映画評 |
2011年/フランス/101分 監督・脚本・編集:ミシェル・アザナヴィシウス 撮影:ギョーム・シフマン 音楽:ルドヴィック・ブールス 出演:ジャン・デュジャルダン/ベレニス・ベジョ/ジェームズ・クロムウェル/ペネロープ・アン・ミラー | |
昔のテレビゲームで「風のリグレット」という音しか出ないゲームが売られていたが、それと同じくらいの発想の自由がある。映像的にはモノクロの芸術性を極限までこだわりぬいているわけではなく、平凡な出来だ。当時のカメラと比較すると驚くほど画面がきれいに写っているが、カラーをそのまま白黒にしただけの安易な物だ。映像美への愛ではなく、この映画ではもう少し本質的な愛情にあふれている。モノクロよりも、1.33:1のスクリーン比率の方が効果的だ。左右の情報量が減るので画面に一点集中してのめりこんでしまった。突然、犬がほえたりコップが机にゴトリと落ちたり、トーキーになる場面が演出的には面白い。音がついてワクワクするはずが、主人公にとっては悪夢になっている。後半、質屋の前にたたずむ主人公に対して警官がなにか言うが、そこにはセリフもなく口のアップが続く。ただ、そこで受けた苦痛は共感できる。これも、サイレント的な演出で面白い。最後にトーキーになった時のダンスも、それまで制限されていた情報が解放された時に感じる楽しさに満ちあふれている。こういう、今の時代だからこそ作れる演出が新鮮だった。輝きを失った映画スターが落ちぶれていく感覚がリアルだ。誇り高き男が行き止まる。あおった酒が苦い。「助けてくれ!」と叫びたくなる。映画の中では女に別れを伝えていたが、砂に埋もれていく腕が、自分自身のようで気味が悪い。私のような、負けがつづいた中年男性にとって、この感覚には非常に共感を覚える。男の苦悩は、色や声がなくても、体験したことがある人間が見るならば、これで十分だ。苦悩の色は、モノクロでも再現可能だ。現実は甘くはないが、この映画では救いがある。予定調和なシナリオというよりも、映画そのものが彼を助けたような気がする。助けてもらう相手は天使ではなくて最前線の映画スターだ。ダンスによって生まれた結びつきが、ダンスによってきちんと映画として結びつく。しかもトーキーの性質を生かした芸術的な表現だ。自分の才能で自分を救っている面もある。トーキーになったことにより表現に幅ができたことを自分で証明している。演技は時代遅れになったのかもしれないが、魅力ある才能は彼の中でまだ眠っていたのだ。普段の流れるような優雅な動きと、サイレント映画の中でのメリハリの効いた硬い動きを演じわけたジャン・デュジャルダンは、なかなかの役者だ。時代に乗り遅れた役者役というのは、演じるのが難しそうだ。野心的で元気のある演技を見ていると、こちらも力が入る。彼が火事で抱えていたフィルムが、彼女と踊っていたシーンだったのが、鳥肌が立つくらい感動した。なぜだか、「あっ!」と声を上げてしまいそうだった。フィルムそのものへの愛情がある。映画に携わる人にとっての思い出は、そのまま1コマ1コマであるのだろう。動きがあって生き生きとした思い出だ。そのまま理想であり現実だ。たとえトーキーでも、カラーでも、3Dでも、アナログでも、デジタルでも、娯楽でも、芸術でも、基本はコマ単位の表現手法だ。本質的な部分に触れているような気がする。最後、サイレントであることをやめる。トーキーでのダンス。そして映画撮影の始まる決定的瞬間。また一つの夢が始まるかのようなワクワクする瞬間で爽やかな後味を残す。登場人物が主役なのではなく、映画そのものが主役であるかのような。映画そのものが生き物のように実体がある。映画への愛がそのまま生命を得たかのような魔法のような感覚。過去を描いているはずなのに、未来への希望を感じる。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
2006年/日本/125分 監督:鶴橋康夫 出演:豊川悦司/寺島しのぶ/長谷川京子/仲村トオル | |
この映画での陣内孝則の演技は、今までで私が見た全ての映画の中で最悪の部類に入る。彼の出演時間が短かったのでよかった。「あのエロ小説を、よくぞここまで作品として仕上げた」というような前評判もあったが、そんなに魅力的ではなかった。今年(2007年)の作品だが、えらく古臭く感じる。撮り方が古臭いような気がする。監督は、鶴橋康夫。テレビドラマ40年のキャリアを持つ大御所。だが、映画に関しては新米にすぎないわけで、いたるところでテレビ的なカメラワークが多用され、テレビ的な顔演技を求めるだけのアップのシーンも多い。寺島しのぶの役どころは、とても難しい。赤目四十八瀧心中未遂のような世の中からかけ離れたようなキャラや、ヴァイブレータのような等身大の女性を演じると魅力的なのだが、今回はもっと難しい演技だったような気がする。恋愛映画で人が死ぬのは、飽き飽きさせられる。この映画でも人が死ぬが、個性がある。まず、冒頭でいきなり死ぬ。ストーリーとしては面白い。そして、勝手に不治の病で死ぬのではなく、自分の手で殺している。そして、冒頭では事故のように殺したように見えて、だんだん話が進むに連れて内面まで深く掘り下げられていく。死が、青春の通過儀礼のような「終わり」ではなく、ずっと「つづく」感じに描かれている。死によって物語が終わるわけではない。大人の映画なのだ。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
2004年/アメリカ/115分 監督:アレックス・プロヤス 出演:ウィル・スミス/ブリジット・モイナハン/アラン・テュディック/ブルース・グリーンウッド | |
「A・I」に比べると、話にまとまりがない。監督の理性のネジがいい感じに弛んでいる。原案がアレなので仕方がないが、SFというよりも、ハリウッドで無限に作られているコップ(刑事)物の映画だ。コップ物というのは犯人がマイノリティな人々で、社会性を浮き上がらせるような展開が多い。今回はマイノリティである犯人がロボットになっていて、犯罪を犯すだけでなく革命を起こしている。「ロボット・イコール・アラブ人」のような無意識の危機感が全体を覆っていた。映画の最初で日常的なロボット社会が描かれているが、あの調子で地味に最後までいくと、もっとリアルで面白くなったはずだ。だんだん話のタガがゆるくなっていって、大風呂敷を広げすぎたように、うそっぽくなってしまったのが残念だ。ウィル・スミスはいい役者だ。私は英語が分からないので、ウィル・スミスの韻を踏んだり言葉遊びや気の利いたことを言ったりする部分がなかなか分かりづらい。エディ・マーフィーよりクールな分、ウィル・スミスは日本人には受け入れづらい側面を持っている。日本語訳をもっとうまくすれば、もっと面白くなったような気がするのだが。最後のエンドロールの文字の出し方がかっこよかった。ロボットの動きが面白かった。工場で整然と並んだロボットの静かな姿と、最後に襲いかかるロボットの激しい姿。静と動をうまく使い分けていた。ロボットの「死刑」を描くシーンが印象的だった。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
1969年/アメリカ/111分 監督:ジョージ・ロイ・ヒル 撮影:コンラッド・L・ホール 音楽:バート・バカラック 製作:ジョン・フォアマン 製作総指揮:ポール・モナシュ 脚本:ウィリアム・ゴールドマン 出演:ポール・ニューマン/ロバート・レッドフォード/キャサリン・ロス/ストローザー・マーティン | |
無声映画からセピアカラー。すでに過ぎさった西部の風景だ。最初の馬に乗った場面で、セピア色からだんだん色がついて明るい西部の風景が広がっていく場面が美しい。あまりにも美しい西部の夢の風景だ。優しい色使いが、なぜか私を懐かしい気分にさせる。どんな最新の技術をもってしても表現しきれない雄大なロマンを感じさせる。荒野をかけぬけていく2人の男。ここは、西部である。サンダンス・キッドはロバート・レッドフォードである。夢見がちな表情を浮かべ、すでに存在を忘れた開拓時代の荒野を生きているかのようだ。心がそこになく、反射として、惰性としてそのまま強盗稼業を続けているかのようだ。すぐにでも撃ち殺し、すぐにでも撃ち殺されてしまいそうだ。ブッチ・キャシディはポール・ニューマンである。開拓時代にこのような男がいたら、生きていられないはずだ。現代的だ。繊細でユーモアを併せ持ち、どこかで自分やこの時代を客観視している。主人公は、強盗である。本来の西部劇なら撃ち殺される側だ。2人の性格を考えると、今まさに殺されどきのような雰囲気を感じる。すでに冒険を終えて、どこかの国でのハッピーエンドを待ち望んでいる。巨大な体制に抗う者が無惨に殺される。アウトローの終焉。偉大なる西部が滅んでいく。たくさんの悪者を拳銃で撃ち殺す開放感はない。全編に渡り逃避行を続けるだけである。もはや逃げる場所もこの国には用意されていない。取り残されて、追い立てられて、疎外されていく。アメリカンニューシネマである。保証され、許されたはずの夢がない時代だ。保安官の演説が、自転車商人の売り文句にかわる時代である。「もう手遅れだな。お前らは長生きしすぎたのさ。名前は売れてるかもしれんがケチな悪党に変わりはねえ。