映画評 |
2000年/アメリカ/103分 監督:ガイ・リッチー 出演:ブラッド・ピット/ベネチオ・デル・トロ/ビニー・ジョーンズ/デニス・ファリーナ/アラン・フォード | |
コメディなのか、ギャング映画なのか。話がうまくできすぎなので、どうも若者をターゲットにしているらしい。非常にテンポのよい話だ。でも、ちょっと薄っぺらい。人物が軽いのが、ちょっと気になった。そこが魅力だとも思うが。パルプフィクションっぽい。主役を置かない点において。ライティングがわざとらしくないのがいい。でも映像がちょっと映画っぽくない質感だ。ミュージックビデオに近い雰囲気だ。最後のボクシングのシーンは、もうちょっとうまく撮れなかったのだろうか。緊張感がなかった。ブラッドピットの映画はほとんどみたことがないが、今回は、うまく使っているなと感心した。ボクシングシーン、酔っ払うシーン、ぼそぼそ話すシーンなど、演技力がそれほど必要とされない役だ。会話も、方言が入っていて、何言ってんだか分かんない感じなので、特に演技は難しくない。 | |
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2003年/日本/182分 監督:篠田正浩 出演:イアン・グレン/本木雅弘/椎名桔平/葉月里緒菜 | |
パンフレットを読むかぎりでは、すごく面白そうだ。パンフレットはすごくよくできている。肝心の作品の方は、上映途中で帰ったのであまり語れない。モックンが連れ去られるシーンから、すでに史実とずれている。ファンタジー的歴史観に彩られている。1番痛いのは、この映画のスポンサーとなった朝日新聞だ。夕刊に出ていた映画評はひどかった。劇中にも朝日新聞の社長が出ていた。早々に打ち切られたのは当然だ。今年(2003年)のワースト1だと思う。 | |
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2001年/アメリカ/126分 監督:トニー・スコット 出演:ロバート・レッドフォード/ブラッド・ピット/キャサリン・マコーマック/スティーヴン・ディレイン | |
スパイ内スパイという物語が私にとって新鮮だった。回想シーン以外では会社内が舞台になっているので、スパイ映画とは一線を画すリアルな感触がある。スパイ映画らしく、たしかに銃撃シーンや爆破シーンがあるのだけど、話の筋道も妙にリアルだ。最後までどうなるか分からないのでハラハラした。話の流れが、不思議なことに、自然だった。シナリオが実によく作りこまれている。上司と部下の対立、友情が上手に描けている。個人と組織の対立の距離感もリアル。部屋の中の会話とベトナム戦争まででてくる過去の話の対比もうまい。一日で終わらせる経過の演出もとても面白い。「エリートスパイの最後の1日」という設定も非常に効果的。ワンアンドオンリーの魅力がある。映像的にはタイトルがでる時のコマ落ちさせて音を合わせたシーンがかっこよかった。なんだか青かったり黄色かったりする不自然な画面だ。自分の目がおかしくなったのかと思った。ライティングのせいなのだろうか。全体的に青い、黄色いレイヤーを重ねているような気がする。それってあんまり意味がないと思う。意味があるとしたら近所で撮った「海外」の細かいあらを目立たなくする所かな。相変わらずブラピの使いかたがうまいと思った。緊迫した物語の中で、彼は血だらけになって倒れているだけだ。回想シーンではおいしい役柄だ。もっと上半身裸にさせればよかったのに。 | |
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2002年/アメリカ/121分 監督:サム・ライミ 出演:トビー・マグワイア/ウィレム・デフォー/ジェームズ・フランコ/キルステン・ダンスト/J・K・シモンズ | |
橋の上から落っこちた女がロープウェーに捕まって助かるシーンがあるけど、あんな高さで落っこちて助かるわけがない。昔観たけど、あの映画もこの映画もB級映画だったな。音楽があっていないのでは?オーケストラよりヒップホップ使う方がいい。昆虫っぽい機械的な表現としてテクノを使うとか、いろいろ方法があるはずだ。バットマンでもプリンスやU2使ったりしてるんだし。いきなり音が大きくなるシーンがあって、すごく嫌だった。子供っぽい演出だ。今さらカメラを横にして壁を登るシーンが出てきた。しかもとてつもなく登る演技が下手。スパイダーマンになった少年が、ケンカを吹っかけてきた同級生のパンチをよけるシーンに大笑いした。スローモーションでパンチが飛んで、それをよけるという、あまりにもベタな演出をよくできるものだ。敵キャラの造形がいまいち。スパイダーマンの外見も、変えたほうが良かった。あの女優はちょっとまずいのではないか。下手だ。あと主演もすごく下手。男優は演技派という触れ込みが私の友人にまで行き渡っていたけど、この作品以外に本当に彼の演技のみで大ヒットした映画なんて一つもないのだし、ただのB級役者もいいとこだろう。この2人が話すときはアップで交互に映るのだが、退屈で逃げ出したくなった。カメラが遠景とアップを多用していて、画面の面白さがない。いらないシーンが多い。新聞社のギャラをもらう時女性社員と話をするシーンが5分くらいあるけど、その後その女は出てこないのだから、無意味だ。あと隣人の家庭崩壊のシーンなんかいらない。主人公にも話にも関わらないのだから。ストーリーも、気持ち悪い。スパイダーマンを悪者にする世の中に主人公が悩むシーンがある。それが表されるのはたった一つの新聞だけで、説得力が伝わらない。「自分に寄ってくる女を拒絶して、その女をバックに笑う主人公」というシーンがラスト。別に女を拒絶してもいいけど、もっと絵になる終わり方があるだろうに。スパイダーマン誕生シーンなんて、最初の10分くらいでいいのではなかろうか。結局の所、蜘蛛にかまれるだけだ。大学の研究室とか、あまり要らないのでは?セットも魅力に欠けた。CG合成の爆破がすごく不自然だった。CGの粗が見える橋のシーンから、急におとなしくセットの中で戦う流れがチープだ。スパイダーマンのCG部分はモーションキャプチャーを使っていないので動きが変だ。スパイダーマンの特性があまり出ていないのではないか。頭も良くて、肉体も強く、CGで過剰演出された主人公は無敵に見える。弱点が一つもない。「変なスーツを着ただけの人間」という、ヒーローにしては地味な部分をもっと強調してもよかったのではないか。超高層ビルの存在がなくてはスパイダーマンも誕生しなかったはずで、まさにアメリカのキャラクターである。ビルに登る部分が重要ではないか。私が監督だったらビルを見上げる場所に主人公を持っていかせる。金持ちの友達など登場させずに、隣人の女の子と同居させる。どっちも貧乏だし。そして2人で苦労したり怪物に襲われたり大変な日常にさせる。主人公にもっと違う部分でのビルを登らせたい。多重人格っぽい敵キャラを表現するのに、鏡を使ったり民族の仮面を写したりするようなシーンが唯一いいと思った。こんな古臭いアメコミなんかよりウォッチマンでも映画化してくれよと思うけど、無理だろうな。たいした役者が出ているわけでもなく、CGも安っぽく、シナリオもひどい。制作費をどこに使ったのかすごく知りたい。子供向けじゃない。だけど大人向きでもない。アメリカ向きとでも形容すればいいのだろうか。犬がバスケするだけで続編が何作も作られる国だしな。 | |
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2008年/イギリス/120分 監督:ダニー・ボイル 出演:デヴ・パテル/マドゥル・ミッタル/フリーダ・ピント/アニル・カプール/イルファン・カーン/アーユッシュ・マヘーシュ・ケーデカール/アズルディン・モハメド・イスマイル/ルビーナ・アリ | |
