映画評 |
2010年/アメリカ・イギリス/117分 監督・脚本:マシュー・ヴォーン 脚本:ジェーン・ゴールドマン 撮影:ベン・デイヴィス 出演:クロエ・グレース・モレッツ/アーロン・ジョンソン/クリストファー・ミンツ=プラッセ/ニコラス・ケイジ/マーク・ストロング | |
暴力描写が秀逸だ。スーパーヒーローを夢見た青年の話。軽いコメディと思いきや、なんだか残酷かつ、とっても痛い目にあっているので驚いた。後半の痛めつけられるシーンには、思わず目をそむけた。ただ、「末梢神経がマヒした」という設定があるのだから、もう少しボロボロになってもよかった気がする。血だらけになりつつも冷静なシーンを入れるとか、うまく使ってもよかったのではないか。この映画は「武器の扱いや格闘技術に長けたかわいい少女」というコンセプトに尽きる。銃で撃たれたり、ナイフを器用に扱ったり、簡単に人を殺している。この存在感がすごい。不気味な異質性と無敵性。残酷な感じの殺しの描写になっているので、この違和感は圧倒的だ。正義の味方っぽく手加減するのではなく「確実に殺す」という潔さも強烈。最後の10人以上撃ち殺すシーンは何度もコマ送りしたりして見直したが衝撃的な活躍ぶりだ。もっと100人以上撃ち殺してほしかった。さらなる活躍を見たい気分にさせられた。全編ヒット・ガールが出続けてもよかったのではないか。ただ、彼女の活躍にドキドキしたと同時に、保護者的視点ですごくハラハラした。倫理性も問いたい気分にもなるが、ここまで行くと一つの表現かもしれない。ヒット・ガールがいないシーンだけを通してみるとよくわかるが、おそろしく出来の悪いB級映画だ。あの親子は正義の味方というよりも精神的に歪んでいる。虫けらのように処刑する殺人マシーンである。漫画のような味つけで演出されていたが、主人公も盛大に殺人している。マフィアへの法外な復讐に加担しただけの気もする。マイスペースの友人が増えることが正義の味方としての評価基準となるはずもなく、彼女ができてからはヒーローへの執着もなくなっていく。観客の期待する所からどんどんずれていく。主人公を貫く「ヒーロー」としての概念が、後半になって歪んで、失速したかのように思える。たんに欲求不満の青年の変身願望だった気もする。若者の成長を描く点では失敗している。現実世界での「正義」や「ヒーロー」の実現がいかに難しいかの証明になっている気味の悪さが後味として残る。悪者の描きかたは簡単だ。悪いことをすればいいのだ。アクションシーンをたくさん入れて「悪」対「悪」の血で血を洗う抗争を描くだけでよかったのかもしれない。 | |
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2003年/ノルウェー・スウェーデン/91分 監督:ベント・ハーメル 出演:ヨアキム・カルメイヤー/トーマス・ノールストローム/レイネ・ブリノルフソン/ビョルン・フロベリー | |
正直、前半部分が眠かった。いっしょに見に行った連れは爆睡。前半部分20分はカットして、台所で観察者がいきなり座っている張り手型の導入部にしたほうが面白いし、話が転がっていくと思う。最後で主人公が帰ってきた部分に象徴されるように説明不足が目立つ。場所も限定され、1対1での会話がほとんどで、間延びしたシーンが多いので、退屈だ。サイレント映画でも成立しそうだが、シナリオが甘えている。映画産業としてのフィンランドの歴史の浅さを感じる。一人暮らしの生活を上から観察しているシュールな設定だけが魅力だ。「しゃべってはいけない」という主人公に与えられた枷(かせ)も魅力的だ。このシチュエーションは、いろいろ使えそうだ。孤児院からやってきた子供が、里親を決めるのに観察している。もしくは生まれてくる家を決めている赤ちゃんが家を観察していて、普段は見えないんだけど妊娠しているお母さんがその子を見てしまう。等々。 | |
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1999年/アメリカ/102分 監督:ディーン・パリソット 出演:ティム・アレン/シガニー・ウィーバー/アラン・リックマン | |
「スタートレック」のパロディ映画。一緒に観にいった連れは5分で寝てしまったから、観客を選ぶ作品なのかもしれない。スタートレックだと1時間番組で何十本も放送するからあれだけの出演者がいるのだ。この映画だと2時間しかなく、その割にはキャラがたくさん出てきて、消化不良の感があった。一部で台本がよく練られていたが、キャラクターの外見がかっこ悪かったので、二流感が否めない作品だ。SF映画はやはり、キャラクターデザインで大部分が決まると思う。最後の着陸のシーンがすごくよかった。私が作るなら、宇宙船の奴らは適当に描いて(地球の乗組員は一人で十分)、トレッキー(スタートレックオタクのこと)を中心に話を進める。 | |
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2002年/アメリカ/95分 監督:アンドレイ・セクラ 出演:ケリー・マチェット/ジェラント・ウィン・デイビス/ニール・クローン/マシュー・ファーガソン | |
前作は、かなり嫌だった。ああいう救いようのない話は嫌いだ。今作は、時間軸が入って物語が四次元のものになってしまったため、面白さが減ったように感じる。まあ、私の場合、前作の面白さがゼロだったので、減りようがないのだけれど。2Dのドット絵で動いていた人気ゲームが、3Dのフルポリゴンにリニューアルされて、逆につまらなくなってしまう現象に似ている。キューブの構成自体も、前作は3次元で完璧に合理的に描かれていたのに、今回は破綻している。あの3次元の部分が、物語と上手く絡んでいて、よかったんじゃないだろうか。合理的な世界に人間の非合理が重なっていく展開が魅力だったのではないか。今回は4次元でごまかしているだけで、要は物語の破綻だ。あんな脱出方法が許されるのだろうか。数式の意味なんか全然ない。SF的な設定を、物語の破綻をごまかすために使う悪い例がこの映画だ。探偵が探していた女の子がキューブの中にいて、それが話に全然関係していない部分がとても面白かった。六本木ヒルズのヴァージンシネマで観たのだが、キャラメル味のポップコーンが売っていた。レギュラーサイズは2人用だ。2人でレギュラーサイズを2つ買うと多すぎるので注意が必要。映画館の中は音響がかなりのものだ。客席の段差がけっこうあって見やすかった。でも少し狭いので、閉じこめられた気分もする。デザイン優先のせいか道に迷いやすく、六本木ヒルズ自体、キューブっぽかった。 | |
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1988年/ギリシャ・フランス・イタリア/125分 監督・脚本: テオ・アンゲロプロス 脚本:トニーノ・グエッラ/タナシス・ヴァルニティノス 撮影:ヨルゴス・アルヴァニティス 音楽:エレニ・カラインドルー 出演:タニア・パライオログウ/ミカリス・ゼーナ/ストラトス・ジョルジョグロウ/ヴァシリス・コロヴォス | |
目的地はドイツである。ベルリンの壁が崩壊する前の、ヨーロッパの激動の時代が訪れる瞬間。新しい時代へのギリシア人の不安も底辺にありそうだ。まさに霧の中。心細さが身に迫る。泣きながら抱きついた少女を青年が励ます言葉は、役者が初舞台を踏むときの励ましだ。今後も人生という舞台を踏んでいく少女に対しての励ましだ。心にしみる。また会えるとは思わなかった旅芸人たちを見れてよかった。聞いたことのあるようなセリフばかりをしゃべっていて、みんな元気そうだ。経済的困窮や中心人物が離脱するなど存亡の危機に陥っているが、まだまだ不滅の雰囲気がある。衣装を売り払って解散しても、もはやギリシアの風景と一体化してしまっている。2人が歩きつづけ、オートバイが後を追う、街灯が光り輝く夜道のシーンが美しい。心細い気分になって、泣きたくなるような心象的な風景だ。それ以外にも印象的なシーンが多い。昔に比べてカメラの質が良くなったのか、すばらしい映像の質感だ。雪が降っているだけで満足している町の人々は、完全に静止している。その静止した町を2人が逃げる。満足していれば、そこに身動きもしない。周りも見ない。進歩もなさそうだ。詩的なシーンだが、なにかの風刺に見える。旅する人間こそが正しいありかたのようにも見える。「どこへ行く?」「もっと先」時間を忘れながら、急いでいる、と青年が2人に対して言う。自分の居場所を探す旅だ。激しい渇望がありつつも、目の前に広がる対象こそが、そもそも目的地でもある。到着する先のない旅はとてもむなしい。くじけそうになりつつも、目的地を目指す。どこへ?もっと先。もっと先。もっと先。ギリシアを旅する気分を味わえる。ここで描かれるギリシアは見ていて楽しいものではない。夏ではないので海の波も空模様も、明らかに冷たい。人があまりいない寂しい大地を歩き、走る。つらい旅の感覚。ヨーロッパの中央へ、心の中へ。自分の居場所を否定している絶望感が出発点。途中、伯父や運転手や旅芸人の青年など、父をイメージできそうな存在に出会うが、期待を裏切られる。父を探し求める旅ではあるが、物語上、父の存在は最初から否定される。2人の求める対象が漠然とし、あいまいになり、個人的な対象ではなくなっていく。観客にも開かれた目的地が共有される。しかし、明確な目的地は、観客にも登場人物にも、誰にも分からない。進む先は、出発点より遠いところ。この国ではないどこか。それは全ての人間に当てはまる理想的な場所のはずだ。人差し指が折れた石像の腕が海から浮かびあがってくる場面が、想像力をかきたてられてすばらしかった。朝日を浴びながらギリシア上空を腕が飛びたつ。シュールだ。人差し指が折れていて、くるくると横に回っているので、指し示す方向は分からないが、希望を感じる。無限の可能性を感じる。たぶんどこかにある。そんな気がする。亡命者が亡命を語った映画は「ノスタルジア」など多々ある。この映画では、自分の国に居続けながら亡命を語っている。自分の国がユートピアになっていないし、郷愁の対象ではない。だからといって、自分の国を否定的に捉えてもいない。出たことがないので、出た瞬間にイメージの世界だ。観客も出たことがないので、このイメージの描写のほうがしっくりくる。誰もが行き先を知らない。そんな世界だ。亡命したことのない亡命者が亡命者を優しく描いた映画だ。目的を持たない旅の物語は、存在そのものが不条理だ。その空気はアドリブ的な要素に満ちている。カフェでテーブルを片づけていたところにいきなりバイオリンを持った男が入ってきて演奏する。砂浜でダンスをしようとしたが、立ちつくし、そのまま走りだす。鉱山の採石場の、巨大な歯車を持った掘削機械は、写っているだけで圧倒される。即興性重視であるかのような、撮影する側の楽しげで自由な気分を感じる。ヌーベルバーグのような雰囲気を感じた。このリズムと即興性、ギリシアの美しい風景と天才的なカメラワークさえあれば、無限に映画を作れそうだ。美しいまでに霧の中。そこから浮びあがってくる1本の木の姿。父の姿や目的地の姿。さらには世界の最初の姿がこの木に集約されているかのように見える。私も旅しているような気分になっていたので、目的地に期待している部分もあったのだが、この場所に納得した。 | |
1982年/アメリカ/109分 監督:マーティン・スコセッシ 脚本:ポール・D・ジマーマン 撮影:フレッド・シュラー 出演:ロバート・デ・ニーロ/ジェリー・ルイス/ダイアン・アボット/サンドラ・バーンハート | |
