映画評 |
2002年/アメリカ/136分 監督:スパイク・リー 出演:エドワード・ノートン/フィリップ・シーモア・ホフマン/バリー・ペッパー/ロザリオ・ドースン | |
スパイク・リーは、肌の色を問わず、こういう普通のニューヨーク市民を描く映画で、もっとも力を発揮するのではないだろうか。物語に緊張感をはりめぐらせて、飽きることがない。最後まで気が抜けず、久しぶりに物語に没頭した。主人公は悪者だし、最後は刑務所に入れられるのだが、なぜか明るい気分になった。ハッピーエンドのように感じた。これは、なぜだろうか。構図のバランスのよさ、はっきりと輪郭を描く画面は、どこか冷めていて、乾ききっている。突き放したようで無機質な感じもするが、日常的な物語には合っている。落ち着いたシーンが多いのだが、クラブのシーンでは鮮やかな色彩と音楽で刺激的な画面を作っていてメリハリをつけている。ウォール街でのシーンでは、短い時間にそれぞれの役柄や人間関係が良く出ていて、鮮やかな演出だ。感情の爆発が許される状況下にあるが、主人公は泣き叫んだりしない。エドワード・ノートンの抑えた演技に惹きつけられる。脚本自体に力があり、さらにエドワード・ノートンが輝かせている。鏡に向かって人種的な嫌悪を吐き捨てるシーンが印象的だ。誰にも向かわずに、その言葉は自分に返ってくる。不安な心理を明確に描き出すと共に、主人公の社会に対する違和感が浮かび上がってくる。刑務所に入るためには、法律を受け入れる必要がある。そしてさらに、この物語では人間関係をも受け入れようとしている。力なくベッドの中に寝そべったりせずに、主人公は動き回っている。恋人や友人や父や組織との人間関係の修復に向かっている。バリー・ペッパーの演技が印象に残った。ボールを握っていたり、チャーハンを手づかみで食べたり、完全に大人ではない、子供っぽさを残したような雰囲気が、主人公の幼なじみとしての役柄に適応していた。フィリップ・シーモア・ホフマンは、与えられた役柄以上の物を引き出している。ただのモテないダメ人間というわけではなく、感受性の高い、知的な、ウッディアレンのようなニューヨーカーを演じている。酒をまずそうに飲んでいるのが印象に残った。下戸なのだろうか。違うとしたら、たいした演技力だ。彼のかぶるヤンキースの帽子がニューヨークらしさを悪趣味に強調していて面白かった。犬がいることでただの歩行シーンでも動きがついて飽きさせない。この映画は、アメリカの行き詰まりを見せているものではない。不治の病に冒された主人公でも、成立しそうな物語かもしれない。この映画では生命感が違う。未来がある。主人公は生きるのをあきらめていない。地に根ざした、草の根的な、確かな未来を最後の夢のシーンではっきりと描いている。24時間をアメリカ社会を受け入れることによって積極的に生きている。最後に見た夢も、7年の刑期を終えれば実現不可能なものではない。ようするに、アメリカンドリームなのだ。 | |
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2002年/日本/75分 監督:森田宏幸 出演:池脇千鶴/袴田吉彦/丹波哲郎/濱田マリ | |
観たくなかったけど連れに引っ張られて観にいった。案の定、連れはとなりで寝てた。絵本みたいな映像がきれいでよかった。やさしい色使いにしている所がすごくいい。宮崎駿以外の絵柄で見れるだけで新鮮だった。ただ、バロン男爵が、名探偵ホームズの犬が猫になっただけで、デザイン的につまらなかった。CGを使っているわけでもなく、セル画枚数も少なく、上映時間も短いので、映画館でやらなくてもいい内容だ。猫の絵柄が要所要所でかわいさを外してしまうのが気になった。落っこちる主人公をカラスの群れが助けるのは美しくないなあ。女子高生が猫の国に行って戻ってくるお話。どの辺の年齢層にむけて作っているのかあやふやだ。子供には難しいセリフが多い。夢見がちな女子中高生しか見ないのではないか。私が作者だったら、猫になったまま、現実社会に戻る部分の話を付け加えたい。猫の視点で社会や好きな男の違った部分なんかを主人公に見させたい。現実とのリンクがない部分が、ファンタジーとして弱かったのではないか。さらに西洋文化のファンタジーの借り物なので、面白みがない。この感覚は、浦安にディズニーランドがあるようなものだ。同時上映のギブリーズは、いらない。「となりの山田君」で一度失敗している手法をもう一度やった所で人気は出ないだろうし実験にもならないだろう。 | |
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2011年/アメリカ/118分 監督・製作:ゲイリー・マーシャル 脚本:キャサリン・ファゲイト 製作:マイク・カーツ/ウェイン・ライス 出演:サラ・ジェシカ・パーカー/ザック・エフロン/キャサリン・ハイグル/ジョシュ・デュアメル/ジョン・ボン・ジョヴィ/ミシェル・ファイファー/ロバート・デ・ニーロ/アビゲイル・ブレスリン | |
たとえばこの映画を夏に見るとどうだろうか。魅力は少し減りそうだ。これは完全にアメリカのお正月映画。ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグも登場。2010年12月31日のカウントダウンイベントでロケを行い、イベントそのものを映画にしている。新年を迎えた気分になれるところがこの映画の大きな魅力。私にとってあまり馴染みのないニューヨークの楽しげな雰囲気を味わえてよかった。ゲイリー・マーシャル監督は「プリティ・ウーマン」で有名だが、私は彼が監督した他の映画を見たことがない。毒もなければ個性もないが、身近な視点を感じる。親しみやすい作風だ。1934年生まれにしては若々しい出来映えだ。キャスティングがいい。華やかだ。スターの輝きに満ちている。メッセンジャーボーイ役のザック・エフロンの軽快な演技が印象的。明るい未来を感じさせる俳優だ。ミシェル・ファイファーの演技を生まれて初めて応援した。「がんばれ!君は美しい!」と、映画を見ながら心の中で叫んだ。タイムズスクウェア協会の副会長役のヒラリー・スワンクのスピーチに感動した。ロバート・デ・ニーロが老人役で出ていて、時の流れを感じて少しショックだった。ロバート・デ・ニーロが演じた全ての人物が死にゆくような圧倒的な寂しさだった。映画スターの落日。人物の葛藤を細かく描写せずに、すばやいテンポでたくさんの人物を描いていく。なかなか小気味いい動きだ。とてもスムーズに感じる。シナリオ的には「時間の枷」の見本市。1年の目標を1日でやり遂げる、寝たきりの状況でなんとか屋上に行く、期限内にボールを修理する、時間内に好きな人に会いにいく、など、時間の枷をよく練られたアイデアで提示している。その人なりの成長物語でもある。そしてハッピーエンドかつ、ハッピーニューイヤーである。ただのパーティームービーではなく、様々な価値観を持つ人々を登場させた所に優しい視点を感じた。 | |