お前は愛想がいいしキッドは早撃ちだ。でもお上に追われてる悪党なんだよ。もうお前らの時代は終わったのさ。どうもがいてみても血まみれになって死ぬんだ」あの追手は、完全に、時代だ。時代の足音というやつだ。誰にも逃れる術はない。1890年代と1969年。開拓時代の終焉が、現代アメリカの時代の空気と一体化している。映画館の暗闇に、現代で疎外された観客たちが荒野で疎外された強盗たちを眺めにいく。需要と供給の関係。その関係が時代の感覚を完璧に捉えた時、普遍性を持つ。2012年の私が見ても共感できる。この共感には、音楽の力も大きい。最初に流れるBGMは、どこか物悲しい。最後も同じ曲である。さらに自転車のシーンに流れるのが「雨に歌えば」である。西部劇とは全く違う音楽を持ってきたセンスの良さがある。この音楽のせいで、西部劇の印象よりも、現代アメリカ映画の印象のほうが強くなる。西部劇を舞台にしつつも、扱っているテーマが西部劇とは違う。それを音楽の力で表現している。映像もまた素晴らしい。ほとんど、どのシーンを切り抜いてみても強烈な印象を残す絵になっている。絵が映画になっている。今見ても色あせないどころか、新しい感覚がある。強烈な光を当て、背景を柔らかくぼかして人物を浮かび上がらせる。撮っていて楽しかっただろうな、と思えるシーンがいくつもある。セピア色の冒頭、ベルトの銃を弾き飛ばす、列車の屋根に乗って走る、自転車の幸福感、列車大爆発、渓谷への飛びこみ。水の中に倒れた自転車の車輪が回りながらセピア色になっていくシーンが美しい。列車が爆発した時の破片の飛び散りが美しい。ボリビアの山賊たちが土ぼこりをあげて倒れ、美しい日光を浴びている。最後のシーンも、文字通り、絵になる美しさである。情報量がとてつもなく多く、どれもが丁寧に撮られている。撮影はコンラッド・L・ホール。撮影自体がガンマンのような的確さである。列車を何度も爆発できるわけでもなく、撮り直しが何度もきかないように見えるシーンが非常に多い。それでもカメラの台数や種類やアングルに工夫をこらして、最高のカットをきちんと撮れているのがすごい。ラストシーンは追いつめられる。そこで2人の会話が始まる。絶望的でありながらも独特の楽観主義。人間のたくましさを感じる。とどろく銃声。救いもなく、平和になるわけでもなく、ライバルを倒すわけでもなく、インディアンを倒すわけでもなく、ただ、撃ち殺されるだけだ。飛びでた瞬間、絵のように動きが止まる。負けたのか、負けるために生きるのか。それでも飛びだすのか。惨殺が重要ではなく、飛びでた瞬間が重要なのだ。負けるかもしれない。負けたかもしれない。それでも飛びだしていく生命力。そこに勇気づけられた。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
1993年/アメリカ/94分 監督:バリー・ソネンフェルド 出演:アンジェリカ・ヒューストン/ラウル・ジュリア/クリストファー・ロイド/クリスティーナ・リッチ | |
唯一家に持っているビデオがこれだ。ラウルジュニアがめちゃめちゃハマっている。蜘蛛女のキスやストリートファイターなど、アクの強い役者だ。それと赤ちゃんがかわいすぎだ。私も子供ができたらひげを書いてやりたいと思う。インディアンが反乱する劇がよかった。あのメガネの子が外見も内面も私にそっくりだった。キスしたあと二人とも口をぬぐうギャグがあるのだが、私も過去にそれをやって驚かれたことがあるので笑えなかった。私自身がアダムス一家の一員みたいな部分がある。ラウルの兄貴が、鼻にパン突っ込んで彼女の気を引こうとしてたけど、私もそんなことしていたような気がする。最初から最後まで、すばらしい脚本ではなかろうか。見所も満載だ。最後はマジデビビッタ。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
1928年/フランス/63分 監督:ジャン・エプスタン 原作:エドガー・アラン・ポー 撮影:ジョルジュ・リュカス/ジャン・リュカス 美術:ピエール・ケフェル 出演:シャルル・ラミ/ジャン・ドビュクール/マルグリート・ガンス | |
日本語字幕なし、16ミリフィルムでの上映を見た。すでに何年も経って、フィルムには傷がついてはいるが、そのフィルムの痛み具合が逆に効果的な演出になっている。鋭いカメラワークや斬新な光線の取り入れ方。完成度の高さに驚く。さまざまな短くて印象的なカットをバンバンとたたみかけてくる。この映画を編集した人間がすごい。冒頭の、枝と人影の構図がすてきだ。前半は、崩壊の前兆を知らせるような細かいシーンが印象に残る。屋敷の生命力。光の生命力。壊れかかろうとするなにか。屋敷の廊下を歩く時の、カーテンの揺らめきが美しい。映像の魔術だ。ギターの弦が揺れる一連の映像が最もすばらしい。空気が、雰囲気が、歴史が、生命が、自然が、振動している。音が聞こえない分だけ違和感をともなって、世界のうごめきを体感できる。アッシャーが絵を描いているときのシーンも印象的だ。なにかに取りつかれたかのような、らんらんと目をきらめかせながらの圧倒的な緊張感がアップで迫っている。この目の輝きは異常だ。こういう風に撮れるセンスがすごい。肖像画のモデルとなっている女性の姿がオーバーラップされて、揺らめく。ろうそくの炎が生命力でもあり、不安定な心象風景でもある。そしてスローモーションで倒れる。妻の死を前にした時の、衝撃で目が回るような驚愕の演出がすばらしいので、アッシャーの衝撃が、本当に身に迫ってくる。森の中や川の中で棺桶を運ぶシーンとロウソクの揺らめく光が効果的にオーバーラップされて、美しくもあり、残酷でもあり、見たこともない場所に移動しているような感覚に陥る。そして、崩壊が訪れる。風に飛ばされる枯葉をカメラが追いかけていくシーンにため息が出る。アッシャーは恍惚の表情で崩壊のまっただなか。時計の振り子のアップが美しくも残酷だ。この振り子は、屋敷の心臓のようだ。明確なリズムを刻み、歴史を支配し、人間を支配していく象徴のような気がする。スローモーションで本や鎧が崩れていく。音のない崩壊。死というものも、音のしないものなのかもしれない。ロウソクやカーテンのように揺らめく人間。作りこみ、作りこみ、作りこんでいった先に見えてくる崩壊感覚。映像だけで全てを表現させる、映像だけに全精神をかけるような作り方は、その後何年か名作が作られてはいるものの、実質的には20年代で終わる。世界初の長編トーキー(音声付映画)の公開は、1927年10月。この映画は、サイレント映画の到達点の一つだ。サイレントだからこそ、カメラや役者を斬新に動かせたような気もする。その当時の最新の技術を効果的に駆使して、今見ても驚くべき映像を作り上げている。ジャン・エプスタン監督。時に映像は文学より雄弁だ。 | |
2003年/アメリカ/95分 監督:ロブ・ライナー 出演:ケイト・ハドソン/ルーク・ウィルソン/ソフィー・マルソー | |
あまりにも軽すぎるラブコメディー。でも新鮮な感覚で、楽しい気分で見ることができた。物語中にさらに物語を入れるメタな話の展開が面白かった。ケイト・ハドソンは、日本人のような外見だ。髪の毛を脱色したOLのような感じ。身近な感覚がいい。しかめっ面が魅力的だ。バス停でこけるシーンで、親近感がわいた。最後のシーンはうれしかった。男性の私にここまで感情移入させてしまう演技がすごい。後半でソフィー・マルソーが現れるが、夕暮れから夜にかけての暗いシーンで、あまりきれいに撮れていなくて残念だ。ルーク・ウィルソンの不自然な演技が面白かった。最初の、借金取りから隠れるシーンがあまりにも挙動不審なので爆笑してしまった。ただ「普通の」演技をしていないので、人によって評価の分かれるところだと思う。体格がかっこいいので、もう少しダサくても良かった気もする。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
2008年/日本/102分 監督・脚本:内田けんじ 出演:大泉洋/佐々木蔵之介/堺雅人/常盤貴子 | |
最初の朝食の場面に、テレビドラマ的なとってつけたような生活観の希薄さを感じ、ちょっとイヤになったのだが、まさか、こういうストーリーになっているとは思わなかった。狭苦しいカメラ、舞台、日常描写。全てがテレビドラマのような画面の感触でありつつも、ストーリーには映画ならではの奥行きと立体感がある。不思議な感覚。日常にも、様々なドラマがひしめいているようなドキドキ感。実際の私たちの周りを見回しながら、ワクワクするような気分になった。新しい世界の見方を手に入れたような達成感まで味わうことができた。私にとっては、新宿区民になって十年以上経過しているので、東京が舞台になっているだけで親近感があり、見ていて楽しかった。現実から逃げようとしている探偵が、首ねっこをつかまれて、現実から逃げているように見える行方不明者を追う。枷がたくさんあり、トリックもある、スピード感を持ったいいシナリオ。役者は全員、すっとぼけた感じで、独特の感触。テレビドラマだと共演者がひどいので学芸会っぽく見えることもあるが、この映画では広がりのあるストーリーを吸収する懐の広さを出演者たちから感じた。会話の間が楽しめる。四課の刑事や、ヤクザは、リアルだった。堺雅人の演技が一番面白かった。私が今まで見た中で、一番最悪だった舞台は彼の出た東京オレンジだったのだが、あれからだいぶ時間が過ぎた。大人の俳優を前にした時の、ふき飛ばされがちな彼の存在感の希薄さは、なかなか見ていて味があった。映画館を出てからダッシュで帰った。それくらい元気になる映画だ。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
