンから始めたほうが魅力的な映画になったはず。音楽を聴きながら写真を撮ってるだけなので、人物的なつながりもなく、役者の演技を楽しむ場面がほとんどない。デニスホッパーとの対話が一番面白かったが、もうちょっと多人数での会話があると面白かった。ラストシーンが違和感ある。なんだか通過儀礼のような血の通わない「幸せ」を感じた。「はいハッピーエンドですよ」という淡々とした描写。その他のシーンでも、人間関係の希薄さというか、通過儀礼のような嘘っぽいつながりを感じる。どうしてなのかわからないけど。青春映画や若い監督が「死」を通過儀礼のようにしか描けないように、老人には「愛」を通過儀礼のようにしか描けないのかもしれない。パレルモのシーンがかなり良かった。非常に美しかった。ゴミまでも美しく撮れている。デジタルエフェクトの勝利か。ようするに、映像だけ一流の映画だ。映画産業の「なにか」を感じる。映画よりも写真集にしたほうが素晴らしくなったんじゃなかろうか?でも、それだとベンダースいらないな。 | |
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1989年/フランス/95分 監督・脚本: エンキ・ビラル 脚本:ピエール・クリスティン 撮影:フィリップ・ウェルト 出演:ジャン=ルイ・トランティニャン/キャロル・ブーケ/マリア・シュナイダー/ジャン=ピエール・レオ/ブノワ・レジャン | |
冒頭に登場するのは、スキンヘッドのオヤジ。これは厳しい。非常に厳しい。全くワクワクしない。口をへの字にした無表情な登場人物たちが世紀末的な世界を右往左往。SF映画のようではあるが、特殊効果や画面的な面白さがなく、きわめて地味である。絵画としての構図の確かさと色調の統一は素晴らしい。彩度を下げた世紀末的な雰囲気の演出が面白い。監督はコミックの人だけあって、静止画として見た場合のこだわりは感じる。反面、動きや表情がとても硬い。ロボットたちと、ロボットのような役者たちの演技。共感というのは大事な要素だ。絵としてのこだわり以外の魅力に乏しい。夢も希望も救いも絶望も悲しみもない。喜怒哀楽の全てがない。絵の雰囲気は素敵だが、物語がつまらない。最初から説明不足。スターウォーズ、ブレードランナー、マトリックス。この映画になくて、他の映画にある物。相対評価の最低地点。あまりにつまらなすぎて逆説的に映画の面白さを再確認してしまう。ガジェットの魅力、設定の魅力、人物の魅力をないがしろにして、現実逃避として架空の世界に逃げこんで窒息している。この映画は、SFにせずに現代を舞台にしたほうが面白かったのではなかろうか。最後は体制側が生きながらえたのか、革命が成功したのか。思わせぶりなだけで、空虚である。頽廃的というよりも、活気がない。耐えられないくらい退屈な映画だ。 | |
2009年/アメリカ/100分 監督・製作:トッド・フィリップス 脚本:ジョン・ルーカス/スコット・ムーア 出演:ブラッドリー・クーパー/エド・ヘルムズ/ザック・ガリフィアナキス/ヘザー・グラハム | |
「サタデー・ナイト・ライヴ」な役者が出ているわけではないので、奥行きのある演技をそれぞれが見せていた。会話のリズムや、人間関係の背後をしっかりとつかんだ演技が、自然でいい。本当に存在するかのような自然さだ。その結果、観客もいっしょになって笑うことができる。シチュエーションコメディではないし、シチュエーションコメディの映画版でもない。それだけで、最近のアメリカ映画とは感触が違う。スラップスティックな要素はあるが、不自然な要素はない。非日常的な展開はあるのだが、それは「酔ってラリッた結果」として提示されているため、不自然には感じられないのだ。ジムキャリーのようなスケッチコメディでもない。会話をバンバン続けないので私のような英語に不慣れな人間でも聞き取りやすかった。あの一本の歯だけで、真面目っぽい登場人物を笑いの側に持っていく手法も巧みだ。巧妙に、登場人物に試練というか、限界(枷)を与えている。彼女にラスベガスにいることを知られたくない男のカセ。結婚式が近づいている日程的なカセ。お金がないカセ。記憶がよみがえらないカセ。高級車を壊してはいけないカセ。バチュラーパーティを題材に取っておきながら、馬鹿騒ぎの部分に時間を費やさなかった点は、非常にシナリオとしては、個性的。一般人が、いったん全ての社会的活動から背を向けた一瞬に発するパワー。バチュラーパーティの本質をきちんと表現できている。低俗な笑いを一手に引き受ける花嫁の弟役のザック・ガリフィアナキス、かなり独特なルックスだ。匂ってくるような不気味な存在感を見せている。あの周囲から浮いているかのような距離感は、彼の中に秘められた独自のものだろう。 | |
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2006年/スペイン・メキシコ/119分 監督:ギレルモ・デル・トロ 出演:イバナ・バケロ/セルジ・ロペス/アリアドナ・ヒル/マリベル・ベルドゥ | |
まず評価したいが、撮影や美術は、今までの私の経験から見て、最高レベル。そして内容は・・・。昨日見た「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」もグッタリ感がすごかったが、この映画の方が敗北感を感じた。まず、映画会社のイメージ戦略に敗北。もうちょっと、楽しい場面を想像していたが、裏切られた。PG-12指定という部分が特徴的。残酷な処刑シーンなど、正視できない場面も多い。緊張感のある残酷な映画だ。ファンタジー映画ではなく、現実映画。ファンタジー部分は、残酷な現実をきわだたさせる調味料でしかない。もちろんファンタジーは、現実との強烈なコントラストがあれば、さらに浮かび上がる。でも、客に現実を見せるだけの映画は、気持ちのいいものではない。一番敗北を感じたのは、この「ファンタジーが思いっきり負けている」ところ。主人公がファンタジーを武器にファシズムと闘った「ライフ・イズ・ビューティフル」では、私はファンタジーの勝利を感じた。何かが生き残ったからだ。あなたたちはどうか知らないが、ファンタジーは、種類はどうあれ、私は持っている。ファンタジーを利用して、武器にして、防具にして私は現実を乗り切る。乗り切りたい。乗り切れるはずだ。現実とかけはなれた登場人物たちのどんなファンタジーにも、共感を持って見届けることができる理由は、そこに現実へのブレイクスルーが隠されているような気がするからだ。主人公が少女であるところも残酷。成長ではなく、死が残る映画。迷路の中で、死んでどうする。私は絶対に死んだりしないぞ。 | |
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2000年/韓国/112分 監督:オ・ジョンワン 出演:ソン・ガンホ/チャン・ジニョン/パク・サンミョン/チャン・ハンソン | |
