レスラーノート

ロディー・パイパー

RODDY PIPER

本名:ロドリック・ジョージ・トゥームス
1954年(52年説あり)4月17日
カナダ・サスカッチェワン州出身
183cm 105kg

タイトル歴
WWFインターコンチネンタル
アメリカス・ヘビー
アメリカス・タッグ
PNWヘビー
ミッドアトランティックTV
WCW・USヘビー
世界タッグ(WWE)
得意技
裸絞め
ダブルアームスープレックス

中学時代、ボクシングの全カナダ・ミドルスクール王者になる。右こぶしをいためプロボクサーデビューを断念。その後アマレスを学ぶ。アル・トムコのスカウトでジョージ・ゴーディエンコのコーチを受けて73年にデビュー。バグ・パイプを吹きながら入場するギミックでロスで人気を博す。 76年3月、ロスでチャボ・ゲレロを破りアメリカス王座を獲得。チャボ・ゲレロとの抗争でロスに最後の黄金時代をもたらした。アリに挑戦した直後の猪木がロスに出向いた際の記者会見に乱入しアントニオ猪木に挑戦し日本でも注目されるようになる。 77年8月12日、アメリカス王座を獲得。同月に新日本プロレスに初来日。その後はロスでマスクマンのマスクト・カナディアンとなり、11月4日にアメリカス王座を獲得。ジュニア時代の藤波とロスで抗争する。12月9日にマンドー・ゲレロに敗れてアメリカス王座から転落するが、12月16日に奪回。 78年2月10日にへクター・ゲレロに敗れて王座転落。17日、リターンマッチとしてへクター・ゲレロと髪の毛とマスクをかけて対戦。24分16秒、ダブルアームスープレックスで敗れてマスクを剥がされた。3月に覆面をつけマスクト・カナディアンとして再来日。3月3日、高崎市体育館大会で藤波の凱旋帰国第1戦の相手となる。11分12秒、ドラゴンスープレックスに敗れた。9月29日にアメリカス王座5度目の獲得。その後はロスを離れ、大西洋岸地区に転戦。ここで本格的に実力に磨きをかけNWAのレーティングスにランクされるようになる。 83年5月、全日本プロレスに登場。6月3日、旭川市総合体育館大会でディック・スレーターと組んで馬場鶴田のインタータッグ王座に挑戦。16分21秒、馬場の脳天チョップからの鶴田のフライングボディシザースドロップにパイパーがフォールを取られた。 その後、WWFが彼の毒舌に目をつけ、84年に故グラン・ウィザードの代わりにマネージャーとしてスカウト。テレビでのインタビューコーナー「パイパーズ・ピット」が好評を呼び全米的な人気者になる。 85年の第1回レッスルマニアではメインイベントでポール・オンドーフと組んで、ホーガン、ミスターT組と対戦。 86年のレッスルマニア2ではミスターTとボクシングマッチで対戦し、4ラウンド目に審判を突き飛ばし、ミスターTをボディスラムで投げて反則負け。 87年3月29日、レッスルマニア3でアドリアン・アドニスと対戦。スリーパーホールドで勝利した。この試合を最後にWWFを離脱し、役者に転向。 88年に映画「ゼイリブ」の主演を務めた。 90年にWWFに復帰。 92年1月19日、ザ・マウンティーを破りインターコンチネンタル王座を獲得。4月5日、レッスルマニアでブレット・ハートを相手に防衛戦。スリーパーホールドをかけたがコーナーのターンバックルを蹴られて倒されてフォール負け。インターコンチネンタル王座から転落。この試合後、WWFを離脱。 その後、テレビ解説者となるが94年に再度復帰。 96年3月、レッスルマニア12でゴールダストとハリウッド野外撮影所ケンカマッチで対戦。金のキャデラックで乗りこんできたゴールダストに対し、バットで対抗。殴り合いの後、ゴールダストが逃走。パイパーも車で追いかける。他の試合中に、車の追跡シーンが流され、約1時間後、レッスルマニアの試合会場について試合再開。ゴールダストにキスされたパイパーは怒涛の反撃を見せ、ゴールダストのコスチュームを剥ぎ取ると、ゴールダストは女性の下着を着けていた。最後にゴールダストが逃走して勝利。10月にWCWに登場。 99年2月8日、USヘビー級王座を獲得。 00年春にWCW離脱。その後は古巣のオレゴンに戻り他の事業を展開。 01年11月、フロリダで、インディ団体XWFのテレビテーピングに参加。 06年11月5日、リック・フレアーと組んでスピリット・スクワッドを破り世界タッグ王座を獲得。しかし体調面が思わしくなく、11月13日にランディ・オートンエッジ組に破れて早くも王座転落した。その後、検査で悪性リンパ腫が発見され、闘病生活を続ける。 09年4月5日、レッスルマニアでジミー・スヌーカリッキー・スティムボートと組んでクリス・ジェリコと対戦。延髄斬りに敗れた。 11年1月29日、ロサンゼルスのホテル・エアポート・ヒルトンでのレッスル・リユニオン5で20人参加のレジェンドバトルロイヤルに参戦。最後まで残り、テリー・ファンクと1対1の対決となり、オーバー・ザ・トップロープで勝利(試合時間は35分54秒)。 15年7月30日、カリフォルニア州ハリウッドの自宅で就寝中に心肺が停止し、死去。