2001年/フランス/121分 監督・脚本:ジャン=ピエール・ジュネ 製作:クローディ・オサール 脚本:ギョーム・ローラン 音楽:ヤン・ティルセン 出演:オドレイ・トトゥ/マチュー・カソヴィッツ/ドミニク・ピノン/イザベル・ナンティ | |
子供時代のお遊びのような、不思議で楽しい気持ち。身近な場面で、見慣れた光景を別の物に変えていく魔法。不思議な映画である。貴重な時間である。初めから終わりまで開いた口がふさがらない。この映画を作っている瞬間のジャン=ピエール・ジュネ監督は、とても楽しかったに違いない。だって見ていて楽しいから。たぶんこの映画で人生の真理とか葛藤とか、悲劇とかそういった嘘くさいテーマを語ろうと思わなかったはずだ。私もそう思う。一つ一つの小さな積み重ねと思いつきで、人生はこうも変わっていくものだ。こういうのは、見ていてとても楽しい。シュールすぎて巨大な闇に引きずり込まれるような、どこまでも沈みこんで暗黒部分の奥底にもぐりこんでいくような面白さ。日常を舞台にしつつ、どこか別の世界を見せてくれている。アメリさんの心の中のファンタジーに入りこんでいくような、不思議な魅力。こういう風に生きていたら、人生楽しいだろう。楽しいことだらけだろう。破り捨てられた証明写真のような私たちを、もう一度復元して貼りなおし、別個の価値を与えてくれる。これは芸術家の仕事だ。芸術だ。くすんだトーンでありながら原色の輝きを一部に持たせるようなおもちゃのような質感が作風と非常に合っている。1シーンごとに切り取って絵葉書にしたいくらいの完成度だ。とてもかわいらしく撮れている。この監督がこの映画の前に撮ったのが「エイリアン4」だとは信じられない。音、レンズ、カメラ、照明、構図、動き、表情、エフェクト処理。撮影前の段階で、1カットごとに撮影方式の絶対的なコンセプトが必要なはずだ。完全主義者のようなこだわりを感じる。破り捨てた証明写真を拾って復元する趣味は、なかなかいいアイデア。スクラップブックは切手収集のような見た目で趣きがある。人間に対する歪んだ愛情も感じられ、いかにもアメリが好みそうだ。スクラップブックにたくさん登場する謎の人物の正体も新鮮な驚きがあった。アメリはふとしたきっかけで他者に対して関心を示すようになるが、そのアプローチは盗んだり、不法侵入したり、どこかいびつだ。ちゃんと人に会って渡したり、自分の意思を伝えたりするのではなく、電話を使ったり手紙を送ったりする。最後にようやく人に向き合うが、そのプロセスが面白い。純真な心から発せられているので応援したいのだが、感情を表現する仕方が不器用なせいで、愛情の進む先は、実に不可解。たどたどしさがかわいい。彼女の不完全なコミュニケーションが、ちょっとした奇跡になり、人々を励ましている点も面白い。ドワーフの家出や40年後の手紙など、発想が斬新だ。アメリ自身も最後に老人に勇気づけられる。老人との交流の描きかたもすばらしい。ルノアールを使ったコミュニケーションが、いかにもアメリらしい。病気を患う老人にとっての限界もよく理解できるし、アメリ自身の自分を表現できないもどかしさも感じる。2人が、そのまま自分の思ったことをストレートに表現しないぶん、深みがある。メタファーの上手な使いこなしは、オシャレだ。フランス映画の魅力の一つだ。映画の中では両親の好きなことや嫌いなことなど、話と関係ない様々な説明をナレーションしているが、アメリが盲目の老人を一瞬だけエスコートしたシーンに似ている。あの老人は、観客である。自分の感性や観念に閉じ込められた物の見方も、想像力を使えばこんなにも豊かな世界に出会える。観客を楽しい世界に導くような、寄りそいながら一緒に歩いているような感覚。映画そのものがアメリである。「すべてが完璧。柔らかな日の光。空気の香り。街のざわめき。人生は何とシンプルで優しいことだろう」ずっと大事にしまっていた思い出がよみがえり、勇気づけられ、外に出かけてみたくなる。ちょっとした奇跡である。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
1988年/チェコ・スイス・イギリス・ドイツ/86分 監督・脚本:ヤン・シュヴァンクマイエル 出演:クリスティーナ・コホウトヴァー | |
シュヴァンクマイエルの傑作。細かい部分まで、すごく丁寧に作られている。見慣れた光景を使い、手応えのある効果音を合わせ、ストップモーションのアニメでありつつも、リアリティがある。温かみがある。落ち着いた色使いが、美しい。絵画的に、密度の高い画面構成だ。こういう世界が実在するような気にもなる。机から落ちたクッキーが机の周囲を回るシーンが好きだ。剥製仲間たちも、なかなかグロテスクながらいいデザインだ。ウサギの剥製は、シュヴァンクマイエルにしては非常に品のいいデザインだ。腹が破れているのでおが屑で栄養補給していて面白い。時計を何度も見るウサギ。自分の体の中に時計を入れているので、取り出すたびに、中に詰まったおが屑がどんどん減っていく。自分の身をすり減らしながらも時計を見る。そして、間に合わないことにあせる。大人の世界を象徴しているように見える。ウサギは命令し、アリスよりも立場が上のようにふるまう。部屋から入ろうとしたり、追いかけてきたり、アリスにとっては脅威だ。生きているように見えて、実際は死んでいる。タマゴの殻を破って白骨の鳥の頭が現れ、外に飛び出すようなグロテスクな世界だ。生まれた時から死んでいる。「大変だ。首を切られる」ウサギの背後には恐怖がある。夢のある世界に見えつつも、王様と女王が支配する恐怖の王国だ。全くBGMがないので緊迫感があっていい。もぞもぞ、ごそごそ、ぎちぎちと、効果音がたくさんあって聞いていて面白い。冒頭に、本をめくって手をたたかれる。「食べちゃダメ」「飲んじゃダメ」「開けちゃダメ」と、映画には出てないが、この子はそういう風にしつけられて育ってきているはずだ。子供にとってはタブーがたくさんある。タブーから踏み出すことから現れる幻想。アリスはたくさんのドアを開ける。ジャムや青いインクの瓶も開ける。それらは子供にとってはタブーのドアでもあり成長のドアでもある。子供の発想は柔軟だ。普通は紅茶の入ったカップに石を投げないし、青いインクを飲まない。お仕置きのように部屋に閉じ込められることもあるが、好奇心があれば、不思議な世界が開かれている。子供の発想は自由だ。そもそも発想は、常識から離れて自由になるべきだ。不思議ではない世界が、逆説的に見える。なかなかドアが開かない前半のシーン。机の引き出しを開けようとしても取っ手が取れるシーン。窮屈なウサギの部屋。ウサギに追われて窮屈な中庭から狭い空を見上げる。人形の中から脱皮するように抜け出す。台本のとおりに裁判をさせる王様。子供をしつけるような形で国民もしつけられている。作り手が、政治的な抑圧からなんとか自由になろうとするような、ブレイクスルーの方法を探しているようにも見える。三月兎と帽子屋のシーンが悪夢のように見える。ゼンマイ仕掛けの三月兎は、紅茶の入ったポットから時計を取りだし、バターを塗って帽子屋の体に吊し、席をずらす行為を延々と延々と続ける。帽子屋は答えのない謎をかけ、紅茶を飲み、人形なので紅茶が漏れ、きれいなカップを求めて延々と延々と席をずらす。我々の退屈な日常。「席はないよ!席はないよ!」と2人は叫ぶ。この状況は怖い。主人公はかわいらしい少女。しかし、回りは不気味な世界。靴下のイモ虫、赤ちゃんのように鳴く豚。理解不能なくらい不条理な世界だ。しかし、子供なので自分のいつもの世界も理解していない。だから落ち着いている。少女の現実。不思議の世界の現実。そして背後に潜む大人の現実。最後に、クッキーをおいしそうにほおばるアリスが印象に残る。クッキーはおいしい。それをとがめられるのは、とんでもないことだ。子供ながらの喜びがある。本質的な自由がある。現実世界に戻ってきて、帰ってこないウサギに対し、首を切ろうと考えるアリス。立場が逆転している。かわいらしい口のアップが、ラストでなにかの力を発揮している。そういう残酷な部分が子供らしいし、作り手の挑発めいた雰囲気も感じる。この映画で一番大きく映っているのが、主役の口のアップだ。主人公として翻弄されつつも、物語る側の方が、不思議の国よりも強い。シュヴァンクマイエルのいる国よりも強い。物語の大きな力を感じた。 | |
楽天ブックスで購入 |
2002年/アルゼンチン/93分 監督:ディエゴ・レルマン 撮影:ルシアノ・シト/ディエゴ・デル・ピアノ 脚本:ディエゴ・レルマン/マリア・メイラ 出演:タチアナ・サフィル/カルラ・クレスポ/ベロニカ・ハサン/ベアトリス・ティボーディン | |