銀座を走り回った。赤信号を突っ切るのは気持ちいい。シネ・ラ・セットは小さすぎて分かりづらかった。映画館を見つけたら、始まって30分経っていた。だから新宿に戻ってレイトショーの回を観た。ストーリーは、喜劇。現実的な銀行の描写が、プロレス風景と対照的に写っていい感じ。主人公がカラオケボックスで暴れてたけど、私も似たような経験がある。その時は副社長もいて後日シャレにならなかった。ここでの描写は、ヘッドロックをかけられてぐったりした所にチープな曲が流れていて、かなり印象的なシーンだ。撮影方法に目が行く。最後の対決(雪が降る所)のカメラ割、最初のシーンのブラウン管のアップ。ジムの写し方。乱闘シーンの盛り上がりかた。その昔、こういったプログラムピクチャーから日本の監督は才能を開かせたらしい。韓国も、そういう流れなのだろう。日本映画だと、プロレスラーの役なんて俳優側からNG出されるのではないか。演技力プラス肉体の若さが問われる難しい役だ。韓国は勢いがあるからできるのだろう。JSAに出たいい役者だった。コブラツイストや、エルビスなど、笑えるカットがたくさんあった。覆面姿で「愛しています」主人公が告白。「酔っているの?」その後走り出す。覆面姿のまま地下鉄のホームでうなだれてた。爆笑してしまった。最後の曲が良かった。久しぶりにエンディング曲を聴き終わるまで席を立たなかった。 | |
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1929年/ドイツ/131分 監督:ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト 脚本:ラディスラウス・ヴァイダ 原作:フランク・ヴェーデキント 美術:アンドレイ・アンドレーエフ/ゴットリーブ・ヘッシュ 衣装:ゴットリーブ・ヘッシュ 撮影:ギュンター・クランプ 出演:ルイーズ・ブルックス/フリッツ・コルトナー/フランツ・レデラー | |
2012年3月19日、シネマヴェーラ渋谷で16ミリの88分での上映を見た。画面が傷み、コマが落ち、不自然な編集が施されていたのだが、まあしょうがない。帰宅後、131分の修復版を動画サイトで見た。まるで別の映画を見ているような美しさだった。滑らかに動き、美しいグラデーションをもっている。素晴らしい修復具合だ。これを上映すればよかったのに。1929年のドイツ。この時点で映画ならではの構図や動き、質感、ライティングなどは、ほぼ完成されている。結婚を決意するシーンでの目つき、ピストルで撃たれるシーンでの宗教的な彫刻、養父がパイプをふかし続けるシーン、救世軍の後ろを歩いていくラストシーン。モノトーンであるがゆえに印象的な場面がとても多い。この映画は、ルイーズ・ブルックスの魅力に尽きる。どう考えても不思議な髪型だが、絶世の美女がこれをすると、問答無用の必殺技となる。かわいらしく、妖しい。瞳の輝き、髪の艶、肌の質感。言葉や音楽や台詞がなくても、全てが彼女のアップで語られる。美しくなければ説得力がなくなってしまう。小悪魔ルルの波乱の生涯。本能のままに媚びを売る。たとえ破滅に向かうと分かっていても引き寄せられてしまう。理性ではあらがうことのできない魅力だ。冒頭から父と息子の三角関係。養父との怪しい関係。ルルに恋をする女性も登場する。まさにパンドラの箱のように、触れたとたんに災いをもたらしそうな人間関係だ。不安定な人間関係の構図がどんどん崩れ落ちていく。ただ、この災いは、ルルが自ら求めているわけではないところが面白い。本人の意図とは別に、見た目の美しさが破滅を生んでいくのである。ショーの華やかさとルルの衣装に見とれる。このステージの風景は魅力的だ。衣装も素晴らしい。駄々をこねる仕草がかわいい。結婚式のにぎやかさと花嫁姿のルル、法廷のにぎやかさと喪服のルルにも見とれる。屋根裏に追い込まれても、妖しい魅力を放っている。中年男の妄想を実現させたかのような、欲望を充足させるような、頽廃的な物語だ。私個人としてはそのままルルにしぶとく生き延びてほしかったが、妄想ゆえに生命力がない。死なないといけないかのような必然的な終わり方だ。生き残った男たちは、片方はクリスマス・プディングを食べ、片方は救世軍のクリスマスの楽隊に吸い寄せられるように消えていく。楽隊に入るか、以前の仕事に近いなにかをするのかもしれない。まさにパンドラの箱のように、希望が残っているような結末だ。彼女によって男たちの運命が狂わされたように見えて、彼女自身も犠牲者のような印象だ。最後に崩れ落ちていく細い手、そして消えていくランプの印象的なシーン。ただの魔性の女である以上のなにかがある。単純な人物造形を超えたなにかがこの作品に表れている。 | |
1997年/アメリカ/103分 監督:ジョン・シュルツ 出演:リー・ホームズ/ケヴィン・コーリガン/スティーヴ・パーラヴェッキオ | |
アメリカのバンド青年を描いた映画。映像が暗いのが気になった。題名をREMから取ったらしい。物語も、カレッジチャートで流れているようなバンド達の生態が描写されていた。ピクシーズとかその辺のにおいを感じる。最初のステージでのアンを歌った曲がとてもよかった。釣りや薬に安らぎを見出したり、レコード屋の店員をしていたり、借金を抱えたり、頭に浮かんだフレーズのために会社を遅刻したりする青年たちが主人公だ。その辺にいくらでもいそうだ。後ろを向いて歌ったり、アンが実在したり、銃を撃ったり、捕まったり、突然釣り糸をたらしたり、ギターが壊れたり、いろいろ場面があって面白かった。おとぎ話のようななマネージャーも興味深い。ビリヤードのシーンが印象的だった。ツアー中に分厚い本を読んでいて、その本が化学の本だったのも面白かった。ステージに立って歌うことでバンドを呼び戻したり、最後に消えるようにいなくなったりした所にも味があった。目的地を決めないまま淡々とツアーに出る部分が映画としては弱いかなと思う。目的意識を持たずに、好きなことをやる姿勢が頼もしくもあるのだけど。バンドが崩壊しない部分にハッピーエンドを感じた。 | |
2002年/中国/99分 監督:ジョン・シュルツ 出演:ジェット・リー/トニー・レオン/マギー・チャン/チャン・ツィイー | |
イチョウの葉が舞う決闘シーンがすばらしかった。格闘シーンの合間に、無名と始皇帝の虚虚実実の会話が続いていく、話の構成も面白かった。でも、最後が納得いかなかった。あんなにすごい技を駆使していたのだから、最後の矢の攻撃からも逃げられたはずだ。ワイヤーアクションはすばらしいが、一歩間違えるとお笑いに近くなる危険性を持つ。水の上での格闘を見ていて、強烈な恥ずかしさに襲われた。どうせワイヤーで吊るしまくるなら、いっそのこと、ずっと宙にフワフワ浮いている人物が登場したら面白いかもしれない。格闘シーンはスローモーションが多すぎて緊張感が感じられなかった。カメラは空間演出が優れていた。広い場所を大画面で見るのは気分がいい。遠近感をつけて奥行きが出ている。剣の書、緑色のカーテンなど、舞台演劇を見ているような気がした。無名が皇帝の前に出ている時点で悟ってしまっているので、もうちょっと葛藤があったほうが良かった。演技が淡々としすぎている。CGやワイヤーアクションがどんどん導入されていけば、アクション俳優の出番がどんどん減っていくはずだ。この映画でジェット・リーならではの魅力が感じられなかった。彼の流れるような体の動きは、最新のテクノロジーにも負け、話の中では国家にも負けた。今後、彼が活躍することはないのではないか。 | |
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2001年/日本/112分 監督:鈴木清順 出演:江角マキコ/皆月美有樹/山口小夜子/韓英恵/永瀬正敏/樹木希林 | |
