映画評 |
2000年/フランス/100分 監督:フランソワ・オゾン 出演:ベルナール・ジロドー/マリック・ジディ/リュディヴィーヌ・サニエ/アンナ・トムソン | |
ファスヴィンダーが10代のころに作った戯曲を映画化。多作だったから、今後も同じような企画が出るだろうな。フランス流な味付けが、ちょっと合ってない気がする。ホモセクシャルのセックスを見せなかったのもその1つだ。もっと即物的に描く方が面白くなったはずだ。途中のダンスシーンもつまらない。こういう絵を取りたかったら違う物語を作ったほうがいい。監督のあわれな抵抗を感じる。第2幕までのパワーゲームとして機能する恋愛関係を描いたまではよかったが、後半になって、だらだらとどうでもいい展開になった。前半部分はファスヴィンダーの実人生そのままだから、緊張感が出ていた。もてあそぶ側はよく描かれているけど、もてあそばれる側が非現実だ。青年が最後に自殺するが、なんだか唐突すぎる。実人生でも2人くらい自殺させている。ファスヴィンダーは、恋人の気持ちになって考えることが最後までできなかったのだろう。 | |
2001年/フランス/91分 監督:アリエル・ゼトゥン 出演:チョウ・ベル・ディン/ウィリアム・ベル/マリク・ディウフ | |
夏休みを外したのがよく分かる。とくにおもしろくもないなって思った。今年(2001年)二番目につまらなかった。一番目は、題名忘れたけど、銀座で連れが開始10分で寝て、だんだん苦痛になったので1時間して出てきた映画だ。ヤマカシの人がアクションしてた。ジャッキーチェンみたいだな。でもジャッキーは戦う。ジャッキーは笑える。ジャッキーは昔からいた。ジャッキーの方がすごい。家の中を隠れたりするのを観ててもつまらない。パーティーしてるのを観ててもつまらない。ヤマカシの人はなんだかゴキゲン。うまく行きすぎてもつまらない。乾いた映像の質感が良かった。新宿ビレッジの地下のポップコーンは美味いと思う。バターをかけてくれる。いつも二箱食べちゃう。あと、新宿高島屋の上のアイマックスシアターのポップコーンもかなり美味い。 | |
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2000年/台湾・日本/173分 監督・脚本:エドワード・ヤン 撮影:ヤン・ウェイハン 出演:ウー・ニエンジエン/エレン・ジン/イッセー尾形/ジョナサン・チャン | |
ヤンヤンはそれほど出てこないので、この邦題はどうかと思う。原題は、「一一」。英語だと「A One and a Two」。なかなかシンプルである。それはともかく。話の筋とは全く関係なかったが、この映画の中に、映画の魅力についての会話があった。私が思うに映画鑑賞というのは、結局のところ、ひどく受け身である。すごく時間の無駄なような気がする。生きているからには、主体的に能動的に、いろいろ考えていきたいものだ。ただ、映画ならではの魅力も、もちろんある。暗い映画館の中に座っていると、今まで思いもしなかった視点があったり、発想が浮かんだり、独特の体験を得ることができる。やっぱり、暗闇で、究極の受け身の状態だと、いつもよりも、耳をすませてみたくなるのかもしれない。そのままリアルに語られるわけではないのだが、なにか、勉強になるような物事が、ある種の映画の中には盛りこまれているように見える。この映画は、耳をすませてみると、得がたいものを得ることのできるような気になり、なかなか味わい深い。映像が静かでおとなしいので、監督の言うことに耳を澄ませてみたくなる。ゆっくりとした口調で静かに語っているような雰囲気を持っている。こういう作り方は、とてもおもしろい。映画の中から一部分をつまみ出すと、すごく人工的でウソくさい設定も、登場人物をたくさん出して、人間関係を描いていくと、なぜだかリアルに見える。そして、自然に見える一定のトーンを作り出すことができる。家族についても、仕事についても、本物に見える。リアルな現実感覚を楽しめた。私小説みたいな感覚だが、日本文学的な暗さじゃなくて、暖かみや希望や優しい視点がたくさんあった。最後も、経済的には苦境に立っているとはいえ、明るい希望を感じる。こういう風には、なかなか作れない気がする。イッセー尾形の演技が魅力的。日本人と台湾人が英語を使ってコミュニケーションする場面に、なかなか味がある。この条件だけでおもしろい脚本がいくつも書けそうな気もする。 | |
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2014年/アメリカ/115分 監督:ベン・スティラー 脚本:スティーヴ・コンラッド 出演:ベン・スティラー/クリステン・ウィグ/シャーリー・マクレーン/アダム・スコット/ショーン・ペン | |