このころはアルゼンチン経済崩壊真っ只中。ランジェリーショップも暇そうだ。全体的に停滞感が漂う。白黒のロードムービー。ただそれだけでジャームッシュと比較するのもちょっと違う気がする。まだ監督が若いせいなのか、演技が追いつかないのか、落ち着きがなくカットがポンポン切り替わる。ダラダラしないでテンポがいい。逆にジャームッシュ的な想像に任せるような開放感が少ない。それに、この映画にはストーリーがある。日本における70〜80年代あたりの少女漫画のようなロマンティシズムに近い気がする。マオ役のカルラ・クレスポが少女漫画に出てくるような現実離れした美形なので、同性愛者としては適役に思える。ほとんど笑わない、挑発的な演技が印象に残る。彼女を眺めているだけで楽しめる。色が付いてないぶんだけ彼女の外見の想像ができて楽しい。いろいろな彼女の画像や映像を見たが、この髪型、そしてピアスが、一番魅力的に見える。「愛の妨げは“行為”だけ。説明のつかない愛は行為で証明するしかない。行こう」と旅立つ。誤訳なのかどうなのか、言ってる意味が全くつかめないし、不自然すぎるセリフだが、少女漫画的になにかの前触れのようなワクワク感がある。白黒だと情報が少ないので、アルゼンチンというよりも、どこにもないような、どこかにあるような、別世界の雰囲気。そのイメージの世界を演出する撮影方法が巧みだ。タバコの煙、自動車の排気ガス、窓ガラスの水滴、波しぶきの激しい海。白黒映画で映える場面が印象的に撮れている。海へと向かうBGMも独特の魅力がある。おばあさんの踊るシーンもなかなかいい。個性的な音楽の使い方だった。素人監督が撮る場合、だいたいは、男女の2人になるような気がする。この映画では女性3人。洗練されている作りだ。言葉の遊戯や泣きごとや甘やかされた愚痴が存在しない。海にたどりついても、ガス欠になったりヒッチハイクしたり親戚を訪ねたり、現実的な逃避行だ。作品として完成度が高い。男性的なストイックさも感じる。マオとレーニンは生活費や家庭の束縛がなく、常識から外れて自由だ。唯一、主人公だけが、定職に戻らねばならない枷を持つ。まだ見ぬ世界への憧れやざわめき。無限の可能性を感じる。ヌーベルバーグ的な冒険意識。ディエゴ・レルマン監督自身もロケ撮影でなにかを探しているかのようだ。海にあったのか、道にあったのか、田舎の家にあったのか。「到達点」、「成果」、「集大成」というような物はこの映画には提示されない。主人公はこの旅を通してなにを得ただろうか。初めて海に行けた。友達ができた。仕事をサボって自分に向きあえた。禁断の愛まで経験してしまった。今後、主人公はどうなってしまうのか。マオとの仲はどうなってしまうのか。最後は幸せになれるのか。世界に生きる全ての人々は生きているだけですでになにかしらの物語を持っている。彼女もまだ物語の途中である。ステキな物語になるような気がする。禁断の愛はともかく、私もどこかに行くべきではなかろうか。マオはなにを証明しようとしたのか。そしてそれは証明されたのか。映画の最後でも証明されきってない気がする。この映画では証明するための行為をはじめた瞬間を描いている。証明されつづけなければならないのかもしれない。私にも、マオになにかを投げかけられたような気がする。 | |
2007年/フランス/110分 監督・脚本:クロード・ミレール 撮影:ジェラール・ド・バティスタ 脚本:ナタリー・カルテル 原作:フィリップ・グランベール 出演:セシル・ドゥ・フランス/パトリック・ブリュエル/リュディビーヌ・サニエ/ジュリー・ドパルデュー/マチュー・アマルリック | |
2012年4月22日、渋谷のシアター・イメージフォーラムにて「フランス映画未公開傑作選」を鑑賞(同時上映は三重スパイと刑事ベラミー)。他の2作品は名匠の晩年ということで生命力はなかったが、この映画では鮮やかな実りを感じた。並列に上映する意味が分からないほどの完成度の高さだ。クロード・ミレール監督は魅力的だ。冒頭の、プールのトイレのドアを開けるシーンがすごい。人の輪郭がドアの向こうから現れでてくる。ここまできれいにする必要もないかと思うが、過去から人生が浮かびあがってくるかのような映画のテーマを表現している。映像に見とれてしまう。ベッドで天井を見上げるとプールの水面が広がっている映像もすばらしい。どこかの楽園のような幸福なイメージ。理想の王国が、プールである。これも映画のテーマと調和がとれている。詩的な映像言語。現実を白黒で、思い出をカラーで表現している手法にも興味を持った。通常とは逆に見えるかもしれないが、見ていて全く違和感がない。バンバン時代が変化するので、この切り替えは有効だ。さらに、当時を生き生きと表現するのに効果的な演出だ。結婚式のシーンが鮮やかだ。特にダンスがすばらしい。すごく楽しそうだ。民族の結びつきや温かさがよく表現できている。この幸福感が、結末近くの自殺行為と対照的で、悲しい。登場人物が善人でも悪人でもなく、等身大の人間として描いたところがよかった。奥行きのある人物像は、フランス映画の魅力の一つだ。犠牲者である以前に人間。親である以前に人間。人物描写が鮮やかであるがゆえに心に響き、胸にこたえる。本当にその時代にいたかのような人々だ。だから、悪人に見えることはない。悲劇に怒り狂うわけでもない。残された人々は、絶望しつづけるばかりにもいかなかっただろう。人生は続いていく。ジュリー・ドパルデュー演じるルイズが、不倫関係になりつつある彼らに対して非難もしなければ同意もしない反応を見せるのが印象的だ。その後も生きていかなければならない者たちへの優しい視点を感じる。等身大の人間として描くことは、単純なようでいて、この絶対的な悲劇を題材とする場合、非常に難しいのではなかろうか。監督自身が常に表現の機会を狙っていたような気もする。自分の成熟を待ちながら温めていたような気がする。そもそも原作はベストセラー小説。しかしセリフが全く存在しない特殊な形態だ。監督が自分一人で脚本を書いたわけではなく、脚本家との共同脚本。さらに、原作者と話しあいつつ作られたようだ。あくまでも主観で物語ることはしない。そういう感情に流されない。大監督ヅラするわけではなく、真摯に周りの意見を取り入れて作品を作りあげる、この姿勢に感銘を受ける。少年の負のイメージ。家族が隠していた負のイメージ。どちらの対象も、兄を指している。主人公は、語られずにいた兄の存在を語る。個人的な行為なのだが、主観から離れて、一人称から離れて、大きな視点で、歴史の中で風化させずに明確に浮かびあがらせている。この語り口が巧みだ。最初は身近な話題。自分の劣等感から兄の存在をイメージさせ、スポーツ万能な両親も描写する。途中で玩具という小道具を使ったほのめかしをさせる。ユダヤ人大量虐殺を撮影したショッキングなシーンを入れて転調させる。その後で、主人公の初めて知る、両親についての物語を語る。イメージをどんどん膨らませつつ、ごまかしや強調をせずに、手続きを踏んで、静かに語られている。主人公が少年になるまで、秘密は主人公には語られることはなく、両親が亡くなるまで、この秘密を主人公が語ることはない。長い時間である。しかし、悲劇がつい最近のことであるようにも感じられる。完全に過去と地続きに描かれていて、誇張や脚色をすることはない。両親の物語こそが脚色に満ちた物であったかのように見える。「アウシュヴィッツなんてなかった」と、語らないことによって両親は主張しているかのようだ。被害者の側からの秘密。あまりにも悲しみが大きすぎて、罪の意識が強すぎて、逆に黙ってしまう。隠蔽してしまう。しかし、どこかで分かってしまう。両親の喪失感が実体を持ってしまうくらいにのしかかり、主人公は兄を夢想していたようにも見える。深層心理ではすでに兄の存在に気づいていたようにも見える。個人の中のアウシュヴィッツ。個人の中の大量虐殺。声高に主張するのとは反対に、この映画での体験は秘密にされている。隠されていた物を引きだす時、脚色や誇張をしては、逆に隠してしまうことにもなりかねない。慎重に慎重を重ねて引きだした結果がこの映画だ。そこまで労力をかけるに値するものが監督や原作者にもあったのだ。秘密にされた個人の中の大量虐殺が、フランス国民の共感を呼んでベストセラー小説になったのだ。声高に主張せずにどこか優しい。ここまで自然に表現できる才能に驚く。2012年の4月4日、クロード・ミレール監督が死去。晩年にありながら、これほどみずみずしい生命力を歌いあげた秘訣はなんだろう。単略的な見方になってしまうが、プールが重要な要素を担っていたように見える。この映画からプールを取ってしまうと味気ない物になってしまう。美しい水をたたえたその中は、優しい思い出であり、現実への試練であり、魅力であり、罪もなく、どこまでも静かだ。湧きつづける泉のようだ。歳を重ねて泥沼のようになりがちな心が、なぜかきれいだ。自浄作用を重ねて、きれいな水をたたえたプールになっている。監督の心の中の結晶がプールであるかのように見える。この映画から、人生の宝物を見せてもらえたような感動を覚えた。 | |
1995年/フランス・ドイツ・ハンガリー/170分 監督・脚本:エミール・クストリッツァ 脚本:デュシャン・コヴァチェヴィッチ 音楽:ゴラン・ブレゴヴィッチ 撮影:ヴィルコ・フィラチ 出演:ミキ・マノイロヴィッチ/ラザル・リストフスキー/ミリャナ・ヤコヴィッチ | |