オープニング映像と予告編がよかった。ビデオで借りてみたが、ステレオの音響演出や色使いの点でまさに劇場向けの作品だと思った。ふつう、リメイクを作るとしたら、こういう風に作るだろうか。当時でさえ不評だったらしいのに、誰の要望なのだろうか。監督は、本当に撮りたくて撮ったのだろうか。昔と比べて、殺し屋とかピストルに説得力がなくなっている。現代を舞台にしつつも時代劇調の雰囲気もある。撮影されたロケ地は現代を表す場所ではない。東京駅。農家をブルドーザーが壊す。銭湯の廃墟。時代から取り残された部分をわざと取り出した映像が刺激的だ。きれいだとは思わないけど。レトロとオシャレが調和した、この時代で、ようやく商品として成立している。BGMがあまりない部分が印象的だ。音楽がないぶん、映像から受けるイメージの幅が広がる気がした。たしかに意味もなく音が入りすぎの映画も多い。映画ごとにサントラCDなんて作る必要もない。一応、この映画でもサントラが売られているが、全11曲中、「野良猫のテーマ」が5曲、「テーマX」が3曲で、サントラと呼べる代物ではない。脚本が不条理だ。物語の骨格がきちんとあって、印象的な絵があるのに、その間の部分がおろそかだ。1人のおしゃべりをだらだら流すシーンが2つあって、あれはいらない。上映時間が短いほうがいい。ここでは不条理も商品にしたのだろう。だからこの時代にリメイクしたのだろう。不条理が受け入れられるこの時代で。でもこの場合は、不条理の背景に理屈が見え隠れするのだ。映画を観ながら、時どき私が味わう、理解不能で気味が悪くなる類の不条理ではない。私にとって魅力がない不条理だった。 | |
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2003年/アメリカ/125分 監督:ティム・バートン 出演:ユアン・マクレガー/アルバート・フィニー/ビリー・クラダップ/ヘレナ・ボナム=カーター | |
決して釣れない魚がいる。逃げていく魚のようで、手に入れたはずだけど。それは逃げていく。後に残るのは物語だけだ。大きな魚だけどそれは信用してはもらえず。それを聞く人間は、その物語を疑う。しかし、物語は共有されていき、そこから新しい物語が始まっていく。大人が語るおとぎ話は、子供にとって現実でもあり、認識でもある。自我が芽生えて大人になってきてから、子供は大人の語るおとぎ話を「うそ」だと気づく。このプロセスを映画のストーリーに入れれば、成長物語ができる。この映画で成功しているのは、「うそ」だと気づかせると同時に「本当」だと認識し、それが家族愛に結びついたことだ。そして、アメリカならではの、害のないほらふき話がいたるところにちりばめられて、イメージの芳醇な部分を楽しめる。さらに、魔女、巨人、スペクターの詩人(プシェミ、いい味出してる)など、いたる所に空想世界の住人がまぎれこむ。ティム・バートンならではのねじまがった描写も入り、魅力的な映画になった。ビリー・クラダップが素晴らしい。魅力的なほら話にひきこまれていく主人公の心の揺れ動きを分からせる演技が本当に上手だ。この映画では一風変わった人間像の認識が、ストーリーになっている。一般論で言えば、その人のことを好きになる時は、現実の人間像が強く出るはず。まず、現実から入って、その周囲の枝のように広がるほら話の部分を少しだけ理解するのではないか。でもこの映画の父親の場合、現実よりも芳醇なほら話のほうが主体になっている。一人、空想のアマゾン大密林だ。だから主人公は、ほら話の中に入りこむしかない。「お父さまの頭で考えるのよ」そして、まず、ほら話の方を好きになるのだ。で、実際の父親を探そうとすると、父親ははるか遠くにいってしまい距離が離れてほら話からも離れて、その結果、分かる。ほら話自身も父親なのだと。ほら話と現実の話。最後に物語は、つながった。最後に主人公は、本当の父の人間像を認識できたのではないか。もちろん、父の人間像だけではなくて、主人公もそうだし、私たちもそうだ。物事にはさまざまな側面がある。想像しながら、夢を語りながら人々は生きている。夢や想像が伴って、はじめて人間ができているという認識。簡単に一言で言えばそうなるけど、映画として成立させるには相当の努力だ。クライマックスに父と子の対話を持っていった。そして立場は逆転した。そして継承された。人間賛歌へと続く、理想的な終わり方だった。最後のナレーションは、とてもいい。 | |
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2008年/日本/121分 監督・脚本:タナダユキ 撮影:安田圭 出演:蒼井優/森山未來/ピエール瀧/竹財輝之助 | |
「百万円貯まったら出ていきます。もう誰にも迷惑かけません。これからは一人で自分の足で生きていきます」すばらしい決意表明である。私には、人様の人生においてあまり大きなことは言えない。こういう生き方があってもいいと思う。逆に憧れてしまう部分もある。私自身も、一人で自分の足で生きているとは、とうてい思えない。主人公は、おとなしく、繊細である。しかし、転んでも泣かない。痛くても泣かない。弱くなく、流されていない。3人組の汚らしい罵倒に真っ向から対抗する。「おまえら全員死ね」と豆腐を投げつけ、噛みつく。そして、きれいに言いはなつ。「やってみろ。おまえらだって名誉棄損でつかまんだよ、ブス」ここは見ていて力が入る。かわいらしい外見だけを売りにする女優とは違い、瞬発力のある感情を自然な感じでスッと出せる。がんばれ、と本気で応援してしまう。タナダユキ監督自身の脚本である。自分の心の中に入っていくような、私小説的な肌触り。これだけ悲しい気分になっているのだから、もっと泣き続けるような弱さがあってもいい気がするが、主人公は、おびえているわけでもなく、緊張しながら歯を食いしばって生きている。女性的な感性の中に、たくましい生命力を感じる。暗い導入。他人の意見に乗って、流されて、犯罪者。他人を信用できない。自分しかいない。自分に正直である。脚本はすばらしいが、撮影に難がある。画面が暗い。驚くほど暗い。自分の目がおかしくなったのかと勘違いするほど暗い。間接照明など、いくらでもなんとかなりそうなものだ。撮影は安田圭。撮影はともかく、2人の役者の演技に見応えがある。蒼井優がすばらしい。元気いい演技より、こういう等身大の演技の方が彼女の場合は魅力を感じる。普通の口調で話し、オーバーアクションでもなく、自然体の演技だ。動きが硬いような気がするが、人生の最前線を生きている緊張感が感じられて、真実味がある。あの細腕では、海の家での接客や畑仕事ができそうにない気もするが、逆に応援したくなってしまう。森山未來も、地に足のついた達者な演技だ。堂々としている。どんな役柄を与えられても期待に応える安定感がある。霧吹きを吹きかけ続ける横顔は、名シーンだ。森山が現れる前のやりとりがつらかった。この若者2人の存在感で、他の役者がかすんで見える。こういう若者がいれば日本映画に未来がある。自転車を押しながら、たどたどしい会話をするシーンがすてきだ。今まで何度も「自転車を押しながらのたどたどしい会話」を他の映画やドラマで見てきたが、これは最上級だ。なにもかもハキハキしないまま、なにかが伝わっている。目的地のない、不思議なロードムービーである。繊細でおとなしく、かわいらしい女性の旅だ。自分のことを誰も知らない町に行く。スリリングな旅だ。可能性を感じる旅だ。かき氷や桃もぎりに天性の才能があることなど、旅をしてみないことには一生気づかないだろう。