映画に出てくる雑誌社のスローガンがこちら。 To see the world, Things dangerous to come to, To see behind walls, To draw closer, To find each other and to feel. That is the purpose of life. スローガンどおりの映画である。映画を見て何日か経ってから、フツフツと様々な思いが湧きあがってくる。クリスティン・ウィグがデビット・ボウイの「スペースオデティ」を歌うシーンが印象に残る。遠く離れた場所から、手招きしているようにも、後押ししているようにも感じる。撮影が圧倒的。経営交代の最中のオフィスの慌ただしさと、大自然の対比。細部に渡る細かい描写が素晴らしい。優れた色彩と構図を持つデザイン性は、個性的である。撮影はスチュアート・ドライバーグ。多くの映画を撮り、たとえば、ピアノレッスンやブリジット・ジョーンズの日記。ウェス・アンダーソンのような、平面から空間へのアプローチ。アンダーソンよりも画面が広告を見ているようにシャープで機能的だ。企業買収については、アメリカは本当にドライだ。私もある取引先の仕事を引き受けようと、アリゾナの会社まで行ってみたものの、取引先がなんの前触れもなく他の会社に買収されてしまい、結局なんの仕事もせずに遊んで帰ってきたこともある。次の年にはその会社はさらに別の会社に買収されていた。いついかなる時も買収のタイミングなのである。この映画、最初は、ジェームズ・サーバーの短編を映画化した「虹を掴む男」のリメイク作品として企画されたようだ。空想家の冒険譚である。この時代に「虹を掴む男」を見た人はとても少ない状況だ。そのままリメイクしたら、とてもつまらない映画になったはずだ。それが当初の枠組みを越え、現実的な主人公を設定した時点で、リメイクが元の作品を追い越して、現実が空想を追い越した。見所は、現実の風景だ。なかなか勇気づけられる物語になっている。主人公の空想癖は、暗い部屋で長年写真を現像し続けていれば、なんとなくこんな感じになっていくのも無理はないような気がする。主人公の周囲に広がる壁も、なんとなく理解できる。世界があって、ネガがあって、大企業があって、暗い作業場があって、自分がいる。女性がいて、SNSがあって、自分がいる。本当の世界から、だいぶ遠い所だ。企業が買収され、SNSがエラーになる。アイデンティティの危機だ。カメラマンが手招きする。この主人公、愛すべき人物のように見える。人形やケーキやスケートボードなどの企業とは相反する物を持ちながら、企業買収の責任者とばったり会う場面が印象的。絶対、解雇の対象になってしまうシナリオ上の流れと共にユーモアも滲みつつ、生活に根ざした物を大切にしている主人公の性格が表現されている。「絶対にこれだけは守る」という信念がスペクタクルな映像で表現された人形の奪いあいシーンは、どんなヒーロー物の映画よりも手に汗握る。私も中年サラリーマンなので、応援したくなる。泥酔者の操縦するヘリコプター、サメ、北欧の自然、火山、現実の風景が、空想を追い越して、圧倒する。シナリオの中心は、失われたネガである。原動力は、アイデンティティの危機に加えて、長年に渡り1つのことを完璧に成し遂げてきた人間のプライドだろう。今までもネガを失ったことはなかった。最後の仕事も完璧にこなしたい。これは切実である。さらに、なんとか長年携わってきたカメラマンの自信作を表紙にしたいプロとしての責任も感じる。強烈な枷だ。現実逃避ではなく、信念を持って現実にダイブして、結果として大冒険となっている。会社は1人1人の小さな信念が積み重なってできている。世界は1人1人の小さな信念が積み重なってできている。個人の体験譚だけではなく、企業に対するセンチメンタルも感じる。長年育んできたカメラマンとの友情と、家族の愛情。主人公がピンチの時に、輝いている。等身大のハッピーエンドである。最後、エレベーターを降りて彼女に声をかけたところが、最大の冒険だった気がする。たぶん、冒頭の主人公だったら声をかけずに終わったかもしれない。それは不自然な行為ではなくて、自然な行為に見える。どこかでなにかが変わっている。主人公はネガに執着しながら、最終的に辿りついた当のカメラマン本人は、ネガよりも自分の体験を優先している。ヒョウを撮らないカメラマンを通して、自分の所属していたネガの世界だけではない、広い世界の存在を感じる。ここでようやく、自分と世界がつながる。そこに広がりと解放感を感じる。世界のはるか上空で、10万マイルも通り過ぎ、静かな場所に。自分はどこにいるのか。帰ってくる場所は、こういう所ではないだろうか。最終号の表紙は、私の想像を越えていて、とても感動した。離散しながら、結びつきが強くなっている。信念がさらに強くなっている。見つけた雑誌を、すぐに飛びついて買うわけではない。すでに世界が近づいている。暖かい日差しを感じる。 |
