小市民ダークロのありがちで気の抜けた感じのやつ

短文集その4


「愛情」(ユニットの名前?題名は忘れました)の感想

「ウンコー!」って叫んで終わるどたばたな舞台を、この劇の何日か前に観た。あの劇よりも「愛情」の方が好きだ。雰囲気を見てる方が楽しい。一幕の最後にかかった電話は、少し不自然だ。11時をすぎた仕事場に、久しぶりな相手からかかってくるはずもない。妹だったのだろうか?あそこは帰ったお姉さんが、弟が心配でかけてきたことにすればよかったと思う。あえて、突然かかってきた電話の意味を無くしたのかもしれない。世の中の断片が、とり立てて意味などもたないように。めまぐるしく動き回り、顔面を硬直させ、叫び、踊って、最後に死んでいくような舞台より、演じるのが難しそうだ。起伏がない。山場もない。日常の描写だ。新鮮だった。大人のドラマを見た気がした。私小説的な物語のなかを現代語でしゃべる人たちは、文学よりも頭に浸透して気持ちがいい。夫が死んでいたという、ドラマ的に使い古された展開から、死んでなかったという話の展開。死ぬよりもドラマチックな印象を与えていて、面白い。ねむって終わりのラストはいい感じ。気持ちいい終わりかただと思った。この終わり方、唐突に感じる人もいるようだ。思わず力が入りがちな舞台の最後と、力が緩んでいく眠る演技の流れの融合は、たしかに演じるのが難しかったのかもしれない。物語に全然関係ないが、正面奥の冷蔵庫に向かっていって、しゃがんで、振り向くことなしに「プリンいる?」と言ったシーンが印象に残った。役者が客に対するのではなくて、少し奥に向かってたかなという気もするけど、登場人物自体の言動も奥のほうに向かっているので、マッチしていたように思う。「こんな献身的な介護をされたことない」と言ったり、なんとなくつき合いはじめてしまった夫婦が幸せな生活を送る。ドラマ性をあえてなくしている。そういうものかもしれないなといった説得力をもつ。セットの花瓶の位置が良かった。日常が、自分の前に押し寄せた。非日常よりも強い主張を感じる。何気ない日常すら送っていないのではないかと、少し自分の生活態度を反省した。
 「らんどりー」の感想

動物園のライオンの声をコインランドリーの中で聞く場面が好き。その後、私は、戦争で死んだかわいそうな象と、剥製のパンダ、南極犬タローとジロー、逃げ出した黒ヒョウ(たぶん捕まらずまだ逃げている)、忠犬ハチ公(あの像は生前建てられた)の鳴き声を聞いた。ネコの探偵たちは、 夜なのに双眼鏡で猫が見つかるのだろうか。それともあの時間は昼間だったのか。パチンコの景品を持っていたあの女性は開店プロで、3時間ほどで帰ってきたのか。いや、勝負をするなら閉店までいたはずだ、するとあれは夜だ。赤外線スコープをつけたほうがよく見えると思う。これは私の昔の話だが、深夜、友人から電話があって、「今、コインランドリーで飲んでるから来い」と言う。同棲相手に浮気がばれて、同じ布団で寝たくないと言うからシーツを洗いにきているそうだ。店のおばさんを先に帰らせたから貸切らしい。私はそこに行かなかった。友人のように物語をかかえてランドリーに来る奴は珍しい。彼らが後ろに引きずるのは生活だ。あの、漠然とした日常。そこに行っても日常は洗濯されない。漂白されない。
 もっとがんばれとは思うけどなんか余裕を感じさせるマイペースな生活ぶりだ。自分の生活にハングリーさを出したいところだ。見た目はハングリーなんだけどな。小さい頃から「マイペースなお子さんですねえ」とよく言われてた。何が原因か考えてみた。これはおれが中産階級出身のせいだからではないか。美術大学入って適当に4年間通った後、また絵の専門学校入って「おまえは絵の勉強より人生勉強しろよ」と思わず言ってしまいたくなるような金持ちの子弟様みたいな感じ。でもおれ、金持ちじゃなかったな。昔、祖母と母が内職してたし。しその葉を束ねてパックに入れる仕事。おれもちょっと手伝った。牛肉が食卓に出ると大喜びしてた。幼稚園の時、一回だけすし屋に連れて行ってもらったことをいまだによく覚えている。家も借家の平屋建てで、台風がくるとほんと飛んでいきそうになったな。周りは農家が多くて、つまり広い家が多くて、恥ずかしくて友達を自分の家に呼べなかったよ。当時、それとは関係ないけど友達ほんとに少なかった。日記にでてくる友達の数が少なくて保護者会で親が先生に「友達いないんですか」って聞かれたくらい。友達少なくて怒られた。まあ、今も少ないんで変化ないけど。おれは当時、スポーツ測定で自分でも驚くほどの最低記録を樹立してた。幼稚園の歴代測定記録の偏差値みたいな分布図がみんなに配られていて、その最低記録よりも少ない記録を出していた。ボール投げの時も、あれはメートルごとにラインが見えているので、最低記録のラインが文字通りそこにあった。あそこまでは投げようと思った。で、投げた。「ああ、やっちまった」って思ったよ。幼稚園の頃、スケート教室があった。最後の日に、レースがあって、体力のないおれは何周も周回遅れでゴールした。「こんなに遅れちゃって、この子は運動が得意じゃなくて」親は我が子を恥じていた。先生が言った。「いいじゃないですか。楽しそうでしたよ」25年以上経っても、あなたの一言をありがたく思っています。