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2007年/アメリカ/122分 監督:ジョエル・コーエン/ イーサン・コーエン 出演:トミー・リー・ジョーンズ/ハビエル・バルデム/ジョシュ・ブローリン/ケリー・マクドナルド | |
映像はとても美しく、物語の破綻もなく、演技はリアルで、作品としての質は高い。人が殺されるシーンは、インチキ臭くなく、丁寧にリアルによく撮られている。全ての殺しを描かないで要所要所で省略して見せた部分からは、シナリオ展開において緻密で繊細なこだわりを感じる。ああいうふうに奥行にあふれた広がりのある構図で、美しい光をくみとりながらキレイな画面に撮影する能力は、かなりのものだ。だからアカデミー作品賞を取れたのも理解できる。しかし、人が殺されまくるので、ひどく後味の悪い映画だ。どこまでも悲劇的で、まったく夢も希望もない。主要な登場人物の中に「超越者」を出してしまったので、なんの枷も葛藤も描けなくなる。「ターミネーター」のロボットや「赤ちゃん泥棒」の賞金稼ぎのように、こういう無敵キャラは結末で完全に倒されるから面白いのだ。ここまで超越していると逆にどんでん返しを期待するのが観客なのだが、そこまでの展開にはならなかった。だからポップコーンをほうばりながら見る映画ではない。シナリオ的にはつまらなかった。今までのコーエン兄弟の映画で、一番シナリオ的につまらなかった。組織対一匹狼の死闘でもないし、暗殺者から追われる側も、警察の手助けを必要としていない。あくまで1対1の死闘を作り上げた部分は、オリジナルな要素を感じた。反面、多人数での会話が成立する場面がなかったので1対1の会話が多く、観客には退屈なシーンがいくつも出現したことになるのだが。この人の場合、三人以上の会話になると「笑い」になってしまうのかもしれないが。トミー・リー・ジョーンズ演じる保安官が出てくるが、彼が観客を代表している存在になっているのが面白かった。「コップ物の映画かな?」と最初で思わせておいて、まったく活躍しないところも、他の映画にはない作りだ。彼がいなかったら「この映画、イコール、アメリカの現在の問題」という大きな視点がそっくり欠けた映画になっていた。ただ、「アメリカが病んでいる」という社会性の盛りこみは、とってつけたような印象を受ける。「なんで一般人であるはずのあの男は、命をかけてまであの大金がほしいのか」という動機づけが不十分で、これならギャング同士の抗争を描くほうがスッキリする。保安官 の冒頭の独白、結末 の夢の会話は、不用意に物語から浮いている、後づけ要素だ。今回の事件と保安官の憂いは、一体感がない。「一般社会に潜む狂気」、「社会の中で自然に生み出された悪」に絞りこめばキレイにまとまりそうだが、完全に超越者を出してしまったので難しい。気になったのは「ベトナム帰り」という甘い設定。アメリカの一般家庭を主役にし、社会性を盛りこめばポイント高い。アカデミー賞を意図的に取りにいったのか、打算的なしかけを感じた。 | |
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1949年/日本/122分 監督:黒澤明 出演:三船敏郎/志村喬/清水元/河村黎吉 | |
うまそうにタバコを吸っているなあ。私もタバコを吸いたくなった。吸えないけど。1949年作だけど、今見ても抜群に面白い。本当に面白い。映像だけでなく、音を聞くだけでも楽しめる。画面全体が熱気を放ってうごめいている。野球をしているシーンが、天国を見ているような気分になった。白いユニフォームを着た天使たちが遊んでいるような、不思議な気分だ。天国のような場所で、息詰まる逮捕劇を演出していく。犯人を追いつめた時のピアノ、女が泣き崩れた後や売人の女が捕まる時に流れる軽快な音楽、平和な場面と緊張する場面が同時進行していく演出が面白かった。風鈴や扇風機などの、涼しさを感じさせる小道具の使い方も面白い。野球場で呼び出された犯人が階段を降りてくるシーンが印象的だった。銃の売人でありながら野球ファンでもあるという、人間臭さがよく出ている。複役軍人の刑事が昔の格好をして町をうろつくシーンが魅力的だ。ぎらぎらした真夏の白昼夢をどこまでも歩いていく。まだ夢が続いているのだろう。主人公が歩いていくうちに、物語の中に、夢の中に入りこむ自分を感じた。最後の逮捕劇でも、銃声が1発聞こえた後、まるでその銃声が幻聴であったかのように女性がピアノを弾き続けていく。あの1発の銃声が、戦争そのものを表しているような気がしてならない。ある者にとっては幻聴に思えるような、すぐに曲の続きを演奏してしまえるような音であるし、ある者にとってはその音のために血を流し、今も流している。犯人と刑事が並んで倒れているシーンで童謡が流れていた。その場面を見て、勝手に平和にさせられてしまったような、心の中が空っぽになるような気分になった。犯人と刑事が退役軍人という、戦争をひきずる物語でもある。文学でいえば、戦後派が繰り返したモチーフをここでも感じる。 何か忘れたものがある・・・・・・何かどこかへ置き忘れたものが・・・・・・『何かだな』彼は暗い頭の片隅でちらと考える。『何かだな・・・・・・追いつめられて、山猫のように・・・・・・何かだな・・・・・・何かだな・・・・・・』(野間宏「崩壊感覚」1948年1月) |
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2000年/日本/104分 監督:石井克人 出演:浅野忠信/永瀬正敏/原田芳雄/堀部圭亮/岡田義徳 | |
言葉が聞き取りづらかった。BGMがうるさすぎ。話もつまらない。世間と隔絶された舞台設定は、それだけで客を選ぶ。坂口安吾の不連続殺人事件みたいな面白い例もあるが。成熟できない私のような大人が見て喜ぶたぐいの映画。閉じてる。個性的な役者をわざわざ型にハメた印象を持った。最初、トイレ長い。照明、顔の正面に当たってる。不自然な位置にある。背後からも照明。どちらも白。わりと、堅い撮り方するんだな。映画ならではの面白い撮り方がなかった。その後、カウンターで、捨て台詞から怒鳴りあいの展開。コミカルなBGMが客に「笑え」と要求してる。全編、笑いの押し付けがあるのでとても分かりやすい。マンガライクなキャラ設定を引き立たせるためのアニメ演出が良かった。のぞき犯と映画の観客は似たようなものかもしれない。暗い所で他人の人生をのんびり見れるし。たまにドキドキしたり。共犯意識をあおる意味では面白いけど、今回は少しクドスギタ。 | |
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1970年/アメリカ/105分 監督:ロバート・アルトマン 脚本:ドーラン・ウィリアム・キャノン 撮影:ラマー・ボーレン/ジョーダン・クローネンウェス 出演:バッド・コート/サリー・ケラーマン/マイケル・マーフィ/ウィリアム・ウィンダム | |