苦々しいコメディだ。映画の冒頭が舞台となるテレビ番組の冒頭。群衆の中で自分の車に入ることもできずに締め出されるテレビタレントの悲哀。車の中でタレントは下積みの重要性を感動的なまでに真剣に説くが、それを理解できるのも実際にその場に置かれた人間だけなのかもしれない。人間の妄想が止まらなくなっていくこの状況が、面白いながらも、怖い。主人公の住む、妄想増幅装置としての自宅。これは牢屋に見える。コメディアンを目指してすらいない。経験を積んで自分の商品価値をアピールするほうが近道になる気がするが、コメディアンとして必死に芸を磨くよりも、有名になりたいだけのように見える。苦労を追いこしていい面ばかりを見ようとしている。才能を称賛され、世間に注目され、結婚し、高校時代の名誉も挽回される。人生そのものがアマチュアの発想だ。これを見ながら笑えない自分を発見する。この映画では極端だが、普通の生活をしている私にも、思い当たることがある。仕事でうまく共通認識ができないことがたまにある。人間は誰しも妄想に近いような自分独自の観念にとらわれている。私も含め、人間は自分の楽なように、甘美な妄想に身を任せたくなってしまいがちなのではないか。人生は苦々しいものだ。この映画でも非常に苦々しい。ここでは完全に、人生そのものの人生が描かれている。テレビタレントのジェリー・ラングフォードと主人公のルパート・パプキン。この2人とも、どちらも苦々しい状況に置かれている。知らない相手からの電話が自宅にかかってきたり、道を歩いていても気軽に話しかけられたり罵られたり、別荘に入りこまれたり、ジェリーもかわいそうだ。テレビの司会という仕事だって、実際に楽しいわけではないだろう。ジェリー・ルイスは実際に有名コメディアンでもあるので、非常にリアルな等身大の演技だ。「私には私の生活がある」、「イカれたファンも50倍だ」、「私もただの人間だ。悩みを持つ弱い人間だ」というようなセリフは、非常に苦々しく聞こえる。彼の演技から「実際のおれを分かってくれ」というような言葉にできない主張を感じる。パプキンはロバート・デ・ ニーロが演じているので実に堂々たる動きだ。出て行けと言われても出て行かない脳内補完など、普通の生活をしつつもどこか壊れた人格を巧みに表現している。物語は思いがけない結末を迎える。なかなか考えさせられる結末だ。これはテレビ業界ならではの現実である。視聴率優先のシビアな部分もありつつ、人気商売であるため評判が良ければこのような結末になる。法律や人道的な面でアウトローになりつつも、注目を集めたことで社会的に成功する。描き方が鮮やかだ。これはハッピーエンドなのか、そうでないのか。最後はパプキンのアップで終わるが、なにか小動物のような頼りなさだ。この状況が幸せなのだろうか。この場に立つよりも、この場に立つことを妄想していたほうが楽しかったのではないか。甘美な妄想が現実になってしまった時、人は次にどんな甘美な妄想を抱くのだろうか。パプキン自身も今後はジェリーと同じような苦しみを味わうだけではなかろうか。下積みがない分、前途はさらに厳しくないだろうか。この苦々しさは現実を見つめた先に出てきたものだろう。同じような業界だからこそこういう視点をありのままに、鋭く描ききることができたのであろう。この業界、この社会全体がブラックコメディのように見える。 | |
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2012年/日本/113分 監督:山下敦弘 脚本:いまおかしんじ 原作:西村賢太 出演:森山未來/高良健吾/前田敦子/マキタスポーツ | |
ロケハンがよかった。私にとって馴染み深い高円寺のガード下。それだけで親近感が湧く。行き詰まった人たちが身を潜め、なにかをたくらんでいるような場所だ。映画の雰囲気と調和がとれている。話としては、中上健次の「十九歳の地図」という傑作がすでに日本文学にはあるので、目新しい物ではない。出口が見えない若者の暴走が、あまりにもこの映画の場合、ささやかだ。私小説自体に元気がないのだろう。この映画では、行き詰まった若者が、女性や友達のような弱い者、頼れる者、甘えることのできる者に対して、攻撃的に、乱暴に、つながりを求めている。ディスコミュニケーションはディスカウントされて痛々しく買い叩かれていく。明確な目標を持たずに生きている若者の表現としては親近感を覚える。主人公の行動は、きっちりと自業自得のような形で跳ね返ってくる。反則にはペナルティ。明確なルールがある。常識がある。その結果、彼に対して怒る気分になれない。どこかで見たことあるような心象風景だ。救いのない部分に救いを感じる。ただ、3年後のシーンに、面白みが全くない。主人公がなにかを書きはじめるクライマックスなのだから、もう少し説得力がほしかった。なにかを始めるのであればその盛り上がりをきちんと描写すべきだし、なにも始まらなければそのまま終わるべきだ。編集のせいかもしれない。文章でストーリーを進めた部分も丁寧ではない。どこか未完成な雰囲気を感じた。撮影も未完成だ。時間がなかったのか、カメラワークに面白みが全くない。全く動かない。軽くパンしているのみである。登場人物を捉える視点がよそよそしい。ドキュメンタリー的でもあるし、私小説的なのだから、こういう撮り方で効果をあげることもあるのかもしれないが、退屈な状況を退屈に描いても、退屈極まりない。居酒屋での、カップルに向かって、くらいつくようなあの目つきは、とてもよかった。カメラもあの表情にくらいついていた。あのような感じで全編くらいついていけば、傑作になったはずだ。スナック内でカメラがぐるぐる回って、殴るシーンは、個性的だった。可能性を感じる。もう少し大胆に撮影してもよかったのではなかろうか。未完成のようなシナリオ、撮影に対し、森山未来の演技は完成型のような輝きに満ちている。どこかで輝きがあれば、見応えのある物になる。映画の魅力の一つだ。完成された役者が、未完成を演じる。コンパに行く友人に怒るシーン。なにが下北だと居酒屋で毒舌を吐くシーン。どうしたら、こういう演技ができるのだろうか。思わず感情移入してしまい、森山未来がかわいそうに見えてきてしまった。実際はいい生活してるはずなのに、こういう人にしか見えない。暗闇の部分まで表現している。攻撃的でありながら、弱い。消え去らず、敗れ去らずにたくましい。最後に残るのはたくましさだ。青春映画のような、どこかさわやかな肌触り。卑屈な精神が、共感や反感で激しく揺さぶられる。閉じこもらない、価値観が多様な卑屈。同じ列車の中にいるような気分になる。一番の見所は、カラオケスナックのような場所で、ケガをしたオッサンが毒づくシーンだった。「おまえ、この先なんだってできると思ってんだろ。できねえぞ。なんにもできねんだよ。ただ働いて食って終わってくんだよ。世の中そういうふうにできてんだ。わかってんのか。中卒。この先、生きてたってなんにも楽しいことねえぞ」全てはそのとおりである。そのとおり。しかし、だからこそ。だからこそ。だからこそ。苦いようで、深みがある。相手に対してでなく、自分に対しても言っている。逆説的になにかを語っている。そこで主人公が怒ることはない。逆に、そこで主人公は、自分の夢を語る。力弱く、自信もなく、根拠もない。だからこそ、それでいい。それを聞いたオッサンも、自分の夢である歌を歌う。心の通いあったリアルなシーンだった。 | |
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2003年/ドイツ/121分 監督:ヴォルフガング・ベッカー 出演:ダニエル・ブリュール/カトリーン・ザース/チュルパン・ハマートヴァ/マリア・シモン | |
不思議な暖かさにあふれた傑作。「これで一発当てよう」というマーケティングから作られた製品ではなく、社会の流れの中で自然に現れたような印象を持つ。主観だが「グッバイスターリン」だと皮肉な意味合いを感じて「グッバイレーニン」だと感傷的な気分になる。ピクニックの場面以降の後半部分からはドラマがたくさんあって目が離せなくなる。たたみかけるようにストーリーが展開されるが、演技や照明やBGMのせいで非常に自然な感じになる。日本の現在の環境で作ったらインチキくさくなるかチープなドタバタ劇になるはずだ。こんなふうには、なかなか作れないと感銘を受けた。病気の家族のためウソをつく設定は世の中にたくさんある。これだけでシナリオ上は強烈なカセとなるが、この話では家族の病気と国家の崩壊を重ねた部分に個性がある。おなじみだった東ドイツ製の商品をそろえるのに苦労する場面からは、すさまじい勢いで国が変わったことを逆説的に証明している。主人公がベルリンの壁をこわすようないかにもな場面は存在していない。社会の激変を表層的なトピックの羅列ではなく、身近な家庭的な視点で語っている。母の喜ぶように架空のテレビニュースで東ドイツの栄光を語っていたが、物語が進むにつれていつのまにか最後には自分の理想の国家を語っていたところが印象的だ。国との距離をくっついたり離れたりして、自分が国民の中の一員であるという意識に目覚めつつあるのだろう。自分が家族の一員だと認識できたように。家族のための小さなファンタジーから始まり、理想の国の、自分の未来への、大きなファンタジーが、自然に浮かびあがってくる。未来が感じられる、やさしい終わり方だった。 | |
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1994年/アメリカ/93分 監督:ケヴィン・スミス 出演:ブライアン・オハローラン/マリリン・ギグリオッティ/リサ・スプーノア/ケヴィン・スミス | |
主演の2人が、ビーバスアンドバッドへッドみたいな凸凹ぶりだ。きちんとそれぞれに性格を持たせて、奥行のある人物描写をしている。コンビニのカウンターを挟んだ人物の配置には、職人的な構図の安定が感じられた。監督が普段からバイトしていた場所を舞台にしていたので、ロケハンを充分にできたのだろう。ギャグっぽかったけど、一度も笑えなかった。女の子にタバコを売った後、罰金を払ったり、トイレでの性交など、エピソードがまとまりすぎていて、はちゃめちゃな感じがしなかった。真面目な監督なのだろう。アメリカの若者の閉塞感を背景に流した演出が新鮮だった。たんに、日常そのままの描写なのだろうけど。 | |
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1992年/イギリス/113分 監督・脚本:ニール・ジョーダン 撮影:イアン・ウィルソン 音楽:アン・ダドリー 出演:スティーヴン・レイ/ミランダ・リチャードソン/フォレスト・ウィテカー/エイドリアン・ダンバー | |