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1998年/イタリア/117分 監督:ロベルト・ベニーニ 出演:ニコレッタ・ブラスキ/ジョルジオ・カンタリーニ/ジュスティーノ・デュラーノ | |
伊豆観光協会が喜びそうだ。原題LA VITA E BELLA 、ビューティフルライフ!の意。フェリーニの次の地平をユーモアで味付け。ビデオのパケ見ると、アカデミー主演男優賞取ったらしい。ちなみにその年の作品賞は『恋におちたシェイクスピア』・・・なにそれ、知らない。イタリア映画でなかったら作品賞も取れたはずだ。「ニューシネマパラダイス」も外国映画賞しか取れてない。ロベルト・ベニーニ?髪が増えてる。アップになったときの取ってつけたような生え際が気になった。ニコレッタ・ブラスキとは実生活でも夫婦なので、演技の間もピッタリだ。撮影スタッフはフェリーニ人脈ゆえか、さすがにいい絵をとる。演技だけだとこんなにいい出来にはならなかったはずだ。背景にきれいなライトをあてたりしている。主人公がいることを知ったお姫さまが、席を立って周りを見渡すシーンの流れがすごかった。チャプリンの独裁者でもそうだが、ユーモアを見せることで、悲劇がより顕著になっていくのではないかと思った。最初から軽やかだ。みていて気持ちいい。 | |
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1986年/アメリカ・フランス/133分 監督:ベルトラン・ダベルニエ 出演:デクスター・ゴードン/ハービー・ハンコック/フランソワ・クリューゼ | |
目に染みるような絶妙な茶色のトーンを感じる。次の日に仕事があるのに夜中の3時まで見つづけてしまった。演奏時間が少ないのが残念だが、映画だから仕方がない。映画の中でああいった音楽を最高のBGMとして提供するには、ジャズを舞台にしなければならないのだろうか。くだらない大作映画の退屈なオーケストラたちに私はうんざりする。人間が風景から浮かび上がっていた。調和の取れた色合いに、黒いマジックインキを乱暴に書きなぐるような存在感。言葉よりも饒舌なサックスの響き。違和感のある存在を許すことのできる安らぎ、ハーモニー。調和しつつある場所。実生活ではなく、演奏の場で求めたのだと思う。しかもこちらの存在感を示した上で。 | |
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1998年/アメリカ・フランス/118分 監督:テリー・ギリアム 出演:ジョニー・デップ/ベニチオ・デル・トロ/トビー・マグワイア/エレン・バーキン/ゲイリー・ビジー | |
ハリウッドとかじゃなくて、ラスベガスだ。現代じゃなくて、1971年だ。デップが吸う白い粉は、コカインじゃなくてLSDだ。だからヒッピー賛歌の代償を今ごろ問いかけてる点で、古くないか。最後にリアリーの名前が出たりする独白は、ちょっと普通だった。今まで見たデップの中ではワーストだった。幻覚体験の場面がチープだ。ぬいぐるみのトカゲじゃだめだろう。ギリアムは現実世界を見ようとしない。架空の世界の冒険が大好きだなあ。散らかったホテルの部屋が、映像的にきれいにまとまりすぎていて、そこがセンスのよさだと思うし、逆に弱点とも言えないか。汚らしい生活臭が排除された部分はオシャレなのか、現代的なのか。もう一度見たいとは思わないが、退屈しのぎにはなった。 | |
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2001年/アメリカ/112分 監督:ジェリー・ザッカー 出演:ローワン・アトキンソン/ウーピー・ゴールドバーグ/ジョン・クリース/キューバ・グッディング・Jr | |
こういう気軽に見れる映画が好きだ。アメリカのB級喜劇の典型みたいな映画だった。ブラックな笑いがあったりしてサタデーナイトライブのノリに近い。ネタ重視の作られた笑いにヘリや車が爆走するアクションがくっついていて、見ていて気分よかった。27年ぶりの親子の再開からレースに参加したり、弁護士が参加したり、家族旅行がそのままレースに移行したり、もっと単体で膨らませると面白くなりそうな展開が多くて興味深かった。逆にいえば、登場人物の描写を詰めこみすぎた気もするけど。牛といっしょに気球に乗る一連のシーンに腹を抱えて笑った。ローワン・アトキンソンは、ビーンの時みたいに、しゃべらない方が面白い。心臓のギャグは面白かった。最後の曲がよかったので、気分いい終わり方だった。私だったら、あんなインチキ臭いイベントなんかほっといて、金持って逃げるけど。 | |