おれの住んでいるアパートは6畳とキッチンの4畳半だ。このまえ4畳半の部分をプールにしてしまった。朝、いきなりどんどんとドアをたたく音がして、いつまでたっても鳴り止まない。おれは寝ている間、物音に動じない。待ち合わせをすっかり忘れて寝てしまい、起きたら10件以上も留守電が入っていることもある。実家にいた頃、となりの家に空き巣が入って、住んでる人と格闘して捕まえられて、パトカーや野次馬が群がっていても、おれとおれの家族は朝まで寝てた。あの空き巣、家一軒間違えたよな。隣の原っぱが火事になって、消防車が10台くらい来ても、おれとおれの家族は朝まで寝てた。朝、原っぱが黒焦げになっていてビックリした。もう少しでおれの家も黒焦げになるところだった。こんなおれでも起きてしまう音だったわけだ。新聞の勧誘にしてはずいぶんくどいなあ。と寝ぼけながらドアを開けると、下に住んでいる大家さんがいる。雨漏りがするから水道を見てくれと言われた。水道は台所とユニットバス、どちらも何ともなかった。「朝顔、このまえから育ててますよ」おれはまだ寝ぼけながら、ベランダにあった朝顔をとってきた。「これに水をやる時、水がたれて下の屋根に落ちますけど」「そんな問題の話じゃない」おばあちゃん、興奮気味だ。大家さんに言われるまま、下の部屋に行った。なるほど。たしかに雨漏りがして水がたんすの上の布団に垂れている。「場所からして絶対にお宅なんです」部屋に戻ってよく調べると、洗濯機の蛇口の方からポトリポトリと水が垂れていた。壁に突き出ている水道管の接合部分が、外れかかっているらしい。あせっていじくっていたら、急にドバッと水が噴き出してきた。洗濯機を使ってないのになんで洗濯機の蛇口から水が出るのか分からずパニックになった。鍋を下に置いて水漏れを防ごうとしたけど、だんだんいじくっているうちに噴水のように水が流れ始めた。「雨漏りが滝のようになってきたわよ!」大家さんがまたやってきた。「ここでーす!」「なんで洗濯機動かしてるの?」「なぜだかこうすると水の勢いが減るんです!」おれからしたら、本当に減るからやってんだけど、大家さんにしてみれば「洗濯機止めれば直るだろ、なにやってんだこのバカ」といった感じだろう。接合部分のボルトを急いで締めようとした。どっちに締めたらいいかわからす悪戦苦闘した。なんで朝からこんな場所で水を浴びてずぶぬれでいるんだろう、夢であってくれないかと思った。水道屋さんに電話してもらったりしたけど、何とか自分で直せた。蛇口の下に置いた2つの鍋がぷかぷか浮かんでいた。その後、いろいろ不動産屋と手続きして、大家さんの羽毛布団を弁償するだけで解決ということにした。弁償代は保険金が出たのでおれは払わずにすんだ。
待つ