スティーヴン・レイの演技が光る。実人生でも絶対にどこかのタイミングで犠牲者精神を発揮しそうな表情と動きだ。この人物に深く共感を覚える。一体化してしまう。へこたれた目つきと気のぬけた笑顔。全身から発散される、おし出しの弱さ。俳優というよりも、本当に工事現場で働いている人のように見える。だらしないようでいて、シナリオの要求に沿った切れのいい動きをしている。かなりの技巧派だ。過激派には見えない絶妙の存在感だ。政治、人質、女。なにかに翻弄されているが、最後に物語を語りはじめる。負けたようでいて、なにかを確実に勝ちとっている。彼の演技が、そこまでの深みを表現するのに大きく貢献している。さらに、脚本が秀逸だ。アカデミー賞の脚本賞受賞も納得の出来映え。サスペンス映画でありつつも、文学的な雰囲気がある。詩的言語がちりばめられてとても美しい。イアン・ウィルソンの撮影は、妖しく退廃的で、夢の中にいるかのようだ。映画全体に漂う、酩酊し、我を忘れ、離れられない中毒性。映画の筋道を越えて、どこか別の方へ、別の空想で頭が満たされていく。危うい感覚。サソリ型、カエル型。人間のタイプは2つあるという。カエルの背に乗りながら、溺れると分かっていてもサソリはカエルを刺す。「しかたないんだ。それが自然だから」裏切ったのか、裏切られたのか。IRAのテロリスト。極端な役柄だ。イギリスだけにリアリティがある。女にだまされ捕まった男。男の頼みを聞くテロリスト。前半は緊張する。嫌な気分になる。暗い気分でいっぱいだ。なにか、どこかで間違っているような不安定な感覚。そしてスポーツのような追いかけっこ。ゲームが始まる。そして一瞬でゲームは終わり、バランスを失う。夢の国は消える。逃亡。完全に追われる側だ。行き着いたイギリスの街並は暗く陰湿だ。身を隠す。暗い生活だ。自分であるようでいて自分ではない感覚。どこかでバランスを崩している。建設現場、カフェ、アパート。どこか幻のようだ。寄り掛かる相手は女だ。女はサソリなのか。だますのかだまされるのか。それが自然なのか。男はカエルなのか。だまされているのか。それが自然なのか。女は歌う。退廃的な歌を。気高くて甘い。私の頭に霧がかかる。永遠に覚めることのない迷路の中に入りこむ。「不可解だ」「それが人の心ってもんさ」女の声は低く、恍惚の笑みを浮かべる。どこまでも頭の奥まで引きずりこまれていく。「最後までやり通せる?」「知らないならどうして?」「人生ってつくづく滑稽なものね」個人的には彼女はとても美しく見える。素晴らしい女性のような気がする。彼女に恋をしているかのような気分になる。どこかでバランスを崩す。そして別の女が訪れる。捨てたはずの過去だ。ゲームが再開される。シュートのチャンス。得点は死で、ルールは死だ。ルールを欺くために、トリックプレーを試みる。ここで完全に現実が消える。逃げ場もなく、追いつめられて、カエルのようでサソリのような。最後に自然に戻る。どこかになにかが救われている感覚に満たされていく。私の中では、なにかが続いている。スタッフロールで歌が流れる。ボーイ・ジョージの声が印象的だ。まさにボーイ・ジョージにしか表現できない音楽だ。公開当時は溺れるように聴き続けた。実際は1964年にイギリスでヒットしたデイヴ・ベリーの曲である。作中でもデイヴ・ベリーのオリジナルが聞こえるシーンがある。この曲がなければ、この映画が作られなかったのではないか。それくらい魅力的な曲だ。2012年になってもまだ魅力的に聞こえる。大きな謎かけをされているような気分になる。解けそうで解けない。どこかに答えがあるかのような。ここではないどこかに。独特のリズムに体を揺らし、答えを探しに出かけたい気分になる。 | |
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2000年/ドイツ/91分 監督:マティアス・グラスナー 出演:モーリッツ・ブライプトロイ/ニコレット・クラビッツ/リッチー・ミューラー | |
それにしてもガラガラの客席だった。夏休みには最悪に向かない映画だな。ドイツ語の映画はあまり見たことなかったので新鮮だった。アキラ役の役者が良かった。誰なのだろう。ただ、勘違い日本風の部屋が、ウォンカーワイの「天使の涙」風のライティングで撮られていたのはご愛嬌か。いたる場面にマニアックさが出ているように感じられる。通には受けそうだが、どこに個性があるのか定かではない。寝たふりをしていた男が、女が出ていった瞬間に目を開けるような、恥ずかしい今さらな演出はやめてほしい。薬を絡めた逃避行よりも、「ブルーベルベッド」みたいな怠惰な雰囲気にすればよかったなあ。ライトもきれいだったし、アクション映画っぽさをなくしたほうが良かった。DJサンシャインが、なぜわざと目の見えないふりをしていたのか、説明しても良かった気がする。「面倒なゴタゴタに巻き込まれるのが嫌なのでそうしている」そんな設定、パンフレットを立ち読み(700円もしたので買えなかった)しなきゃわかんないじゃん!盲目DJプレイをもっと観たかった。「あいつはファンタンゴだ」とか「妖精になって叶えてあげる」とかいうセリフが印象に残った。主演女優の演技が良かった。叫びながら踊ったり、のた打ち回ったり、犬をハンマーでたたくシーンが良かった。何秒もなかったけど、舌が光るドラッグのパーティーのシーンがすごく良かった。最後のほうでストロボライトがピカピカ光って女が撃たれるシーンがきれいだった。全体を通してしまうとB級映画で終わるが、断片的な部分に魅力を感じた。カメラの構図が安定していたので気持ちよく観れた。 | |
1988年/フランス・イタリア/168分 監督・脚本:リュック・ベッソン 脚本:ロバート・ガーランド 音楽:エリック・セラ 撮影:カルロ・ヴァリーニ 出演:ジャン=マルク・バール/ジャン・レノ/ロザンナ・アークエット/ポール・シェナー/グリフィン・ダン | |
はじめに海があって、それ以外の構成要素はそれほど重要ではない。イルカの精神世界に触れるかのような、エリック・セラの作ったBGMが美しい。無駄な会話がないのがいい。プールの底で酒を飲み。深海で踊る。言葉以上の友情。その友情は海と密接だ。イルカに限りなく近い青年の話だ。この映画を見ている最中、なぜか息を止めている瞬間が何度もあった。共感なのか。なぜだろう。本来なら、この映画は海の中で見るのが最もふさわしい気がする。いや、そうだろうか。主人公はどこへ潜っていったのだろうか。私たちのいる、ここもまた、海ではないだろうか。水中カメラを筆頭に、機材をそろえて驚きの映像を作りだしている。自分の人生の一部を映画にしているので、ロケハンや構想やキャスティングについてはおそらく人生の一部分が使われているに違いない。撮影についても、共に泳ぎ、共に潜り、共に笑っていたような、強固な力を感じる。なにを撮りたかったのか。結果としてなにが写ったのか。なめらかなイルカの動き。さざめく波の動き。海の中の静寂。美しい海中の青いグラデーション。海の色が青く、深まり、暗くなっていく。海面を走るカメラ。すーっと続く大海原。青い海に浮かぶヨット。ここにしかない魔力。いつまでも眺めていたくなる魅力がある。ストイックでありつつも、女優の魅力も大きな要素を占める。イルカとのベッドシーンではなく、対象が人間の女性でよかった。愛情はあるのだろうが、息継ぎしている時だけ地上にいるような感じなので、彼女と向き合う時間が少ない。最初の夜も、彼女といたよりもイルカと遊んでいた時間の方が長かったはずだ。人間というよりもイルカだ。浮気する暇もないはずなので(そもそも浮かんでこない)、彼を待つ根気さえあれば(年を取れば息継ぎの時間も長くなるだろう)、その後もなんとかなりそうだ。がき大将がそのまま大きくなったようなジャン・レノの演技が光る。主人公がイルカみたいなので、彼が演技の中心にいる。海の男だ。彼の陽気な挙動が映画の活力となっている。弟役のマルク・デュレも存在感がある。脇役がしっかりしているから話がもりあがる。主人公の最終目的はどこにあるのだろうか。映画のクライマックスはどこにあるだろうか。最終目的は、海に帰ることにありそうだ。イルカにその方法を聞いているかのようだ。人魚を本当に信じているかもしれない。酸素ボンベ付けていればもっと長く潜れて楽しい気もするが、素潜りの方が重要そうに見える。血の巡りや心肺機能がイルカに近づくのかもしれない。これが空の上で鳥と戯れたり、地底でモグラと戯れたりしていると、変わった映画になりそうだ。海という場所。ダイビングの良さを伝えているだけではない。競技大会での優勝には全く興味がなさそうだ。もっと普遍的なことを語ろうとしているように見える。海にいる時よりも地上の方が生きるのにつらそうだ。海の世界が天国のような魅力を持っている。地上には、あまり用はない。水の中にいない時の表情が夢うつつである。そこにいて、そこにいない。地上において、逃れられない海の魅力に溺れてしまっている。家族が消えさって、イルカが友達であり家族である。心に深いなにかを負っている。家族の記憶とも重なり人魚の伝説とも重なる。あれだけ海のそばに暮らしていたので、小さいころの話題は必ず海に関することだったはずだ。心の寄り所を海に置いてきたような。感情を海の底に置き忘れてしまったかのような。この映画のイルカを見ていると、彼らの方が海の中ではなにかを知っている。泳ぎかただけではなく、哲学も持っていそうだ。人類の進化の段階で、私たちが陸に上がる際に大事な物を忘れてしまったような気にもなる。それだけではなく、現代の我々の心理的な意味でも同じことが言えそうだ。私たちは大事ななにかをなくし、探している。人生は海の中のようで、イルカたちはなんでも知っている。私たちも、息を止めてどこまでも限界まで潜っているのではないか。私たちはどこにいるのだろう。見上げると、そこから海面は見えるだろうか。イルカは近くに泳いでいるだろうか。「I’ve got to go and see .」と彼女に伝えて、海に潜っていった。私たちがなくしてしまったものを取り戻しに、彼は海の底を目指して沈んでいったのかもしれない。彼はあれからどうなったのだろう。もしかしたら、まだ潜っているような気がする。しかし、また上がってくるような気もする。アメリカ編集版では、イルカと共に戻ってくるシーンがあった。今回じっくりと向き合ってみると、あれは必ず戻ってきそうな気がする。ただ、ベッソンにとっては、まだ海の中にいたかったのだ。おそらく映画撮影は、彼にとっては深海なのだ。だからあそこで映画が終わり、私たちは彼と共に、探す旅を続けているのである。 | |
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2007年/日本/118分 原作・監督・脚本:松尾スズキ 撮影:岡林昭宏 出演:内田有紀/宮藤官九郎/蒼井優/りょう | |
昨今の医療技術も進歩しているし、閉鎖病棟といっても色々な種類はあるだろうが、たかが前日の夜に大騒ぎしてオーバードーズしたくらいで、ここには入院しないと思う。病院の描写全てがインチキ臭い。患者をネタにするようなデリケートな問題もあるし、監督としては1回くらい入院してみてもよかった気がする。期待外れで、さみしい気分になった。普通の世界を舞台にして、普通の場面での転調とか、ずれたおかしさとか、妙な逸脱を提示したほうが分かりやすかった気もする。5点拘束されていろいろな管を付けてるのに、意識を回復したからといって、あそこまで通常の会話ができる内田有紀の演技力がすばらしい。最初から最後まで黙って内田有紀を眺めつづけなくてはならないので、見る側にはある程度の許容力が問われてくる。監督や脚本はともかく、岡林昭宏のあまりにも稚拙なカメラワークに驚いた。ロケ地の美しい風景をこの映画の中に入れることはできないし、そもそも病院は見た目には退屈な場所なのだから、カメラワークはもう少し考える必要があった。大竹しのぶの演技がすばらしい。この「西野」という部分だけ、突出してる。マトリーシカ、おしり触る、ハンバーグとご飯とみそ汁にスピード感を与えた物の3点が馬鹿馬鹿しくて印象に残った。かかとを3回叩こうとして拘束されているので叩けないシーンがよかった。言いたいことをナレーションで表現するならば、それは小説で十分だし、映画で伝える方法論はもっと他にあるはず。いったい私はなにを求めて映画を見るのか。その辺の表現に対する諸問題を考える意味ではいい映画だった。 | |
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2009年/フランス/110分 監督・脚本:クロード・シャブロル 脚本:オディール・バルスキ 撮影:エドゥアルド・セラ 出演:ジェラール・ドパルデュー/クロヴィス・コルニアック/ジャック・ガンブラン/マリー・ビュネル | |