たまたまクイズの出題が自分の人生とリンクしていたラッキーな面があったのかもしれないが、あの主人公はカメラアイの持ち主。一種の天才かもしれない。あんなに記憶力のいい人間もいないだろう。お茶くみをしている最中に、スラスラとキャッツ(スター?)の経歴を言えたことでそう感じた。たぶん、警察署長(この役者の演技が一番印象に残った。複雑な葛藤が内面で繰り広げられているように感じられて、映画に奥行きを持たせていた)もそう感じたはず。しかも、強力なまでに純真無垢だったことも彼を助けた。携帯電話会社という勤務先も象徴的。昔であれば市井の市民で一生を終えたはずの才能のある若者が、インドの近代化の結果、世に出ることができたのか。まあ、話の流れとそんなに関係ないけど。この映画は、「あしたのジョー」のクイズ版。ジョーの出発点はドヤ街だが、ここでの出発点はインドのスラム。徹底している。スラム街出身ということで逮捕されるのが冒頭である。冒頭から文字通りの「張り手型」のシナリオになっている。基本的なことを徹底している。後半で一気にクイズシーンにしてしまわなかったシナリオ展開が最高。物語としてはこれで十分。クイズに出た理由も、単純な金もうけではなく、ひとひねりしてストーリーとつながっていて、興味をそそられた。話の流れ以上に面白かったのは、画面。あの彩度は、すごいな。きれいな発色のザワザワした画面の中を、躍動感にあふれる人物が動く。監督はダニー・ボイル。この監督で私が好きな映画は「ミリオンズ」。やっぱり、子供の表現を撮るのがとても上手。撮影のアンソニー・ドッド・マントルの功績かもしれない。この映画はアカデミー賞で撮影賞をとっている。「ベンジャミン〜」でのデジタル撮影や「ダークナイト」でのIMAXではなく、この映画が選ばれたのは、納得。小賢しい技術よりも、情熱とセンス。全てが考えぬかれて撮影されている。脈動する、映画ならではの美しさを感じた。セリフの役割は一部分。見る楽しみにあふれている。映画ならではの大画面だと、最高。黒澤の「野良犬」のインド版のような、映画自体が生き物になっている。劇中でも触れられていたが、日本と同じようにインドも「先進国」となりつつある。発展していく過程での力強さも感じる。ずっと続く刺激的なCM、もしくはビデオクリップを見ているような気分。世界を獲得していくような喜びを感じた。この映画を2回見たが、何回でも見たい。クイズで正解を出した時よりも、彼女と会えた時の方が主人公がうれしそうだったのが、全ての魅力かな。 | |
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1959年/フランス/76分 監督・脚本:ロベール・ブレッソン 出演:マルタン・ラサール | |
早稲田松竹でラルジャンと共に2本立て。ニュープリントだったので気持ちよく見ることができた。ロベール・ブレッソン監督は、プロの俳優を使わない。BGMがほとんどない。こういう作風は、実際に見てみないことにはわからないものだ。遺作となったラルジャンとは違い、話はきちんと違和感なく最後まで流れている。白黒映画だが、ニュープリントだけあって、格調高い画面に仕上がっている。特にスリの場面。手のアップのシーンは、役者の顔は見えないし、それだからこそ、非常に美しい。ここまですばらしいのだから、あえて役者の顔や体を映さずに、手のアップだけで全シーンを作りこんではいかがだろうか。そこまで突き進めたものを見てみたい気がした。プロの俳優を使わないというポリシーは、逆説的に演技力に対してこだわりを持っていることの証明でもあるような気がした。たしかに、下手にキャリアのある役者よりも、ろくに芸歴もないけれど立ち姿だけで雰囲気のある役者のほうが面白いことも多いだろう。そういう意味では、主役のマルタン・ラサールは、あの部屋に住んでいそうな雰囲気もあるし、落ち着かない挙動にも自然な感じがあって適役だ。役柄上、目立ってはいけないし、喜怒哀楽を激しく表現しないほうがいい。役者以外の一般人も、一般人としての稽古を毎日毎日積んでいる。ある意味プロである。等身大の人間を演じるための必要条件としては、これで十分なのかもしれない。場合によっては、一流の役者は等身大の人間を演じるのが下手かもしれない。50年前の映画とはいえ、作り手が楽しく撮っている雰囲気を感じる。アパート、電車、競馬場、駅。ロケハンを重ね、試行錯誤を続けてこういう画面に行き着いたようなこだわりを感じる。同じ条件でこれほど完成度の高い映画を作れる監督も少ない。50年前の映画ではなく50年前の小説を読む感覚に近い。テーマとして色褪せない、青年の苦悩や放浪感覚を上手に表現できているせいかもしれない。 | |
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1969年/フランス/93分 監督・脚本:ピエール・グランブラ 脚本:メルヴィン・ヴァン・ピーヴルズ 音楽・出演:セルジュ・ゲンスブール 出演:ジェーン・バーキン/ジュリエット・ベルト/アンドレア・バリシー | |
運河をボートで走るシーンが、動きが激しくて面白かった。ジェーン・バーキンとセルジュ・ゲンスブール共演のラブロマンス。40才で妻子のいる男と18才の女の不倫関係。ただただポカンと口を開けて彼らの深みのない生活を眺める映画だ。2人とも実に素直にありのままに演じている。ゲンスブールの腹の出た中年体型を愛する人もいるかもしれないが、この映画ではジェーン・バーキンが美しい。彼女を眺めてうっとりするような映画だ。フランスに渡り、受け入れられ、もてはやされ、彼女自身の役者人生の幸福なひとときが映画に反映されている。ジェーン・バーキンがジェーン・バーキンになっていく過程、ジェーン・バーキンがジェーン・バーキン以外のものにはなれなくなっていく過程が描かれている。彼女を見て元気になる人もいるだろう。本当に明るい演技には、見ているこっちにも熱伝導のように明るさが伝わる作用がある。それはいいことだと思う。少し勇気づけられるような気もする。60年代のパリ、というだけでだいぶ遠い世界観だ。きれいでおしゃれで上流階級な彼らの世界は、私の眺めている世界とは違う。コマーシャル、受賞式典、高級ホテル、ベニス、レストラン、ドライブ、砂浜、美しいファッション。非常にきらびやかだ。非日常こそが映画。映画こそが非日常。「君はバカンスの女だ」とゲンスブールが言うが、映画そのものもバカンスのようだ。ストーリーは、ほぼない。ところどころで挟まるコマーシャルが独特の効果を持っている。絵空事、他人事で、スタイリッシュな効果だ。生活感のない、ままごとのような恋愛関係だ。感情の起伏が一切ないかのように見える。まるでおもちゃのようだ。死の影や喪失感がない。逆に、全くないだけによけいに影がある。魅惑的であればそれが最高。楽しい行為だけを撮りつづける。こういう物の見方は興味深い。感覚重視だ。倫理観や高尚な哲学などなくても恋愛はできるのである。一種の真理だろう。監督がこのようなきらびやかな世界をデザインして、スタッフ全員でそのイメージに沿った映画を作っている。映画自体がテレビコマーシャルの制作に近い気がする。秒刻みで計算高く設計された、なにか無機質な得体のしれない雰囲気も背景に感じる。イメージの集合。その中でバーキンが泣いたり笑ったりデートしたり踊ったりしている。この長いCMで、どんな商品を売ろうとしているのかというと、恋愛感覚なのかもしれない。不滅の人気商品だ。まっさきにこの商品に手を伸ばしたのが共演した2人だった気がする。 | |
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2010年/フランス・アメリカ/90分 監督・ナレーション:ヴェルナー・ヘルツォーク 製作: エリック・ネルソン/エイドリエンヌ・チウフォ 製作総指揮:デイヴ・ハーディング 撮影: ペーター・ツァイトリンガー | |