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1983年/フランス・スイス/85分 監督:ロベール・ブレッソン 出演:クリスチャン・パティ | |
劇中、扉がいくつも映し出される。扉というものは、物としてもがっしりとしていて、見た目にも美しく、実際に手を使って開けたり閉めたりするし、別の場所への移動にも使える。シーンの省略にも有効活用できる。扉は、現実的でもあるし、映画的でもある。金属的なものに対する違和感を感じる。現実への違和感もカメラを通して感じさせる。レストランで突きとばすシーンや、コーヒーを持ちながら老婆がぶたれるシーンなど、撮影的な面白さも感じることが多かった。ただ、話の展開が雑だ。いくら役者の誇張された演技や無駄なBGMを排除したとしても、話の流れがあまりにも現実感覚から離れていては、台無しである。絶望感や深い感情は感じず、終盤においては、たんに説明不足にすぎる。なにを表現したかったのか全く分からない。演出が欠けている。「おーい!どこかに置きわすれてるみたいだぞー!」とこの映画に一声かけたくなるくらい、なにかが抜けている。とてつもなく空虚な映画だ。おそらく遺作ということで、映画自体もあっちの世界に行ってしまったのではないか。もしかしたら、こういう作風は、体力勝負な部分もあったのかもしれない。後半になって、撮影する側に、どんどん勢いがなくなっていくような感触があった。刑務所以降の衝撃的な展開を排除して、刑務所に入るまでの展開をじっくりと見せていったほうが、面白くなった気がする。話の論理的な破たんは、通常は役者の演技力によってある程度カバーされるが、この映画の場合は役者が演技をしないので、暴力的なまでに露骨に人工的。現実を装った、なにかの狂気の世界。論理的な思考から逸脱する暴力性が印象的だった。 | |
2011年/インド/156分 監督・脚本:アヌバウ・シンハー 脚本:カニカー・ディッローン/ムスタク・シェイク/デヴィッド・ベヌロ 出演:シャー・ルク・カーン/カリーナー・カプール/アルジュン・ラームパール | |
なんの予備知識もなく、東京都写真美術館の展覧会のついでに立ち寄ったのだが、思いもよらぬ奇妙な映画に出会った。インド製のヒーロー映画である。インド風味のかっこいい音楽に乗って、ゲームの世界のヒーローが大活躍。インド的なイントネーションの英語が、なんだかかっこいい。踊りをたっぷり盛りつけた子供向けのチープなヒーロー映画かと思ったが、あまりの特殊効果の完成度に驚いた。「トロン」、「スターゲイト」、「Xメン」を手がけたジェフ・クライザーが特殊効果を監修。すでにインド映画は、特殊効果においては世界レベルである。ものすごい勢い。格闘ゲームの世界とヒーロー物の世界。この具現化に命をかけている。「これが撮りたいから絶対に撮るんだ」という気合をヒシヒシと感じる。最終的にどこを目指しているのか定かではないが、ものすごいダッシュだ。ゲーム世界の空間だけではなくて、現実的な場所での活躍を描いている。カーチェイスの完成度がすばらしい。車がふっ飛ぶアクションシーンも見応えがあった。一番の見どころは、電車の先頭車両目指して車両を走るシーン。スピード感にあふれる。最後は駅まで崩壊して大迫力である。流れるようなアクションとカット割り。爽快である。インドの列車であるのでなかなか魅力的な絵になっている。インド映画といえばボリウッド。突然踊りだすダンスシーンが特色である。この映画でもすばらしいミュージカルシーンがある。映画館の音響と大画面で見ると、とても楽しい。宗教的ともいえるような不思議な祝祭感覚に満ちている。全体的な印象は、香港映画に近い。カンフーの代わりにダンスがある感じ。どちらもイギリスの植民地だったことも影響しているのかもしれないが、どこか空気が似ている。バンバンと画面が切り替わり、場面が入れ替わり、登場人物が躍動している。細かいカットに演出のキレを見せる。撮影する側のテンポの良さと勢いを感じる。インドに帰っていくシーンで通常の映画は終わりそうだが、この映画ではそこからが長い。インドでの生活が続いていく。おおらかである。こってりとしている。156分。この上映時間の長さには驚いた。家族のふれあいに時間を費やしている。光沢のある髪の毛が印象的な子供、愛嬌のある笑顔がチャーミングな奥さん、そして理想的な美男子でありつつも面白味のある旦那。この3人の家族は、理想的すぎて全く生活感のかけらも感じなかったが、絵として眺める分には楽しい。スタンドバイミーの使い方が秀逸で、楽しい雰囲気が伝わってくると共に、どこかさみしい。バカバカしいだけではなくて、家族物としてのしっとりとした落ち着いた雰囲気がある。家族愛こそ正義なのである。家族こそ普遍なのである。哲学的な深みまで感じてしまう。とにかくサービス精神がある。つめこみだけつめこんで、映画を楽しんでもらおうとしている。30億円の製作費は、かなりコストパフォーマンスが高い。未来を感じる。この映画、3Dで見ても面白いかもしれない。ダンスや格闘がこれだけ満載なのだから、きっと楽しいはずだ。現実とゲームの世界がリンクしたように、生と死の世界も輪廻転生によって宗教的にはリンクする。そして世界における現代インドも、密接に他の国々とリンクしている。東洋的な世界観と西洋的な世界観。見知らぬ別の世界への入口が、すぐそこに開かれている。インド映画は無限の可能性を秘めている。 | |