アジア人では作れないし、アメリカ人でもフランス人でも作れない。強烈な音楽、服装、画面構成、色彩感覚。ここまでいくと文化だ。強引すぎて説明不足なシナリオだ。最後の方で、猿や兄弟、友人など、あそこまで登場人物が再会するのは、ご都合主義。無理がある。地下室にあれだけの人数を閉じこめて何十年も生活させるのにも無理があり、限界がある。性格描写がきちんとできているとも言い難く、かなりのファンタジーである。パンフレットには監督の言葉として次のように書かれてある。「1本の映画は一般的に、文芸作品というよりは楽曲やサーカスに近い」よって、見た目を楽しんだり音楽を楽しむ映画だ。撮影期間は1993年10月から1995年1月。28650平方メートルもの広大なセット。上映時間は171分。大作である。当時のニュース映像が流れ、劇場での演技があり、一本の映画の中に映画の撮影シーンがあり、船の上での結婚式があり、地下室の桃源郷があり、そこに覆いかぶさるようにチトー政権下のユーゴスラビアと、ユーゴ紛争がある。全編を通してブラスバンドの演奏が流れ、人々が踊り狂う。幻惑させられる。生命力がある。リアリティがどんどん緩んでいって、陶酔するような気分になっていく。役者自体も酩酊しているような雰囲気だ。虚構の戦争、虚構の国。虚構の祭典である。映画自体が、緻密な計算によって観客を幻惑させる構造になっている。虚構を生み出す圧倒的な精神力に感銘を受ける。地下室でもって、主人公も監督も理想の国家を表現したかったのかもしれない。生死を問わず、国家の成立や崩壊を問わず、音楽と共に踊り狂っている。底しれぬ熱情。ここまで大騒ぎされると、黙って大画面を眺めているだけの私たち自身が虚構の世界にいるのではないかと錯覚を覚える。どちらが生き生きしているかというと、映画の中のほうだろう。実際のところ、理想の国とはどこだろう、私たちは理想の国にいるのだろうか、いつのまにか虚構の世界に閉じ込められていないだろうか。私自身の小さな想像力の限界を感じた。音楽的な特徴としては、全編にわたりブラスバンドが鳴っている点が魅力だ。荒々しく、激しく、時代の息吹となって映画をかけぬけている。背景音として鳴るだけではなく、実際に登場人物がバンドを引き連れている。個性的な演出だ。その土地の民族的な音楽だから、ブラスバンドが画面に登場しても全く違和感ない。その地域性をくっきりと浮かび上がらせることに成功している。絵としても音としても非常に賑やかである。即興的な臨場感、ライブ感がある。この「ブラス」は、台詞に近い。言葉では表せないものを音楽で伝えようとしているかのようだ。すでに言葉を発することのできない人々の声も聞こえてくるようだ。雑多な声やつぶやきが音になったかのようだ。外国人にとっては音楽の方が言葉よりも共感しやすい。このアイデアはすばらしい。計算された効果というよりも、自然に湧き出たイメージのように思う。 | |
楽天ブックスで購入 |
1987年/アメリカ/119分 監督:ブライアン・デ・パルマ 脚本:デビッド・マメット 撮影:スティーヴン・H・ブラム 製作:アート・リンソン 出演:ケビン・コスナー/ショーン・コネリー/チャールズ・マーティン・スミス/アンディ・ガルシア/ロバート・デ・ニーロ | |
主人公は正義のヒーローだ。どれくらいカポネ一味が悪いのか、この映画では最初に分かりやすく説明している。爆弾を爆発させるのである。同情の余地なし。組織の壊滅こそがハッピーエンドだ。冒頭から正義のヒーローは孤立する。自分の所属する組織で孤立無縁である。少人数対多人数。さらに外部から来た異邦人であり、警察官でもないため、理解者もいない。応援したくなる。正義のヒーローには家族がいる。家族愛をこってりと映画に盛りこんでいる。家族のために日夜働くヒーローである。最大の難関は動機づけだ。「政治的野望が?」と新聞記者から就任会見でからかわれていたが、自らの立身出世のためと思われそうな側面もある。「覚悟はできているのか?一度宣戦を布告したら奴らはとことんやるぞ」カポネ一味との戦いは生きるか死ぬかという、一対一の戦いへと転じる。「家族も一人残らずぶっ殺せ!」とカポネも宣戦布告だ。愛する家族を守るための戦いにもなる。非常に分かりやすい正義と悪の対立構造が完璧に完成される。シナリオの盛り上げ方と納得のさせ方が上手だ。脚本はデヴィッド・マメット。時間内に現実をきれいにまとめあげる職人芸的な構成力がすばらしい。この脚本なら、パラマウント映画75周年記念作品を任せられるというものだ。当然、監督よりも先に、脚本が決まっている。ただ、あの階段のシーンは最初の脚本には存在しなかった。映像感覚もこの映画の重要な要素だ。禁酒法時代のシカゴの町の全てが劇場であるかのような美的感覚に驚く。カポネの本拠地も、史実通りの豪華ホテルであり、その内装は宮殿のようだ。スタイリッシュで洗練されて、非常に美しい。真っ白いスーツの男など、もはや非現実だ。衣装はジョルジオ・アルマーニ。主人公はケヴィン・コスナーで、カポネはロバート・デ・ニーロ。ショーン・コネリーやアンディ・ガルシアが仲間だ。要するに、全てが虚構の世界だ。家庭のシーンを含めて生活感がほとんどなかったが、一種の芸術だと思うとなかなかの見ものだ。駅の階段を降りる時の左右対称の構図がすばらしい。その後の一連のカットは映画史上に残るような流れ、構図、動きである。ストーリーとは関係なしに、このシーンだけ切り抜いてもこの映画の存在価値がある。初めて見た時は衝撃を受けた。主人公視点での赤ちゃんの泣き声と乳母車。美しい影。大理石の模様と質感、階段の立体的な構図。そして落ちていく乳母車。スローというよりも、柔らかい、優しい時間が流れて、一瞬の死が描かれている。強烈なカットの連続だ。死者多数の銃激戦に家庭的なアイテムを用い、美しい構図を引き出している。映画的な場面でありながら、乳母車が登場していることで現実的な雰囲気を出している。驚くべき映像表現だ。ブライアン・デ・パルマの能力が十分に発揮されている。髭剃りを天井から見下ろすカットや、カポネが野球の講釈をしながらグルグル回っていくカット、ショーン・コネリーの家に侵入した人間視点のカットなど、印象的なシーンも多かった。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
2004年/日本/92分 監督:河崎実 出演:西村修/AKIRA/石田香奈/ルー大柴 | |
イギリス映画「えびボクサー」にヒントを得て製作されたらしい。「えびボクサー」は、ギャグだけでなくリアルな成長物語にもなっていて完成度が高いが、リング上でのボクシングシーンを描かなかった部分が致命的だった。このいかレスラーでは、きちんとプロレスシーンを描いているので好感が持てた。ただ、主題歌の熱唱や試合での倒立ムーブがあるにせよ、「ジャニーズ・ファイター」(10年前のニックネーム)、「無我の伝道師」(04年現在のニックネーム)西村修の素材を活かしきれていなくて残念だ。俳優としてはAKIRAよりも素質があると思うのだが。台本を無視して西村のフリートークをバンバン入れていけば映画史上に残る怪作になったはずだ。画面からはB級映画以上に自主製作映画の雰囲気が出ている。画面が必要以上に狭苦しい。後楽園ホールで撮影すれば迫力が出たと思う。「25時」の何日か後に見たせいかもしれないが、全ての役者の演技がへたくそに見えた。この内容で1800円は高い。劇場には15人も客がいたけど。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
2010年/アメリカ/148分 監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン 出演:レオナルド・ディカプリオ/渡辺謙/ジョセフ・ゴードン=レヴィット/マリオン・コティヤール | |
どこまでが始まりで、どこまでが終わりであるのか。想像の世界では、それは定かではない。夢のように、目覚めてしまうと思い出せないような世界の中で、物語が繰りひろげられていく。不条理ではなく、きちんと論理的な道筋を立てて話を組み立てていく手法が鮮やかだ。時系列をわざと前後させるようなシナリオ展開も効果的。こういう夢のシーンが多用された映画では「いかに設定が破綻しないか」が重要だと思う。その意味では最後まで矛盾なく進んでいったので気分よく見ることができた。話が進むにつれ、人間存在がどんどんどんどんものすごく薄っぺらくなっていくような、それでいて自分の中の理想や夢がどんどんどんどんクリアになっていくような、今後の未来を象徴するかのような現実感覚まで味わえることができて有意義だった。これだけ刺激的な設定でも、銃撃戦をたたみかけるハリウッド映画の手法はギャグに近い。アメリカ人にとっての銃撃戦は、昔の香港映画でカンフーの場面が入ってくるようなお約束ごとなのかもしれない。銃社会の影響なのか、西部劇の影響なのか、なにか底知れぬものを感じる。映像的には、ディックの小説「ユービック」のような危険な感覚を味わえてよかった。リアルな空想世界が広がっていた。もはや映画は、なんでもできる。今こそ「ユービック」の映画化を希望したいものだ。「いかに非現実な設定をリアルに見せるのか」という意味で、役者も大変。「もっともらしさ」ではいいキャスティング(渡辺は演技らしいことはしなかったが)。ディカプリオだとインセプションになり、トム・クルーズだったらナイト&デイになる(作品の良し悪しというより住み分けの問題)。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