南フランスで1994年に発見されたショーヴェ洞窟。そこにある世界最古の壁画に関するドキュメンタリー。3Dで撮影した点が面白い。大都会である有楽町の「TOHOシネマズ日劇」の668座席もの広大な空間、巨大なスクリーン、がらがらの20時の客席で、こういった3万2千年前の壁画を立体的に見る楽しさ。映画観賞というよりも体験に近い。歴史ロマンだ。映画の撮影隊というよりも、洞窟の探検隊の雰囲気だ。「私にとっての映画は、視聴者を想像の世界に誘導しその世界に浸らす事だ。映像や音の世界で視聴者はイマジネーションの世界を旅する。そして、それは忘れられない体験となる。それこそが、私の“シネマ”なのだ」公式サイトのインタビューで監督がこのように答えている。この映画は、なぜかヴェルナー・ヘルツォークが監督をしている。登場人物が出てこないドキュメント映画だと、まるで二重人格のようにしっかりとした作りをする。撮影はなんと彼の盟友のペーター・ツァイトリンガー。洞窟の底まで一心同体なのか。彼らの結束にちょっと驚いた。洞窟の奥行きや、壁面のでこぼこが3Dで表現されている。すると壁画が非常にリアルに見えてくる。洞くつ探検のようなワクワク感と、歴史学的な面白さとの調和が取れている。アボリジニの壁画に関しての逸話を研究者が話していたが「自分が書いているのではなくて精霊が書いている」という発想が面白い。ショーヴェ洞窟の壁画もそういった宗教的な儀式のような雰囲気を感じる。人間の想像力の世界は、人間の物ではなくて精霊の物。こういう発想をしない限り、古代の人は生きられなかったのかもしれない。現代においては精霊がいない。このような想像力は残念ながら人間の持つ物になってしまっている。だからといって想像力を現代人が上手に使いこなしているだろうか。やはり、人間の普段の生活からかけ離れた精神世界の広大さというものは、人間には扱えるものではないのではないのでは?そんな気もする。この壁画を生みだしている数々の想像力は、現代人と同じような頭脳から生み出されたものだ。だからもちろん親近感がわく。洞窟の中で存在するこれらの壁画を見ることは、自分自身の想像力に出会っているのと同じことだ。私の洞窟壁画は、彼らに比べてどうなのだろうか。ほとんど変わりはないのではないはずだ。私はそもそもなにをしているのか。なにを壁画に描こうとしているのか。この映画を見ている間、自分の想像力について自問自答しつづけた。壁画にあるのは、狩りで殺されているシーンはなく、生き生きと表現された獣たちの姿だ。劇中で説明されていたが、古代人の精神世界が表現されているのだろう。たしかに氷河期の人間たちは毛皮ですっぽり覆わないと生きていけなかっただろうから、ほとんど見た目は獣と変わらない姿だったのかもしれない。どちらかといえば、人間よりも獣のほうが、彼らの目から見ると完成された姿であったかもしれない。獣を食べて飢えをしのぎ、毛皮を着て寒さをしのぐ。どちらかというと、獣のほうが重要だったのかもしれない。「火が燈された痕のある木炭が壁画の前に並んでいたんだ。古代人はその火で壁画を照らし揺らめく動物達を見ていたと思われる。それこそが、映画の起源だと思うんだ」と公式サイトで監督が言っているが、壁画と映画をイコールで結びつけてしまっても、私にも全く違和感がない。想像力の広大さに気づかされた、私にとってなかなか実りのある映画だった。 | |
2002年/アメリカ/133分 監督:リー・タマホリ 出演:ピアース・ブロスナン/ハル・ベリー/トビー・スティーヴンス/ロザムンド・パイク | |
前作の「ワールドイズ〜」は、シリーズの中で一番面白かった。今回は、太陽光線の秘密兵器の迫力が良かった。場面ごとに区切り、見せ場を決めて、観客をあきさせない作りはすばらしい。場面ごとに切りすぎて、話の統一感はまるで感じなかったけど。氷原を走るボンドカーの戦闘シーンは、つまらなかった。車は町で走る方がいいと思う。ボンドガールの人は「チョコレート」でアカデミー主演女優賞を取った人とは思えないほどアクションしていた。敵役がインパクトなかった。空手で戦うとか、方法があっただろうに。ダイヤモンドがちりばめられた顔は面白かったけど。マドンナの曲はあまりよくなかった。映画の挿入歌としてはインパクトに欠けていた。 | |
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1996年/香港/90分 監督・脚本・出演:チャウ・シンチー 監督・脚本:ビンセント・コック 製作:バリー・ウォン 脚本:ロウ・マンセン 音楽・出演:タッツ・ラウ 出演:カリーナ・ラウ/カーメン・リー/ロー・カーイン | |
カンフー映画のようでいて、仇討ちみたいなシリアスな展開にはならない。おとぎ話のようだ。変わった感触だ。カンフーができなくても、夫婦愛があって、頭を使えば成功できるかもしれない。観客にストレスを発散していただくように努めている。サービス精神がある。紫禁城の屋根の上での剣豪同士の勝負で、なぜか実況と解説者が入る。顔のアップと現行犯逮捕。歴史物とか関係なしに、別次元の世界だ。口に含んだ爆弾。敵国が笑いつづけ、親父の表情がなくなって、くるくる回って飛びあがる。理解不能なくらいシュールだ。突きぬけた激しさが伝わってくる。あのひげを描いた女優とのくだらないダンスシーンの情景がいつまでも脳裏に焼きついて離れない。絶対に皇帝には見えない皇帝役の張達明(チョン・ダッメン)の表情もいい。皇帝から真珠をもらうシーンの、全員が笑いころげている演技に力が入っているので、何度も見返してしまった。いつもと同じように机の下に隠れ、最後には「お腹すいた?」」と聞く、夫婦での口喧嘩と仲直りのドタバタシーンがとてもよかった。激しい感情の変化を上手に表現している。ダンスのようだ。奥さん役のカリーナ・ラウがすごくかわいらしい。元気があって楽しい夫婦だ。ギャグの合間に出てくる、夫婦愛が印象に残る。チャウ・シンチーは、こういう普通の感覚を演出するのがとても上手だ。彼が監督し、脚本を書き、出演。香港では96年の興行収入第2位。誰にでも共感できる要素をきちんと盛りこんでいるところに人気の秘訣があるのだろう。この夫婦は、仲良く、面白おかしく暮らしている。出世街道に乗り遅れがちの夫の才能を信じきっている。夫を罵倒したり馬鹿にしたり、細かく文句をつけたりしない。これだと勇気づけられそうだ。夫も、そういう妻の有り難みを分かっている。私にとって、これは理想的な夫婦愛に見える。この家庭は理想郷のような場所にある。物語も、一番の危機は国歌の危機というよりは夫婦仲の危機だ。歴史のリアリティよりも、夫婦の会話のほうにリアリティがある。表情が生き生きしている。「君の演技は平凡だ」と、アカデミー賞の授賞式が劇中で行われるアイデアがすごかった。自らの演技力も笑いの種にしている。最後のカンフーシーンが面白い。格闘シーンをしっかり作っている。自己満足に陥らずに、自分の映画から少し距離を置いているような気がする。その場のノリではなく、冷静にどうすれば面白くなるかを考えているような気がする。そのあとに、力強く、つめこむだけつめこんでいる。自分が本当に好きな場面だけを抽出している。面白おかしく映画を作っている。奥さんの誕生祝いの円卓を囲んだワイワイした雰囲気が心に残る。楽しげな魅力にあふれる映画だ。結末になって突如パワーアップするのはチャウ・シンチー映画のお約束。最後はハッピーエンドに終わる。バカバカしさにあふれていて立派だ。 | |
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1999年/日本/104分 監督:篠原哲雄 出演:筒井道隆/富田靖子/小林薫 | |
題名がとてもいい。内容もとてもいい。落ち着いた物語、なにげない風景なのに、興奮しながら見てしまう。1カットごとに、なぜか詩的で味わい深い。私小説風の物語なのに、主人公の心の中を、わざと独白で語らない部分が面白かった。筒井道隆はすごく上手な役者だ。洗濯機を直すシーンが、演劇を見ているような不思議な感触だった。最初の方で、橋の上から川を見下ろすシーンがきれいだった。川沿いの町の風景が、物語の爽やかさを上手に演出していた。照明も落ち着いていてきれいだ。生活臭あふれる小道具も見ていて楽しかった。「何か新しいことがはじまると思っていたほうが楽しみですよね」というおばあちゃん(菅井きん)のセリフが印象的だった。友だちが捕まった後の「怒ってんるんやろ」ではじまる土手のシーンのカメラワークが最高だった。 | |