一番印象に残ったのはサリー・ケラーマン。カラスを腕にとめた彼女が、スタジアムから歩み去り、光り輝く外に出ていく後ろ姿がとても美しい。どこかで見た夢のようだ。アストロドームの広さを有効活用した効果的なシーンだ。彼女の背中には傷跡が見える。鳴き声を聞くと、かつては鳥であったような気もする。翼をもがれた天使のような気もする。個性的な存在だ。純真無垢な主人公を守る立場にいる。善悪をこえた、奇妙に逸脱したなにかだ。それ以外にも、地下室にやってくる少女、盗んだスポーツカーを乗り回す女性など、登場人物には変人が多い。壊れかけたなにか。殺された人物たちも相当な変わり者たちだ。アメリカの自由な空気を曲解して、こんな逸脱した人格が形成されてしまったのだろうか。どこか間違った人たちだ。話の筋も、もはや普遍的な意味をつかみ取ることすらも不可能な逸脱。思いのままにカメラが回る。カーチェイスが不必要なくらい長く、シュールな出来映えだ。スポーツカーが爆走する快感と、車がスローモーションでジャンプする快感と、水しぶきを上げてスローモーションで車が飛びこむ快感に身を任せすぎだ。特に線路の上を走っているシーンはユーモラス。息をつかせぬスリリングな演出ではなくて、少しのんびりしている。刑事物としての捜査の流れを主軸に、どこまでも馬鹿にしたような反体制。国歌とタイトル表示をやり直し、車椅子が疾走し、カメラを盗む。全てが即興で制作されたような適当さ。快感重視のバカバカしさ。最後はなぜかサーカスのパレードが始まり、登場人物の紹介で終わる。壊れかけたどこか。危うい現実の崩壊感覚。主人公はニューシネマのように、「明日に向って撃て!」のように銃を持った連中に囲まれて、虫けらのように、鳥の糞のように、なにかをつかみ取ろうとしてつかみきれないまま、滅びさっていく。巨大な鳥カゴのようなアストロドーム。最先端の技術の集大成であるかのようなこの場所で、飛翔する。人力飛行だ。絶対に飛べるはずのない外見だ。鳥のように優雅に舞う美しいシーンだが、実際に夢に見たような雲の上の風景を見ることはできない。鳥カゴの中を必死に飛んでいるように見える。自由の象徴のように見えて、自由を制限しているようにも見える。少年はなにを求めていたのだろうか。求愛行動が、鳥のように飛行を制限しているのだとしたら、飛べる人間はそもそも人間ではないのではないか。太陽に近づきすぎたイカロスや、林檎を食べたアダムとイブのように、少年はルールを破って墜落する。物悲しい。知恵をつけることは悪いことではない。空を飛びたければ飛行機に乗ればいい。ただ、空を飛んだからといって、自由になれるのか、夢をつかめるのか、幸せになれるのか。純真無垢な方には失礼かもしれないが、世の中そんなに甘くないだろう。あの変な機械をつけてがんばらなくても、少年は飛べたのではないか。求めていたものが手に入ったのではないか。少年自身も理想から逸脱したのではないか。「おーい!間違ってるぞー!そこで飛ぶと危ないぞー!」と、私の頭の奥で声が聞こえる。まだ結論が出ているわけではない。人間らしい自由を見つけにいこうじゃないか。そんな気分になった。 | |
1991年/アメリカ/116分 監督:ジョエル・コーエン 出演:ジョン・タートゥーロ/ジョン・グッドマン/ジュディ・デイヴィス/マイケル・ラーナー | |
最初に見たとき「うわー!参ったなー」と思った。ホテルで脚本書くだけの内容が、こうまで魅力的に書けるとは、すごいと思った。劇作家の孤独描写が最高だ。魂のレスリングに勝ったのはいいけど、実生活では負けている感じが伝わってくる。 最後のシーンは夢だか現実だか分からなくて面白い。最後まで隣人が預けた包みを持ってたり、いろいろ考えさせられる。なんで保険のセールスマンは最後に彼を助けたのだろう。ハリウッド批判がブラックでいい。ホテルに入っていって呼び鈴を鳴らすまでのシーンがすごくよく撮れている。タイプライターのアップをあれだけ見せられるのはさすがだ。そもそもタイプライターのアップを取ること自体が新鮮だ。映像のセンスというより、喜んで撮っている雰囲気が感じられる。火事のシーンも思わず見入ってしまうきれいさだ。撮影場所と登場人物が限定されているから、思い通りの絵が撮れたのだろう。 | |
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2001年/アメリカ/116分 監督:ジョエル・コーエン 出演:ビリー・ボブ・ソーントン/フランシス・マクドーマンド/ジェームズ・ガンドルフィーニ/アダム・アレクシ=モール | |
なぜモノクロなのか、そして、なぜDVDで発売された時にはカラーとモノクロの2バージョン用意したのか知りたい。誰か教えてください。冒頭で、床屋の匂いがした気分になった。床屋自体、カラフルな存在じゃないなあと再確認。主人公自体、カラフルな人間じゃない。スローで車を飛ばし、転がる車輪のホイールを追っていって、最後に暗闇に落とす流れがコーエン兄弟的だった。他によかったのは、車の前にカメラを置いて走るシーンとか、取調室で光線を浴びながら笑いを張りつけて立っている弁護士のシーンとか、最後の方で真っ白な部屋を出す所とか。カラーの時代に出たモノクロ映画にはタバコを吸う場面が多い気がする。どこに向いていくのか分からない話のせいで、不安な気分になった。でも、全編にわたって登場したピアノの曲が、気分を落ち着かせてくれた。場面ごとにBGMを変えてノンストップアクション感を出すのとは別の作用を感じる。結末部分の主人公の心の落ち着き方が、面白かった。悲劇には感じられない。主人公のことも、悪者だとは思えない。最後の二人が並んで腰かけているシーンは、ホッパーの絵に似ている気がする。なんとなく心が通い合っていないような雰囲気の部分で。「幽霊たち」を書いたポール・オースターにも似ている。「幽霊たち」では「そこにいるときでも、本当はそこにいない」人々が描かれている。伊井直行が書いた「幽霊たち」の新潮社文庫の解説文の題名は「無彩色の世界」だ。「現在形を使った透明度の高い文章を駆使して、作者は小説の中で彼らが実在化するのを拒否している。普通、作家は、その小説中の人物や事物を「活かす」ために言葉を連ねる。ところが、オースターのこの小説の書き方は、まるで一枚の絵から全ての色を抜き取って、墨の濃淡で描かれたエキスに還元しようとしているかのようである」(解説文より)。この映画でも存在感が希薄だ。最後に主人公が死んでも揺るぎのないカメラワークや言葉が続いていく。刑事事件の中での人物として枠に押しこめ、性格描写も活き活きしていない。最後に残した手記も、本当のことだと思ってもらえず、消えていくだろう。何も残さず死んでいくのだ。切り取った髪の毛のように。この映画の原題は「The Man Who Wasn't There」だ。 | |
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2001年/アメリカ/183分 監督:マイケル・ベイ 出演:ベン・アフレック/トマス・アラナ/ダン・エイクロイド/アレック・ボールドウィン | |