1998年/ドイツ/81分 監督・脚本・音楽:トム・ティクヴァ 撮影:フランク・グリーベ 編集:マルティルデ・ボンフォイ 音楽:ジョニー・クリメック/ラインホルト・ハイル 出演 フランカ・ポテンテ/モーリッツ・ブライトプトロイ/ハーバート・ナップ/ニナ・ペトリ | |
幸福、不幸。幸運、不運。できのいい現実、できの悪い現実。満足、不満。状況はいくらでも映画の中で表現できる。通常の現実を描く以上に、構成をきちんと設定し、背後の時系列を整えていく。現実の感覚に近づけることからあえて身を離す。こうあるべきだ、こんなはずではなかった。願望と失望が時間をこえていく。どこかのタイミング、なにかのタイミング。瞬間、瞬間の発想が影響を与えていく。現実から離れることが、構成をしっかりとすることにつながる。偶然と必然。世界にひそむなにかの仕組みが浮かびあがっていく感覚。映画の冒頭でこのような引用がある。「我々はすべての探求を終えた時、初めて出発点を知る“T・S・エリオット”」、「試合の後とは試合の前のことだ“S・ヘルベルガー”」そして警備員が次のようにしゃべる。.「ボールは丸くて、試合は90分。それだけが真実であとは推測さ」なんだかゲーム理論。3曲入りのシングルを買うような。リミックス違いのような現実。アニメーションを取り入れたテクスチャー感覚。走ると疲れる。走りすぎるとさらに疲れる。単純に誰にでも分かる理屈なので、共感を得やすい内容だ。これが歩いているだけなら、かなりつまらなかったのではないか。この走りは、後ろを振りかえらない。逃げているのではなくて、前をしっかり見据えた、ハッピーエンドに向かう走りだ。力強い走りに好感が持てる。進む先に未来があるので応援したくなる。勝利の女神が一生懸命走っているようにも見えた。疾走しているシーンが非常によく撮れている。ピントがバッチリだ。これは、おそらく何度も撮り直しているのではないか。なかなか大変な役だ。カメラマンも大変だ。BGMはラインホルト・ハイルとジョニー・クリメックと監督のトム・ティクヴァが共同で作曲している。ハウスのコンピレーションのレコードを聞いているかのようなにぎやかさと多様性がある。ジャーマン・テクノと一口には語れない豊かな創造性がある。聞いているだけでリズミカルな疾走感があって、映像と非常に調和が取れている。大音量で聞くと最高だ。監督自身が作曲をやる。自分で自分に音楽の注文ができる。これは理想形かもしれない。話はずいぶんと変わっている。3回、同じような展開が続く。どれも、なかなかスリリングでショッキングだ。2回目は銃の使い方を知っていて、3回目は犬や乳母車をよけていたので、記憶は続いているようにも見える。3回目で銃を手にした浮浪者は、同じような事件がくり返されることを考えると、おそらくスーパーを強盗するのだろう。失敗したらやり直し、成功したらエンディング。映画の中の現実が2度リセットされるが、それについては観客になんの説明もない。まるでゲームのようだ。なぜゲームに見えるかというと、映画の中のルールが明確だからだ。成功や失敗の概念が分かりやすい。大金を手にすれば成功。手にしなければ失敗。カップル2人が生きていれば成功。どちらかが死ねば失敗。時間に間にあえば成功。時間に間にあわなければ失敗。それを当たり前のように思えてしまう、私の、成功や失敗の概念が、いかに薄っぺらなものであるか。映画で表現される現実がいかに軽々しいものであるのか。映画のストーリーだけに翻弄され、それだけを語ることがいかに空虚なものか。私は現実を生きているのだろうか。どこかでリセットボタンを待っているのではないか。そういった無意識の概念について思いをはせてしまう。この映画は81分で、あっという間に終わってしまうが、人生においては制限時間はたしかに存在する。そして、ボールがそこにある。推論や想像は、人それぞれ、無限の可能性を持っている。作り手は、あえて説明しない。ただただ繰り返すだけだ。3回もそれが続くとなにかの主張が表れてくる。商品として映画を作ることから開放されている。映画を浴びるように眺めつづけた者の発想だ。体験として自然体で表れたような批評性。現代アートに近い感覚だ。驚くほど身軽だ。画面を眺めていると、。旧東ドイツの町並みが描かれている。東西ドイツの壁が壊れてルールから解き放たれた時、フッとわきあがって走りはじめたなにか。作品を取り巻く社会情勢が疾走しているからこそ生まれた映画なのではなかろうか。 | |