2001年/日本/124分 監督:宮崎駿 出演:柊瑠美/入野自由/夏木マリ/内藤剛志 | |
「えんがちょ!」以下、ずらずら書くが「どこか以前に見たような?」イマジネーションが広がる面白さがあった。物語は不思議の国のアリスだった。まんが日本昔話も入っているかも。「振り返るな」というのもギリシア神話だし。最後の千尋の横顔は「時空の旅人」の最後の「懐かしいような不思議な気持ち」というカットを思い起こさせ、街のめの絵は「ねじ式」的で、龍に乗っかるシーンは二十年前の映画「龍の子太郎」みたいだった。電車の外のシーンは、「現代アート的」だった。グロテスクな演出の数々はりんたろうの「迷宮物語」みたいだったが、理解不能な映像ばかりでその後りんたろうが失速していったのとは対照的なグロさだ。少女の目から見た大人の姿を描いたという点で、非常にある意味分かりやすく、このグロさは成功している。石炭を運ぶマンガっぽいキャラクターが懐かしさを感じさせられた。湯婆婆の姉の家の街灯が迎えに来るアニメはピクシーのCGアニメの影響もあるのかな。常に動いているキャラクターがいい。流れるようなアニメーションが気持ちいい。黒子みたいな顔なしというキャラもいい感じだった。キャラクターグッズも売られていたが、気持ち悪いので誰も買わないと思う。石炭を運ぶ時の重さを表現したり、臭さを表現したり、身の毛がよだつ時に輪郭線を揺らす表現など、製作者がアニメを作るのが好きなんだなあと感じた。最初の釜爺の部屋に行く途中に階段を駆け下りるところで、カリオストロみたいに飛ぶのかなと思ったら、壁にベチャッてぶち当たって、セルフパロディっぽくてよかった。キャラが絶対に立ち止まらない(立ちつくした後、絶対転ばしたりする)アニメっぽさが、本当に活き活きしている。ハクの正体がばれるシーンの唐突さや、なぜあの生き物をハクだと気づいたのか、なぜはんこを盗む必要があったのか、最後の大当たりはなんで分かったのか、劇場内で子供が「〜ってなんのこと?」とさけんでいたような説明不足な個所等、いろいろシナリオ的に考えさせられるが、まあファンタジーなのでよしとしよう。この作品は監督自身のファンタジーでもあり、想像のおもむくままに作ってみて、ここまで完成度の高い作品を作れる才能にはただただ恐れ入る。10歳の女の子が主人公の映画を私が見ることにいささか戸惑いを感じたが、見た後で不思議と気分が良かった。クライマックスがなくプツリと終わるラストがよかった。「こういうの、あるかな?ないかな?これはうそかな?ほんとのことかな?」と、いろいろな自問自答をしながら世界の中を楽しめた。できれば「耳をすませば」みたいな現代を舞台にした作品を、もう一度見たいのだが。老人を題材にした作品とか作ってほしい。でも少女が出ないとダメかな。 | |
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2001年/日本/90分 原案・脚本・キャラクターデザイン・監督:今敏 脚本:村井さだゆき キャラクターデザイン・作画監督:本田雄 音楽:平沢進 制作:ジェンコ/マッドハウス 声の出演:荘司美代子/小山茉美/折笠富美子/飯塚昭三 | |
記憶のよみがえりと、地面の揺れ。地震、大空襲、日本映画。全ては共感を基盤にした作品世界だ。地震があそこまで舞台装置として機能するのは、日本だからだ。日本人の心象風景がそこにある。共感の引き出しを体験として持っていればいるほど感動も多い。「まるで昨日のことみたい」彼女も、そして、彼女を眺めて共に時代を過ごした人々も。その進む先には希望がある。未来がある。もしかしたら、出会えないこともあるかもしれないが、その進む一歩一歩が希望であるのかもしれない。不思議な感動がある。「そは千年長命茶。それよりそなたは未来永劫、恋の炎に身を焼く定め」、「幾千年、幾千里、君を追いつづけようと、定めからは逃れられぬ」あの老婆の呪いの言葉とその姿が強烈だった。最後は写真の額縁のガラスに自分の姿と重なりあったように、自分の中にある不安を具現化したものなのだろう。不安が映画の登場人物の姿として具現化し、後年もその姿で彼女の人生をおびやかす。老婆を目にすると激しい感情で演技を忘れる。一途な恋というだけの生易しい感情ではない。人生の根本すら危うくなっていくほどの老婆の言葉だ。燃えながら、燃えつきる。その激しさの底に真理があるような気がする。映画を通して、現実と映画が混ざり合っているようにも見える。後半、北海道まで走っていくシーンに感動した。トラック野郎や怪獣や月面まで出てくる映画の中の現実離れした風景が、なぜかその瞬間の彼女の心象風景と一体化している。会いたい人間がいる。そういう経験をしたことのある人間ならこの表現に共演を覚えるはずだ。たどり着くのは大雪原。美しいが、誰もいない静かな景色だ。月面にいるのと同じくらい孤独。心象風景が、そのまま映画になっている。女優の半生だけではなく、探しつづけていた女優を見つけだす物語でもある。結末に近づきながら静かに着地していく。まとまりを見せるシナリオ展開が巧みだ。前半部分のシナリオからは、その構造に全く気づかなかった。細やかな気配りを感じる。制作者の日本人的な奥ゆかしさと気配りの感性を感じる。風呂敷のように優しく包みこむような語りかただ。青春の思い出に出会う旅であり、落とし物を届けにいく話でもある。淡い色彩で、霧のようにぼやけた感情。甘い憧れとノスタルジーが、ゆっくりと広がっていく。2回以上見るとその感激がよく伝わる。彼女との会話を通して、実際に映画の中に入りこみ、気づくと共演している。アニメーションの持ち味を最大限に生かした演出だ。現実離れしすぎた表現だが、なんとなく共感できる。私は、何度も何度も同じ映画を見続けていると、その映画が自分の一部になっていくような独特の体験になっていくのに気づくことがある。もちろん現実としての体験ではないと分かっているが、夢の中でそのシーンが出てくると、もはや判別不可能だ。何度も同じ映画を見ていると、記憶の中に一つの置き場所ができているのが分かる。この映画のように、実際に演じた女優が目の前にいれば、私もあそこまでトリップしてしまうかもしれない。私も原節子を前にしたら、東京物語のように時計を渡したくなる。そういう制作者の思いがこの映画で金の鍵という印象的な小道具になったのかもしれない。彼女にとって、夢や理想を開ける物が金の鍵である。役者としての魅力とも結びつく。映画の中での彼女の視線の先には常に理想の世界がある。見失ってしまった人を探している。そこには観客の共感を呼びおこすものがあったのだろう。鍵があるから自分が存在しているような、根本を揺るがす危うさもある。鍵があるから結婚できないような現実世界での弊害もある。しかし、演技と現実との間に立ちふさがる強固な扉を彼女は軽やかに鍵を開けて行き来する。様々な鍵を観客に届けていたような気がする。舞台となった現代の場面では、記憶の扉を開ける物が金の鍵である。鍵と再会したことで、彼女の記憶が生き生きしはじめ、晩年において自分の理想に出会える。他人の物であったはずの鍵は、晩年において、自分の物となっている。結末は、アニメ映画とは思えないような展開になる。落ち着いた色のシーンの流れ。とても静かな雰囲気になる。最後に出会うのは、自分自身だ。彼女は迷いもなく、自分の人生の全肯定をしている。この、最後の言葉にこめられた、自分の人生の全肯定に、私は感動する。長く生きていると、人生について肯定しているばかりではなく、否定する場面も多くなっていくような気がする。引退して一人寂しく暮らしている間、彼女は何度も自分の人生を振り返っていたように思う。励まされる相手や、励ます相手もいない人生は、そんなに毎日楽しいものではなかっただろう。私でも、人生においてつらい気分になることが多いのだ。彼女の生活も同じことではなかろうか。みんな同じではないだろうか。役者以外でも、すべての人々にはそれぞれの演技の中で、秘められた思いが必ずやあるに違いない。現実世界の奥行きが、なぜか迫ってくる。本当の自分が、金の鍵だったかのように、それを手にした彼女は、最後の瞬間に自分の気持ちと向かい合う。すばらしい瞬間だ。人生のラストシーンとしては、理想の境地だ。ロケットが飛びたつシーンが美しい。美しすぎて涙が出た。 | |