今日は小劇場で折込。我々が芝居などに行くと、パンフレットに他の公演のチラシが入っているが、それはこの日行われる折込の結果なのだ。バケツリレーのように一列になって、自分のチラシを挟み込んだら次の人に渡していく。今回は一番先頭の人の折り込みが遅いので、なかなかチラシが来ない。ゆっくりゆっくりはさんでは、次の人に渡す。ここは劇場の階段の冷たい片隅。粘々した西日が差し込んでいる。何かを待っている感じだ。舞台を見るのと同じ種類の非日常を感じる。チラシを待つ。紙を待つ。「ゴトーを待ちながら」が脳裏に浮かぶ。いっしょにいた役者も「椅子があって数人が待っている状況は舞台になりやすい」と言った。その役者の最近の舞台は「ランドリー」。コインランドリーが舞台だ。たしかにあそこでも洗濯物が洗われる(現われる?)のを待っている。

もしこのチラシ折込を題材にして舞台を作るなら、大して事件がおきない淡々とした流れになることだろう。楽屋落ちと批判されそうだ。先日の折込は、2時間半かかった。最後方だったせいもあるけど。あまりに遅いので自分のチラシに「来てね!」とか一枚一枚にメッセージを書きこんでいた。照明の練習をしているところでやらされたので、何度も部屋がまっ暗になる折込もあった。暗闇の中でかさかさ音がしていた。みんな手探りで折り込んでいるのだ。自分のチラシをまちがって一番前に折りこんでしまったこともあった。本当は一番後ろに置かないといけないのだ。私の前の劇団が、リバーシブル仕様の、どちらが表ともいえるようなチラシだったので混乱してしまったのだ。バスタオル姿の女性が何人か、我々が折込しているロビーに現われたこともある。練習中に舞台から退場する通路だったのだ。有名なお笑いタレントがセリフを練習する場面もロビーで見た。

チラシの束の一つ一つに小人が乗っかっていて、劇団員の苦しみだとか友情だとかを吸収しながら大きくなっていく妄想が浮かんでは消えていく。きっとチラシ以外のものも折り込まれているはずだ。大小さまざまな劇団が一束にされて客に配られる状況も面白い。チラシをもらった客がすぐにゴミ箱に捨てるシーンも目撃したけど面白い。

もしもこの折込が舞台になるのなら、今いる自分は主役か脇役かそれとも舞台装置か。そして劇場はどこか。

どうやら一番前にいて、折込の遅い人たちは、ここでやる劇団の人たちみたいだ。下らないネタを大声で練習していた。「なんで遅刻したんだ?」「だって地球が丸いから」などと話しながら、劇場で稽古している人たちと仲良く語らっていた。なぜ他の劇団のチラシを折り込んでいるのかよく分からないのだが、いろいろ付き合いがあるのかもしれない。「おまえらがつっかえてんだから一番後ろに行け」と先輩にいわれて、何人か階段の下に行った。「お疲れサマデース!」とかムダに大声で我々に言っていた。じゃまな階段の降り方だった。でもまだ先頭には何人かいて、相変わらずチラシの流れは遅かった。あれはなにかの演技なのだろうか。