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2000年/イギリス/111分 監督:スティーヴン・ダルドリー 出演:ジェイミー・ベル/ジュリー・ウォルターズ/ゲアリー・ルイス/ジェイミー・ドラヴェン/ジーン・ヘイウッド | |
ハウス名作劇場みたいだった。ハイジとか小公女セーラとか。悪人が出てこない感じ。イギリスの暗さをきれいな映像で撮っていたのが印象的だった。1コマごとに見入ってしまった。父役の役者が強烈だった。何も言わずに子供のベッドに座る場面や、試験官の言葉に返事をしないで出て行った場面が印象的だった。子供のダンスも、ものすごい。試験の日の演技も、緊張感が伝わってきて、すごく良かった。思わず主人公を応援してしまった。シューズを履くシーンをアップで撮った場面がいい。子供のすねに傷がついている。男の子はあれぐらいの傷がなくちゃいけない。全体を通して子供の描き方が上手だ。BGMが活き活きとした躍動感にあふれて効果的だった。ジャムやクラッシュが聴けたので気分よかった。バレエ音楽にとらわれなかった部分がすばらしい。 | |
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2009年/アメリカ/115分 監督:ジム・ジャームッシュ 出演:イザック・ド・バンコレ/アレックス・デスカス/ジャン=フランソワ・ステヴナン/パス・デ・ラ・ウエルタ | |
なにかが写っていればそれでいい。変な狭い価値観の押しつけさえなければ。自称「映画」たち。「映画」たち。「映画」たち。プログラムピクチャー、プログラム人間、プログラム文化、プログラム宇宙。「コントロール」される必要は、一切ない。一言で語るのが難しい映画があったほうがいいと思う。この映画で流れていくのは、たらい回し、ダラダラ、放浪感覚。カウンターカルチャー的な側面。一対一の会話。ジム・ジャームッシュそのものである。新宿バルト9で21時50分の回だったが、20人以上も客がいたので注目度は高いようだった。前から2列めの席だったので、画面いっぱいに広がる映像を独占状態。なかなか見ごたえがあった。1コマ1コマがポストカードになりそうな、ジャームッシュの映画ならではのコマ単位の完成度の高さにまず驚く。撮影は、ウォン・カーウァイの一連の作品で有名なクリストファー・ドイル。見慣れたものをどこか異質な場所まで引っぱっていくような強引かつ鮮やかな手法。禅問答のような会話、無表情な役者、BGMの不協和音。危険な肌触り。合法的なドラッグ映画。物語は単純であり、会話は不明瞭に終わる。ただ、実際の会話というのはセリフのようなものではなくて、不明瞭なものだから、このほうがリアルなのかもしれない。単純な物語が115分続くので、空白のような映像が多くなる。その空白の部分に私の視点の入りこむ余地があり、開放感がある。水墨画のようなものなのだ。パーマネントバケーションの発展型のような手触りが懐かしくもあり、安心するようでもある。テーマはなにも変わっていない。視点は、ずれていない。スペインの風景が物珍しかったし、キレイに撮れていたので非常に楽しかった。特に有機的な高層建築である「トーレス・ブランカス」は、印象的な美しさがあって作品の性質にも合っていた。屋上にいた主人公がスペインの町並みを眺め、風景がアップし、カメラが引くと、美術館の中で風景画(アントニオ・ロペス・ガルシアの「トーレス・ブランカスから見たマドリッド」)を前にしている。このシーンの流れが、違和感がすごくて一番印象に残った。この映画そのものも、アントニオ・ロペス・ガルシアのような具象を題材にして具象を超えていくマドリード・リアリズムに近い雰囲気を感じる。ビジネススーツを脱いで最後に戻っていくのは、白紙の指令書に、無地の布に覆われただけのキャンバス。またしても、旅の途中なのだ。 | |
2005年/チェコ/123分 監督・脚本:ヤン・シュヴァンクマイエル 撮影:ユライ・ガルヴァーネク 出演:パヴェル・リシュカ/アンナ・ガイスレロヴァー/ジャン・トリスカ | |