人生という名の国を旅するロードムービー。よって、最後まで旅を続ける。妥協がない。「自分探しみたいなことですか」という問いに彼女はこう答える。「むしろ探したくないんです。どうやったって自分の行動で自分は生きていかなきゃいけないですから。探さなくたって嫌でもここにいますから」個人的に、この言葉は深くこの胸につき刺さった。探せる自分はすでに手に入れている。誰もいない場所へ。自分さえも消える場所へ。私も、そういう気持ちになったことがある。私には、他人だけではなく、たまに自分ともつきあいたくなくなる瞬間がある。彼女は、社会からではなく、自分から逃げている。だから引きこもるのではなく、どこかに行くのだろう。外に出ないかぎり風は流れない。いい風もこっちにやってこない。正しい選択のように思える。少なくとも私と同じ選択だ。思ったことを口にする。ここが一つの成長だ。言いはなってしまって町を去る。それもまた自然だ。次の町では、逃げ出さないで生きていけるかもしれない。彼女の成功を心の底から願ってやまない。逃げているように見えて、自分と向き合っている。結末において、向き合うことができている。正しい行為のように思う。結末において、また悲しい気分になるが、それもまた人生か。妥協がない。それでいい。まだ大丈夫。なぜか彼女に声をかけている自分がいる。彼については、まどろっこしいことをせずに「ずっといてくれ」と伝えるだけでよかったのかもしれない。しかし、同じ立場になったら自信がない。強く伝えれば、逆に逃げていってしまいそうだ。彼女はどこまで彼のことを信頼しているのか。観客も、最後の彼女の独り言で、彼に対する愛情の深さが理解できる。感情の表現が苦手な女性なのだ。なかなか難しいと思う。私自身も今まで致命的なエラーを何度もおかしているので彼のことを悪く言えない。修行が足らない者同士の共感を覚える。だからこそ、最後、私は彼を応援した。最後は追いついたのか、追いつかなかったのか。彼の挙動と、2人の位置を考えると、彼女を発見できたのは確かだ(何十回と見直した時点での感想だ)。しかし、自らの至らなさに怖れを抱いて追いかけなかったのか。あまりにもしっかりとした彼女の立ち姿を見て、入りこむ余地を感じなかったのか。それとも必死に追いすがったか。無限の可能性を秘めたラストだ。ここまで印象的なラストは作れない。役者とカメラとセリフと演出が一体となった瞬間だ。いずれにせよ、自信を持って彼女は改札に向かう。全ての観客への励ましのように。自分の進む先を示してくれるかのように。この地上には、さまざまな人々が住んでいる。駅の雑踏。たまに回りを見渡せば、彼女のように繊細で、おとなしくも、自分の足で生きている、苦虫女たちがたくさんいるような気がしてくる。彼女たちはかき氷を作るのが上手かもしれない。桃をもぐのが上手かもしれない。それぞれが自分の改札口を目指してしっかりとした足取りで前に前に進んでいる。いろいろな人がいる。私の中で、世界の見方が少し変わった。勇気づけられ、勇気づけたくなる、不思議な映画だった。 | |
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2011年/アメリカ/126分 監督:マーティン・スコセッシ 撮影:ロバート・リチャードソン 原作:ブライアン・セルズニック 脚本:ジョン・ローガン 出演:エイサ・バターフィールド/クロエ・グレース・モレッツ/ベン・キングズレー/ヘレン・マックロリー/サシャ・バロン・コーエン | |
見たことのない映像だった。3Dなのだから当然なのかもしれないが、遠近感が1カットごとに強調されている。遠近法と、遠近感。立体感。夢の中で浮かび上がるようななにかの発明。新奇なものとしての3Dではなく、映画の撮影技術としてみても新鮮な表現となっている。スコセッシ、なにか気づいたのか。スコセッシの不思議な発明である。人々や犬がうごめき、建物や時計の機械がごつごつとせり出し、駅というものは巨大であるためにまさに遠近感の魅力を引き出しやすいロケーションだ。小物に至るまで全てが美しく、はっきりとした輪郭で描かれていて、別の世界を訪れたような気分にさせられた。撮影監督のロバート・リチャードソンはこの映画で3度目のアカデミー撮影賞。これは当然だ。55年生まれにして、この映像感覚は、すごい。機械人形のデザインが非常に美しい。古風でありながら人間らしい表情で人間らしい動きをする機械だ。この存在感は完全に役者そのものだった。冒頭から主人公が駅を動き回る。さらに駅の公安員からの逃走がはじまり、この映画のセットの巨大さに驚く。駅そのものが、完全にこの映画のために作りこまれている。ほとんどテーマパークのようだ。この完全なる世界観。この駅が本当に実在するかのようだ。落ち着いていて、温かみがある。いつまでもこの駅の中を眺めていたい気分にさせられた。この新鮮な映像体験の舞台となるのは、1930年代のパリ。イギリス人が中心に登場しているので、どこか別の世界のようだ。テーマとなるのは映画への愛。サイレント映画へのオマージュだ。そして主人公は少年だ。主演はエイサ・バターフィールド。駅構内を歩く時の心細さ。身寄りのない孤独感が身に迫り応援したくなる。助演はクロエ・グレース・モレッツ。「キック・アス」の、あの少女だ。本でしか味わったことのない冒険へ踏みだしていくワクワク感。彼女の好奇心旺盛な演技が、見ている私と共に物語を加速させていく。2人とも大人顔負けの演技というより、いかにも子供らしい演技だ。無理やりな笑顔ではなく、喜怒哀楽もわざとらしくない。子役的な子役の演技ではなく、上から目線の演技指導を受けている感じではなく、自分のアイデアで自由に演じていたように見える。背伸びしないで自分の身の丈にあった、今しかできない演技をしていた。2人とも今後が楽しみな役者だ。最新の技術の対象が、ノスタルジーであり、子供である。撮り方が優しい。優しさが前面に出ている。この監督が一番撮りたかったのは、最後に劇場で演説するシーンだったような気がする。映画館こそ夢の世界。こういう発想で生きてきた映画人の喜びのかけらを見せてもらったような気がする。駅構内は大人の世界であり、主人公にとっては外国。駅という王国の中で完全に異邦人だ。時計盤からのぞき見る世界は大人の世界。そこで時計のゼンマイを巻き、機械人形の修理をする。大なり小なり、その仕組みは機械仕掛けである。機械の中に人生があり、思い出があり、夢がある。時計が動いているかぎり、自分の存在は保証され、機械人形を直すことで父との結びつきは強くなる。主人公は小さな歯車のようだ。この小さな歯車は、壊れた人間を直そうとする。まずはその機械の製造工程を調べに図書館に行き、その生みだした数々の夢の製品に圧倒される。その機械は壊れているかもしれないし、時代遅れであるかもしれない。もしかしたら、永遠に見つかることはない部品でできているのかもしれない。機械人形を復活させたハート型の鍵にあたるものはなにか。自ら生みだした夢の製品によって、その機械は修理されていく。その機械は、作りだすだけではなく、作る工程において救いがあり、作る工程において自分をメンテナンスしていく。作った製品で自分の存在が保証され、自分と社会の結びつきが強くなる。壊れて動かなくなったとしても、どこか動いていないだろうか。重要な部分が今も生きていないだろうか。壊れた機械は、自分の生みだした製品に触れることで、自分を直していく、直されていく。壊れた機械を直すのが、手動式の映写機だ。小さな機械から大きな産業へ。映画産業そのものも巨大化してきた。主人公の動かす時計のような巨大な機械の中で、機械人形のように精巧なカメラを回している映画人たち。映画人たち。映画人たち。しかし、そもそもの生みだす根源は、小さな歯車のような人間の想像力だ。小さな歯車から大きな歯車へ。大きな歯車から大きな運動へ。パリの町並みを動かすのは、主人公を動かすのは、映画人を動かすのは、その、そもそもの巨大な流れを生みだすのは・・・。私がもしも機械人形だとして、ハート型の鍵のようなこの映画を差しこまれたとして、出てきたものは、このような散文であり、満足の溜息であった。 | |