思わず笑ってしまったのは、日本語にあっていない日本人役の口の動きと、のどかな作戦会議だ。それと真珠湾攻撃の時のゼロ戦は、たしか灰色ではなかっただろうか。途中トイレに行った後、戻ってきたら真珠湾攻撃が始まった。まさに奇襲だ。それにしても長い映画だった。真珠湾攻撃で終わるのかと思いきや、東京爆撃まで話を続かせた所にただでは終わらせないぞというアメリカ人の執念を感じた。ライティングが黄色でまぶしかった。歴史物だから黄色を強調したのだろうなあ。青色も少しまぶしかった。ライトつけすぎ。安定したいいカメラワークだった。絵コンテがちゃんと切られているのだろう。戦争シーンが爆発しててすごかった。夢に出てきた。こわかった。人がたくさん死ぬエンターテイメントだ。 | |
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2008年/アメリカ/93分 監督:イーサン・コーエン/ジョエル・コーエン 出演:ブラッド・ピット/ジョージ・クルーニー/ジョン・マルコヴィッチ/フランシス・マクドーマンド/ティルダ・スウィントン | |
変わった映画だ。出会い系サイト、全身整形、機能的な離婚、フィットネス。ずいぶんとアメリカ社会はスマートで無機質。この映画のアメリカは、世界を救わない。家族の絆や、英雄は出てこない。アメリカを美化してない部分は、なかなか新鮮。二組のカップルのありがちな不倫や離婚話を中心に、スパイの秘密文書を拾った男女がからんでいく。無理やりなからみ方だ。ここで現実からかけ離れ、観客からの共感は期待できなくなる。スタイリッシュにやろうと思えばできる素材を素材だけで即物的に描く。自然の旨味を生かした達人の料理なのか。あえて唐突で、あえてチープ。典型的なB級映画。コーエン兄弟ならこの種の映画は無限に作れるだろう。プレイボーイ役のクルーニーは、パラノイアに陥る流れがちょっと弱かったが、印象に残る演技。ブラッド・ピットは、本質的な部分が役柄とマッチしていて、好印象。何日か経って目を閉じてこの映画を思いかえすと、ブラッド・ピットのシーンしか浮かんでこないくらいの出来。もっと笑える映画かと思ったが拍子抜け。もう二度と見る気はない。でも、性格が破綻した人物が無意味なやり取りを唐突にくりひろげる、小劇団的なノリは嫌いではない。セリフで笑わせるシーンもあったがよく聞き取れなかったのも残念。またどこかで見てしまうのかもな。 | |
2007年/アメリカ/90分 監督:フランク・オズ 出演:アラン・テュディック/マシュー・マクファディン/キーリー・ホーズ/アンディ・ナイマン/ユエン・ブレムナー/デイジー・ドノヴァン/ピーター・ディンクレイジ | |
2009年のお盆休みは2日会社に行って、2日風邪で寝こんで、1日酒で消えた。映画を見に行かないで後悔した。私にとっては大画面でなにかが写ってればそれで十分なのだから、えり好みしている場合ではなかった。だからお盆明けの木曜日。会社帰りに映画館へ。六本木はあまり好きな町ではないが、日本では「ハウエルズ家のちょっとおかしなお葬式」はそこでしかやっていないので、しかたがない。イギリスの葬式。これだけでドラマの枷としては十分。さらに主人公がおどおどした人のいい男なので、ちょっとでも変わったことが面白い感じに見える。こういうフォーマルな役者に対して、アラン・テュディックが圧倒的な存在感を放ちながらフォーマルな状況下でラリっているのは、見ていてとても面白い。長男の友人(アンディ・ナイマン)がにやけながら兄弟の所に近づいてくるシーンが一番面白かった。90分という短い上映時間ながら、個性的な役者を使ってきちんと登場人物の性格を描いた部分が印象的。たとえば、「葬式でラリっている」だけで面白い部分を、さらに「婚約者」と「婚約者のパパ」を用意してドラマ的に面白い状況を作りだしている。アパートを借りるため敷金が必要なのに、敷金と同じ金額を脅迫されているとか。誰が答辞をするかを巡って兄弟同士の葛藤が出ているとか。くだらない話だが、だらだらせずに、長い時間をかけて丁寧に脚本を用意している繊細な作り手の感覚が味わえて面白い。一つ一つの場面がいろいろつながっているのに感心した。ただ、個人的には長男とサイモン(アラン・テュディック)の対話シーンを見たかった気もする。真面目なモンティパイソンというか、イギリス人ならではの独特の肌触りも興味深い。3人以上での会話のシーンが多く、ワイワイがやがやした雰囲気が楽しかった。偶然の一致。さまざまな世界のカオス。生者と死者という姿の見えない2人の役者が映画の中で対立している。葬式という超越者に対し、存在者がドタバタをくりかえすくだらなさは、見ていてとても自然な気がする。生者も死者も合わせて人間賛歌になっている部分が、魅力的に見えた。会社帰りにさらっと見るのに最高な映画だった。余談として、新聞の広告に500円で見れるチケットがついていたようだが、あまりの反響の多さに4日間で終了したそうだ。私が見に行った時は、15人しか客がいなかった。 | |
1987年/ドイツ/108分 監督・脚本・製作:パーシー・アドロン 脚本・製作:エレオノーレ・アドロン 出演:マリアンネ・ゼーゲブレヒト/CCH・パウンダー/ジャック・パランス/クリスティーネ・カウフマン | |
なにもない。長い長いハイウェイ。取り残されたように存在するモーテルやカフェ。夕暮れになるとオレンジ色に染まる。この自然と一体化した広大な風景も、アメリカならではのものだろう。映像というよりも、風景画に近い。撮影は、ミュンヘン出身のベルント・ハインル。私はこの映画以外に彼の撮影した映画を全く見たことがないのだが、記憶に残るような斬新なカットをいくつも撮っていて、非常に驚いた。非常に美しい色使いである。「続けて」と言った後、ピアノの音が流れるシーンが印象的だ。疲れ切ってグッタリした時に見ても、最後のほうになると前のめりに見入ってしまう。寂しさと出会いの感覚。そして何かが変わる感覚。時代と同じような感じで目の前のハイウェイではトラックがどんどん過ぎ去っていく。ここでは時間がゆっくりと流れていく。取り残されたような感覚。そういう場所で、異邦人が受け入れられる物語だ。制度的ではなく、国際交流的でもなく、人と人とがつながっていく。殺伐とした生活を続け、疲れてホッとしたい時に見ると、とても共感を覚える。こういう場所で、すごくコーヒーを飲みたくなる。カフェの女主人役のキャロル・クリスティン・ヒラリア・パウンダーが強烈。彼女の性格が激しすぎて、ストーリー的には何も展開されないのにも関わらず、あっという間に時間が過ぎていく。彼女は最初は非常に強く主人公に当たっていた。私にはその気性の激しさもなんとなく自然で理解できそうな気がする。さすがにコーヒーメーカーを買いに行って、買うのを忘れて帰ってくるのはまずいだろう。ただ、そこまで怒るものなのだろうか。彼女のいらいらした演技を眺めながら、日々の生活において私自身も同じように他人に冷たく当たっていることもあるのではないかと反省してしまう。受け入れられる側でもありたいし、受け入れる側でもありたい。心の中にバグダッドカフェをいつまでも持ち続けたいものだ。外国人の書いたシナリオだし、設定も外国人との会話になるので、簡単な言葉遣いの英語が多いのも印象的。わかりやすい言葉だと世界的な普遍性を持つのかもしれない。砂漠のコヨーテが鳴くような「コーリング・ユー」は、冒頭、劇中、エンドロールに流れ、まさに映画音楽。広大な空間で遠くの相手を呼ぶ声は、冒頭では届かなかったが、最後には届いている。I am calling you.Can't you hear me?I am calling you.I am calling you.I know you hear me.I am calling you. | |