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2001年/ アメリカ/ 99分 監督:ドミニク・セナ 出演:ジョン・トラボルタ/ヒュー・ジャックマン/ハル・ベリー/ドン・チードル | |
誰でもハル・ベリーに仕事を頼まれたら、断るわけにはいかない。普通なら、最初から、悪の組織に娘を人質に取られた方が話の流れはすっきりすると思うが、「独身男性にハル・ベリー」の刺激的な魅力を選択。爆発シーンやカーチェイスが良かった。ポップコーン片手に見るにはいい映画だ。アメリカで無限に作られているB級アクション映画のテイスト。良い所。その1、キャスティング。ハル・ベリーがきれい。トップレスや下着姿など魅力的なシーンも多い。トラボルタも適役。パルプフィクションでもそうだったが、「血の通った悪党」を演じると妙にしっくりくる。ヒュー・ジャックマンはXメンのウルヴァリン役で有名だが、きちんと演技のできるいい俳優だ。天才的ハッカーでありながら、女房と別れ、保釈中で、いい仕事も得られず、無敵には見えない。なかなか味のある役どころを上手に演じている。「普通の市民が娘と会うために悪いことをする」という流れを演技力で分かりやすく伝えている。その2、BGM。ポール・オーケンフォールドのハウスミュージックは、作品の質を高めた。エンドロールの曲は、長い間心に残るすばらしさ。悪いところ。その1、ストーリー展開。脚本はヒットマン、ウルヴァリン:X−MEN ZERO、G.I.ジョーのスキップ・ウッズ。なんでハッカーと悪者が手を組むのか動機に無理がある。「娘と会うこと」というファミリー的な動機づけは観客の共感を得られやすいし、ハル・ベリーが「彼と組むしかないわ」とダメ押ししているのでなんとか成立しているが、ちょっと強引。1千万ドルもらうのはいいが、確実に娘と会えるのかは、裁判もあるのだし、別問題。私には最後までこの展開に納得いかなかった。どうすれば自然に見えるのだろう。たとえば、主人公は禁断症状が出てきてしまうくらいのネット中毒者で、国際的な犯罪を犯したためネットにつながることは一生できなくなっているが、国際的な犯罪者が彼に自由にネットを使うことを保証したため、喜んで協力する、ような流れはどうだろうか?その2、無駄なシーンが多い。別れた女房との電話シーンや、他のハッカーの取調べシーンが長い。いらない。その3、撮影。撮影はマイ・ボディガード、コラテラルのポール・キャメロン。ここで質を落とした気がする。もう少しきれいに撮れたのではないか?ただ、アートな作品ではないのだから、誰にでも分かりやすい構図でバンバン撮っていく迫力は感じた。 | |
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2007年/ アメリカ/ 91分 監督・製作・脚本:ウェス・アンダーソン 製作総指揮:ステーヴン・レイルズ 製作・脚本:ロマン・コッポラ 製作・脚本・出演:ジェイソン・シュワルツマン 出演:オーウェン・ウィルソン/エイドリアン・ブロディ/アンジェリカ・ヒューストン/アマラ・カラン | |
恵比寿で見た「ライフ・アクアティック」が異常なほどつまらなかったので、劇場では見る気がしなかったが、ツタヤの旧作レンタルは100円なので借りてみた。この映画は楽しかった。ジェイソン・シュワルツマンの大人になりきれない未成熟な感じと、オーウェン・ウィルソンのやんちゃな男の子のような感じ。2人はこの監督の旧知の間柄だ。そこにアカデミー男優賞を受賞したエイドリアン・ブロディを持ってくると、どこか調和のとれた人間関係が生まれてくる。役者と役者の化学反応が楽しめる。「CQ」の監督をしたロマン・コッポラが脚本で参加している。「CQ」の時に見せた繊細な脚本の表情がエイドリアン・ブロディに合っている。ウェス・アンダーソン監督の壊れているかのようにスカッと抜けた人物描写や演出が、なぜかインドの風景と調和が取れていたので、楽しく見ることができた。配色の落ち着いた質感が素晴らしい。人物の表情がきれいに撮れている。激しく横に動くが、縦の動きが少ないので恐ろしいほどの安定感がある。おそらく移動や、広大な世界や、横に並んだ3人の表情を表現するのにこうなっているのだろうが、ズームアップもいくつかあり、何か不自然なカメラワークだ。こういった手法も退屈さを紛らわせる点で、ありかもしれない。列車に乗る時のスローモーションのシーンは、ストイックな美しさがあって非常によかった。「僕たちには絶対に人生を変える旅が必要だ」と兄が言うが、そういった旅の感覚にあふれた映画だ。3人の兄弟ともに、人生においてなにか安定感がない。父を亡くしたという喪失感もあるし、兄弟仲も悪い。このまま行くと失敗しそうな雰囲気にあふれている。たぶん、人生というダージリン急行に置き去りにされた状態だろう。目的地すら消失し、異国の地でトボトボと空港へ逃げ帰る気分なのだ。心象風景と状況が、全く同じだ。冒頭では目的地すら不明で、前半部分、ずっと不仲である。2つの葬式のシーンでの喪失感が、観客を置いてけぼりにして唐突に過去に移動するが、なかなかよく描けている。ただの観光旅行から、目的地を持った旅への移行だ。あまりドラマチックには描かれてないが、鏡に映る兄の傷跡は、絆を描くうえで非常に効果的だ。これくらいの傷を、その他の2人も、もしかしたら観客も、ある程度、負っているのだろう。このシーンから兄弟の仲が復活して、目的地に向けて出発する。ようやくここで、なにかが変わっていく。兄弟と母で瞑想するシーンは、この映画の最大の魅力だ。インドという国以上に、どこかの旅の感覚を得られた。この瞑想の世界では、様々な人物たちが列車の中にいるかのように表現されていて、なかなか面白かった。瞑想の先にはなにがあるのだろう。なにに祈ったのか。なにを祈ったのか。心が通じあったのか、通じなかったのか。過去への執着を捨てた、不思議な共通感覚。救いはなかったかもしれないが、納得はできたはずだ。この美しい場所で楽しく過ごし、後悔は捨て、将来の計画を立てる。鞄と一緒に過去を投げ捨て、おしゃれなインド風の急行に乗りこむ。もはやこの旅は、観光旅行であるのをやめる。そして、旅の仲間もしっかりと手に入れている。天才肌で、スカッと抜けた部分がとぼけた味わいを出している監督だが、底辺では人間賛歌をおおらかに歌っているのだ。 | |
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1986年/アメリカ・西ドイツ/106分 監督:ジム・ジャームッシュ 出演:トム・ウェイツ/ジョン・ルーリー/ロベルト・ベニーニ | |
いくらでも批評できる空間の提出という点において、インテリのおもちゃにされがちだ。でもこの批評空間は、そのまま風通しの良さにもつながっていて、どこまでもさわやかだ。「悪いな現在に満足できない性質なんだよ」と、また、旅の始まり。この監督の映画は、どれも旅の始まりを描いているような気がする。「ナイトオンザプラネット」も地球の自転という点において、終わらない。終わらないか、旅の途中。この映画は、微妙に一般世界からテイクオフしていく展開がいい。最初、家で寝ているシーンから始まる。いっしょに寝ている女がいて、何気ない人生の日常の一コマのような気をさせといて、すぐに離していく。一方はショウフとポン引きの関係で、一方は喧嘩別れ。だんだん離していって、牢屋でさらに志村けんみたいなのが出てきて加速していくストーリー。ぜったい、あの、イタリア語しゃべる人、志村けんだよ。ボイスオブムーンにも出てた。ロベルト・ベニーニ?ライフ・イズ・ビューティフル。映像がいい。空とか水面の影がきれいだ。ライトを刺激物として使っていないのがいい。影のコントラストとグラデーションがきれいだ。階段のぼっているシーンだけで堪能できる。ある意味フルカラーに見える。 | |