ようやく終わる。劇団によって、お菓子をもらえたり招待券をもらえたりする所もある。今回は何もなかった。一番よかったのはビタミン大使ABCの紀伊国屋ホールの最前列のチケットだった。「劇団の好意によって折り込ませていただく側だから礼儀正しくしろ。特におまえは気をつけろ」と仲間に言われていたので、何の文句もない。折り込ませていただいて、どうもありがとう。私の前の前にいた人たちは、だいぶ前に引き上げていた。他に折込の予定があったか、この流れが嫌だったのか。前の人はスターウォーズのビジュアルガイドブックをずっと読みふけっていた。汚いビルの階段の片隅で、スターウォーズ。私の劇団は、3週間前からはじめて1万5千部ほどチラシを折り込んだ。実際チケットは、1枚しか売れていない。
カッコつけんな
ある日、サブカル雑誌をめくっていると、私はカッコの大群に出会った。この批評家は、なんであんなにカッコを多用するのだろうか。引用を表すカッコなのか、その言葉の本来の意味とは別の解釈をさせようするカッコか、それとも多様に捉えることのできる意味を一つの意味に限定することにより誤読を防ぐためのカッコか、それとも傍点のような強調表現なのだろうか。評論の内容よりも、形式の段階で難しい。難解なカッコだ。簡単に言えば分かるものを、無理して分かりにくくしているのだろうか。でもそれだとすぐ評論家をクビになりそうだ。思考の袋小路に入りこんだのか。たかが2ページしかその雑誌の連載に与えられていないのに、カッコ内の言葉の説明が何もない。省略したのだろうか。それにしても、カッコの中にある単語が、活き活きしてこない。言葉を使った思考によって生み出された単語ではない。思考の部分を省略されているので当然だ。カッコをつけられたとたん死語になっている。面白い現象だ。最初にカッコがあって、その中に単語を当てはめたのではないか。テストの解答のように。カッコ内の言葉を、誰に伝えようとしているのだろう。書いた本人にしか分からない気がする。カルト教祖の誕生だ。このままカッコを使って戦争でも始めようかという勢いだ。カッコをつけて考えていくと、カッコつきの結論が出てきてしまいそうだ。別の解釈も成り立ち、限定され、単に強調、誇張しただけの答えが。読んでて自分もこの批評家のカッコに捕らわれそうだった。
ある日、本屋に行くと、横溝フェアだそうで、10冊ほど読んでみた。エンターテイメントとして、文句のない出来だ。1日に1冊読めてしまう。
金田一の、探偵としての現実感が感じられる。きちんとパトロンもいる。警察関係とは全然関係のない出身であるのも面白い。確かに裏社会の揉め事の解決にも使えそうな人物だ。犯罪事件の解決にだけ使われているのではないとイメージできてしまう。探偵というよりもフィクサーだ。小悪党にも感じられる、探偵らしい探偵ではないか。依頼人のためにだけ働くように描くのも上手いと思う。
ただ、情景描写がイメージしにくい。映画ができてはじめて魅力がわかるのではないか。市川監督の力量はすごい。そして、殺人事件の緊張感に乏しい。事件直後に被害者を前にしてあっはっはと笑っている描写が多い。金田一の友人、等々力警部がそばにいるとさらに緊張感が緩和される。殺人事件現場を描くのを作者が喜んでいるのはわかるのだが。事件を盛り上げていく描写とは別に、所々で作者の推理小説マニアの記述が顔を出してくる。
10冊しか読んでないが、金田一物は推理小説ではないと思った。名探偵がみんなを集めて説明する場面がほとんどないので、話の展開で、なし崩し的に犯人がところてんのようににょろりと出てくる。犯人を当てる読者の楽しみが奪われている。犯行は論理性が欠けて、説得力に乏しい。意味もなく密室殺人が行われたこともある。クリスティのように、読後にスッキリしない。保険会社の調査員とか警察関係が主役でない分、犯行の動機もファンタジー要素が強いような気がする。この主役の位置付けにおいては、殺人事件に対し、パズルめいた無機質に感じられる描写を補い、生々しさを加えている長所もあるのだが。