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1968年/日本/99分 監督:野村芳太郎 出演:渥美清/倍賞千恵子/藤岡琢也/大貫泰子 | |
1968年の松竹喜劇。昔の映画だけど、話が落語やマンガみたいで、今見ても面白い。廃坑の町が泥棒組合を作って、東京に向かうまでの流れが面白い。話の筋を通すのが、スリと警官との確執。田舎者(炭鉱)対都会者(デパート)の対立構造。そしてカタギがスリに戻るか否かという葛藤。いつのまにか話の流れが頭に入ってくる。ドタバタしているようでテンポがいい。脚本がよく書けている。渥美清のオーバーすぎる演技が面白い。渥美清は憎めない悪党を演じるのがうまい。感情移入してしまって、最後の盗みはドキドキした。敵味方にきれいに分かれているわけではなく、スリの励ましで刑事が立ち直ったりするなど、面白い人間関係が描けている。生田悦子が、かわいい。 | |
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1957年/日本/110分 監督・脚本:川島雄三 脚本:田中啓一/今村昌平 出演:フランキー堺/南田洋子/石原裕次郎/芦川いづみ | |
2011年12月25日に新宿の映画館「テアトル新宿」までデジタル修復版を見に行った。昭和32年(1957年)の作品だが、ここまできれいに修復されていると、新作を見るような雰囲気に近い。特に音声が聞き取りやすくてよかった。傑作という評判の高い映画だが、非常に軽やかだ。軽快である。気持ちのいい夢の中にいるような、どこまでも眺めていたくなるような映画だった。非常にしっかりとしたセットを最大限に有効活用し、ざわざわした楽しげな雰囲気を演出している。これは、そのまま日本映画黄金期のざわめきなのだろう。遊郭と映画村。この映画の躍動感は、時代がなせる技なのだろう。落語は言葉のやり取りだから、テンポが早い。映像ではなかなか再現できそうにないのだが、フランキー堺らの俳優が縦横無尽に画面を動き回ることによって成立している。その動きはとても元気だ。最後、主役はどこに去って行ったのだろうか。映画の最後になって、このユートピアのような宿から去っていく人も多い。この桃源郷を去って、みんなどこへ行くのだろうか。そこは夢の世界だろうか。映画だから夢に近いだろう。それでもそこは、現実である。気持ちのいい夢の中にいるような、どこまでも眺めていたくなるような現実の中に飛びたっていったのだろう。夢を、現実にしなければならないのだ。と、なにか、意気込みたくなる感動を受けた。観客までもが元気になるような、非常に気持ちのいい映画だった。これだけ面白いのに続編ができなかったのは、監督が日活で撮った最後の映画だったせいだろう。この「ラスト作」という位置づけは、そのままどこまでもかけぬけていくラストシーンにも通じる気もする。咳をし続ける主人公、という部分は、病気を患っていた監督自身を投影したものだろう。この主人公、独特の魅力がある。超人かといえばそうでもない。病気なのである。病を秘めつつも、町人ならではの才覚で動き回るその姿が面白い。嫌な奴かといえばそうでもない。壊れた時計を次に会う時までに修理しておく約束したり、人を信用するなと言いながら10年後の支払いを引き受けたり、病気も一流の腕前の医者に診てもらうつもりでもいる。どうも未来は見込み薄だが、明るい希望がある。寒い中にも温かい。この軽やかさ。人生賛歌の視点は素晴らしい。全ての喜劇はこうあるべきだ。喜劇でなくてもこうあるべきだ。 | |
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2010年/日本/112分 監督・脚本:光石富士朗 脚本:木田紀生 製作:松下順一 編集:菊池純一 出演:池脇千鶴/竹下景子/徳永えり/窪田正孝 | |
美容師の専門学校を舞台にした映画。そのせいか、シャンプーの試供品をもらった。印象的だったのは、「美容師ですか?」と、徳永えりが道行く人に声をかけてから走りだすまでのシーン。たどたどしさや若々しさにあふれていて、新鮮な感触だった。生徒役の役者が巧みで将来性があり、期待できそう。ふくよかで明るい感じのなんしぃの演技が最高に上手だった。この年(38)になると悲しくて泣くことなんか全くなくなるわけだが、彼女の場面で思わず涙してしまった。お笑いだけにとどまってほしくない逸材だ。窪田正孝が里帰りするときの演技、特に父に礼を言ってから赤ちゃんをだっこするまでの動きが非常に良かった。彼は目の泳ぎっぷりが非常に人見知りっぽさを演出していてよかった。中野が舞台なので、見慣れた光景が多々あって親しみやすかった。正直、カメラ、照明、演出については、もう少し改善できたのではないかとも思う。監督の光石富士朗はすでに立派なキャリアがあるのだから、もう少し頑張れたのではないか。たくさんの登場人物たちのドラマを描くための手段なのか、内面をそのままセリフにしてやり取りを続けるので、不自然なシーンがたくさんできてしまっていた。個人的には、説明セリフで終わらせずに、ベットの上で父の説教を聞くシーンをきちんと撮影してもよかった気がする。最後で池脇千鶴が落ち込みつつ立ち直る一連の話の流れは、それまでの話とは全く関係ない。いきなり落ちこんで、いきなり立ちなおる。とってつけたかのような印象で、とても不自然だった。クライマックスが弱くて、もったいない。生徒役の素晴らしい演技と反比例するような、テレビドラマの延長のような、撮影する側の元気のなさは、この時代において取り残された感があって逆に印象的だった。池脇千鶴の演技は見るに堪えなかったが、あれはかわいい外見だからOKなのだろうか。 | |
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2002年/フランス/111分 監督:フランソワ・オゾン 出演:カトリーヌ・ドヌーヴ/エマニュエル・ベアール/イザベル・ユペール/ファニー・アルダン | |