スーパーに並ぶラップにくるまれた肉片のような私たち。加工される。加工される。加工される。この、救いのなさ。病院というよりも、まるで、どこかの国のようだ。この映画がシュヴァンクマイエルの集大成なのかもしれない。日本映画を見ているような、心の闇を照らしだすような、内省的な暗さがあった。善悪とかの二元論というよりも人間の根本的なあり方がテーマになっている。ドラマ面でのズッシリした手応えがすばらしい。あまりの重さに映画が終わってからの腰が異常に重い。現実に対する皮肉な一面を見せつけられた。パヴェル・リシュカの演技がすばらしいのでチェコ映画の雰囲気が楽しめる。監督の強烈な個性と調和を取ることができる彼のような存在は、なかなか珍しい気がした。ヨーロッパ的な美しい風景。屋敷の中も美しい。映像がすばらしかった。自動車が走る脇で、侯爵と共に馬車に乗るシーンはすばらしい演出だ。どこか別の場所にさらわれていくような感覚。遠くまで行ってしまうような心細い感覚になった。肉が尺取虫のように歩いている冒頭。監督の話が終わったとたん、豚の腹から内臓が出てくる。要所要所で肉のアニメが挟まってくる。異常な映画だ。これは、笑えてくるほどの、なにかの表現だ。肉片は、生き生きとしているようでいて無機質。生々しいようで乾いている。グロテスクにも見えるが、発想の自由を感じる。最初はグロテスクで気持ち悪かったが、最後になってみると、明るくて楽しい肉片たちのアニメだ。物悲しさも、あの肉片たちに感じた。一番グロテスクなのは、肉片ではなくて、実際に生きている人間なのかもしれない。ハッピーエンドに見えつつも、恐ろしいグロテスクな結末が待っている。「自由意思療法」という発想が、逆の意味合いを持っているのが興味深い。もしも精神病院に適用されなければ、この論理は民主主義の自由そのものである。患者の意思を尊重する方法というのは、そのまま民主主義社会の方法論である。その精神治療のために行った方法が、逆に病院内での悪夢のような世界を作り出していたという皮肉な演出。方法論や論理ではなく、実際の精神がまともでなければ自由な社会は成り立たないという監督の強烈な主張があるのだろう。さらに、「精神がまとも」というのは誰が判断するのだろう。解放された医院長が「これは明らかに失敗ですよ」と結論づけてしまう。この映画の怖いところはこの主張だ。「自由を許すなんてとんでもない」と医院長は続ける。「自由」という言葉の持つ強力なイメージ。そして、全く強固ではない「自由」への実現。気づかないうちに我々は良からぬ方へ進んでいってしまう危険性を自分のうちに持っているのではないか。「ここは精神病院だ」と医院長が言うが、どこまでが精神病院なのだろうか。暴力的な行為を通して自由を主張したサド侯爵。彼の持つ、根源的な自由論の限界を感じる。しかし、強度に抑圧された状況からは自由はひとかけらも存在しない。どちらにおいても、主人公には逃げ道が残されていない。私たちはどこにいるのだろうか。どちらの側にいるのだろうか。加工され、ラップにくるまれてスーパーに並んでいても、私たちは自由を夢見て脱出しなければならないのだろう。 | |
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1980年/アメリカ/129分 監督:マーティン・スコセッシ 脚本:ポール・シュレイダー/マーディク・マーティン 撮影:マイケル・チャップマン 音楽:レス・ラザロビッツ 出演:ロバート・デ・ニーロ/キャシー・モリアーティ/ジョー・ペシ/フランク・ヴィンセント | |
リングの中にカメラが入りこむ。戦う場所が目の前に広がる。ファイターが挑発する。私の回りには戦う場所があるのか。そもそも私は戦っているのだろうか。リングを降りてもリングにいるかのような激しさ。常に臨戦態勢の緊張感。安全な場所はない。どこにも逃げる場所はない。逃げる気もない。フットワークは重要だ。ファイティングポーズも重要だ。どんな状態になってもパンチを打てるように。相手にパンチが当たるように。自分が生きるために。フットワークと強い痛みを必死に追いつづけたら自然と色が抜けきってしまったかのような、目の前に突きつけられる映像の激しさ。映画の始まりはシャドーボクシング。夢の始まりもシャドーボクシング。今こそ、リングに上がる時だ。リングで殴りあい、人と口論し、リングで殴りあい、人と口論する。そしてリングで殴りあう。イスが飛び、こぶしを氷で冷やし、コーナーで水をかぶる。全力を尽くしての負けは納得し、八百長での負けに号泣する。まさに生きている。リング上で生きている。ファイターは、あまりにも戦いすぎてどこか道を外れ、その背中にはステージのコメディアンのような物悲しさがつきまとう。やがて訪れる、魔の13ラウンド。圧倒的な相手が立ちはだかる。「カモン」史上最高のボクサーと何度も戦い、圧倒的に追いつめられても倒れない。返り血を浴びるリングサイド。打たれつづける。打たれつづける。打たれつづける。まるで打たれつづけるためにこの映画が、この夢が、この人生があったかのように。静かに拳が振りおろされる。激しさの中、そこで試合が終わる。ファイターが挑発する。「沈まなかったぜ。ダウンしなかった。だろ?倒れなかった」いつかは、やってくる。孤高の瞬間は一瞬だ。世界がリングの中にしかない場合、退場は宿命だ。