物語の背景には常に戦後を引きずっている。横溝は80年まで生きているが、金田一はそのずっと前に消えている。「病院坂〜」は70年代だけど、過去の事件にも重きをおいている。殺人方法にトリックがない分、別の謎かけが必要だ。金田一ものの場合、この謎かけの部分が戦争を付け加えることによって大きくなっている。犯人の何気ない一言が探偵によって見破られるような、性格描写のきめ細かさがない部分を、戦争で補っているようにも思う。小さなドラマを戦争という大きなドラマで補っている。
ヒマだったので友達につきあって、心療内科に行った。待合室は満員で、みんな落ち着きがなかった。待合室にノートが置いてあった。患者が自由に書きこみしていた。あまり面白い内容ではなかった。文字も震えていた。ノートを読むと待合室で待つ時間が長いことに、みんな不満をもっているようだ。確かに、みんな黙って重苦しい雰囲気がたちこめていた。「予約制にすればいいんじゃないか?」と友達に聞いた。「それだと来られない人がいるんじゃないか?時間が決まってると、逆に行きたくなくなるよ」確かにこの友達は気分屋だ。気分屋を通りこしているのかもしれないけど。この友達の普段の行動から考えて、予約制は難しいかもしれない。「だったら自業自得じゃん」と私が言った。「そうなんだよね」と友達が笑った。馬鹿にしたような私の言動に対して笑えるのだから、この友達はそんなに重い症状ではないのだろう。私が何を言っても聞き流すだけなのかもしれないが。となりに座っていたおじさんが「新幹線、新幹線、速い、新幹線、速い」とブツブツつぶやいていた。友達の診療が終わって外に出た後「あれはどうやって治すんだろう」と2人で考えこんだ。「こうするんじゃないか?」と私が言った。「こだま、こだま・・・新幹線速い、新幹線速い・・・ひかり、ひかり・・・もっと速い、もっと速い・・・のぞみ、のぞみ・・・すごく速い、すごく速い」「なにそれ」「とりあえず共通の話題を見つけたつもりだけど。コミュニケーションから始めないと。だんだん速くなるとうれしいかなと思って」「だんだん興奮していくんじゃない?」「ストレス発散になっていいだろ?」「そういう治療法は、入院してからでないと危ないよ」通いの治療は、基本的に抑えこむ治療だ。落ちつかせるともいうけど。抑えこむのに薬を使っている。人間って難しい。
大いなるミッフィーの眠り
あさひ銀行は、ミッフィーグッズがなかなか良かったけど。私もミッフィー弁当箱もらったことある。先日、あさひ銀行に入ると「いらっしゃいませ」という銀行員のお姉さんがいて、オレンジ色のミッフィーのエプロンをつけてた。そのお姉さんの仕事は、エプロンつけて客に挨拶するだけだ。「遊んでたらいけない」と私は思った。そのうちぬいぐるみが挨拶するようになるかもしれない。ミッフィー銀行に改名するかもしれない。ディズニーランドのミッキーマウスみたいにミッフィーが社長に就任するかもしれない。お札の絵柄もミッフィーに変わるかもしれない。そう思った。で、いつの間にか、りそな銀行になっていた。ミッフィーのぬいぐるみがずらりと並んでいたショーウインドウには、かわりに花が飾られていた。それぞれの花の下には、ミッフィーのしかばねが、永遠の眠りについているのだと思った。経済は、ミッフィーをも殺す。
先週のサザエさん
先日、サザエさんを見た。タラちゃんがイクラちゃんの家に遊びに行ったら、イクラちゃんにすごくよく似た子供が家にいた。タラちゃんは、イクラちゃんでないことを発見するが、親は気づかない。タラちゃんがその子の名前を聞くとイラクちゃん。イラクちゃんはすごく危険なオモチャを家に持ちこんでいた・・・・。
神楽坂のルオーゴというイタリア料理屋に行ったら「鶏肉のスタンダール風」というメニューがあった。ソースの色が赤と黒だからそう名づけたそうだ。