コメディタッチだけど全然笑えない。往年の名女優を集めてこの程度の映画しかできないのか。集めただけだ。要するに、フランス映画全体に力がないのだろう。フランソワ・オゾンは私にとって退屈な監督だ。フランス映画というよりも「おフランス映画」みたいな印象だ。他の作品は焼け石に水、まぼろし、ホームドラマ、クリミナル・ラヴァーズ、海をみる。 | |
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1963年/イタリア・フランス/132分 監督・脚本:フェデリコ・フェリーニ 脚本:トゥリオ・ピネッリ/エンニオ・フライアーノ/ブルネッロ・ロンディ 製作:アンジェロ・リッツォーリ 音楽:ニーノ・ロータ 撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ 出演:マルチェロ・マストロヤンニ/アヌーク・エーメ/クラウディア・カルディナーレ/サンドラ・ミーロ/バーバラ・スティール | |
渋滞、空を飛ぶ夢、足にロープ、転落。始まりからすでに混乱し、夢と現実を行き来している。映画と夢と現実が、強固に結びついている。スクリーンに写っているものは、映画でもあり現実でもあり夢でもある。明確な線引きは必要ない。はじめからなにかの実験であるかのように。人々に夢のすばらしさ、現実のすばらしさ、映画のすばらしさを伝えている。目の前に起きている状況が混乱している。私自身の意識もこの映画と同じように混乱しているので、この内面描写は自然だ。混乱している自分を、混乱していると理解している状態。作り手による客観視が行われている。論理的かどうかを判断する基準は、私の場合は意識の混乱が分かるので、突きつめてみると、あいまいだ。非論理的要素にも寛容であるべきなのだろう。ただ、観客にとっては、映画を見に行くこと自体、教会に行くかのような作業なのかもしれない。自分に持っていない絶対的な論理や絶対的な価値観を提示された方が観客は喜びそうだ。しかし、この映画では、とらえどころのない、ありのままの人間を、大胆にそのまま提示している。現実に追いつめられた人間が、甘い夢を見る。新作の脚本が書けない。未来をイメージできない。よってベクトルは過去に向かう。懐かしいイメージ。様々な女。不思議な呪文。映画監督が主人公。達観しているわけでもなく、人生観も定まらず、芸術観も定まらず、混乱している。混乱していたら映画など作れそうもないし、事実、主人公は苦闘している。しかし、その苦闘を描くことによって「8 1/2」という映画が完成されている。私小説のような映画。自らを客観視している点がすごい。自己防衛したり正当化したりしないところがすばらしい。作家が登場人物として映画に現れて、監督に批判的な言葉を投げかける。この、ロミエという男の存在が、大きな役割を持っている。監督を主人公としつつも、絶対的な権力や価値観を持たせてはいない。ロミエは、グイドの作る映画だけではなく、フェリーニ自身の映画にも批判の矢を向けているようにも見える。彼がいることで自分自身を客観的に描くことができ、等身大の人間としてグイドが存在できている。この人物配置は、共同脚本でもたらされた成果であるように見える。フェデリコ・フェリーニ、トゥリオ・ピネッリ、エンニオ・フライアーノ、ブルネッロ・ロンディ。この映画はフェリーニ独自で導きだしたのではない。彼らとの共同製作による所が大きい。さまざまな要素を分析しつくしている。しっかりした内面分析と、明晰な構造がある。作りこまれた迷宮のような多面世界でありつつも、しっかりとした実感がある。さらに、結末において全ての理性的な側面を軽々と越えてしまって、別次元に飛んでいる。私小説とは違って、主役が多重構造になっている。この映画を撮っている監督と、映画の中で主役を演じる監督が存在している。さらに、主役が撮ろうとしている映画の中での監督もいるかもしれない。そしてそれぞれが夢を見て空想を見ているようだが、実際のところ、空を飛んでいるのは、ハーレムで生活しているのは、輪になってダンスしているのはどの監督の夢なのか、よく分からない。空想と現実をありのままに描いている。そして、人生賛歌に終わる。この映画以外に、それを成し遂げた映画は少ない。突きつめていったら花が開いてしまったようなラストの踊り。不条理でもなく、不自然でもなく、映画の文脈では自然に見える。映画の可能性を押しひろげている。ストーリーは簡単だ。映画監督が実際に台詞として語っている。「主人公は我々と同じくカトリック教育を受け、あるコンプレックスを抑制できずにいる。枢機卿が現れ真実を示すが、彼は納得できずに、救いとなる゛ひらめき″を求める」これほど分かりやすい説明はない。孤独に書き続ければなにかが生まれてきたのかもしれないが、なにもひらめかないまま、人々がどんどん集まってくる。華やかに見えつつも恐怖だ。愛人、制作者、役者、妻。騒がしくなり、療養どころではなくなる。追いつめられた状態だ。期待されているので、その期待に応えなければならない。期待される状態に私はなったことがないのでよく分からないが、たくさんの人々が動き、たくさんの資本が動き、その組織の頂点に位置する者に全く意欲がないのはまずい状態だということは理解できる。あんなに巨大なロケット施設を作っておいて、実はなにもアイデアがない、と開き直るのはかなり難しい状態だ。「今、頭は混乱でいっぱいだ」健康な人間がこういう発想をするかというと、それは無理だと思う。圧倒的な断定口調ではなく、全編において悩んでいる。自信がない。存在が消えてなくなりそうなほどの無力感が漂う。「冷酷な論理と明晰さも必要だ。失礼ながら、貴方の無邪気さは重大な欠点だ」、「まさに混乱と曖昧さの極みだ」と劇中で監督は批判される。「何も語ることがない。だが語りたい」苦悩するドラマチックな自分に気づいた瞬間、おそらく目の前が開けたはずだ。ブレイクスルーの予感と自己陶酔。気高き自己肯定。サラディーナの回想は、カトリックへの違和感だけではなく、かつて否定された物の中に価値観を見つけたことも表現されている。自然そのものを愛する気持ちに気づいた瞬間だ。目の前の枢機卿よりもサラディーナの幻影の方が重要。枢機卿の背後に神ではなく彼女が現れる。彼女にひざまずき帽子を振り、彼女は振り向いて「チャオ」と微笑む。自己肯定への第一歩だ。温泉療養所が舞台となっている。病気を癒す場所だ。癒しの雰囲気が映画の中にある。温泉だけではなくて、映画撮影そのものがセルフヒーリングの手段になっている。温泉に浸るように映画に浸っている。「撮影療法」とも言えそうだ。自己を再生しながら映画も完成してしまっている。監督が主人公なので、ドキュメント映画のような、ノンフィクションのような、説得力がある。その自己肯定へのプロセスを観客も体感できてしまう部分が斬新だ。この映画を見ると、自然と自分の人生を肯定できてしまう。温泉の素のような、薬のような、人々をポジティブな気分にさせてしまうすばらしい効果がある。年を取り、疲れていればいるほど効き目がある。なにも起きない日常を描きつつも、カメラだけがどんどん動く。