墓地で口笛。その向こうに海が見える。そして黒焦げになった死体。長回しの印象的な冒頭だが、どこか唐突で、かみあっていない。ベラミーさんは、実に優雅な刑事だ。バカンスでの事件だけあってのんびりしている。ホームセンターで棚板を買うシーンなど、普通の刑事物には存在しないはずだ。日曜大工と同じような、趣味でやっているような捜査。手応えのなさに驚くが、それもまた人生か。ただ、捜査ミスなのか、なんなのか、はっきりと事件を解決しないので、刑事としては失格のような気がする。だまされたのか、真実だったのか。犯人は追いつめられるどころか存在しなかったかのような、ささやかさ。事件が観客に対しては全く解決しなかったのが興味深い。人生ならこの結末でいいのだろうが。自叙伝的な内面描写と日常描写、そして、事件に挑む捜査の描写。この2つの描写の調和がとれていない。たまたま店員が事件の関係者だったり、訪問したら死体の第一発見者となったり、たまたま容疑者の愛人の不倫相手が知り合いだったり、たまたま知り合いの友達が事件の弁護士だったり、法廷で歌えば意味もなく無罪になったり、びっくりするぐらい安易なシナリオだ。脚本は、クロード・シャブロル監督と、オディール・バルスキ。なにを語りたかったのか、それとも語る気がないのか。普通は逃亡中の容疑者の居場所が分かったなら、身柄を拘束するだろう。泳がせておく意味が全く分からない。職権乱用ではなかろうか。保険金殺人よりも迷子の犬を捜査していたほうがよかったのではないか。保険金がらみの「殺人」と、後半部分の2つの唐突な死。映画の中で3人も死んでいる。どれも不合理だが、リアルにも思える。遺作ということもあるのだろうが、映画の中で、死が身近なものとして存在している。死に近づいている現実感覚だけは良かった。自叙伝のような、非常にリアルな生活描写が多々あるが、残念ながら、そこには驚くほど生命力がない。これは退屈だ。牡蠣がおいしそうだった。ワインを飲みたくなった。 | |
1939年/フランス/106分 監督・脚本・出演:ジャン・ルノワール 撮影:ジャン・バシュレ 出演:マルセル・ダリオ/ノラ・グレゴール/ローラン・トゥータン/ポーレット・デュボスト/ミラ・パレリ | |
ストーリーがなかなか面白い。飛行機に到着した英雄が称賛の嵐の中、愛人が現れなかったことに対して大きく落胆する。この思いもよらぬ導入と、気持ちの激しい落差の演出はうまい。しかも、愛人の来なかったことをインタビューで語ってしまい、それが愛人の家のラジオで聞こえるという、次のシーンへの見事な導入になっている。普通に運転していて、いきなり意味もなく事故になるという演出も新鮮だった。パーティで銃が撃たれ、余興なのかなんなのかわからないような混乱ぶりも面白かった。プロット自体は、非常に古典的なものであるので安心してみることができる。お互いの不倫相手を、夫婦が自らの別荘のパーティに呼ぶ。設定としては対立構造がしっかりしているのでわかりやすいドラマになっている。ドロドロとした人間模様を描くのではなく、カラっとしている。江戸っ子的な気風の良さを感じる。オクターブやマルソーの動きはコメディアンの動きだ。他の人物たちも、喜劇のような言葉のぶつけ合い、たたきあいだ。パーティの大混乱を描きながら、カメラが冷静に人物を映しだしている。個人的には、撮影方法に興味を持った。冒頭のラジオの報道シーンでの混乱した描き方が上手だ。騒ぎたてる人々、カメラ。ドキュメント風な臨場感がある。どこかに向かって進み続けるような熱気がある。一つの世界を作りあげようとする熱意を感じる。群像を描くのがとてもうまい。カット割のテンポと遠近感の撮り方が個性的で、ここに魅力がある。まるで自分もその場にいるような気分になる。臨場感の演出。祝祭感覚が非常にリアルに迫っている。背景があり、奥行きがあり、立体感がある。室内が背景になっていない。カメラの前を人が横ぎり、自分が自然な感じで動いている。豪華な室内装飾がきれいで、衣装もすばらしい。本物が映っている。映像的に、満足のいく完成度だ。狩りのシーンがしっかり撮られていて、非常に楽しかった。ウサギが走り、銃声がして、倒れる。見事な撮影だ。さらに貴族社会の残酷さも表現していて、最後、獲物のように射殺される結末部分との調和も取れている。ここまで貴族に対して懐疑的かつ否定的に描いた映画はあったのだろうか。当時を考えるとこの状況はなかなかスリリングだ。だが、批判的に描きつつも、冷たく突きはなすわけではない。リアリティ十分で、説得力のある人物造形。貴族たちが生き生きと描写されていることを考えると、失われていくべき世代への郷愁の念もありそうだ。社交界のルール。ヨーロッパが最先端で支配者であった時代。ゲームの規則にのっとり、誰もが嘘をつく時代だ。自分では恋と信じているが、全ては気まぐれであり、嘘であり、信じられないものであり、ごまかしである。浮気であり、遊びであり、変化であり、自由である。幻想である。決心は揺らぐ。愛なのか、惰性なのか。人生の演技をしているかのような男女の演技。貴族社会を舞台にしつつも、どこか普遍的なテーマを扱っているような気がする。狂騒の後の寂しさ、むなしさ。完璧な人物など存在しない。この映画は、人間を否定するわけではなく、肯定する側に立っている。今回は事件として貴族的特権で処分できそうだが、かなりの限界を感じる。ラジオで称えられる英雄のほうが、彼ら貴族階級よりも強くなっていくような社会がすでにやってきつつある。もはや時代が彼らを取りのこしつつあるような気もする。永遠に続くわけではない。幻想のような人間。幻想のような貴族社会。幻想のような人間関係。勝っているように見えて、なにかに負けている。楽しそうに見えて、どこかに絶望している。そこにあるのは、11月の夜。ひんやりとした、しっとりとした印象を残して映画が終わる。絶妙の感覚だった。オクターブを演じたルノワール監督。監督自身が物語の中に入りこみ、非常に魅惑的な人物像を作りだしている。軽い絶望があり、落胆があり、どうにも腑に落ちない存在の危うさがある。寄生し、頭に夢をつめこみ、酒を飲み、我にかえるとみじめな存在。熊のぬいぐるみを着てこっけいな立場を演じつつも、悲哀がにじみでている。忘れられない好人物だ。外の階段で、オーケストラの指揮の真似をしたシーンが印象的だ。この名演が強烈な印象を残す。 | |
1953年/メキシコ/82分 監督・脚本:ルイス・ブニュエル 脚本:ルイス・アルコリサ/ホセ・レベルタス 撮影:ラウル・マルチネス・ソラレス 出演:カルロス・ナバーロ/フェルナンド・ソト・“マンテキーリャ”/アグスティン・イスンサ/ミゲル・マンサノ/ギリェルモ・ブラボ・ソーサ | |
学校の生徒たちが孤児をからかうシーンがあったが、あそこはメキシコ人の観客だったら笑うところなのだろうか。見ていて気持ちのいいものではなかった。それ以外は、かけあいのリズムが楽しいドタバタ喜劇。メキシコの喜劇映画をもっともっと見たくなる。酔った勢いも手伝い、営業時間外に路面電車を運転しはじめる2人組の珍道中。「真夜中の街を路面電車が走ったらどうなるだろう?」という想像を膨らませて楽しげに描写している。パーティー帰りの客たち、屠殺場帰り、シスター、公爵。朝になり、状況はさらに混乱していく。自動車と違って路面電車なので自由に行動できないため、絶体絶命だ。この事件をばれないように立ち回る。この状況は普遍的だ。このシナリオの流れは面白かった。主人公は市井の市民だ。まさに、でこぼこコンビである。憎めない2人の演技が楽しい。小太りのフェルナンド・ソト“マンテキーリャ”が特に印象に残る。コメディアンの動きだ。妹もいて、家族愛の雰囲気がある。親友の片方に美しい妹がいて、片方がそれに恋をしている。世界中で語られる普遍的な人間関係の描写だ。無駄がなく隙がない。妹が兄を守り、妹を親友が守るので、どんな障害でも強固に突き進むような推進力が得られる。これはコメディだとさらに効果的な人間関係になるような気がする。完全に市民の視点で作られた映画だ。インフレの描写など、共感できるような話題でつなげている。運賃も値上がりになったのだろう。この「無料」で走っているという発想も受け入れられやすい要素だ。ラテン気質というのか、全ての役者が元気いっぱいだ。ワイワイガヤガヤした楽しさを感じた。素人芝居の場面は、素朴でなかなか楽しかった。撮影としては、建物に映る市電の影がきれいだったり、電車の後方から運転席まで歩く女性の姿を外からきれいに映していたり、車内に影が流れていくことで走っているかのように見せたり、メキシコ映画の高い技術力を感じた。スタジオだけではなくてロケ撮影も行っているので、メキシコの当時の風景が映っていて楽しかった。 | |
2010年/アメリカ/108分 監督:ロジャー・ミッシェル 出演:レイチェル・マクアダムス/ハリソン・フォード/ダイアン・キートン/パトリック・ウィルソン | |
たまたま金沢旅行中で暇だったので、イオンシネマ金沢フォーラスで見た映画。脚本はアライン・ブローシュ・マッケンナ。脚本は最低だ。「素晴らしき哉、人生!」のように、楽観的にどんどん話が進んでいく。なにかのキャプラ監督へのオマージュなのだろうか。役者なんて、これはもう最悪だ。主演はレイチェル・マクアダムス。彼女の演技のひどさにびっくりした。脇を固めるのはハリソン・フォードにダイアン・キートン。2人とも、演出のせいなのか、それとも、パワーが消え去ったのかわからないが、考えさせられるほどの冴えのなさだった。ただ、元気そうでなによりだった。だが、実際につまらなかったかといえば、全くそんなことはない。ビールを飲んで、ポップコーンをほおばりながら、楽しく眺めることができた。こういう明るくて軽い映画は、とても好きだ。カメラの動き、カメラの流れがきれいで、誰が演じても、どんな脚本でも作品としてきちんと形に残すことができるようなこのロジャー・ミッシェル監督の作り方に感銘を受ける。恋とニュースのつくり方以外に、映画の作り方も感じとれるいい映画だ。わきあがるようなバイタリティと開放感。この、映画を見た後に感じる幸福感はなんだろう。結局のところ、笑顔を見ていて気分が悪くなる人間は存在しないのである。 | |
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1989年/アメリカ/96分 監督:ロブ・ライナー 出演:ビリー・クリスタル/メグ・ライアン/キャリー・フィッシャー/ブルーノ・カービイ | |
89年公開なんだよね。当時の私、16、7、8歳。当時からかなり話題になってたけど、「セックスなしの男女の恋愛は可能なのか?」という売り文句、セックス自体したことなかったから全然興味もてなかったよ!さらにいえば、その売り文句自体、映画とは関係ないと思う。カサブランカについて話せるような恋人っていいな。フットボールを見ながら離婚したことを友人に話し、話の合間合間にみんなと一緒にウェーブするシーンが面白かった。トムハンクスだと、眉間のしわが邪魔なので、ビリー・クリスタルの方が普通の男っぽくていいかも。キレイな映像がたくさんある。話とは関係ないけど本屋のシーンが印象に残った。オーバーでない演技がいい。言葉のやり取りが元気だった。レストランでの喘ぎ声のように、日本人の会話とは感触が違う。新年を迎えるとキスする習慣など、感性的についていけない部分もあった。日本を舞台にしてしまうとジメジメした話になりそうだ。この影響下に「トレンディドラマ」(東京ラブストーリーは1991年放送)があったんだろうけど。セントラルパークの美しい部分の切り抜きは、日本人にとって、さらにロマンチックに写る。湿気のないニューヨークだからこその映画なのかもしれない。 | |
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2000年/アメリカ/111分 監督:テリー・ツワイゴフ 出演:ソーラ・バーチ/スカーレット・ヨハンソン/スティーヴ・ブシェミ/ブラッド・レンフロ | |
無表情で、サングラスをして髪を緑にして、悪態ついて最後はバスで去っていった女を見つづける作業。エログロに走るわけでもなく等身大の出来事を気持ちよくまとめた脚本がいいと思った。映像も、落ちついた感触で、センスのよさを感じる。悪態がもっと面白いと良かった。観客は通常、お約束的な夢を見させられるが、この映画は違う。どこまでも主人公の意気込みが空回り。「私は1977年のオリジナルパンクだ」と、パンクがファッションにさせられる。この女の中の現実はファッションのように移り変わり取りとめもなく、氷の上をどこまでも滑っていく。滑りすぎてかわいそうになった。ここに出てくる美術の教師みたいなアホな人間がえてして意味もなく権力をもっていて我々の生活を左右させられるのだが、それを許せるほど丸くない感じがよく伝わる分かりやすい映画だ。いまどきゴドーを待っている人がいた。冒頭のダンスシーンが良かった。コーエン以外のプシェミをはじめて見たが、なかなか良かった。 | |