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1975年/ギリシャ/232分 監督・脚本:テオ・アンゲロプロス 脚本/ヨルゴス・パパリオス 撮影:ヨルゴス・アルヴァニティス 音楽:ルキアノス・キライドニス 出演:エヴァ・コタマニドゥ/ペトロス・ザルカディス/ストラト・スパキス/アリキ・ヨルグリ/マリア・ヴァシリウ/ヨルゴス・クティリス/キリアトス・カトリヴァノス/グレゴリス・エヴァンゲラドス | |
様々な政治介入や思想介入の果てに、国民が混乱し、疲弊していく。ふだん、私にとって馴染みが薄い、大きな流れが大画面の中に表現されている。絵画でも音楽でも、ここまで的確に表現するのはなかなか難しいはずだ。時代性、国民性。映画ならではの対象だ。それでいて、人のたくましさ、温かさに触れることもできる。野心作でもあるが、奥行きがあり、完成度が高い。長い上映時間があっという間だ。映画を見るというより、なにかを見たような気がする。ゆっくり問いかけられているような気がする。ごまかしのきかない主張だ。誰でも、伝えたいことがあれば、ゆっくりしゃべることになる。本気かどうかは、実際に語られるゆっくりとした言葉を追えば、判断は容易だ。耳をかたむけていたくなる。腰がすわった自信を感じる。短く感じた理由としては、ストーリーが、カメラワークが、そしてテーマが明確だということがあげられる。まず、ストーリーに勢いがある。激動の時代が舞台のため、生死を分ける瞬間が多々ある。静かなようでいて戦時下なので危険と隣り合わせだ。風前の灯のような人々。その運命にハラハラする。旅芸人という存在自体、ドイツの占領下では生死の危険をはらんでいる。バスに乗っていた時が最大のピンチで、暗闇に横一列になって照明を当てられ、今にも全員が銃殺されそうで怖かった。明かりを消されて全員が走り去ってもカメラはまだそのまま壁を映しつづけ、鳴りやまぬ銃声が聞こえつづけていたので、すごく心配になった。ゲリラによってナチスから開放された瞬間は私まで晴れ晴れした気分になった。政治的潮流や思想的潮流に人々が翻弄されている。国民としての帰属意識すら分裂してしまいそうなほど激しい渦を巻いている。仲間の間でも争いが起こっている。大人数で一緒に旅をしながらの活動になるので、いくら家族が中心であっても、芸人同士の団結はなかなか難しい。復讐の物語にもなっていてる。短く感じた理由としてはカメラに勢いがあることも大きな理由の一つだ。目の前にある物だけではなく、その先にもカメラの意識が行っている。その結果、ワンシーンにつながっている。次へ、次へと、対象をどんどん撮影していく推進力がある。本来ならアップやカメラの置き位置の変更をするため、複数のカットが必要になりそうなシーンを、工夫することによってワンカットにしている。あまりに見事なカメラワーク。特殊なレンズを使っているわけでも、不自然な動きをするわけでもないが、臨場感にあふれている。映画を眺めているのではなく、現実を眺めているような、ゆったりとした気分になる。独特の魅力を持っている。風景描写以外に、カメラを見つめながらの一人が話しつづける長いシーンもある。独白、詩人の詩、転向者の体験談、トルコからの撤退の体験談。カメラの性能については、あれはどうなのだろうか。当時の最新のカメラだったのだろうか。いったい、独裁政権下の映画カメラの性能はどのようなものだったのだろう。空の色が飛んでいて、真っ白だ。唯一、結婚パーティーでのダンスでは青空になっていたが、露出を下げているので画面全体が暗い。それ以外にも、時として、画面が暗すぎる。不自然な照明は一切ないが、照明をきちんと当てていたのかも気になる。暗い物は暗い。はっきりと分かる人の影、物の影。際立つ動き。全てが劇場になったかのように、細々した物事が省略されて舞台装置のようなはっきりとした役割を持っている。つながっている。つながっている。この長回しは現代につなげようとする一貫した長回しだ。これだけ長回しで人数が多くて動きが激しいと、製作期間もあっという間だっただろう。丁寧に作られているので、いくつもの印象的なシーンがある。内戦をダンスホールの歌合戦で表現する演出がすごい。明るい音楽に似合わぬ闘争。音やノリが同じでも派閥によって歌詞が違う。王党派は男ばかりでつまらなそうで、最後は銃で威嚇する。1946年の朝帰りの王党派たちが酔っぱらいながら上機嫌で道を歩いていると、いつのまにか時代が1953年に進んでいる。一つのシーンなのに6年も経っている。町全体を使ったかのような、すごい長回し、すごい時間感覚だ。実際、王党派にとってはあんな感じの酩酊状態の6年間だったのであろう。ほかにも、長い夜道を歩きながら、途中でダンスする人々やイギリス兵士と出会いつつ、最後に弟たちに合流する長回しにも感動した。暗がりでのなにかが起こりそうな怪しい気配が印象的で、ここだけ切り取っても短編映画として上映できそうな、完成度の高いシーンだ。ほかにも、鐘の音を背景にギリシアの町をパレードが進むシーンが印象的だ。ずっと向こうからここまで迫ってきて、カメラが横を向くと旅芸人たちが歩いてくる。カメラがバックしながら二つの集団が一つになって進んでいく。楽しい気分になる。共に進んでいくような一体感がある。雪山のシーンも印象的だ。ギリシアならではの暗く険しい長い長い山道を下りながら歌を歌うほがらかな場面で突如出現するゲリラの死体。壁の前で途方にくれて力なくうなだれている最中に、鳥を発見してみんなで捕まえる。たくましい国民性が描かれていて、好きなシーンだ。旅芸人たちを途中まで追っていながら、カメラを道の一カ所に留めておいて、両者の砲撃を写して内戦を表現した長回しが最も巧みだ。戦闘が一段落つくと、悪夢から逃げ出すように夜の闇に消えていく旅芸人たち。この流れは、演劇的でありながら、臨場感がある。いつかこちらにも砲撃が来るのではないかと不安になった。演劇を有効活用しているシーンが3つあって面白かった。一つは爆撃のシーン。劇の途中で空襲があって、逃げ惑う声が聞こえ、壇上の役者たちも逃げまどい、舞台から消える。その後、爆撃のライトと効果音。その間、カメラはずっと舞台を映し続けている。あたかも舞台演出であるかのような爆撃の表現だ。もう一つは、劇中での射殺のシーン。あたかも舞台演出であるかのように殺人が行われ、観客までもがだまされて拍手喝采でそのシーンを喜ぶ。3つ目は砂浜の演劇のシーン。イギリス兵たちが観客になって舞台を楽しみ、終了後に役者たちとダンスをする。ギリシア人の中にイギリス人が入ってきたことを象徴するシーンだ。この踊りが襲撃で中断されて、兵士の一人が芝居の背景の前で、先ほどの劇の結末のように死んでいく皮肉な演出を見せている。シーンを盛り上げる要素としては、音もなかなか印象的だ。バックで流れる音は、実際に劇中で流されている。アコーデオンだったり、パレードの合奏だったり、生命力がある。音楽が聞こえなくても、足音やドアの音が聞こえつづけて不思議なリズムを刻んでいる。音だけを聞きつづけても飽きることがない。最後に、激動のストーリーやシーンの面白さを越えて、たどりつくのは映画そのもののテーマだ。扱っているものが、永遠不変の心だから、この映画を短く感じたのかもしれない。結末は冒頭で、冒頭は結末だ。この倒置が、完全にテーマと一致している。永遠不変のギリシア人としての心のあり方がテーマだ。そして、自由のあり方もテーマだ。テーマが一貫して流れているので時間を忘れる。詩人が語りかけるシーンでは「傷だらけの自由に希望をもて」と締めくくられる。戦いつづけて傷だらけになってようやく獲得できた自由こそが真実なのかもしれない。独裁政権下にあっても亡命をせずに映画を撮りつづけた者だけが胸をはって発言できる主張だ。もし、この監督がアメリカ人だったら、第二次世界大戦を勝利で終えてハッピーエンドだ。変わった旅芸人の記録になっただろうし、そもそも映画自体、作られることはなかっただろう。ギリシア神話、「羊飼いのゴルフォ」の民族的な寓話。それらと歴史的に平行しているように語られる現代史。