2004年/日本/92分 監督:矢口史靖 出演:妻夫木聡/玉木宏/平山綾/眞鍋かをり | |
フジテレビとか電通とかアルタミラが撮った体育会系映画。何気ない日常の1コマを切り取り、「面白い瞬間」をさりげなく観客に見せる制作姿勢に好感が持てた。イルカショーの調教師がシンクロを教える設定が最高だ。思わずご褒美の魚を投げて「あ、まちがえた」というシーンが面白い。(でもそのときなぜ魚持っていたのか分からなくて不自然だ。バケツを持っている仕事中に生徒が出てきて「イルカの先生、演技ができました。見てください!」と引っ張って、水族館のプールで泳ぐのを見せる方が自然だな。)カメラがちょこちょこ動いて気持ち悪かった。テレビテレビしてる構図がいやだ。はじめから構図考えておけばいいのに。題材は身近で好感が持てたが、演出が漫画チックすぎる。演技がよくない。顔を不自然に硬直させるシーンが何度もあったが、もったいない。「先生がシンクロを見せて、生徒の方を向いたらだれもいなくて顔を硬直させた5人だけいる」シーンがある。そういう演出は作り手は楽だろうけど面白みがない。「先生がふり向いたら、複雑な表情を浮かべている生徒がびくっとしつつ、無言で向き合うシーン」の方が面白いと思う。竹中直人はいつになく活き活きしている。自分で監督しない映画の方が面白い。他人が監督だと食ってやろうとしちゃう性格なのかもしれない。ただ、頭に火がついて飛び込んだりイルカが飛んだりするスローモーションの演出がいい。いきなり走り出すのと銭湯のシンクロなど、元気いいので見ていてこぎみよかった。クライマックスのシンクロシーンのカメラは、スローモーションとか使って水しぶきとかもっとキレイに撮ればいいのに、ちょっと残念なできだ。演技もあれでは組体操だ。泳げない生徒はいつ泳げるようになったのだろうか?暴れはっちゃくみたいな映画だった。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
2010年/アメリカ・イギリス/104分 監督:グレッグ・モットーラ 製作:ニラ・パーク 製作総指揮:ロバート・グラフ 撮影:ローレンス・シャー 脚本・出演:サイモン・ペッグ/ニック・フロスト 出演:ジェイソン・ベイトマン/クリステン・ウィグ | |
くだらない言葉のやりとりを、ビールを飲みながら楽しく眺めることができた。まさにイメージにピッタリの宇宙人ポールが、宇宙に帰る話。SFオタクがETと一緒に旅するロードムービーという体裁。B級コメディ映画の王道なのだが、あまりに完成度が高くて驚いた。「未知との遭遇」などの先人たちの撮った映画に対しての底知れぬ愛を感じた。楽しげな雰囲気で、じっくりとこの映画を撮っているのを感じる。思い入れが深いのはすばらしいと思う。宇宙人のCGがよくできている。目の表情の作り方が上手だった。造形にはマニアックなこだわりを感じる。役者の演技も上手だ。CGということで、役者が演技する時には、相手のETがいない。それでいて、あたかもETがそこにいるかのように演技しているわけなので、それを考えると、すごく良い出来だ。透明な状態からいきなり姿を現すシーンなど、見直したくなるシーンがいくつもある。60年暮らしたせいでETの精神性や言葉使いは完全にアメリカの中年オヤジになっている部分が面白かった。キリスト教原理主義者とETの出会いも、なかなかB級ならではの味があって面白かった。UFOの名所巡りをしている怪しい2人組。人格的にもなにか問題がありそうだが、好感が持てるように演出されている。性格に深みはない。まるで記号のようだ。頼りになるマッチョな男たちが主役だとB級アクション映画になるし、頼りがいのないダメ人間たちだとB級コメディ映画になる。普遍的な構造を感じた。印象に残ったのは、アメリカの道路の長さと景色の単調さ。もしもこんな道路を私が走るとしたら退屈に感じるはずだ。土地が広い、空が広い、人は小さい。広すぎて逆に窮屈に感じるかもしれない。退屈すぎて、窮屈すぎて宇宙人の妄想を抱くかもしれない。アメリカの荒野が宇宙人を呼んでいる。そんな気分になった。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
2005年/日本/123分 監督:実相寺昭雄 出演:堤真一/永瀬正敏/阿部寛/宮迫博之 | |
原作があるくせに脚本がダメだ。大学の講義を聴きおえた感覚に近い。あの原作をまとめただけで評価できるが、エンターテイメントとして完成するだけの力が及ばなかった。1対1での会話が終わった後は、また1対1の会話の場面。それが最後まで続く。役者同士のかけあいがないため、退屈になってしまう。最初の導入部分で京極堂が話した、現象学の上っ面の講釈はいらない。バーチャルリアリティという言葉は昭和20年代にはなかった言葉だ。登場人物に奥行きが感じられない。すごく平面っぽい。それぞれの人物にいろいろ目的とかあっただろうけど、省略してしまったために、ほとんどドラマが見られない。刑事、京極堂、探偵、作家、女の子など、解決する側の人物が多すぎるのがいけなかった。監督の力量で無理やり作品にしている。カメラ的にはおとなしく撮っていて、落ち着きがあって、古めかしさを出していて味がある。時おり連続で放たれるカットバック的なイメージ描写が、シナリオの退屈さと噛みあっていらいらした。阿部寛が普通の人を演じている映画を、私は見たことがない。2作目も劇場で見たが、悪趣味すぎだった。難しい題材だ。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
1990年/フランス/93分 監督:トニー・ガトリフ 出演:ジェラール・ダルモン/ヴァンサン・ランドン/シュザンヌ・フロン/ベネディクト・ロワイアン | |
この映画、邦題が二つある。どっちも副題があって、ものすごく、まぎらわしい。監督トニー・ガトリフ出演ジェラール・ダルモン、ヴァンサン・ランドン。鏡の前でおばあちゃんの髪をとかし、首飾りをつけるのを手伝っているシーンが印象に残った。ここに出てくる役者、私は一人も知らない(ジェラール・ダルモンだけ、ファッシネーターというエロ映画で見たことがある。)のだが、みんなすごい。活き活きしている。演劇みたいだったけど、舞台に収まりきれない元気さだ。トラックで走り回ったり海辺を走ったり、イスが燃えたりする場面が元気だ。海がきれい。おばあちゃんの演技がすごいと思った。ガラスを割ったり、ペンキ塗り立てのいすに腰かけたり車運転したり。看板見て喜ぶアップのシーンはいいと思った。元気だけじゃなくて、泥棒シーンでメリハリつけてて物語のテンポもいい。後で調べたら、「ガッジョ・ディーロ」を作った監督だった。あの映画は以前に早稲田松竹で二回見た。ジプシーの歌をたずねに行く青年の話。どちらも主人公が素朴だな。セリフよりも笑顔で語らせるような監督だ。やさしさを感じる。共感できた。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
2001年/アメリカ/143分 監督:スティーブン・スピルバーグ 出演:ハーレイ・ジョエル・オスメント/ジュード・ロウ/フランシス・オーコナー/サム・ロバーズ/エイドリアン・グレニアー | |
原案がスタンリー・キューブリックで監督がスティーブン・スピルバーグ。死んじゃうと監修承認の必要がなくていいなあ。「〜にささげる」とかやれば宣伝効果抜群だ。スピルバーグもキューブリックもそんなに絡んでないと思う。たまたまキューブリックの死後、生きていた映画の企画をドリームワークスが買い取っただけなのではないか。性描写シーンや暴力シーンが出ないスピルバーグらしさが、オレンジを期待した私には邪魔だった。作家性にあふれているかと思えばそうでもなく、ファミリー向けでもエンターテイメントでもない、コントロールが定まらない印象を持った。超大作だが、映画そのものの魅力がない。ただ、SF的な視点から見ると、いろいろと興味深かった。ジョージがよかった。最後のシーンがいらないという人もいるが、私はそうは思わない。日常の異化作用が出ていて、普通の日常の描写になればなるほど異様な雰囲気をかもし出していてよかった。最後のシーンは、タルコフスキーの「ノスタルジア」でろうそくの火を消さないで歩くシーンのように、評価が分かれるところなのだろう。私はどちらも泣きました。私の好きなSF作家のイアンワトソンやブライアンオールディーズの名前がクレジットにあったので、少しうれしかった。有名どころのスタッフをそろえた割には絵が安っぽかった。映画館の中でずっとサングラスをして見ていたせいもあるだろうが、外す気になれなかった映像の方を責めるべきだろう。青い妖精がよわいなあ。安っぽさを強調するように映せばいいのに中途半端な存在だ。潜水艦と妖精の対面するシーンを、もう少し気をつけて撮っても良かったのではないか。その場面だけで、いいポスターができるのに。ライティングが甘かった。結局監督不在の映画だから、どこに光を当てたらいいのか分からなかったんだろう。自分の生まれた場所を確認するシーンが印象深かったが、細胞分裂していく人間の方が、ロボットよりも異常な誕生の仕方なんだろうなあ。自分の細胞分裂を追体験していく作品を見てみたい。ロボットの描写をとおして人間の異様さに気づかされて、なかなか刺激的だった。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