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2010年/日本/106分 監督・脚本:中島哲也 出演:松たか子/岡田将生/木村佳乃/芦田愛菜 | |
2010年6月6日、バルト9で「告白」見る。満員。最前列の真ん中。上映前、隣の馬鹿そうな若者3人が下らないトーク。バルト9が満員になっているの初めて見た。ジャームッシュの時の客は20人だったのに。映画が始まる前は、なんの予備知識もなかったため、中学校が舞台ということで名作「台風クラブ」レベルかなと思いきや、ピンク四天王のような暴力性と勢いのある過激作。映像は世界レベル。素晴らしい。状況判断的な通常の芝居に硬さのある松たか子のいい部分だけを非常にアピールしていたのも印象的。個人的にはこの十年の邦画のベスト。「子供が死んで悲しい」という、誰にでも共感できる要素が作品全体を覆っているので、どんなに非現実的なことが起ころうと、シナリオ的に安定感がある。画面構成も下のに重心が低く抑えられ、安定感のある映画的ないいカメラワークだ。「それはたんに偏った価値観の押し付けだろ?」、「なんで死ぬとこんなに話がすっパリ終わったり展開したりするの?」とか映画を見続けると割り切れない思いにかられることが多い。シナリオ学校や大学の創作クラスなどの素人のシナリオは、まるでプログラミングされたかのように軽い死が頻出する。どこか青春の通過儀礼のような死は、この映画には存在しない。見る者にさえ痛みを伴う死。死に向き合えない中学生たちの反応もリアルだ。認識や現実感覚についても考えさせられた。「自分の小さな世界で」と先生が生徒を批判する。たしかに、様々な視点や価値観や認識でこの日常はできている。この映画を見ると、大人と子供の差が浮き上がって見える。自分の小さな世界で戯れる映画も多いし、そういう人間も多い。私自身も、現実の諸要素に向き合うことなく、自分の小さな世界で勝手に解釈し、無謀ともいえる試みを繰り返しているだけのような気がする。台詞だけでなく、表現方法でもその批判を展開している。様々な視点で現実を描こうとする。どんなに幼い視点でも、劇中で説明を受けると納得できる。しかもその視点を観客も評価できて、構造的な判断ができる。シナリオ内にきちんと動機づけができている。逆回り時計の使われかたにセンスを感じた。「ボリス」の轟音を背景にした終盤の逆回しは、私自身の内面に強烈な印象を与えた。この映像には、びっくりだ。シナリオに動機づけがあり、「死」をきちんと描き、映像表現で魅了する素晴らしい映画。R15ということで残酷な描写も多いが、スプラッターではないし、サイコスリラーでもない。向き合うところは別のところにあるようだ。若者が銃を乱射する事件が起きるアメリカなど、海外でも通用する映画なのかもしれない。成長するチャンス(理解者)を与えられながらも、チャンスを自ら消し去り、未成熟であるがゆえに、破滅へと進む。分かりやすいきれいなシナリオ展開だ。登場人物は、「理解不可能」という不条理な性格では描かれていない。先生に対しては首尾一貫した行動のため、「狂気」というよりは「絶望」を私はイメージした。対する生徒に対しては「狂気」というよりは「未成熟」という感じを持った。つまりは映画は作りごとだ。小さな空想の世界だ。同じように登場人物の「告白」も、作りごとその背景には様々な思いがある。できるかぎりそこから明確に、抜けだそうとしていて、その脈動感が美しい。裏切られ、絶望し、小さな世界に閉じこもりつつあっても、広い世界、想像力、思いやりを持ちたいものだ。「もうちょっとおまえら大人になれよ」という優しい視点をこの映画から感じた。最初に、ジャームッシュを引き合いにだしたが、映像感覚が似ていたため。実際の映画を見たらジャームッシュの「リミッツオブコントロール」とこの「告白」では日本人ロックバンド、ボリスの同じ曲が使われていた。映像表現とヒリヒリする同時代感覚に、もはや国境はないようだ。 | |
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1993年/フランス・スイス/95分 監督・脚本・編集:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:カロリーヌ・シャンプティエ 美術・製作主任:アンヌ=マリー・フォー 出演:ジェラール・ドパルデュー/ロランス・マスリア/ベルナール・ヴェルレー/オード・アミオ/ジャン=ルイ・ロカ/フランソワ・ジェルモン | |
ゴダールの映画をもっとも喜ぶ観客は、ゴダール本人だと思う。それでいいと思うし、だからこそ距離感がある。あえて彼の立場に身を置く必要もないし、流れているものをただ味わえばいい気もする。深く考えなくてもそれなりに楽しめる。風景の一つ一つが小説のようだ。力強い。風景に読み解かれるべき物語がある。しかし、風景の中にその対象が現れることはない。消えてしまったページのように。最初に結末があったのかもしれないし、結末に最初があったのかもしれない。ずっと探していたくなる。もしかしたら、映画の中に答えがないのかもしれない。上からの断定口調の結論ではなく、下からの問いかけになっているのが魅力だ。偉大なるゴダールというよりも、迷える子羊のようだ。誠実だ。共に世界を歩いているかのように。心象風景をスケッチしているように見えるが、対象が見えないので、どうしても断片的になる。どんどん逃げていく。なんとかイメージをつなぎとめようとしている。もともと備わっていた斬新な編集能力が相乗効果をあげている。現代の風景をコラージュした宗教画のようだ。美術として優れ、なにかが描かれている。まるで映画館が教会のようだ。はじめから理解できない。指し示す言葉はあるが、それ自体が神話だ。壮大な対象を、なぜか映画で表現しようとする試み。語るだけなら、、音楽を奏でるだけなら、絵画を見せるだけなら、穏やかだが。映画になると、刺激が強い。暗闇で観客は一人。物語を買う人。書店。それらしき会話。詩的言語が重なっていく。その対象についての一言。それらしき風景。「アンジェリカ!」現代においての対話。その足跡を求めて。光と影の構図。映すことのできない対象をなんとかして映しだそうとする。目的のために文章は作りかえられる。呼びさます。手に入れるために、目の前に出現させるために、言葉や音は全て呪文のようだ。ありふれたものではなく。暗示と象徴のための映像。第一の書。明るい色彩。あふれかえる光線。わからない。そして考えなおす。「神の姿をはっきり見たと断言するような人は自分の単純さかあるいは俗悪さのなかに見たんだ」では、この映画は?見れるのか。見れるのか。第二の書。夜。美しいカフェ。それについての会話。対照的な人間。小ささ。歴史。ピラミッド。閉店。夜が深まり。海で泳ぐ。壁に向かってテニスをする。そこにいない我々は彼らを見る。映画と我々の間になにかがある。歴史的なもの。第三の書。行方不明になった男。本のページが消える。「目に見えない物があることを知るべきだ」探しても見えない。消え去った本。消えたのは男なのか、ページなのか。第四の書。巨大な存在が現れつつある。「すべては一人の中に。他者もその中にある」行方不明でもなく、消え去ったのでもなく、すでにはじめからそこにいて、ずっとそこにいつづけている。出会いも別れもその意味は同じ。対象が大きすぎて、人間の存在さえもあやうい。変化しているように見えて、同じことなのだ。ただの錯覚であるかのようだ。全ての色彩も色彩を持たないかのようだ。不安と絶望。目撃者が現れる。呼びおこす試みが成功したかに見える。第五の書。ついにその姿を現わす。海から上がり、ベランダの風を受ける女は消えたはずの男に会う。男は別のものになっている。「昨夜、シモンを私のよりどころとしたのだ」時が混乱する。死を前にしたように、理解できず、意味を持たない。見えない。遍在する。今は朝か、それとも真夜中か。夢から覚めたのか。私はいったいなにを見ているのだろうか。遠くまでやってきた。そんな気がする。夢から覚めたような美しい風景が目の前に広がっている。スイスの湖。華麗な美しさ。美しい絵葉書に書きつらねるように。言葉が波紋を呼ぶ。私はまだ別の町にいる。水飛沫や波紋を広げ、飛び立つ寸前の水鳥のような感傷。流れだす全ての風景は、意味をゆるめた隠喩。様々な引用は、引用される前の状態から、自由だ。専門家ではないので、それだけを追いつづけて解釈をしつづけている者よりも、ここでの語りかけは、自由だ。不滅の生命よりも。これはなに、あれはなに。あの人は誰、私は誰。遍在している。解釈は必要ない気もする。自分の発想を鈍らすだけだ。映画が終わる。そこにとどまっていたくなる。しかし、そこが、ここでもあることに気づく。遍在している。自分の中にある。映画の延長線上に。まるで電車のレールのように。湖の岸辺がすぐそこまで迫ってきている。 | |
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1989年/イギリス・フランス・オランダ/124分 監督・脚本:ピーター・グリーナウェイ 撮影:サッシャ・ヴィエルニ 音楽:マイケル・ナイマン 出演:リシャール・ボーランジェ/マイケル・ガンボン/ヘレン・ミレン/アラン・ハワード | |
どぎつい悪趣味なライトを当てられた犬や人間がうごめいている。ライトのせいで、せっかくの豪華な料理もおいしそうに見えない。全ての役者の動きが芝居がかっていて不自然だ。次の場面に移る時、シームレスにカメラが壁を突きぬけて横に平行移動する撮影方法がすばらしい。場所ごとに色が違うので、場面転換が鮮やかだ。巨大な劇場を眺めているような錯覚。現実離れ。違和感。巨大な見世物小屋を眺めているかのようだ。落ち着きはらった、堂々たるカメラワーク。この鮮やかな撮影を行っているのは、あのサッシャ・ヴィエルニー。「去年マリエンバートで」などで発揮された優れたカメラワークがここでも生かされている。物語としては、泥棒の親分の下品な悪態や粗野な行動が全編を覆っている。暴力描写もたっぷりある。聞いていて、見ていて、非常に不快だ。ただ、傍若無人な振る舞いに呼応する相手がいないので空回り気味だ。虚勢を張っているだけのようにも見える。弱い相手にだけ強い。弱い犬ほどよく吠える。神経質になにかを避けている。恐れていて、おびえているようにも見える。少し物悲しくも見える。この、マイケル・ガンボンだけが印象に残る。狂気をはらんだ彼の演技に驚く。ここまで一体化していると、本当にこの人がこういう人なのではないかという錯覚を抱く。ただ、見ていて最悪な気分になるので何度も見る気になれない。この映画を嫌いな人の気持ちもよくわかる。厨房のBGMが皿洗いの子供の聖歌という点に興味を持つ。宗教的な意味合いを持つ食文化。「人は死を思いおこす物を好む。黒い物を食べるのは死を食べる事と同じだ。胸をはって言うんだ。“死よ。おまえを食うぞ”と」最後に出てくる料理は退廃の極みだ。究極の暴力表現だ。これを食べて、直面する死を本当に超えられるか?と挑発しているかのようだ。食べるということは、もちろん生きるということだ。さらに突きつめて考えると、死を超越すること。食べながら威勢の良い男は、最後に失速する。死を思いおこす物がもっとも高価なものだとしたら、最後の料理は史上最高級の逸品だ。だとしたら喜んで食べるべきだ。イミテーションとしての死なら、おびえたこの男は喜んで下品なしぐさで食べたことだろう。しかし、本当の意味で、人は死を食べることはできない。人は食べながら死んでいるのだ。彼が恐れていたものが目の前にある。死を前に、人は無力だ。料理というものは死を飾ること。その意味ではこの映画をとりまくゴシック要素やグロテスクな描写自体も、納得できる。この映画自体が料理のようなものなのだ。重層的な造りになっていて、不気味なために初見で避けられることもあり、その後、食わず嫌いだと分かっておいしく食べられることもあるが、よくよく最後まで味わっていくと、本質的な、絶対的な、無色無味無臭な存在に気づく。腹に収まったかもしれないが、栄養がなく、消化にも悪そうだ。うまかったのか、まずかったのか。人生と同じようだ。不思議な食事をしたような気分になった。ジャン=ポール・ゴルチエがデザインした衣装が豪華絢爛。オートクチュールの魅力にあふれる。ふだんは衣装に興味のない私だが、この映画には圧倒された。場面を移動するごとに場面の色に合わせて服装の色が変わっていく。このアイデアもすばらしいが、服装が最高の物でないと効果は発揮できないはずだ。映像とすばらしく調和が取れている。俳優よりも服装の方が表情豊かだった。 | |