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1986年/日本/109分 監督:山川直人 出演:三上博史/室井滋/内藤剛志/原田芳雄/細川俊之/石橋蓮司/真行寺君枝 | |
この映画は、パルコの提供。パルコ映画といえばいいのだろうか。角川映画の中には、今見るとつまらない映画が多い。たぶん当時からつまらなかったのだろうが、のせられて見てしまったのだろう。フジテレビの映画もそんな感じだ。だが、この映画では風化した部分とそうでない部分がある。最近(2003年)この映画の存在を知った。三上博史、真行寺君枝、室井滋、石橋蓮司、内藤剛志、戸浦六宏、石井章雄、神戸浩、細川俊之、日比野克彦、鮎川誠、奥村公延、三宅裕司、小倉久寛、北林谷栄、原田芳雄が出演。室井滋のミニスカート姿は必見。かわいい。監督は山川直人。私は知らない。他に「SO WHAT」、「バカヤロー!3 ヘンな奴ら」、「J・MOVIE WARS-来たことのある初めての道」、「deep forest」があるようだ。原作は高橋源一郎で、本人も1シーン出演している。キャラクターの紹介シーンが面白かった。104というキャラクターと、その友達177がよかった。渋谷の公園通りは、最初パルコ通りとして申請していたが、残念ながら許可が下りなかった。この映画から、それに似た鼻息の荒さを感じる。文化を侵略していこうとする姿勢がある。パルコ映画も公園映画になったのだろうか?パルコは映画で勝ったのか?上手いこと文化を切り取ったなと思う。切り取ったというよりも、商品を羅列しただけなのかもしれないが。普通は映画全体を商品として提出するのだろうが、この映画では映画の中に商品をちりばめている。だからその当時では流行のものにあふれて、購買意欲をそそらされるが、時代が経ってから見ると、売れ残りの商品を見るかのように、とても恥ずかしいものに見えてしまう。原宿、カート・ヴォネガット、ふしぎ大好き、優しいサヨク、など、いろいろキーワードが浮かび上がる。引用で埋め尽くされていたのが興味深い。ポストモダンを感じる。商品を並べているが、物語の最後で破壊したように思う。喫茶店の名前をスローターハウス(屠殺場)と名づけている部分も興味深い。脚本部分の抵抗、反体制を感じる。ゼルダというバンドの名前を聞いて「フィッツジェラルドの?」と答えるように、商品名から別の意味を出していこうとしているかのように感じる。それは異化作用であったり、高橋源一郎の手法でもあったりするが、脚本部分から、ブンガクがかもし出されているのではないか。映画の所々に「語りたいこと」という内容の会話がある。顔のなくなった男に、顔をのせてやるシーンは、そのメタファーだろう。小説技法を話の種にしている珍しい映画だ。ここで出している話は、ヴィトゲンシュタインのものとは種類が違うのだろう。「分からないこと」「もやもや」を分かったふりして書かないで、分からないなりにも近づいていこうとしている。太宰は「いばるな!」と言われたが、源一郎はいばっていないのだ。高橋源一郎とビリィはこの後、ゴーストバスターズに行ったのだなと思った。私達の目の前に荒野はあるのだろうか。ビリィがやってきた荒野の風景も、喫茶店の模様替えとともに消えてしまった。しかしビリィは帰っていった。目新しい景色もなければ、開拓の喜びもない。はるかにスリリングな旅の始まりだ。 | |
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2003年/日本/95分 監督:廣木隆一 出演:寺島しのぶ/大森南朋/田口トモロヲ/戸田昌宏 | |
小説が原作だ。過食して吐くことをこの小説で覚えた友人と一緒に見にいった。その友人、もちろん吐きダコも装備。最近の小説とかマンガでよく見られるように、この映画でも主人公がよく吐いていた。吐くシーンがいかにも口に含んだものをきれいに出しただけで、もっとリアルにしたほうがよかったと思う。友人に言わせれば、5回はビックウェーブが来るらしい。もっとリアルに吐いてほしいものだ。気持ち悪い描写を気持ちよく映していて、とても気持ち悪かった。あんなに歯並びのいいトラックの運転手がいるのだろうか。シンナーを売っていたとのことだが、少しくらいは歯が溶けているはずだ。トラックももう少し改造してほしかった。ところどころに文章が入ってくる。映像で伝えない部分で小説に負けている。2週間で撮ったとのことだが、もう少し時間をかけたほうがよかったかもしれない。長回しを定食屋で使っていた部分が面白かった。ものすごくいい効果を与えている。自分の中から声が聞こえてくる描写がとてもうまいと思った。ラストの、主人公の社会復帰の場所をコンビニにしている部分が興味深かった。BGMは演歌や日本のガレージパンクにしたほうがよかった。女優より男優の演技の方が印象に残った。 | |
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2011年/ロシア/140分 監督・脚本:アレクサンドル・ソクーロフ 台本:ユーリー・アラボフ 脚本:マリーナ・コレノワ 撮影:ブリュノ・デルボネル 出演:ヨハネス・ツァイラー/アントン・アダシンスキー/イゾルダ・ディシャウク | |
ヴェネチア国際映画祭グランプリと、ソクーロフ。この2つの組み合わせがあればさぞかし大々的にロードショー公開されると思っていたが、東京での公開はシネスイッチ銀座だけ。実際に見てみると、公開されたのが奇跡のように感じた。ヴェネチア国際映画祭はどこかでなにかの運営が間違っているのではないか。小説の方が何百倍も面白い。「ファウスト」は、あまりに文学として完成されている。ちょっとでも脚色を加えると、一気に地の底に落ちる。ソクーロフにとっては、なにをしたい、とか、なにになりたい、とか、もはやどうでもいいように見える。欲求からも自由になっている。美しい女性を手にいれたい。その気持ちは理解できるが、冒頭のグロテスクな解剖のシーンはなんのためにあったのか。なにが重要だったのか。魂の追求を、もっと全編にわたってしっかり描いていれば分かりやすくなったはずだ。魂を求めるのか、女性を求めるのか、科学を求めるのか。それらを同時に求めようとするのが現代の我々なのかもしれない。ただ、その流れを映画の中で説明しきれていないので、とても分かりづらかった。悪魔役の軽やかな台詞と身のこなしが印象的。ファウストも重そうに見えて、会話や動きが軽妙だ。全編に渡りシュールなどつき漫才をしているかのような、不用意な軽やかさがあったが、映画の雰囲気にあっていなかった。どこからも笑い声が聞こえてくることはなかった。