カメラが過去と未来を、現実と非現実を、自由自在に移動する。獲物を捕らえるかのように対象を外さない。まるでカメラそのものが生き物のようだ。饒舌な画面構成。早口でまくしたてるようなイメージの乱反射。人物の心の動きと連動した、激しい光と影。ジャンニ・ディ・ヴェナンツォはすごい撮影能力を持っている。ハーレムのシーンが最高だ。それぞれの女性の表情や物腰が、めくるめくように照らしだされていく。計算しつくしたとしても、ここまで流れるように描ききれるものなのだろうか。真珠を落としながら踊り娘が踊るシーンでは強烈な光と影が舞う。女たちは食卓に集まるが、妻が一人、床を掃除する。勢いがあり、活気がある。そして最後に悲しみが残る。楽しいのではなく、悲しい。全てが印象的な女性だけの家だ。カメラテストと客席の人々の切り替わりが激しい。感情の激しい動きを、巨大なスクリーンを使って表現している。暗闇に監督は一人。映画内映画の状況を効果的に使っている。最後にクラウディアという女優に会う。絶対的な美の象徴。人間を越えている。美しすぎて怖い。女神でもあり、愛人でもあり、主演女優でもある。全てを支配する存在だ。生命を支配しているようにも見える。死神のようにも見える。「全てを捨てて人生をやり直せる?」と彼は聞くが、すでに結論は見えている。捨てることなどできないのだ。「僕はここが大好きだ」彼はついに結論づける。その後の会話がすごい。「私の役はないのね」「そのとおりだ。君の役はない。映画もない。どこにも何もない」ここで、この私の鼓動が止まり、この映画が生命を持つ。決意の表われ。さらに生きていくための勇気。追いつめられて、監督は死ぬ。生か死か。それは映画の中で実際にあったことなのか、それとも主人公が撮るべき映画でのシーンにすぎないのか。もはや、そういったことさえも、ささいなことだ。主人公が撮るべき映画が消え、主人公が消え、私たちが見ている映画も最後には消えている。驚くべきことに、完全に世界が消え去っている。ここで私たちが目にしているのは、どういうシーンなのか。記憶がいつまでもそこにある。まだそこで生きている。ここで見ている我々も、生きている。そして監督も、生き生きとしてみんなと共に輪の中に入る。私たちも輪の中にいる気がする。自分を許し、認める。他人を許し、認める。共に過ごそう。一緒に踊ろう。どこかでなにかが起きている。そこは曖昧で混乱した世界だ。ここも同じだ。だから楽しい。だから美しい。映画が終わり、客席が明るくなる。私自身の心に帰る。心はまだ暗闇のままだ。心の暗闇の中で、目の前のスクリーンではまだこの映画が上映されている。暗ければ暗いほどこの映画のスクリーンは明るく照らしだすような気がする。よく見えるような気がする。それほど大きなプレッシャーはないが、私自身も私自身の人生に関するシナリオが作れない状況だ。様々な場所で行き止まりも多くなっていく。交通渋滞に巻きこまれ、車内が煙に満たされて、息苦しい人生だ。苦悩というものは、凡人であればあるほど多くなるはずだ。私の苦悩は、かなりの数だ。次の物語を発見できない苦悩は、多くの人々にあてはまる普遍的なテーマだ。そうそう何度もひらめきを起こせるものではない。8個も映画を作っていれば当然のことだろう。しかもフェリーニの場合、すでに世界的に認められている映画ばかりなのだ。天才の苦悩はそれだけでひらめきの元となるのか。しかもこの映画の場合、希望を感じさせるラストが用意されている。破滅ではなく、再生を感じる。なにか、とても良いことが起きている。もちろんこれは映画なので私自身に直接のひらめきをもたらすことはなく、ただ見ているだけにすぎない。しかし、美しいものは私を感動させる。見た目ではなく、心だ。サッカーのフリーキックで見事なロングシュートを決めた時のような、ディフェンダーやキーパーをすり抜けて見事な軌跡を描いてボールがゴールに吸いこまれていくのを見るような。心の美しい軌跡を眺めているだけで、勇気づけられる。フェリーニにはできたのだ。私にもそんな奇跡が起きるのではないか。ありのままの、あいまいで混乱している自分を受け入れること。「人生はお祭りだ。一緒に過ごそう」全員で手をつなぎ、自分もその輪の中に入る。どうだろう。そんな境地に私はたどりつけるだろうか。私たちに、そんな瞬間が訪れるだろうか。フェリーニはその後も元気に映画を作りつづけた。私にこれほどのひらめきが訪れるとはとうてい思えないが、少し気持ちが楽になった。 | |
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2006年/日本/85分 監督:佐々木浩久 出演:三輪ひとみ/夏川ひじり/由良宣子/吉行由美 | |
製作者のノリ重視でピンク映画みたいだった。第二弾「血を吸う宇宙」とは感触が違う。みんな殺し合いで死に絶えた後、女霊媒師が高らかに笑うラストが、とても気持ち悪かった。演歌や性描写や吐くシーンなど唐突なシーンを組み込む作り方は上手いと思った。 | |
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2009年/アメリカ/122分 監督:ヴェルナー・ヘルツォーク 脚本:ウィリアム・フィンケルスタイン 出演:ニコラス・ケイジ/エヴァ・メンデス/ヴァル・キルマー/アルヴィン・“イグジビット”・ジョイナー | |
一見の価値あり。ヴェルナー・ヘルツォーク監督の久々の大作。映画に人生をのめりこませてしまった男の強烈なこだわりと情熱は、過去の作品にもひけをとらない。122分という上映時間があっという間だった。私が調べた時、東京での上映は恵比寿と吉祥寺の2軒。私が見た吉祥寺での回は、20人に満たない観客。映画自体の出来を考えると信じがたい。ナイスキャスト。たとえばトム・クルーズやブラット・ピットが悪徳刑事を演じた場合、正義か悪か、はっきりと色が別れるはず。腰痛で身体を傾きつづけたニコラス・ケイジが演じた結果、境界線が崩れ、ストーリーも崩れ、すばらしく個性的な作品ができあがった。「赤ちゃん泥棒」でも感じたが、現状に途方にくれたような、そしてその流れを楽しんでいるかのような表情は、すばらしい。不条理劇で最大の効果を発揮する役者だ。ストーリーについては、勢いだけでつき進んでいく。内面的には成長をしないが、なにかの幸運をつかみつつ生き残り、出世をしていく虚無主義あふれる作風。成長物語でもなければ転落劇でもない。神によって救われもしない。主人公は、汚職も肯定。賭博も肯定。売春も肯定。薬は手放しで全肯定。ラリって死体遺棄をスルーする痛快ジャンキー。破滅へ一直線のように見えて、人命を救助し、部下の殺人を止めるなど、なにかギリギリの線で踏みとどまっている。その後も生き続けていくようなたくましさを感じる。麻薬捜査官ではなく殺人を扱うプレッシャーのかかる仕事であり、薬への依存症も腰のケガの治療がきっかけ、と、ギリギリの線で納得もできる。迫真の演技が設定を上回り、本物に見える。しぶとさと強さがある。最後は、なぜかハッピーエンドに感じた。それにしても映像が素晴らしい。イグアナがアップになったシーンが目に焼きついて離れない。手持ちカメラの臨場感、話の流れに合わせた構図、美しいシーン。画面の背後で荒々しい鼻息を感じる。カメラワークのみに注目するだけでご飯が何杯も食べられる。一番すばらしかったのは、美しくも静かなラストシーン。このシーンは、いつになっても忘れることができない。なんとも言い難い暖かい、ミルクを深夜にゆっくり飲みこんだ時のような、身体に染みいる滋味深さは、独特の後味だった。 | |