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1987年/スイス/30分 監督:ペーター・フィッシュリ/ダヴィッド・ヴァイス 撮影:ピオ・コッラーディ | |
天井にぶら下がった、中身が全く分からない、得体のしれない黒いビニールのゴミ袋がくるくると回転しながらゆっくりと降りてきて、タイヤの背をなでると、タイヤが前に転がる。冒険の始まりである。タイヤは物体に当たり止まるが、タイヤの重みで物体は前進する。泡が流れ、煙がわき出で、炎が広がり、砂を巻きあげ、導火線に火をともし、物語がとどまることなく進んでいく。前進あるのみである。ドミノ倒しを30分間見つめるような行為。物事はどこまでも干渉を続けていく。物事はつねに動きつづけている。物体の動きを眺める。ただそれだけの映像作品である。BGMは、物事が動きの中で吐きだすうめき声にも似た音。現代アートというよりも、原始的な祭りであるかのような、怪しげな雰囲気。閉じこめられた場所での異様な運動。美しくもなく、リズミカルでもないが、なにかがうごめいている。どこまでも計算しつくされた物体の運動。それらの連動。この流れは偶然ではなく必然である。始まりと終わり。不思議な相関関係。一つの宇宙である。思考回路でもある。文明全体がこのドミノ倒しのように、約束事に満ちあふれたものではないか。その中で燃えつき、倒れていくガラクタどもたちに親近感を覚える。自分自身も、この中にまぎれこんでいるのではないか。どれもがみずみずしさを持たず、疲れきったガラクタたちだ。一つ一つの物体の動きは、短くて、はかない。一瞬の生命である。天井にぶら下がった、中身が全く分からない、得体のしれない黒いビニールのゴミ袋は、私自身である。自分の動きは終わってしまっても、その流れは、いつまでも続いていく。混沌たる連続性の中にこそ真実があるのだろうか。これらの運動に、なんの意味があったのだろうか。どこまでも謎がつきない。最後はこの煙の流れの動き、もしくは成分が媒体となって、自分がなにかの運動を引きおこしてしまうような、押しよせる力を感じた。主演男優はタイヤだろうか。思いを読み取らせないようなハードボイルドな表情ではあるが、その動きは雄弁だ。丸みを帯びている外見ではあるが、その男性らしい一直線の動きは印象に残る。派手さはないが、非常に力強い。勇気づけられる演技だ。ひときわ存在感のある役者だ。彼の次回作も楽しみだ。主演女優はロウソクだろう。汚らしい物体の中で、しなやかで白い体が映える。立ち姿が清楚である。それでいながら、もって生まれた燃えあがるような外見と才能で、さまざまな男たちをとりこにしてかりたてていく。まさに魔性の女である。炎の演技も光る。炎ゆえに他の物体に媒体しやすい性質があるので役者としてはその素質に甘えてしまっているところが鼻につくが、彼女がいなかったらもっと見栄えのしない地味な映画になったはずだ。タイヤと渡りあい、ろうそくと親密な会話をしながら、自らを激しく燃えあがらせるその姿は圧倒的である。助演女優賞をあげてもいいくらいだ。この映画で気になったところはカメラだ。手持ちカメラの撮影が眺めづらい。作品の性質上、そこだけ人間の動きになっているので違和感がある。せめてドリー撮影にすればよかった。あらかじめ役者の演技が決められているのだから、いっそのことフルオートで機械的に撮影しても良かったのではなかろうか。天井からの俯瞰図も見たかった。定点カメラをいくつも用意しても面白かったかもしれない。 | |
1967年/ギリシャ・イギリス/109分 監督・脚本・製作・衣裳デザイン:マイケル・カコヤニス 撮影:ウォルター・ラサリー 出演: トム・コートネイ/キャンディス・バーゲン/サム・ワナメーカー/コリン・ブレークリー | |
最初のカスタネットでの踊りのシーンは、なかなかよくできている。激しく高いセンス。気高い美しさを感じる。1967年に作られた映画で、舞台が72年。よって近未来をイメージしたかのようなサイケデリックな服装の男女がはしゃぎまわっている。それも古風なギリシアの小さな島で。非常に古風な近未来感覚で、なんだか今の時代に見ると斬新である。この違和感を、感じる。バカンス時のギリシアの避暑地に住んでいる現地民のイメージに近いのかもしれない。「迷惑なやつらがやってきた」、「そうはいっても収入源だ」というような、ギリシア人視点でのバカンスの雰囲気を味わえた。一日にしてリゾート地に変わる流れがリアルだ。島の人々もきちんと描かれているので、話に奥行きができている。「地中海のバカンス」という雰囲気と並行して、この映画では驚くべきことに全編を通じて核の恐怖が描かれる。この2つのテーマのぶつかり合いはこの映画の最大の個性だ。バカンスで侵略されて、核でも侵略される。核爆弾を落とす側ではなくて、落とされる側である。ギリシア人視点での、世界に対する物の見方の一つであろう。これは意図したものなのか、撮影した流れでそんな雰囲気になったのか、唐突かつ、唐突であるが故に怖い。明るさが強調されているのと対照的に、非常に怖い。悪夢に近い。ザワザワした世の中も、現代も、急になにかのアナウンスがあって一瞬のうちに最期になる可能性もあるかもしれない。核の恐怖を取り除くと、この映画の設定は、ベタベタのドタバタ喜劇だ。67年の日本映画というと、クレージーキャッツや駅前シリーズ。マイケル・カコヤニス監督は、日本でも大活躍できたはず。秘密の任務を受けた軍隊が、一般人に変装したところ、他の一般人との交流から思わぬ騒動を生み出していく。パンツ一丁の2人組が彷徨するやりとりは完全にコメディだ。この2人組の演技がバカバカしくて面白かった。たたみかけてたたみかける。コメディとしてよくできているが、現実的には軍が直接介入して島を封鎖してもおかしくないほどの危機的状況だ。その辺の状況すら惑わせるようなギリシアの牧歌的な美しさも、この映画の魅力であるのかもしれない。 | |
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1977年/イタリア/99分 監督・脚本:ダリオ・アルジェント 撮影:ルチアーノ・トヴォリ 音楽:ゴブリン 出演:ジェシカ・ハーパー/アリダ・ヴァリ/ウド・キア | |
昔は人気だった。だから、初めて見たのは20年以上前だ。いまだに怖いというより、奇怪さ、異質さが、映画以上のトラウマのようななにかが、頭の中にこびりついている。たかが映画、されど映画である。同じようなトラウマを持っている人も多いのではないか。みなさん、元気でお過しですか?死の怖さではなくて、別世界に引きずりこまれる怖さ。こんな学校、嫌だ。こんな現実、嫌だ。今一度、見直してみようと、物好きにも、1と2とボーナスディスクがついたDVDボックスを購入。見直してみると、ジェシカ・ハーパーのかわいらしさが印象的。「ファントム・オブ・パラダイス」出演時よりも幼く見える。表情豊かで目が大きくて華奢な体格、さらには身体的にも弱っている設定なので応援したくなってしまう。そのかわいさと反比例する、異様な世界観。このコントラストが際立っている。オルゴールのかわいい音色に現代音楽的な不協和音をどんどんたたみかけていくBGMは、子供の世界が大人によって侵略されるような雰囲気が表現されている。ただの恐怖映画ではなくて、少女を主役にすることで普遍性を持たせている。グリム童話的な、子供視点の残酷な大人の寓話としても眺めることができた。最初の空港のシーンでは、自動ドアのアップが印象的。緊張感あふれるカットを緻密に積み上げていく、徹底した物づくりに感銘を受けた。「サスぺリア2」では犯人が人間だったせいで話の整合性に疑問符がついたのだが、今回は完全にオカルト物なので違和感がない。全精力をかけて恐怖の演出に焦点を当てている。少し突出した病的な集中力を感じた。映像的には赤であったり、青であったり、不自然な原色が画面を飛びかい、別世界に導くような怖さがある。前作の「サスぺリア2」や次作の「インフェルノ」よりも、映像は独特の感触だ。他では見られない独特の色使いである。本来なら黒にする部分にあえて原色で照らし出すことで不安な気分にさせる。そもそもの発想の元となったのがディズニーの白雪姫という点が興味深い。その映像を実現させていたテクニカラーの三原色ネガに着目し、同じような色合いのフィルムを使った職人芸的感性はすばらしい。暗い室内で人物の表情をとらえつつ、背景を明るく浮かび上がらせる手法も興味深い。撮影したルチアーノ・トヴォリは「奇人たちの晩餐会」や「メルシィ!人生」など、その後も活躍している。こだわりが随所に感じられる一流の撮影監督だ。冒頭の殺人のシーンは、ストーリー的にはナイフで刺して終わりでもいいはずだ。この映画の場合は、明確に心臓を突き刺してから天井を突き破って首を吊るという非常にまがまがしい病的なほどの残虐映像となっていて、明らかに異質な監督の心の中の怖さを感じる。その他にも、追いつめられて脱出しようと思ったら針金地獄。この絶望感は、絶対的だ。これを最初に想像した人間は、相当に病的だ。怖い。夢にまで出てきそうな無力感だった。1カット1カットごとに力を入れているので、印象的なシーンも多い。ピアニストが出て行くときの天井から撮ったシーンは、周りの人物の姿をとらえつつ、阻害された状況を伝えていて印象的。「王の広場」での遠景のショットが非常に美しい。巨大な空間を、巨大な照明器具を使って、劇場のように映し出すことに成功していている。鳥の視点でダイナミックな動きをつけることにも成功している。空間の広がりと、人物の孤立無援さ、歴史的建造物の冷たい客観性。広場に盲目の男が立ち尽くす。そして突然の死。単なる殺人シーンというよりも、人生の無常さを感じてしまった。 | |
1975年/イタリア/126分 監督・脚本:ダリオ・アルジェント 脚本:ベルナルディーノ・ザッポーニ 撮影:ルイジ・クヴェイレル 音楽:ジョルジオ・ガスリーニ/ゴブリン 出演:デヴィッド・ヘミングス/ダリア・ニコロディ/ガブリエレ・ラヴィア/マーシャ・メリル/クララ・カラマイ | |