暗い会話のやりとりを続けた方がよかったかもしれない。画面が暗くて汚らしく、何度も見たい映画ではない。歪みがあり、色のにごりがある。鮮やかさのかけらもない。暗い世界に2人の男が全編に渡りうごめいている。2人の姿は内臓のようで、魂のようだ。魂の契約すら放棄して、あの男はどこに向かったのだろうか。無事に帰れただろうか。一番の謎はラストだ。なんであそこで鎧を着たのか、何度考えてもよく分からない。契約どおりに魂を渡しに山に上がったところ、お湯が吹きあがるのを見て、突如、科学に目覚め、悪魔を石で埋めて、荒野に去っていかれても、私には理解できない。別に毒薬を飲んで死ぬつもりだったんだし、魂をあげてもいいのではないか。あまりにも唐突で盛りあがりに欠けるラストだった。無意味に画面におばあさんが写る短いシーンがあり、妙に存在感があるなと思っていたら「マリア・ブラウンの結婚」のハンナ・シグラだった。元気そうでなによりだ。黄色いライトを当てられた、イゾルダ・ディシャウクの顔のアップが非常に美しい。このシーンだけは一見の価値がある。600円のパンフレットには台本がすべて書かれていて、軽妙なセリフのやり取りを読んでいると、実際の映画よりも楽しかった。 | |
1974年/アメリカ/92分 監督・脚本:ブライアン・デ・パルマ 製作:エドワード・R・プレスマン 撮影:ラリー・パイザー 美術:ジャック・フィスク 出演・音楽:ポール・ウィリアムズ 出演:ウィリアム・フィンレイ/ジェシカ・ハーパー/ジョージ・メモリー | |
あっという間に時間が過ぎていった。勢いのままに感覚がすっ飛んで行く。製作者全員がスピードを決めてストーンしてたかのように狂気に近いパラダイス。ロックンロール・ミュージカルといえばそうなのだろうが、ポール・ウィリアムズはソフト・ロックの人なので、音楽については私の好みではなかった。ストーンズが作曲すると名作になったような気がする。スワンは教祖に近い。完全に異端の宗教だ。ステージで人が死んでも観客は大盛り上がり。病的に歪んだ祝祭感覚。圧倒的な共同幻想。最後はステージの演出のように盛大に滅んでいった。不遇なミュージシャンが追いつめられ、追いこまれて、なにも達成できずにボロボロになって消えていく。敵であるスワンも、自らが生贄となった形で、意図したようにステージが熱狂に包まれる。非常に皮肉な結末だ。エンディングテーマもひどい。「ダラダラと生き続けるより、思いきりよく燃え尽きよう。(中略)何の取り柄もなく人にも好かれないなら、死んじまえ。悪い事は言わない。生きたところで負け犬。死ねば音楽ぐらいは残る。お前が死ねばみんな喜ぶ」完全に突き放された感覚になった。ただ、映画というものは表現の幻のようなものであり、監督の本音だけを歌いあげる必要はない。こういう歌詞こそが、この映画のラストにふさわしく感じたから、このような歌になったのであろう。この曲から、暴力的な音楽業界視点での、生贄のようなロック歌手たちの存在が浮かび上がってくる。エンターテイメント興行の持ついかがわしさ、怪しさ。ステージのもつ魔物のような高揚感、中毒性。2012年の今見ても臨場感がある。物語の背景として、巨大になった当時の音楽産業が印象的に描かれている。1969年の「オルタモントの悲劇」と似通った構造だ。ストーンズのコンサート中に警備員で雇われていたヘルズ・エンジェルスが観客を殺した事件だ。楽園が地獄に変わる瞬間。まさに悪魔がささやき、怪人が暗躍する世界である。映画の制作年を考えると、キッスやクイーンが活躍しはじめる時期。ウッドストックは1969年でワイト島は1968年から1970年。ブライアン・ジョーンズは1969年7月、ジミヘンは1970年9月、ジム・モリソンは1971年7月に亡くなっている。ロックスターたちの、悪魔と契約していたかのようなサウンドや、それゆえの早過ぎる死。過激に吸収し、消化し、さらに欲求が増していく観客たち。映画のラストで踊り続ける観客たちが悲劇をさらに悲劇たらしめていく。この観客は、映画の観客である私たち自身であるかもしれない。テープが自分自身を証明していて、燃やすと破滅する考えは面白い。これは音楽のテープではなくてビデオテープだ。映像である。スワンには監督自身の投影があるのではなかろうか。この映画を撮っていたデ・パルマは、テープがなくなった時点で自分も破滅すると考えていたのではないだろうか。監督自身がハリウッドから距離を置いていた時期に撮ったことも関係しているかもしれない。自らの中にある、追いつめられた不遇な監督のイメージがウィンスローとなり、過激なこの映画を撮る監督のイメージがスワンとなっている。ラストに至るまでの一連のカットは、監督自身が自分の運命にあらがうかのようにカメラを担いで最大の宿敵である私たちに向かって突撃するかのようだ。邪悪な見世物を映し出すこの映画自体も邪悪な見世物なのだ。作品から距離を置くのではなく、監督自身が登場しているかのようにのめりこんでいる。撮影に目を向けると、分割画面やステージでのカット割など、何度でも見たくなるような独特の魅力を持っている。仮面の奥で眼光に狂気が宿っている。強烈なライティングに目がくらみ、催眠術のようにどこかに持っていかれる。荒々しく、若い画面使いだ。なにかの憎悪に近いエネルギーを感じる。デ・パルマ・カットは追い詰められないと真価を発揮しないのかもしれない。 | |
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1991年/アメリカ/137分 監督:テリー・ギリアム 製作:デブラ・ヒル 脚本:リチャード・ラグラヴェネーズ 音楽:ジョージ・フェントン 出演:ロビン・ウィリアムズ/ジェフ・ブリッジス/マーセデス・ルール/アマンダ・プラマー | |
物の見方というのは変わってくるもので、20年ほど前に見たときよりも、面白く感じた。行き場をなくした感覚というものは、男の場合よく持つものだし、私も同じような気分になったこともある。都会に住んでいる場合、そこには目的をもって通りを急ぐ人も多いし、確固たる目的のために存在している場所も多い。どこにも用がなく、目的もない私は、そこにいるとなんとなく取り残された気分にもなる。この映画の登場人物も、大都会をさすらっている。なんだか共感してしまう。途中で同じような感じの女性も登場してくる。もう、そこまで来ると、なぜだか他人事ではなくなってくる。深夜で疲れきっているのに画面の中に引きこまれていくのを感じた。ストーリー展開はオーソドックスな巻きこまれ型。救出されて巻きこまれ、その後の聖杯探しに巻きこまれていく。しかし、そもそもの発端は主人公が彼を巻きこんでいたことに気づく。因果応報である。ニューヨークと聖杯は、その存在の対比が面白い。全編に渡りオモチャのピノキオが登場するのもメタファーとして面白い。社内で歌い上げるシンガーもすごいインパクトだ。スカッとする。突然、舞踏会のようにみんなが踊るシーンがすごい。恋する者にとっては、周りの世界が舞踏会に見えるのかもしれないが、そのアイデアを映像で表現するためには、ものすごい体力と集中力と資金力が必要なはずだ。何百人もダンスしている。その中で恍惚の笑みを浮かべながらダンスパートナーを追い求める。流れるような照明。カメラワークも実にすばらしい。夢のあるシーンだ。想像力のなせる業である。これは映画だけに許された、動きや音や色彩の魔法だ。