1998年/ギリシャ・フランス・イタリア/133分 製作・監督・脚本:テオ・アンゲロプロス 撮影:ヨルゴス・アルヴァニティス/アンドレアス・シナノス 音楽:エレニ・カラインドルー 出演:ブルーノ・ガンツ/イザベル・ルノー/アキレアス・スケヴィス/デスビナ・ベベデリ/イリス・ハジアントニウ/エレニ・ゲラシミドゥ/ヴァシリス・シメニス | |
砂浜から海底の都を目指し、海を進み、やがて砂浜に上がる。かつて近くにあったものと別れ、かつて別れたものと近くなる。探しても見つからず、やがて心の中へ。時がすぎたようでいて、すぎなかったようでいて。砂浜で海を眺める。海に全てがある。問いかけても答えはなく、なにかを語るようでいて、その問いを分からず。そこでなにを思う。私だったらなにを思うだろうか。海に向かって、小銭を払って買った言葉を、詩人が叫ぶ。とてもすごい状況だ。こういう発想に驚いた。テオ・アンゲロプロスの映画はえてして、長回しで芸術性に重点を置いているようにも見えるが、この映画の場合は犯罪劇のような人身売買のシーンをスリリングに描いてあったり、子供がどうなってしまうのかハラハラしたり、飽きさせずに語ろうとするストーリーが印象的だった。現代を舞台にして、政治色が少なく、身近な題材で作られているので、共感しやすい。登場人物は、余命いくばくもない老人と、密入国してきた身寄りのない小さな子供。彼らがとても心配になる。そこでくり広げられる世界がとても美しい。大画面の中に引きこまれていくような魅力がある。レコードをかけたら窓の向こうの見知らぬ住人の部屋から同じレコードが聞こえる場面が印象に残る。日常の身近な場所で他人との接点ができている。言葉のやりとりではなく、音楽のやりとり。誰かがいるからどこかで響く。この映画の大前提だ。開かれている。この映画から聞こえてくるのは、人々のベランダに向かって音楽が聞こえるような、ささやかながらも澄みとおった音色だ。主人公が進むのは、明日を探しにいく旅であり、言葉を探しにいく旅だ。それは、そのまま人生である。しかし、立場が最後の瞬間になった場合は、どのような旅になるのだろうか。明日がないかのように見える場合、明日とはなんだろう。見え方が変わってくる。言葉で世界を手に入れて、自分をよそ者にはしないこと。緊急性があるが、もはや諦めの境地にいる。主人公は作家でもあるので一生の課題だったのだ。薬を飲みつづけ、食べたり飲んだりしない。一歩一歩に痛みがあるようにも見える主人公の一日。世界はこんなもので終わるのだろうか。最初は、死よりも重くのしかかる救いのなさを感じた。犬や娘や母や我が家に対しての別れの一日だ。身辺整理をしているかのようだ。しかし、大部分を占めているのはすでに死んでしまった妻への別れだ。不在なので、身辺整理をしてもどこにも片づかないし、解決できないし、周りを片づければ片づけるほど明確になっていく。監督は長回しの達人であり、印象に残る景色を作りだす達人だ。険しい山道を抜けて国境の金網にたどりつくシーンが怖い。金網に、人々が張りついている。不気味だ。死後の世界のようだ。そこから二人は人生のほうに引き返す。革命家が眠り、大学生が痴話喧嘩し、3人のオーケストラが演奏するバスの中のシーンが夢うつつで面白い。こういう風に人生を語れる視点が素敵だ。最後に19世紀の詩人も乗ってくる。「人生は美しい」と語り、詩人がバスを降りる。たしかに。そんな気持ちになる優しいシーンだ。心の旅でもあるので時間の概念があいまいだ。舞台となる時間は一日だが、長い長い時間だ。長回しと調和のとれた時間感覚だ。手紙の文面を追いながら現実の部屋からベランダに出ると妻に出会う。川のようにも海のようにも見える長い岸辺を歩いていくと、19世紀の詩人が立っている。そこが海の底の古代都市であるかのように、時が止まっている。言葉を買うという概念が面白い。言葉というものが自分の外にあるのだという観点が新鮮だった。自分に内在しているようでいながら、言葉は他人なのだ。語りたい言葉が自分の内にないのか、語りたい思いが自分の内にないのか、なかなか判断しがたいが、19世紀のあの詩人は、明確に思いがあったから、買ってでも言葉を手に入れたかったのだろう。詩人としての思いの強さと言葉への渇望が心に残った。主人公も晩年において、新しい言葉と出会い、それを買っている。車の中での少年との別れでは、言葉の価値観が人生の価値観であるような地平に届いている。それがなにかの呪文のように、言葉の意味をも越えた言葉を買ったような気がする。しかも小銭のやりとりで。ささやかながらも重みのあるシーンだ。冒頭から聞こえる波の音。海で泳ぎはじめる3人の子供たち。記憶と海が一体化している。追憶は全て海。崖の上で一人。青空と海が広がる。ヨットで母や妻に出会う。浜辺で妻と抱き合う。結末で妻が答える。明日の長さは永遠と一日。明日と昨日の進み具合が逆転して、永遠の時間を手に入れたような瞬間だ。追憶の海。言葉の海。海を前に、手に入れたばかりの言葉を叫び、母の呼ぶ声が聞こえる。時がなくなる。よそ者ではなくなった、不思議な瞬間だ。 | |
2008年/韓国/113分 監督・脚本:チャン・フン 出演:ソ・ジソブ/カン・ジファン/ホン・スヒョン/コ・チャンソク | |
原題は「Rough Cut」。いい響きだ。この映画を見た時、私はベロベロに酔っていた。カメラやアクションや演出に見られるような拙さが、アルコールのせいであまり気にならなかった。分かりやすいストーリーが気分よかった。「本物のヤクザがヤクザ映画に出たらどうなるか」一つのアイデアが、雪崩のような躍動感で描かれている。ヤクザはもちろん演技ができないので、全部本気。「演技ができないから本気で殴りあい感情をぶつけるヤクザを演技する」のと「ヤクザの本気の演技に驚く俳優を演技する」という2人の役者の非常に高度なテクニックを味わえる。強烈な個性のぶつかりあい。勢いのままに俳優の魅力が浮かびあがる。ソ・ジソブは松田優作みたいだ。普通に立っているだけで、危険な雰囲気がある。ホテルの廊下を歩いているだけで絵になる、骨太の役者だ。家庭教師の役をやると面白いかもしれない。最後の、泥だらけの殴りあいのシーンは、すごく魅力があった。色がなくなって、動きだけがハッキリ分かる。目と口だけが泥の色をしてないので、迫力が出ていた。「映画の撮影」ではなく、「男と男の決闘」まで昇華させた勢いは、感動的。他にもいいシーンが多い。刑務所での面会で囲碁をしながら会話するシーンが絵的にも決まっていてよかった。子分とスローな殴りあいをするシーンが印象に残った。シナリオとしては、映画の中に書かれているセリフによって、俳優になるきっかけや敵を生かしてしまうきっかけを与えている部分に面白さを感じた。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
2006年/チェコ/120分 監督:イジー・メンツェル 出演:イヴァン・バルネフ/オルドジフ・カイゼル/ユリア・イェンチ/マルチン・フバ/マリアン・ラブダ | |
「刑務所から出てきた初老の男が一人で山小屋に住むことになる。音を出す木を探しに来た老人が現れ、隣に住むようになる。老人はきれいな女と住んでいる」なかなかいい設定だ。普通の作り手ならドラマにする。しかし、この映画では、なんにも起こらない。代わりにスクリーンに現れるのが、生々しさのない、傍観者的視点で描かれたチェコの現代史だ。現代史といっても、おとぎ話に近い。変わった感触だ。「チェコの映画賞を総なめ」という売り文句は、「全米ナンバー1」以上に信用ならない。なぜならチェコでは数えるほどしか自国の映画が上映されないから。というよりも、イジー・メンツェル、シュヴァンクマイエル、マルティン・シュリーク(彼はスロバキアか)以外に活躍しているチェコの映画監督がいるのだろうか。ドラマ性もなく、人物に葛藤もなく、現代と昔を織り交ぜる構成に全く意味がない。かといって、私自身はリラックスして楽しめた。大して斬新でなく、奥行きを感じさせないカメラだが、構図がしっかりしているせいか、まるで絵画を見ているかのような美しさがある。ストーリーや現代性や自己表現を突き放したクールな視点を感じる。押しつけがましさ、よく言えば個性がないぶん、心穏やかに眺めることができる。観客のそれぞれにさまざまな解釈を許すことのできる自由な雰囲気を感じる。どうも、ハリウッドのような規準からはみ出ているような気がする。しかし正解はどこにもない。こういう映画があってもいいのではないか。女性の裸体は、官能的というよりは祝祭的な雰囲気を出すために使われているようだ。歴史の不条理をおとぎばなしのような楽しい風呂敷で、やさしく包みこむ。しかめっつらして見るのではなく、少し余裕を持たせて楽しむぐらいでちょうどいい。平面的で絵画のような世界をたくさんの人物が通りすぎ、ビールで乾杯。ピルスナーの故郷ならではの国民性か。祝祭的な気分にあふれる。チェコへの愛国心あふれた映画だ。チェコ人の立場なら、さらに面白い映画なんだろうな。 | |