日本で「サスぺリア」が大ヒットしたため、それより前に作られた全く関係ないこのサスペンス映画も、「2」として日本で公開されたようだ。不思議な話だ。この映画には、2度繰り返して見たくなるような特徴的なトリックがあるのだが、私は最初に気づいてしまった。明らかに違和感あったので。たぶん気づく人も多かったと思うが、どうなのだろうか。屋敷に隠された部屋を、どうやって工事したのだろうか。主人公の行く手を阻むように、犯人はどうして動けたのだろうか。ところどころで腑に落ちない箇所が多々ある。シナリオ的にはどうってことない映画だ。殺しのシーンの残虐性は、かわいいものだ。その後、製作された他の監督たちの無数の血みどろのスプラッター映画に比べれば非常におとなしい。しかし、表現の仕方が怖い。映像美を感じる恐怖。映像的な美しさが非常に強く印象に残る。噴水のシーンや自動車に引きずられるシーンなど、大画面を有効に活用して素晴らしい効果をあげている。体験として大画面を有効活用できる、本能的な能力がある。噴水の広場にある、ただの背景であるようなバーも、ホッパーの絵からインスパイアされていてかっこいい。ただの蛇口やオモチャのアップでも面白い効果を上げていて、ところどころにセンスの良さがあり、何度も見たくなる。人物のアップを効果的に挿入していて、緊張感ある流れを演出している。背後から斧で切られるシーンは、ただ切られるだけではなくて、窓を突き破って首がガラスに刺さる短いカットを入れることで恐怖を演出している。横から窓を破って襲いかかるシーンは、たとえば斜めから撮ったら全然怖くないはずだ。正面から撮って、遠近感をなくして、だまし絵のように撮っているから唐突さが強調されて怖くなる。人形が歩いてくるシーンも、斜めから俯瞰で撮ったらシュールなギャグにしかならないが、正面から登場人物の視点で撮ると、襲いかかってくるように表現できる。この人形は、非常に怖い。人形が歩いてきて、頭部を破壊されても動き続けているシーンに恐怖を感じた。自動車に頭を潰されるシーンや、最後の有名なエレベーターのシーンも、印象的なカットを細切れにして「そのもの」を映さなくても、逆に写さないからこそ、恐ろしさを倍増させている。様々な手法で恐怖を演出している。幽霊屋敷のロケーションが最高だ。これは異常に怖い。どこか、たたずまいが怖い。どんな役者の演技よりも、建物が怖い。音楽が非常に効果的。殺しの前に童謡が流れるのは、非常に違和感があり、不思議な感覚に陥る。ゴブリンの音楽が非常に斬新。それほど怖くないシーンでも、この音楽が流れていると、とても緊張感が高まる。最初の霊能力者をマーシャ・メリルが演じていて、本物の霊能者に見えた。適役だった。もっと活躍を見たかった気もする。彼女の迫真の演技のおかげで映画全体が高級なものになった気がした。 | |
2010年/チェコ/108分 監督・脚本:ヤン・シュヴァンクマイエル 出演:ヴァーツラフ・ヘルシュス/クラーラ・イソヴァー/ズザナ・クロネロヴァー/エミーリア・ドシェコヴァー | |
全編を美しく流れるのは、1893年に発表されたグラズノフの 「演奏会用ワルツ第1番ニ長調 作品47」。この曲が素晴らしかったので、楽しく見ることができた。手のこんだコラージュ作品が100分以上も実写の動きとリンクさせて動き続けている。これだけで驚異だ。ヤン・シュヴァンクマイエル、77歳。5年前の「ルナシー」の時も冒頭で挨拶していたが、こっちの方が強烈だ。年をとればとるほど、近づけば近づくほど完成度が上がるのだろうか。自分の作りたいことだけを、自らの想像の世界を大画面に広げきって、豊富な資金を使って実現させた芸術性、独自性を感じる。赤い服、最後に泳ぐ水の色も赤。赤といえば共産主義国家の色であったり、チェコの国旗の3色のうちの1つだったり。最後、必死になって、主人公が赤い水の中を泳ぐ。シュヴァンクマイエルは、アーティストに近い監督なので、社会主義時代の作品は、どれも抑圧からの解放を図るような暴力性がある。人形劇のような作風でも、政治性を感じることがある。今回の新作は、社会情勢を反映したのか、それとも老いて丸くなったのか、だいぶ落ち着いたようだ。落ち着きと共に、別れの喪失感がある。これは夫人のエヴァ・シュヴァンクマイエロヴァーを前作の完成後(05年10月)に亡くしたことも関係しているのかもしれない。最後も、人々に向けての優しさに満ちた終わり方だったように思える。夢は夢。現実は現実。過去は過去。現在は現在。痛々しいことに、悲しいことに、それが現実なのである。しかし、夢の中で会いたかった人に会い、勇気づけられる。圧倒的な別れの悲しさを感じた。主人公は、忘れ去っていた、足りなかった空白の部分を見出し、最後に世界が一つになった。彼が次に見る夢はなんだろうか。おそらく、この映画には出てこないシーンがたくさんあるのかもしれない。また違った種類の夢を見るのではないだろうか。今度見る夢は、夢のある夢なのだろう。 | |
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2005年/日本/107分 監督・プロデュース:本広克行 原作・脚本:上田誠 撮影:川越一成 出演:瑛太/上野樹里/与座嘉秋/真木ようこ | |
私もヴィダルサスーンで髪を洗いたくなった。大学時代、私もSF研究会というサークルにいた。ただ、タイムマシーンは大学のどこにも置かれていなかった。残念だ。「SF研究してる?」「してるわけないじゃないですか〜!」いつの時代も、どこでも同じなんだなあ。タイムマシーンが登場するのは、開始25分ごろ。それまでが長い。躍動感のない野球のシーンや、銭湯のシーンがダラダラと続いている。25年たってもほとんど変わらないような地方都市の、ダラダラした日常が、そこに描かれている。大学時代は実際にダラダラしているのでとても自然である。ものすごい勢いで雲が流れる、夏の青空。その下には、時間と空間が停まったような大学がある。あんなにシャッターを押すたびにカメラが揺れていては、すべての写真がブレているはずだ。カメラ部なんだろ?そもそも真木よう子だし、まあ、いいか。パピコからコーラへの一連のスローモーションに笑った。ここまで力を入れてスローで撮ると、おかしみが激増する。演劇に映画がまさった瞬間だ。撮影は川越一成。ドラマの撮影で有名だ。監督は「踊る大捜査線」の監督。テレビドラマの延長線上にあるかのような画面造り。もう少ししっかりと撮っても良かったような気がする。アート系の映画とは正反対だ。特に注意してスクリーンを凝視しなくても、全く問題ない。熱湯3分、お鍋で1分。インスタントラーメンのような映画だ。気軽に楽しく見れる。オーバーアクションと下手な芝居。大人数で、若さと勢いでごまかす。なにかが夏っぽい。「白とか黒とかどうでもいいよ!」とか、「冬であれよ!」「夏に怒ってるんすか?」とか、「おまえは掘ってもなにも出てこないな」とか、「僕行った後に動物実験やめてください」とか、セリフが強烈に面白い。怖いから未来に行きたくない、とか、行く対象がとっても近いのが印象的。目的が、壊れたリモコンを取ってくる。卑近な対象のほうが、こういった場合、躍動感がある。こういう普通の感覚を持ってきたところに、シナリオ制作上の非凡なセンスを感じる。「ついた!」「まじで!」「すげー!」エアコンがつく。ここが物語のクライマックスである。単なるエアコンの動作である。しかし、感動がある。何事もなく、時間が停まりつつ、ものすごい勢いで、どこかで流れている。夕焼けの部室。せつないものがこみあげてくる。最後、メモを手に、苗字について検討していたようだった。未来をイメージしている者の行為だ。大学生だけあって、その後の人生には無限の可能性がある。ダラダラした日常の中で、なにかが流れている。気負いもなく、発展もないが、なにかがどんどん流れ続けている。時を超えたヴィダルサスーンとクーラーのリモコン。登場人物の一人も自然体のようでいて、完全にタイムスリップして存在を続けている。世界は様々な構成要素から成り立って、それぞれに影響を与えているのだ。予感とか想像というのは未来をイメージすることで、ある意味、未来から来た人間の意識に近い。世界は様々なタイムパラドックスに満ちているような気がする。その結果、無限の可能性がある。地方都市の大学の小さな部室での騒動だったが、無限の可能性を秘めた世界の魅力を提示していたような気がする。上野樹里には風格を感じる。他を圧倒している落ち着き具合だ。普通の大学生のように見える。すばらしい女優だ。 | |
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2001年/アメリカ/110分 監督・製作・脚本:ウェス・アンダーソン 脚本:オーウェン・ウィルソン 撮影:ロバート・D・イェーマン 出演:ジーン・ハックマン/アンジェリカ・ヒューストン/ベン・スティラー/グウィネス・パルトロウ | |
変わったカメラワークやかわいらしい色使いなど魅力は多々ある。マンガ(アメリカンコミック)的おもしろさ。コミックブックが動画になったような独特の質感、色使い、動き、カメラワークである。永遠のテニス少年、永遠の文学少女、同じ服装と髪型の親子、カウボーイ姿。そのままマンガのキャラクターに近い。置行きがあるような構図だが、単調な色合いで壁紙に近い。これはマンガの背景である。セリフはマンガ的な直接表現が多く、表情や動きがカクカクしている。不自然な演技ばかりを強制する小津安二郎といった感じ。カメラが平行移動しながら消防車や登場人物を延々と長回しで撮りつづけるシーンは、作りこみがすごい。撮影方法がマニアック。作りこまれたような不自然な感触。見た目の個性が強すぎて、役者が人間として生き生きしていないのがどうも気にかかる。ハックマン以外の役者にあまり性格的な個性を感じない。たとえば、マーゴとリッチーの幼い頃の甘い思い出をもっと描かないと、テニスでの自暴自棄には共感が得られない。共通認識の橋を観客に向かって架けることが少し不慣れな気もした。そのため退屈に感じる観客も多いと思う。作りこみによる弊害を感じた。ただ、マンガと違ってどこか深みがある。本物を見た気がする。なにが本物だったかというと、ロクでなし爺さんのロイヤル・テネンバウムの存在感だろう。ロクでなし爺さんが主人公である。完全に一家そろって崩壊寸前であるところに、なぜか、というか、破産したので説得力もあるのだが、放蕩親父が帰ってくる。本当に悪者に見える。子供じみた悪者でもあるので、どことなく魅力的だ。ココが外れてしまうと、全ての演技が空虚になってしまうはず。「ライフ・アクアティック」との違いがそこだ。ジーン・ハックマンがいるかいないかだ。のどかな場面にもキレと殺気がある。すごい役者だ。特になにかをするわけでもないし、迷惑なことをしているようにも見えるが、最後には崩壊した物語が再び歩みはじめていく。そこが自然である。家族の再生の物語を、わざとらしいドラマで演出しようとしていないところに共感を持った。この映画で最後に描かれている家族は、誰かに寄りかかろうとしているのではなく、不完全な者同士が寄りそって、それぞれを認めあって生きている。最初のエキセントリックな天才たちの饗宴とは違って、温かみを持った家族像だ。自然な感じで優しさが伝わってくる。家族が描かれているので、誰にでも共感できる要素がある。年老いた父がいる、年老いた父がいた人間なら、見たときの感情も違うかもしれない。この映画では、あそこまで問題のある父ですらも、最後には受け入れられたような気がする。そこに救いがあった気がする。家族と同居していないだろうし、仕事も大変だったかもしれない。目論見から外れた部分もあっただろうが、最期は幸せな人生を送っていたのではなかろうか。家族という枠組みから外れても家族だ。死んでしまって人生という枠組みから外れたとしても家族だ。人生とはそのようにあるべきなのかもしれない。大きな話になるが、別の視点から世界を眺めることができるので、非常に映画という物は魅力的だ。「私はこういう風に世界を見ているよ」という視点を楽しむことができて、励ましになることもある。世界と映画は私以外の物で成り立っている。映画を見ることで物事を多角的に見る経験が積める。この映画では家族についての斬新な視点を得られたので私にとって非常に有意義だった。 | |
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1923年/アメリカ/27分 監督:チャールズ・ブライアント 出演:アラ・ナジモヴァ/ローズ・ディオン/ミッチェル・ルイス | |