エキセントリックな視点だけではなく、絶望感の演出も印象的。後半は、パリ―が追われるシーンと、病院で怒鳴るジャックの、男同士の1人芝居の対決。どちらも心に迫り、甲乙つけがたい。ロビン・ウィリアムズとジェフ・ブリッジスの演技がすばらしいのは当然だが、それ以外で映画全体で表現しているなにかがある。これは体験として持っている者の発想だと思う。絶望の淵を見たことのある者たちが生み出した表現のような気がしてならない。テリー・ギリアム監督にとってはバロンと12モンキーズの間の作品だ。バロンで必ずしも成功を収めたとは言い難かった事実に、この映画の苦々しさと優しさが影響していたのだろうか。脚本はリチャード・ラグラヴェネーズ。2作目の脚本ということで、それまでの苦労を反映させたのだろうか。タクシードライバーの息子として生まれ、ニューヨーク市ブルックリン出身でニューヨーク大学という経歴が、この映画の脚本で非常によく活かされている。夢のようなラストシーンも素晴らしい。精神的に治ったのか治ってないのか、心の傷は癒えることはないかもしれないし、奇妙な癖も治らないかもしれない。しかし、2人のつながりは感じる。楽しげな雰囲気は感じる。過去の自分を否定せず、つらい思い出も忘れずに、しっかり生きる。絶望の淵にいても聖杯を手に、助け、助けられる。そして友情や、女性や、大切ななにかを獲得している。現実世界を舞台にした騎士道文学である。真の意味での大人のファンタジーである。 | |
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2009年/日本/112分 監督:中村義洋 撮影:小松高志 原作:伊坂幸太郎 脚本:林民夫 音楽プロデュース:斉藤和義 出演:伊藤淳史/高良健吾/多部未華子/大森南朋/森山未來/濱田岳 | |
2012年である。心が風邪をひいていたので、仕事中に「心が風邪をひいてるんだよね」と、取引先に言ったら、うろたえさせてしまった。心が風邪をひいたので、2012年に彗星が落ちてくる映画「フィッシュストーリー」。今年が2012年なので、また借りて見てる。あと少しで地球が滅亡するとしたら、私はなにをしようか。カメラを撮りに行くか、それとも映画を見るか。この映画のようにレコード屋に行くかもしれない。なかなかいい過ごし方かもしれない。なんとなく、この映画の、レコード屋にいる雰囲気に好感と共感を持つ。でも、本当に滅亡はあるのだろうか。望みはないのか。この映画に、いつも勇気づけられる。小松高志の撮影が、いい感触だ。夢の中にいるかのような映像感覚。コントラストは強くなく、色は飛ばず、どこか懐かしい。ロックンロール的なものの中に漂っていると、時間を超えていくのが分かる。そもそも70年代も2012年も、どちらも音なのである。音はどれも、同じ感覚で耳に届く。時代の流れをつなげるために音楽を効果的に使っている。75年、82年、09年、12年。それぞれの場面場面で真剣勝負である。話の流れとしても、どの場面も緊張感があって真剣勝負である。どのシーンにも、非常に力が入っている。かっこいいショットも多い。特に、フィッシュストーリーの本が置かれているテーブルを上から映した短いショットが良かった。このショットは、シナリオ的には「本に気づく」だけだ。転がったビール缶、テーブルの位置を正し、タバコを吸って一息つくと、本に気づく。ああいう風に撮ると、自然な感じになる。なかなか、ああいう風には撮れない。結末でも、ターンテーブルとテレビが置かれた机を上から撮ったシーンがあって、レコードと地球規模の災害が同じ大きさになっていて、きっかけと結末を上手に表現できている。登場人物も多く、1対1のつまらない会話の流れがほとんどなくて、ほとんどが3人以上の関係性を持たせて、ざわざわした場面が多かったところも印象に残った。打ち上げの居酒屋のシーンではメンバーと共に座っているかのような感覚になる。開かれた空間を演出していて、非常に巧みだ。地球滅亡。予言。正義の味方(森山未來が印象的な演技を見せている)。謎のレコードの空白。これらがかみあわさって、物語が進んでいく。この謎をはらみながらの推進力が、気持ちいい。パンクロックの疾走感。若者の心の叫びである。心の風邪によく効いた。「このまま消えていくならよ。おれたちのやってきたことは、なんの意味もないってことになるのかな?」と登場人物が話すが、これがこの映画のテーマだろう。小さな積み重ねや一瞬の偶然、なにげない人々の触れ合いが、大きな流れを生み出すこともあるのに違いない。深い意味がありそうで、実はでたらめ。すでに音楽的な効果とは無関係でもあるかもしれないが、人々の行為には、すでになんらかしらの他者にたいする関係が含まれているのである。そういうテーマを、その題名のごとくホラ話的な、大ぶろしきを広げすぎた展開の中にさわやかに描き出した所に、大きな魅力を感じる。こういう映画を見た観客と共に世界は滅亡を乗り越えて進んでいくのである。 | |
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1997年/アメリカ/126分 監督・原作・脚本:リュック・ベッソン 製作:パトリス・ルドゥ 脚本:ロバート・マーク・ケイメン 衣装:ジャン=ポール・ゴルチエ 出演:ブルース・ウィリス/ミラ・ジョヴォヴィッチ/ゲイリー・オールドマン/イアン・ホルム/クリス・タッカー | |
途中で眠くなった。設定が時代遅れのスペースオペラなので、物語としては予定調和で、自由であるべき発想が逆に制限されている。想像力と現実性のバランスを取るしかないので、ありきたりな設定にならざるをえない。広いようで狭い。SF映画の持つ宿命でもあり、SF自体が持つ宿命だ。SF小説の場合はサイバーパンクなど独自の発展を遂げているので、監督の子供時代の夢を追うだけではなくて、そういった時代性を取り入れてもよかった気がする。想像力が乏しいと見ていてつまらないし、共感できないとつまらない。趣味で作った箱庭的なお遊び映画。役者についてはミスキャストだ。ブルース・ウイルスは未来でも過去でも現在でも同じ演技をするのが印象的だ。ブルース・ウイルスにとって世界はどのように見えているのか。演技力に圧倒的に幅がない。見ていて困る。作品世界を壊しかねないほどの危険な演技だ。たぶん映画で自分が置かれた状況ではなくて、カメラとカメラマンしか見えてないのではないか。カメラの前では受け狙いの二流の演技をしがちなのだろう。ミラ・ジョヴォヴィッチの演技はまるで学芸会を見ているようだ。一度はオーディションで落とされ、監督を単独で訪問して役をゲットして、監督と結婚までしているが、もし私が監督だったとしても彼女は落としたと思う。もっと演技がうまい役者だったら、あの役柄を活かして個性的な演技を見せてくれることだろう。その意味では彼女を通して私の中にいる別の役者の演技まで楽しむことができてよかった。モデル体形が未来なのか、完璧なのか。ミラ・ジョヴォヴィッチは美しいのか。どこが美しいのか。演技を見せるための体なのか、服を見せるための体なのか。美女を取り巻く現象には謎が多い。彼女の存在意義も私にとって謎だ。衣装はジャン=ポール・ゴルチエ。デザインはメビウスとジャン=クロード・メジエールとシルヴァン・デプレとパトリス・ガルシアなど。アートとしてなら最高峰。デザインだけに注目して見ると、随所にフランスらしいセンスの良さがある。そこがこの映画の救いだ。フランス・コミックが動いているような楽しさがある。冒頭のピラミッドと宇宙船のイメージが斬新だ。ジャック・レイがデザインした、モンドシャワン人の宇宙船が古代遺跡のようで美しかった。ピラミッドと調和していた。デプレがデザインしたモンドシャワン人が金属的で、曲線を活かした美しさがあってよかった。冒頭に見られるような神秘的なイメージで最後まで進めばすばらしい映画になった気がした。空飛ぶ中華料理の屋台が楽しい。屋台の親父の冒険だけを眺めてみたくなった。 | |