下手な思想や国よりも、この映画の方が後世に残りそうだ。ドイツからの開放のために戦っていたゲリラたちが、ドイツに打ち勝って政権を担えたのなら、単純になるばずだ。ギリシアの場合は、ゲリラたちが次の政権にとってもゲリラとなってしまうところに、悲劇がある。しかも、その後に訪れたのが独裁政権だ。旅芸人の記録はゲリラの記録でもある。ソ連とアメリカの国旗がたなびく、自由の歌が響きわたる一瞬の開放感。しかし、銃声一発でふき飛んでいく。冷戦の始まりは裏切りの始まりだ。監督の語りたいことは明確だ。人々は、どこまでも自由であるべきだ。この主張は、冷戦が終わった現代においてさらに鮮やかだ。くっきりした傷跡のような映画だ。共産主義政権だけが独裁政治を生みだしたのではなく、共産主義を力づくで排除した国からも独裁政治が生みだされた。この複雑な状況が傷を深めている。今になって見ると、政治的主張とは関係なしに国民意識が描かれているのに気づく。ただ、どんなに傷ついても、滅亡するわけではない。旅芸人たちがどんどん死に続けていくような、救いのなさだけではなくて、冒頭で子供だった青年が役者として初舞台を踏む場面も描かれている。劇団自体は需要があるかぎり永遠に続きそうだ。未来がある。青年は母の結婚パーティーで、乾杯の合図をきっかけに、テーブルクロスを引きぬいて、その場をめちゃくちゃにして抗議の意志を明確に伝える。めちゃくちゃな食卓がギリシアを象徴しているようにも見える。後ろを振りかえらずに、足どりはしっかりしている。砂浜を一人歩きつづける青年のりりしさ。日差しを浴びて進んでいくようなギリシアの未来を暗示しているシーンだ。反面、死んでいく者もいる。理想に燃える若者が政治的背景から敗れさっていくものの、自由に対しての欲求は消え去ることはない。たそがれの光が部屋中に満ちた、あの美しさは、口では表せないものだ。人は息絶えたとしても気高き理想はいつまでも生きている。滅びつつも、生命力がある。時間の止まってしまったような、たそがれの部屋で、死んでしまった弟に彼女は声をかける。「おはよう。タソス」役者同士の挨拶の言葉でもあっただろうが、少なくとも夜は終わった。その挨拶だ。自由への一日がこれから始まろうとしているのだという希望や決意の表れなのだろう。埋葬のシーンも拍手だ。役者として、民族的な風習としての拍手なのだろうが、後ろに引いていくカメラが、国土と一体化したような登場人物たちを表現しているように見える。よく見ると、一人は拍手していない。大きな悲しみの表現。この埋葬のシーンも心に残る。「私はイオニアの海から来た。君たちは?」と問いかけて銃殺されるシーンも、この映画の本質に近づく瞬間だ。この問いかけの瞬間、私の周りで時間が止まったように感じた。これから殺される敵に対して言う言葉ではない。旅人が旅人に向かって語っているような問いかけだ。ここにもギリシア人としての魂を感じた。疲れきった魂が、集まって、立ちどまる。旅芸人たちの立ち姿。これは昔も今も同じことだ。そこには時代も政治もない。たぶん、今もまだ、旅芸人たちは疲れきって立ちつづけているのではないか。絶対に、あの駅に行けば、今もあんな感じで立っている。たぶん顔ぶれは変わっているかもしれない。でも、きっと立っているはずだ。少なくとも、私の心の中では彼らは今も立っている。英雄のようではなく。独裁者のようではなく。傷だらけの自由。希望のある自由。美しい立ち姿だ。 | |
1960年/フランス/93分 監督:ルイ・マル 原作:レーモン・クノー 脚本・台詞:ルイ・マル/ジャン=ポール・ラプノー 撮影:アンリ・レシ 美術:ベルナール・エヴァン 出演:カトリーヌ・ドモンジョ/フィリップ・ノワレ/ユベール・デシャン/カルラ・マルリエ/ヴィットリオ・カプリオリ | |
50年以上前で、ここまで完成された空間が出来上がっているのがすごい。この流れはすごい。途中からストーリーが崩壊していく。最後はセットでの撮影も崩壊していく。セット不要。パリが舞台のヌーベルバーグである。あまりにもシュールすぎて、途中からついていくのがつらくなってくる。全体としてはパリの風景が印象的だったので楽しめた。前半部分の追いかけっこのリズムに圧倒された。撮影している側の楽しげで自由な雰囲気を感じる。コマ落とし、早回し、ジャンプカットが映画を加速していく。この動きは、子供にとっての現実に近いのかもしれない。子供の動きと世界が一体化している。チャプリンなどのベタなコメディが演じる以上に、この動きが自然に思えてくる。子供の感覚に寄り添うような形での映像表現がとても刺激的な映画だ。最初の電車から乗客が降りるシーン、車の走るシーンなど、パリのザワザワした活気の良さも上手に表現できている。夜のパリの風景も、臨場感にあふれてなかなか刺激的だった。自動車や人の動きは、通常の速さで撮るよりも、コマ落とししたほうが迫力が出るのかもしれない。地下鉄のストのせいで洪水のように車があふれかえっている中での車での追いかけっこが実にシュールだ。エッフェル塔のシーンがすばらしい。階段を下りるシーンがすごくよく撮れていて驚いた。エレベーターや階段や柱などの構造的な美しさが目を見張る。人が小さく描かれているので、塔の巨大さが引き立っている。どこまでも話し続けて、グルグルグルグル降り続けているのに、いつまでたっても地上につかない。ナンセンスにも見えるし、エッフェル塔らしくもあるし、面白いシーンだ。おじさんはエッフェル塔で放浪する。「昇ったり降りたり。降りたり昇ったり。行きては帰る動きのうちに人は消滅する。タクシーがエレベーターが人を連れて行く。塔もパンテオンも気にもかけぬ。パリは一場の夢。ザジは幻。そして物語は夢のまた夢。すべては夢のまた夢」このおじさんの言葉通り、夢のような形で物語は展開していく。ここから先は、どんどん物語が崩壊していく。そもそも、はじめから夢であったかのように。最後、母に「年をとったわ」と、このお子様は、かわいく報告する。「おまえ、まだ若いだろ!」と私は彼女やこの映画に対して思わず声をかける。彼女は、パリが楽しかったのだろうか。大人たちに道案内されての観光旅行というわけではなく、自らの主体性を勝ちとった大胆不敵な大冒険である。そこではロケットのようなバスが走り、外装をなくした車が走り、エッフェル塔の上には白熊がいて、風船でエッフェル搭を降りて、スタジオを壊す世界だ。楽しくないはずがない。彼女こそ、ヌーベルバーグなのだ。楽しいロケ風景が目に浮かぶ。彼女の冒険は、パリの町並みをも鮮やかに、さらなる魅力的なものに変えている。世界はこういう子供たちを中心に動きつづけるものなのである。 | |
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1996年/香港/177分 監督:ジェフ・ラウ 脚本:ケイ・オン 撮影:プーン・ハンサン 出演:チャウ・シンチー/カレン・モク/ン・マンタ/アテナ・チュウ/チョイ・シウファン | |