見る前は、ただの古びた時代錯誤な物だと思っていたが、脳髄がしびれるような多幸感を覚えた。誰かの禁断の夢を見るかのような、目の前で起きていることが理解できないような。豪華な舞台装置。構図のすばらしさ。最上級の画面構成。これは芸術だ。いつ撮られた、どこで撮られた、そういう周辺の情報が吹きとんでいく。美しき流線形。姫が現実ばなれして美しい。頭にフルフルと揺れる球体をいくつも付けてかわいい。アラ・ナジモヴァ。キラキラと光り輝いている。すばらしい女優だ。預言者のヨカナーンの、妖しい存在感も強烈だ。財宝のような魅力がありつつも、恐れられている。そしてサロメには屈しない。パリサイ人、ナザレ人、貴婦人、処刑人、それぞれの衣装が独創性にあふれている。全盛期の手塚治虫の漫画がそのまま動いているような錯覚を覚える。イメージの洪水だ。7つのヴェールの踊りが斬新だ。まるで能を見ているかのような様式美。白いヴェールと白い人影。動き、体の曲線、配置、全てのラインに無駄がない。どこかの到達点。ヨカナーンにキスするシーンは、たしかに神も怒りそうなほどの退廃的な魅力にあふれている。私が映画館で見たのは27分の短縮版だった。帰宅後、74分の本編をネットで視聴してみた。鮮やかな編集の冴えを見せる短縮版のほうが面白かった。画面の大きさにも関係あるかもしれない。パソコンじゃ、迫力が出ないはずだ。監督はチャールズ・ブライアント。妻はアラ・ナジモヴァ。夫婦で作った映画だ。ナターシャ・ランボヴァの力も大きい。彼女は、この映画で美術監督でもあり、脚本も書いていて、衣装もデザインしている。 | |
2003年/フランス/115分 監督・脚本:エリック・ロメール 撮影:ディアーヌ・バラティエ 出演:カテリーナ・ディダスカル/セルジュ・レンコ/エマニュエル・サランジェ /グリゴリ・モヌコフ | |
1番よかったのは、「海辺のポーリーヌ」で主演したアマンダ・ラングレが出ていたこと。彼女のシーンだけ、映画の緊迫した状況から離れて明るさがあった。映画自体は、異様な作風だ。主役の男がベラベラとしゃべりまくり、そこには全く真実味も内容もない。特にかっこいいわけでもなく、地味な風貌だ。これを座って115分も眺めつづけなければならない観客は苦痛だ。名匠の晩年とはこんなものなのだろうか。当時、日本で未公開だったのも、残念ながら理解できる。鮮やかな色彩や生命力が消え失せ、言葉だけがどこまでも続いている。今回は勉強になったが二度と見たくない映画だ。個人にとって国家というものはやっかいだ。奥さんがかわいそうだった。翻弄される翻弄される翻弄される。政治の犠牲者を象徴していたのだろう。最後も裁判で夫のアリバイを証言しつづけたのだろう。夫への愛情のなせる行為だ。彼女の悲劇的な存在感は強烈だった。世界にはいろいろな主義がある。仕事上、一つに染まれない人間は大変だ。三重もスパイしているとなにかと大変そうだ。荒波に飲みこまれてバラバラに崩壊しているような人格。シリアスでありながら、不条理を突きぬけて笑ってしまうような会話劇。会話が主体の地味で静かな体裁。スパイというより詐欺師のようだ。全ての発言が嘘くさく、信憑性がない。当時のニュース映画が見応えあった。これだけ流してもらったほうがよかった。苦痛に満ちた映画だったが、当事者としてのフランスの状況がよく描けている。映画の面白さと関係なく、この歴史的状況の演出が、非常に身に迫るくらいにリアルだ。共産主義勢力が選挙で躍進していた当時のフランス政府。その自由が蹂躙されていく皮肉な状況だ。フランスの仲間と思われていたソ連の裏切り。スターリン主導下のソ連の急速な変貌に、主人公も歴史も翻弄されている。ロシアの被害者がソ連の加害者と結託し、仲間のロシアの被害者を裏切って加害者となる。動機については、妻への愛情からそうさせたようにも見えるが、世界の状況を完全に読めているので、これから侵略される予定のフランスから逃げる必要もあったのだろう。アリバイ工作に妻とのデートを利用したくらいなので、スパイだけあって本心は実のところよく分からない。祖国としてのロシア。ユートピアとしてのソ連。しかし、その国から追われてきたのが主人公だ。裏切り者となり、ユートピアに近づこうとしつつも、結局は裏切られる。結末への引き金は誘拐事件だが、その背後にあるのは独ソ不可侵条約だ。スターリンとヒトラーの結託。その後に展開されるのはフランス進攻だ。まるで悪夢のような、この世の終わりであるかのような、世界観。これは当時のフランス国民の持っていた、出口のない、追いつめられた絶望なのかもしれない。加害者も被害者も行方不明。世界の歴史の緊張感に、ねじ切られ、内実が擦り減らされて、人生が行方不明になっていくようだ。犠牲者の深層心理が浮かびあがっている。監督の当時の人生観と重なる部分もあったのかもしれない。死を前にした世界観なのかもしれない。映画館から出た時、雨が降っていたが、絶望観から開放されて、一瞬、気分がよかった。しかし、傘を持ちながら再び現実に戻ってみると、どこまでこの状況が平和なのか、自信を持てなくなる。何層もの裏切りの物語が、苦々しい後味となって尾をひいてくる。 | |
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2002年/イギリス/87分 監督:ピーター・ヒューイット 出演:ルパート・グリント/ブルース・クック/ポール・ジアマッティ/サイモン・キャロウ | |
私だったら、サンダーパンツ3号はお尻の形にする。それはある意味、礼儀だろう。おならで空を飛ぶ。この初期衝動だけで物語が展開していく。実際に見るよりも人からあらすじを聞いたほうがはるかに楽しい物語だ。おならで高音を奏でる部分が面白かった。発明家役のルパート・グリント(ハリー・ポッターの親友役)の存在感が強烈。あの年でこの怪演ぶり。将来が非常に楽しみな逸材だ。映像、脚本共にテレビレベルだが、まとめ方がうまい。絵的には神経質なほどちりばめられた緑色が、かなり気持ち悪かった。主人公は胃が2つあるという天才だ。宇宙から帰ってきた後、開き直ってその後もブーブーやられたら大変だ。苦労しないで宇宙に行ったのだから、主人公は観客から共感を得られないのではなかろうか?主役の演技は、とっても機械的。いかにもな子役じみていて、大人になったらたいした役者にならない気がする。老成した子役だ。銃殺されようとしているシーンでは、ぜんぜん緊迫感がないので「おい!もっと演技しろよ!」とテレビ画面に向かって思わず声が出た。でも「おれ、おならで宇宙飛んだんだぜ」とこの先、一生自慢できるので、うらやましいな。 | |
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2001年/アメリカ/88分 監督・脚本:ローマン・コッポラ 撮影:ロバート・ヨーマン 出演:ジェレミー・デイヴィス/アンジェラ・リンドヴァル/エロディ・ブシェーズ/ジェラール・ドパルデュー | |
天才監督のフェリックス・デ・マルコ役がジェイソン・シュワルツマン。「天才マックスの世界」のマックス君がそのまま大きくなったかのようなエキセントリックぶりを発揮していて面白かった。映画を撮るという、初期衝動がそのまま生かされた冒頭。「僕に関する事柄。僕の断片」スリリングである。撮影に臨むワクワクする感覚と、レトロヒューチャーなSF映画の未来の感覚が、気持ちいい。コンコルドの轟音がどこか別の世界へといざなう。とても甘い夢の中に漂っているような感覚に陥る。父との微妙な関係や距離感。繊細で傷つきやすく、内向的。等身大の若者の視点で描かれた青春映画だ。自分を追いつめて絞りこんで熟成させて、目つきから挙動から細かな表情から、エスプレッソのように濃厚な繊細さを抽出させたジェレミー・デイヴィスの演技がすばらしい。すっきりした動きではなく、ぎこちない動き。ドラゴンフライと好対照だ。わざとらしさのない自然な演技だ。私的な記録映画とSF映画と現実描写。これらの3つの場面が組み合わさって物語が進んでいくので、撮影が大変そうだ。この監督自身もミュージックビデオなどで技術を磨いただけあって、撮影に対するこだわりを随所に感じる。透明感があってクリアな映像がすばらしい。ライトが人物をはっきりと浮き上がらせていて、レトロSFの映画の表現にも合っているし、現実世界でのリアルな描写にも合っている。撮影はロバート・ヨーマン。ウェス・アンダーソンの映画で有名だ。監督の映像に対するこだわりにもしっかりと応えてくれる職人だ。当時のパリジェンヌっぽい魅力的なルックスとなった、エロディ・ブシェーズがかわいい。ジェーン・バーキンのように見える。彼女をもっと見たかった。短い出演時間ながら、ジェラール・ドパルデューに役柄以上の存在感がある。さすがの演技派だ。「私的映画を撮ってます」「私的映画・・・。妥協などない作品だろ?」「ええ」「うまくいくよ。俺は老人だ。私的な作品を書くとしよう。今なら書くことがあるはずだから」、「常にカメラの横に立て。役者が君の存在を感じ、君のために演じられるように」老いたる芸術映画監督の、去り際の存在感。トンネル内での会話が印象に残った。映画の結末部分にまとまりがなかったのであまり共感を呼べるものにはなっていない気もするが、青春映画だと思えばその未完成ぶりにも納得がいくものがある。宇宙船の白。トイレの白。車の白。月面の白。まだ、色の着く前の段階だ。「ストーリーは?構成は?」、「何が言いたい?」、「観客が何かを感じ取れるようにしろ」主人公はトイレの中で空想の批評家たちに問いつめられる。私自身も、私的な映画を撮ったらどうなるのだろうか、と思いをはせる。私的な映画というものは、そのまま私自身の人生ではないか。その映画には妥協がないか。結末はどうすればいいだろうか。悩みつづけ、途方にくれる。69年から70年。時代の始まりと時代の終わり。しかし、全ての私的な映画を撮る映画監督にとっては、全てにおいて、これからなのだ。主人公は、最高のエンディングを考える必要があった。そこで、自分に出会う展開を考えた。暗闇から現れたのは本物の自分自身。自分の断片を写し取った妥協のない記録映画でつきつめていた対象が最後に現れたような気がする。さらに、自分が憧れと共に夢見ていた対象が、たんなるロボットのような存在だったと気づいたのではなかろうか。私的映画の結末においては、自分を語ろうとしつつも、彼女の断片を語っていることにもなっていて、愛すべき対象が自分以外の者にも向かっていたということが分かる。もはや彼女は帰ってくることはないので、悲しくて苦い結末となっている。どちらも監督作ではあるが、大成功を収めているようにも見えない苦々しい結末だ。しかし、自分を見つめ、愛情に気づいたという面では希望が持てる。私的映画の、その作り方に間違いはない。若者の未来を感じさせる優しい終わり方だった。 | |
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2000年/韓国/110分 監督:パク・チャヌク 出演:ソン・ガンホ/イ・ビョンホン/イ・ヨンエ/キム・テウ | |
JFKという映画もあったな。紛らわしいんだよな。シュリの便乗かと思ったよ。私はシュリを見たことがあるが、北朝鮮が、いかにも殺人が好きなテロリスト集団に描かれていて、すごく不快だった。北朝鮮の金氏も、北朝鮮の描かれ方に苦言を呈していたようだ。でも、今回は、中立に描こうとしていたように思う。中心の4人の俳優は、すばらしい演技だった。でもなんで最後はハッピーエンドに終わらせないのか。監督の想像力がないせいだと思う(私の想像力不足かもしれないが)。現実の南北対立がハッピーエンドに終わらなそうな状況だからかもしれない。映像が、きれいじゃなくて、テレビカメラを使っている感触だった。色の幅に深みがなかった。カメラワークもちょっと気負いすぎだ。この監督は長編映画ははじめてらしいから、今後に期待といったところか。自殺したミュージシャンの歌を入れたセンスはいいと思う。日本でいえばフォーク・クルセダーズのイムジン川といったところだろうか。それにしても韓国の歌手は、よく自殺するよなあ。シュリにしろJSAにしろ、日本映画みたいな雰囲気を感じる。どこかで見たことあるような感覚がつきまとう。38度線がないと、しょぼい話で終わりそうだ。アジア映画としては、ウォン・カーウェイの方が、異質の文化を感じさせられてとても刺激的なのだが。 | |
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