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1921年/ドイツ/70分 監督:F・W・ムルナウ 撮影:フリッツ・アルノ・ヴァグナー 原作:ルードルフ・シュトラッツ 脚本:カール・マイヤー 出演:アルノルト・コルフ/ルル・キューザー・コルフ/ロータル・メーネルト/パウル・ハルトマン/パウル・ビルト | |
今見ると、カメラの質もセットも悪く、人形劇のようでもあり、さまざまな撮影手法が開拓される前の時代でもあり、独特の見た目の面白さがある。話はサスペンス要素があってなかなか興味深かった。殺人の容疑、招かれざる客、謎の失踪、驚きの真相。全5幕の中で、上手に話を展開していって、結末部分への興味がわくように作っている。第1幕ではなかなか難しい状況説明を試みている。エーチュ伯爵は見た目が悪者だ。非常に怪しい。嫌疑をかけられてもしょうがないような雰囲気だ。いいキャスティングだ。冒頭から「招かれざる客」の雰囲気がよく描けている。細かい人間関係は、極端なまでの説明セリフで解決しているが、当時の映画化を考えると、難しい脚本だ。殺された夫の妻、殺しの嫌疑をかけられた人物、何十年ぶりかで帰国する人物。閉ざされた空間での修羅場の前兆が描かれていて、物語の興味をそそられる。第2幕では一転して明るい狩りの雰囲気。馬に乗り、鉄砲を手に出発。子供や犬と一緒に2人の女性も戸外を走る。その雰囲気の中、狩りに出かけないエーチュ。さらに、なぜ夫はあんなに静かなのか問われて暗い表情をする女性。その明るい雰囲気と反比例するかのように暗い一瞬が上手に描写されている。苦悩する男爵夫人を演じるオルガ・チェーホヴァは、大根役者に見える。ただ、モスクワで演劇の教育を受けた経歴があるので、この時代の演出がこういう種類のものだったのかもしれない。事件の前触れ、隠された秘密。そして雨が降る。嵐の中、エーチュが狩りに出かける。明らかに異常な行為。不自然さが強調される。もっと不自然さを強調する撮り方も、今だったらあるかもしれない。壁にもたれて考える男の雰囲気がなかなかよく撮れている。夜。闇の中から馬車でやってくる神父。このシーンは真っ暗でよくわからないが、独特の雰囲気がある。城内ではくつろいでいる女性と心ここにあらずな表情の女性の対比。本来であれば待ちに待った人物と会えるのだから、もっと喜びがあってもよさそうなものだ。不自然なシーンをここに描くことによって好奇心をあおっている。そしていよいよ神父が到着。頭がはげ、眼鏡をかけ、長いひげを生やし、法衣を着て、個性豊かな外見である。かなり違和感があり、少し笑える。そして、苦悩する女性と神父の対面。ここが物語の一つのクライマックスだろう。第3幕では女性の告白。幸福を表現するシーンが興味深い。晴れていて、湖が見えて、花瓶に花を差す。そして夫が帰ってくるのが見えて、外に出て抱き合う。これが幸せの表現となる。とても素朴な表現だ。聖典に没頭する夫のシーンが印象的。光線を取りいれて良く撮れている。帰宅後、なぜ夫は豹変したのか。全くこの映画ではその理由が描かれていなかった点が気になったが、映画の流れとしては謎を提示していて興味深い展開だ。女性は、ここでなぜか話を打ち切る。ちょっと不自然な気もしたが、観客に謎を提示している。そして突然消える神父。城内の動揺を長く描いている。エーチュが神父を殺したのでは、と疑う客。この客のセリフが緊張感をあおっているので、シナリオ的には上手だ。厨房の少年の夢が間に挟まるが、全く話の筋とは無関係で、これはシュールで面白い。神父に生クリームをたっぷりもらいながら、給仕の頬を張り手しつづける。動きがなくて退屈だからこういうシーンを入れたのかもしれない。ただ、明らかに緊張感をそいでいるので、必要ないシーンだったかもしれない。第4幕になって物語が急転する。イスにもたれてネクタイを引っ張る男爵の苦悩の演技が非常に秀逸だ。一番見応えのあるシーンだ。クライマックスは多くの人物の前で指を差される伯爵。衝撃を与えて結末への興味を引っ張っている。第5幕では話がまとまっていく。通路の左に女性、右に男性が立っているシーンが素晴らしく魅力的だ。左右対称の芸術的な美しさだ。絵としてみても、光と影が強調されていて、非常に美しい。話としては、劇的要素を伴った非常に面白い結末だった。これを見るかぎり、ムルナウ監督には、サイレント映画にとどまることがないような才能のほとばしりを感じる。ただ、サイレント映画という枠組みの中で、上手に表現しようとも思ってない独特の才覚を感じる。今これを撮る場合は、もっと最後の謎解きの部分に趣向を凝らさないと単純すぎてつまらない映画になってしまう。時代が早すぎたのか、それともこれでよかったのか。永遠の謎を秘めた興味深い映画だった。 | |
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1997年/スロバキア/107分 監督:マルティン・シュリーク 出演:ドロトゥカ・ヌゥオトバー/マリアン・ラブダ | |
今回(03年11月)の銀座シネ・ラ・セットでのマルティン・シュリーク特集は3作とも見たが、この作品が1番強烈だった。他の2作に比べ、この映画だけ獲得した賞がパンフレットに記載されていない。私自身も「なんだこれ?」と久々に感じてしまった映画だ。ストーリーが拡散しすぎて把握できなかった。監督の想像力がすごすぎて私の認識が追いつかなかったのかもしれないが。脇役にストーリーを語らせて、主役を傍観者にさせるのが、この監督の特色だと思った。旅の苦悩が感じられない。地図の意味がよく分からない。お約束的な部分を取っ払って物語が進んでいく。ラストシーンから感じた物悲しさが、この映画の特色だ。主人公はこれからどうなるのか心配になった。主人公は旅をしながらスロバキア文化に別れを告げていたような気がした。主人公と話すのは、集団の中で疎外された人たちだ。鉄道から、結婚式から、会議から、TV番組から、男から、女から、家庭から疎外されている。その疎外された人々からも別れを告げていく主人公の物語が物悲しい。獲得しない物語だ。思わず私の生活を振りかえってしまった。地図というのは先人の書き残したものだ。いろいろな地名がつけられている。この映画で言っていたように名前がないと存在できないのだ。様々な地名はすべて物語を持っている。絵地図は物語の宝庫だ。しかし地図というのは時代と共に変わっていく。映画の舞台となったあの国も、まだはじまって10年しかたっていない。その地図を地中に埋めて、主人公は初めて自分の世界に向き合うことになるのかもしれない。映像の部分では、結婚式などのスロバキア文化が目新しかったので楽しかった。落ち着いた色合いの独特の空間が広がっていた。 | |
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