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2006年/日本/90分 監督・脚本:今敏 脚本:水上清資 原作:筒井康隆 キャラクターデザイン・作画監督:安藤雅司 音楽:平沢進 制作:マッドハウス 声の出演:林原めぐみ/江守徹/堀勝之祐/古谷徹/大塚明夫 | |
平沢進の楽曲が最高だ。あまりにすばらしいのでこの映画のサウンドトラックを買った。XTCのような作りこんだポップスに、デジタル機器を加えて聞き手をどこかに引っぱっていき、周囲のスケールを拡大させながら底辺で繊細な調べを奏でる魅力的な音楽だ。映画のリズムと一体化したように調和が取れているので驚いた。この映画はアニメーション映画だ。アニメーションなので、カメラをどこに置いてもいいし、どんなに大きなものを映してもいい。ただ、そもそも見えないものを、カメラに映ってないものを、どのように映像で表現したらいいか。これは、考えに考え抜かないとなかなか出てこないような気がする。単純に特殊効果やCGなどを使ったとしても、それだと表現したことにはならない気もする。この映画では、見えないもの、語れないものを表現しようとしている。そして、映画の中で、なんとなく見えたり聞こえたりするような気分になれる。冒頭からたたみかける実験性。すばらしき想像力。パレードのように世界を夢でつなげていくような、映画全体の力強い推進力。魅力的な設定だ。精神分析の仕方がアニメーションに合っている。パソコンのモニターに、実際に見た夢のシーンが映しだされていく。それを客観的に患者に見せながら精神分析している。これだけでも面白いが、現実までもが夢の中に入りこんでいく。現実が溶解して、自分も自分でなくなっていく。一瞬の夢であるかのような人間。その境目は、思ったよりもわずかなのかもしれない。秘密の装置が盗まれ、その捜索が秘密裏に進められる。そのストーリーは巧みだ。表現を除くと非常に分かりやすい。登場人物も限定されているので描写を除くとすっきりときれいにまとまっている。混沌とした表現と描写でありつつも、日本人らしい几帳面な整理整頓ができている。さらに、漠然としているようでいて、しっかりしている。雰囲気に流されていない。自分の夢に酔ってない。嘘っぽくない。どこか真実を伝えているような気がする。実感を持った、当事者だけが伝えることのできる発想だ。この映画だけのなにかがある。「夢を支配する。思いあがりは隙を生むものだ」神秘的な物を目で見える形に表現するこの映画も、最先端の科学のように危険な要素を持っているようにも見える。現実のような夢を見せてくれる映画ではなくて、夢のような現実を見せてくれる映画だ。怪しいぞ、ここは。映画を見ながら、頭の中で声が聞こえる。これだけ緻密に描かれていると、怖い。危険な感触。「意識そのものが連れ去らわれたみたい」生きながら、夢を見ている。覚醒しながら、夢を見ている。この現実も夢の中なのか。自分の夢なのか、それとも他人の夢の中なのか。夢から覚めたのか、そこもまた夢であるのか。この町は、どこまでが夢の中で作られたのだろうか。アニメーションによって、極限まで拡大された挑発めいた想像力。権威とか、それ自体の重みや実際の質感のせいで、絶対に揺れ動かないような物がパレードしている。まがまがしくも、神秘的。見たことのない世界のように見えて、それは人の夢の中にあるので、どこかで見たことあるような、不思議に懐かしい感覚を覚える。五感の奥まで迫る魅力を感じる。後半に展開される、世の中全てが夢を見ているような、現実世界でのパレードは、強烈だ。脳内だけに留まらず、現実世界で同じ夢を見せている。あっちの世界とつながった異常な景色に腰を抜かした。舞台が宇宙とか外国とか空想の世界ではなく、現実の日本だという設定が、大きく活かされている。なぜか、あの暗黒大魔王を見ながら、東京大空襲や原爆で廃墟となった戦争直後の日本をイメージしてしまった。この現代では見えないものだが、見たことのあるものだ。悪夢のように一瞬にして廃墟と化すことも、現実世界では起こりうる。そして悪夢が去って、また別の夢を見ているかのように、戦後の日本が形成されていったのかもしれない。そして現代の我々も、当時と同じように夢を見ている。夢もうつつも、嘘も誠も、どちらもつながっている。2006年の夢見がちな日本人の大人の現実感覚の代弁をしているような、それでいて希望を見せてくれているような。まさにこの時、この場所で発せられたような言葉や映像や音楽が、流れだしていく。日本人ならではの感傷、そして感受性。心が軽やかになる。日本人の夢の中を行き来している不思議な物語だ。最後のシーンも感動した。ここで終わらすか、と驚いた。びっくりして声も出ないよ。くらっと来た。「大人一枚」映画自体も、夢でもあるし、どこか、確実に現実とつながっている。いい夢を見た気がする。いい映画を見た気がする。いい時間を過ごした気がする。夢も現実も映画も似たようなものだ。そう思わないか? | |
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2006年/メキシコ/143分 監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演:ブラッド・ピット/ケイト・ブランシェット/役所広司/菊地凛子 | |
今まで見た中で最もつまらなかった映画の1つ。途中で帰る客が多数。たいした伏線もなく、3地域で起こる事件を羅列しただけでは興味半減。カットバックの使い方も精彩がなく、シーンごとのつながりも悪い。カメラも神経質にめまぐるしくカットがブツブツ切れるので、見ていてすぐに飽きる。弱い者いじめのような描写が延々と続く物語は、誰のためにあるのだろうか?「言葉の通じない世界での共感」をもっと上手に描けないものだろうか?コミュニケーションがない世界。言葉が通じないので、観客に共感を得てもらうのは難しい。シナリオ的な武器が1つ減っている。もう少し、1つの舞台だけでじっくりと見たかった。残酷さだけが浮かび上がっていた。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督には吐き気を感じる。性格的な演技を全くさせず、短いカットで「シット!ファック!」と感情的な演技だけに終始させたブラッド・ピットの使い方はうまかった。 | |
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