ダウンカウントや判定のジャッジは、残酷な数字で宣告だ。誰もが去る場所である。強力なパンチはリングの外の方が多い。無数のパンチが襲いかかってくる。リングを降りて逃げだす者、ひたすらガードする者、ノーガードで打ちあう者、どこに打てばいいのか分からない者、打てていたはずのパンチが打てなくなっている者。リングの外に世界があったとしても、退場は宿命だ。リングを降りる時だ。リング上で相手を傷つけた男は、自らもまた傷つく。見回すとセコンドは誰もいない。アナウンサーもいない。カメラのフラッシュもない。周囲には、誰もいなくなっている。男は一人倒れる。目の前に牢屋が見える。目の前に暗闇がある。まだ戦えるなら、最後まで戦うべきだ。戦う場所、相手がいるなら。戦う場所はどこだろう。戦う相手はどこだろう。目の前に荒野が見える。リングが見える。見えた気がする。私にも見えた気がする。男は再びステップを踏む。それが呼吸であるかのように。レイジング・ブルの唸り声のように。今だ衰えぬレイジング・ブル。ファイターが挑発する。「Go get’em,Champ.(やっつけろ)」戦いつづける者たちへのセコンドからの激励の励ましだ。今こそ、リングに上がる時だ。結末はシャドーボクシング。夢の続きもシャドーボクシング。 | |
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2000年/アメリカ/102分 監督:ダーレン・アロノフスキー 出演:エレン・バースティン/ジャレット・レト/ジェニファー・コネリー/マーロン・ウェイアンズ | |
ダイエットするおばあちゃんという設定は面白かった。おばあちゃんの部屋がテレビのスタジオになる部分が印象に残った。ライティングが下手で、やばいと思った。あと、やすっぽーい。去年の映画とは思えない映像演出の貧弱さだ。音楽もしょぼい。ダーレン・アロノフスキー監督、才能なし。ほとんど紋切り型の登場人物だった。こういう夢のない話は嫌いだ。でも、この映画の予告編の作り方は最高に上手かった。 | |
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1989年/フィンランド・スウェーデン/78分 監督:アキ・カウリスマキ 出演:マッティ・ペロンパー/カリ・ヴァーナネン/サッケ・ヤルヴェンパー/ジム・ジャームッシュ/レニングラード・カウボーイズ | |
観光ビザで、即興で6週間かけてとったらしい。役者が無表情だと、即興の演技を切り貼りして物語にまとめるのが簡単だ。全編に渡り無表情だと、演技力が問われないし、演技を評価されることもないが、もともとレニングラードカウボーイズは役者ではなくバンドで活躍していた人たちなんだし、これでいいのだろう。おとぎばなしみたいな話だ。楽しく愉快な気分になる。アメリカとは何も関係ないバンドがいかにもアメリカらしき曲を演奏していく所がとても面白かった。ロードムービーみたいだし、メキシコで姿を消す人がいたり、イージーライダーの主題歌を出してみたり、アメリカ映画の表層的なオマージュも感じる。アメリカンドリームを獲得する以前に、主人公たちはすでに何かを獲得しているような気がした。なんとなくアメリカを小バカにしたような、バカにしている奴らを逆に馬鹿にしているような、軽くて気持ちのいい旅だ。2人の男と1人の女がこじんまりと旅するのではなく、集団で旅していたのが気持ちよかった。旅というより移住みたいな気分だ。説明をしないで物語を進めていく部分が面白い。なんであの髪型や靴なのか説明していない。なんであのリーダーがあんなにえらいのかも分からない。「過去のない男」と同じ監督だ。どちらも犬がよく出てくるし、演奏場面が長く取られている。役者も無表情だ。あまり会話に重きを置いてない所も似ている。 | |
2001年/アメリカ/178分 監督:ピーター・ジャクソン 出演:イライジャ・ウッド/イアン・マッケラン/リヴ・タイラー/ヴィゴ・モーテンセン | |
評価できないな。前半寝てたし。エルフ役の人がイメージから少しずれてたけど、逆にかっこよかった。仲間達のマントのつけかたがかっこよかった。主演はコンピュータグラフィックとロケ地。景色がきれいだった。指輪をつけた時の映像が良かった。あの指輪がとんでもないものだと感じさせられる。噂では聞いていたが、話の展開が本当に早い。三部作で全部撮るというコンセプトからして、どうかと思う。テレビ企画ならそれもありだけど。短い時間で満足させるのが映画だと思う。気晴らしに気持ちよくみれるのがいい映画だと思うが。人のアップや、やたら人が小さく写る撮り方は、映画の画面としては退屈だ。スプラッターの人らしいし、映画監督ではないのだろう。 | |
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