チャウ・シンチーの西遊記。冒頭の緊張感あふれるやりとりから一転。妙に前半は遅緩する。足の裏に毛が生えている。股間に燃え広がった炎を蹴って消火。ブドウに化けた仙人をブドウを食べられたと勘違いして殴る。オッサンの盗賊に女性のアテレコ。透明になったつもりで実は見えてる。怪演とも言えるが、存在自体が怪演なので、怪しい人格にもリアリティがある。冒頭は、いっそ孫悟空にならずに山賊のまま、くだらないギャグでダラダラやってほしい気分になるほどの逸脱だ。さっさと用意周到に天竺に行くのではなく、500年経っている。そこにいるだけで楽しい。後半部分はシリアスな場面も多いが、扉につぶされる、ドキドキする心の中に現れるココナッツのような心臓、人格が入れかわるギャグなど、見どころも多い。いったい、あの呉孟達(ン・マンタ)は、どうしてあそこまでくだらない演技ができるのか。なんで髪が逆立っているだけでこんなに笑えるのか。もって生まれた、立ち姿で、すでに喜劇役者。おそらく実人生はストイックでシリアスでもあるのだろうが、天職は山賊の副頭領で、八戒なのではないか。世の中全てが呉孟達(ン・マンタ)であることを想像する。お父さんが呉孟達(ン・マンタ)、お母さんも呉孟達(ン・マンタ)、子供たちも呉孟達(ン・マンタ)、みんな呉孟達(ン・マンタ)。そこはいいかげんで楽しい世界だろう。三蔵法師役の羅家英(ロー・ガーイン)も面白い。三蔵法師のイメージが、かなり逸脱している。真面目なのかなんだか分からない天然のボケっぷりだ。冒頭の自殺にしても、達観したなにかを感じてしまう。生き死にに対して、あまりこだわりがない。達観しすぎて突き抜けておかしくなってしまったかのようだ。あまりおいしそうに見えないが、彼を食べたら不老不死になれる。自らが妖怪をおびき寄せている。逆に毒だったら旅が楽になったはずなのに残念だ。この人に自分の悩みを語ったら、きっととんでもない答えがかえってくるはずだ。ちょっと行動を共にしてみたい。天竺に行くと見せかけて、とんでもない場所にたどり着きそうだ。彼が月光寶盒の光を浴びて消滅し、突如現れ、古代ローマ、古代インド、古代エジプトの服装に変わるのが面白かった。遍在する三蔵法師。一番の見せ場は、牢獄の中でのオンリーユー。映画の中で、一番歌う必要のない人が、堂々と歌っている。西遊記を題材にした創作物の中で、かつて三蔵法師がオンリーユーを歌ったことがあっただろうか。これにはかなりの逸脱と虚脱を感じた。女優がきれい。最初に出てくる妖怪姉妹がいい。あれだけかわいかったら、ちょっとくらい食べられてもいいかな、と思ってしまう。私を食べても不老不死にならないと思うけど。女優がいなかったら、この映画はどんな映画になってしまっただろう。しなやかで気高い。アテナ・チュウもかわいい。後半は女優の区別がつかなくて困った。もうちょっとそれぞれの個性を出すような演出があるとよかった。牛魔王は強そうだ。戦闘シーンがちりばめられてメリハリが効いている。ワイヤーアクションも見事だ。動きがしっかりしているのでアクションシーンが楽しめる。女性がヒラヒラした衣装で華麗に舞うのがすばらしい。芸術的なアクションは、香港映画の最大の魅力だ。月光寶盒を使って月光の力で時空を飛び回るのがいい。「般若破羅密!」謎のかけ声と共に、過去に戻って失敗をくり返す。ここで時系列が変わる。過去と未来に相関がある。前半でこの人がなんでこんなに怒っていたのかわかるアイデアが面白い。後半は水面の景色と砂漠の景色が美しい。雰囲気が違う。砂漠が壮大だ。広がりと奥行きがある。チュウ・シンチーの様々な映画のように、主人公が最後に覚醒する。普通の人から急に超人になる。一種の様式美だ。努力とか勤勉とかいう概念に縛られた私にとっては興味深い演出だ。まるで最初から約束されていたかのように。運命というものが、人生観の大きな要素を占めているのかもしれない。恋愛も500年をつなぐもので運命的な要素が強い。広大な砂漠を見ていると、人間の存在が小さく、努力や苦労や経験などは役に立たず、運命的な巡りあいに思いをはせることもありそうだ。ダラダラやっているようでいて、運命について考えさせられてしまう。彼らの行く先になにが待っているのか。大丈夫なのか。天竺まで行けそうもない気がする。私も連れていってほしい。余韻のあるラストだった。 | |
1990年/香港/104分 監督:ブラッキー・ホー 脚本:ジェームズ・ユエン 撮影:アンドリュー・ラウ 出演:チャウ・シンチー/ジャッキー・チュン/ブラッキー・ホー/アン・ブリッジウォーター/エリック・ツァン/ジョン・シャム | |
2012年にこの映画をDVDで見る。時代が経ってしまっている。「あぶない刑事」のようなB級アクション映画の雰囲気。衣装も当然、昔のファッションだ。そういう時代性を別にすると、香港の雰囲気が印象的だ。古いから悪い、というわけではなく、どこか懐かしい。私が子供の頃、香港映画をたくさん見ていたせいだろうか。町の夜景が優しい。自分たちの住んでいる世界に対しての愛情にあふれている。派手な電飾に優しさがある。日常的にイギリス人がたくさんいて、広東語と英語が混ざりあっている。不思議な活気がある。とても興味深い。チャウ・シンチーはまだ若く、役者としての参加なので、不条理で突き抜けた笑いは存在しない。38才の気難しい私にとっては、一度も笑えるシーンがなかった。ギャグがつまらないぶん、画面に見いってしまった。ギャグを別にすると、プログラムピクチャーに近い、しっかりした作りが印象に残った。電飾から落ちたり、海に飛びこんだり、ビルから飛び降りたり、激しいアクションが多い。セットやロケなど撮影場面も多い。スタントマンや大道具の準備など、撮影ノウハウの蓄積を感じる。逆に言うと、役者は関係ない。主役がいなくても香港映画は可能なのかもしれない。カースタントはすごかったが、監督すらも関係ないかもしれない。ワンタンのないワンタン麺、泥棒との階段でのやりとり、ボスの財布、カメラの前での風俗店のやりとり。お約束のような決まりきったギャグで手堅くまとめている。完成された巨大なシステム。どこにカメラを置いてどこにカンフーを置くか、作り手の手堅いノウハウを感じる。少林寺拳法のように学習・育成のシステムができあがっているのだろう。「香港映画拳」はなかなか強そうだ。チャウ・シンチーが編み出すギャグは、しっかりした足場があってはじめて存在するのだろう。まだかけだしの彼を持ちあげていくような、彼もそのシステムに安心してもたれかかっているような、チームワークのよさを感じる。素朴な人柄を演じきったジャッキー・チュンもなかなかよかった。 | |
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2001年/アメリカ/111分 監督:マーク・フォスター 出演:ハル・ベリー/ビリー・ボブ・ソーントン/ヒース・レジャー/ピーター・ボイル | |
最後のシーンに、ムダな会話がない部分がいい。お互いに理解しあえたような安らぎを感じる。印象に残る終わりかただ。甘くないチョコレートを味わった気がした。最後に食べたチョコレートも、たぶん甘くはなかっただろう。甘かったのかもしれないが、簡単な、誰にでも共通理解できる甘さではないと思う。最初にショッキングな出来事をたて続けに見せて、ショックを緩和するかのように物語が進んでいく。私自身も、心が落ち着いていく気分を味わった。バーバーでもそうだったけど、主演のビリー・ボブ・ソーントンは、家庭的でない雰囲気を出すのが上手い。あれはちょっと子持ちには見えないよ。実生活はどうなのだろう。主演女優の生活感がよかった。心のふれあいを演じることのできるすばらしい役者だ。悲劇に対して等身大の人間として立ち向かっていく演技が上手い。赤いカーテンの話ではじまる会話シーンが印象的だった。 | |
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2001年/日本/85分 監督:佐々木浩久 出演:中村愛美/阿部サダヲ/三輪ひとみ/阿部寛/佐々木浩久 | |
仕事帰りに「映画でも観ようか」と思って映画館に寄ってしまった。そして、この映画、全然予備知識なしでふらっと見てしまって、すごく混乱した。狙っているのか、イっちゃってるのか、寸止め的な映画だ。スゴーくいやな気分になりながら顔が笑ってしまう。赤くもなく白くもなく透明なものが少し滲み出ている。流れる所を無理にとめてる。黒沢清も役者として出てる、お遊び的な内容の映画。バーミリオンプレジャーナイト(もうすぐレイトショーだ。毎週見ていた番組が映画になるとうれしいね)には勝てないけど。ルーシーが素晴らしすぎ。かわいい。「あやしいものではない」と言ってる阿部寛は爆笑物だった。唐突すぎるカンフーシーンがいい。恋人と再会してみたら相手がおやじになっていたギャグは笑えた。実力ある人たちが撮っている危うさの表現。完全虚構の世界がいいな。仕事帰りに見る映画としては最高だ。様々な仕事上の悩みが吹き飛んだ。どうもありがとう。前作「発狂する唇」も、暇でどうしようもない時に見ようかな。 | |
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