楽天ブックスで購入 |
2010年/イギリス・オーストラリア/118分 監督:トム・フーパー 脚本:デヴィッド・サイドラー 撮影:ダニー・コーエン 出演:コリン・ファース/ジェフリー・ラッシュ/ヘレナ・ボナム=カーター/ガイ・ピアース | |
チャールズ6世のスピーチを以前聞いたことがあるが、衝撃的だった。ゆっくりしゃべっているのだが、途切れ途切れなので、なにを言っているのかTOIEC730点の私には理解できなかった。背後に、こういう物語が隠されていたことを、この映画ではじめて知った。たまたま金沢旅行中で暇だったので、金沢シネモンドというアットホームな映画館に入って見た映画。トム・フーパーという、1972年生まれの監督の存在を、この映画ではじめて知った。映画を見終わってから、アカデミー作品賞を受賞したと知った。英国王室をバカにしたコメディではなく、登場人物とその時代に、優しさを感じる。史実を基にしたというよりも、史実以上に普遍的な物を扱っている。練りに練られた脚本だ。シナリオ的には抜群の枷。「スピーチが仕事の人間が、吃音のためスピーチができない」という構造的には非常にシンプルな枷だが、それを英国王室まで持ってきたところに魅力がある。撮影的には、落ち着いた色合いで、しかも劇場的な風格を持たせて撮影しているので、映画というよりも、舞台を見ているような臨場感があった。長回しの部分も、全く違和感がない。コリン・ファースの演技力がさえ渡っている。単に威張りちらしているだけではなく、内気で自信がないわけではなく、完全に血の通った人間として演技している。ヒトラーの演説も混ぜた演出は、素晴らしい。この発想は素晴らしい。正義を表現するのはたどたどしいスピーチなんだ。ああ、この平和的なスピーチのおかげで平和が訪れたのかもな、となんだか歴史の、世界の真理にも近づけた気分になった。「アイ・ハバ・ボイス!」と叫ぶシーンに感動した。それにしても、国王を等身大の人間に描く演出が秀逸だ。全国民、かつ、1人の人間に向けたスピーチが友情で満ちあふれる所に、映画を越えた優しいなにかを感じた。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
2002年/ロシア・ドイツ/96分 監督・脚本:アレクサンドル・ソクーロフ 脚本:アナトリー・ニキーフォロフ 撮影:ティルマン・ビュットナー 音楽:セルゲイ・イェチェンコ 出演:セルゲイ・ドレイデン/マリヤ・クズネツォーワ/レオニード・モズゴヴォイ/ダヴィッド・ギオルゴビアーニ | |
90分1カット。シーンはたくさんあるけど、あえて1カット。本番1回で終了。しかし準備にとてつもない労力がかかっている。22名の助監督に数百名のエキストラ。巨大なエルミタージュ美術館を舞台に使った演劇のようなものだ。手法の新しさと、舞台装置の広大さ。時代が入り交じり、テーマパークのようだ。これと似たような映画を見たことがない。幻想的で不思議な映画だ。この発想はすごい。ルーブル美術館や他の美術館もがんばってほしいものだ。手持ちカメラと一緒に美術館を進む。室内だけど、あまりに広大なので、カメラの置き場所に全く困らない。ただ、手持ちカメラの独特の動きが少し苦痛だ。いくら最新鋭のカメラを使っているとはいえ、見ていてちょっとクラクラしてくる。人々の間をカメラを持って、音もなく、揺れを極端に抑えつつ、スタッフを映さないように、自分の影を画面に入れないように、作品をきちんととらえつつ、役者の動きに合わせて進まなければいけない。この映画は、カメラマンが一番大変だ。メイキング映画を見ると、けっこう重そうなカメラだ。芸術というよりも、これは肉体労働に近い。急いだり、台車に乗ったりして、90分、よくがんばったと思う。美術館なので、あまり強い光を当てることができないのか、それとも持ち運びできるハイビジョンカメラの性能のせいなのかよくわからないが、前半の画面が暗い。もう少し明るいと、もっと良かった。テレビのような映像の質感も気になった。映画撮影がいかに作りこまれたものであるか、逆の意味でよくわかる。しかし、飾られている美術作品自体が一級品なので、非常に有意義な時間を過ごした気分になる。座りながら眺めることができるので非常に楽だ。BGMの演奏も美しい。ヨーロッパ美術を眺めつつ、当時の人々も登場する。部屋が変われば時代も変わる。広大なロシアについて、思いをはせてしまう。主役ともいえるフランスの外交官が、ロシアに対する偏見そのままに自由にしゃべっているのが印象的だ。絵を解説する案内人としてはあまり機能していない。彼はヨーロッパの代表だ。第三者の視点を入れることで、ロシアを客観視している。なかなかバランスの取れた自由な作風だ。ソ連の時代だったらプロパガンダ映画になっていたはずだ。逆にソ連時代など、近現代の歴史はあまり重視されていないのも印象的だ。時代にとっても、監督にとっても、ソ連時代は、まだ客観視できるほど遠くにないのかもしれない。スターリンが出てきて監督を攻撃したり、美術館の職員を殺しはじめたら、別の種類の映画になってしまうだろう。この映画は、古きよきロマノフ朝への憧憬となっている。棺桶を作るシーンが出てきたが、あれがこの映画の限界だろう。「戦争ですよ」「どことの戦争?」「ドイツと」「ドイツとは何だね?」「ゲルマン人の連合国家。20世紀半ばにそこと戦争を」「この町は包囲され100万人以上が死にました」「100万人以上?高くつきましたな。街にもエルミタージュにもやけに高くついた」「自由に値段はつけられません」「妥当か」「払いました」「そうだ。高くない」外交官と監督。この2人の対比は、ソ連を知る者と知らない者の対比でもある。「なぜあなたに人々の未来が分かる?天地創造の物語をご存じないのに。なぜ黙られる?聖書も知らず人々の未来がなぜ分かる?」と外交官は若者を罵倒するが、カメラや監督は絵を映して無言だ。自信たっぷりの外交官に比べて監督は控えめだ。日本人のようなしとやかさだ。もっと激しい口論をふっかけたり、主張もありそうだが、どこか元気がない。1986年のペレストロイカまで、自分の作品を上映禁止にさせられた監督だ。モスクワから距離を置き、美術館のあるサンクト・ペテルブルクで活動している監督だ。傷ついた者の幻想のような気がする。宮廷そのものが美術館だった場所だ。美術館そのものも、同じように夢を見ている。断定的な口調や使い古されたスローガンはいっさい存在しない。眠気を誘うような落ち着きや一色に染まらない透明感を持つ。時代を越えてロシアの源流が、大いなる海が、静かにかいま見えていく感覚。悪い気分にはならない。歴史に封じこめられるように外交官は残り、監督とカメラと私たちは進む。ここから先は、未来だ。映画もここで終わるが、あまりに1カットが長すぎたせいか、終わった気もしない。次のカットは90分か、それとも90年か。永遠に続く芸術への崇拝。歴史の広大さ、美術館の広大さ、芸術世界の広大さに触れる良い機会だった。 | |
2001年/アメリカ/95分 監督:ウディ・アレン 出演:ウディ・アレン/トレーシー・ウルマン/ヒュー・グラント | |
「魅惑のアフロディーテ」以降、私にとって親しみやすくなったウッディアレンの新作。カメラ・音楽共に小品的な味わいだ。「魅惑の〜」にボクサー役で出てた役者もまた出ていたが、彼に代表される、肩の力が抜けた感じが気持ちいい。こういう軽めのコメディを立て続けに作ってくれるのは、非常にうれしく楽しい。恵比寿ガーデンシネマ、君が正しい。アレンの映画は年齢と共に小難しい議論がだんだん減っているのではないか。インテリのペットではなくなったと思う。銀行強盗とクッキー屋成り上がりストーリーが前半部分だけで残念だった。壁をほったら、水道管が破れて水が噴き出す。下らなすぎる。ベタベタだ。でも楽しい。ハタから見て無教養で成金だけど、憎めない夫婦の演技がよかった。わかれた男にプレゼントを「返してよ」というシーン。なんだかかっこ悪い。普通だったらこのセリフ、マイナスイメージを持つ。だが、この作品は、逆。「ああ、この人なら当然こう言うだろうな」と、納得がいく。そこがうまい。ふらふらと肉団子スパゲッティを食べたいなどとぶつぶつ言いながらビールを注いでいるウッディアレンがいい。男の中の男。人間描写に味があるんだな、この場合の味は成金趣味のものではなくビールにクッキーの味なんだな。ロマンチックコメディみたいなのは他の役者にやらせて、自分が出る映画では趣味の意味合いが強いような気がする。老人の役者が無理に親父役をする意味で「男はつらいよ」みたいだ。アレン役=アレンみたいな。たまには中年オヤジよりもおじいちゃん役をやる映画も見てみたい。きっと、W・C・フィールズみたいになると思う。 | |
楽天ブックスで購入 楽天レンタルで借りる |
1page | 2page | 3page | 4page | 5page | 6page | 7page | 8page | 9page | 10page | 11page | 12page | 上へ ▲ |