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ラッシャー木村

本名:木村政雄
1941年6月30日
北海道中川郡出身
185cm 125kg 血液型B型
タイトル歴:IWA世界ヘビー IWA世界タッグ アメリカス・タッグ
得意技:ブルドッキング・ヘッドロック ラッシングラリアット

全盛期は「金網の鬼」。全盛期をすぎてからは「マイクの鬼」。4人兄弟の末っ子として生まれる。58年に大相撲の宮城野部屋に入門。「木の村」の四股名。幕下上位まで上がり十両入り目前だった。「関取になったら相撲をやめられなくなる」と廃業。64年10月に日本プロレスに入門。相撲のすり足の矯正と減量に大苦戦。65年4月2日、東京・リキ・パレス大会で高崎山猿吉(北沢幹之)を相手にデビュー。豊登の付き人だったことから、66年3月に東京プロレスの設立に参加。10月12日、蔵前国技館での東京プロレスの旗揚げ戦では永源遙のデビュー戦の相手を務め、5分6秒、逆片エビ固めで勝利した。東京プロレス崩壊後、67年2月に国際プロレス入団。69年にファン公募でラッシャー木村と改名。8月にアメリカ遠征。ジョージア地区、カンサス地区で活躍。70年8月に帰国。帰国後は国際プロレスのエースとして活躍。10月8日、大阪府立体育館大会で日本初の金網デスマッチを行い、ドクター・デスと対戦。17分22秒、KO勝ち。12月12日、台東体育館大会でオックス・ベーカーと金網デスマッチで対戦。セコンドのボブ・ウインダム(ブラックジャック・マリガン)が投げ入れたイスで攻撃されて、右足に全治3ヶ月の重傷を負うが、16分50秒、スリーパーホールドで勝利した。その後、長期欠場。71年3月2日、東京体育館大会で1戦のみ復帰し、マスクマンのザ・クエッション(アンジェロ・ポッフォ)を相手に金網デスマッチで対戦。ギブスをはめた右足を引きずりながらの苦しいファイトとなったが、22分17秒、スリーパーホールドでKO勝ち。以後、金網の鬼として一世を風靡した。75年4月に金網デスマッチ初のタイトルマッチを行い、マッドドッグ・バションを破ってIWA世界ヘビー級王座を獲得。76年3月には全日本プロレスとの対抗戦で、鶴田と1対1の後、ダブルフォールで引き分け。プロレス大賞のベストバウトを受賞した。79年10月5日、ニック・ボックウィンクルと、AWA王座、IWA王座をかけてのダブルタイトルマッチで対戦。アームロック、ヘッドシザース、ヘッドバット、スタンプホールドでニックを苦しめた。逆エビ固めをかけられたニックがレフェリーのルー・テーズのシャツを引っぱり、リング下に突き落として反則負け。木村の勝利で終わったが、反則勝ちではAWAのルールでタイトル移動は認められなかった。81年8月、国際プロレスが崩壊。9月23日、田園コロシアム大会で新日本プロレスに初登場。アニマル浜口寺西勇と「国際軍団」を結成して抗争を展開した。10月8日、蔵前国技館大会でアントニオ猪木と初対決。腕ひしぎ十字固めを決められロープをつかんだが猪木がブレイクしなかったため反則勝ち。11月5日、蔵前国技館大会で猪木と2度目の対戦。腕ひしぎ十字固めを完璧に決められたがギブアップしなかったため、セコンドにタオルを投入されてTKO負けに終わった。82年3月、第5回MSGシリーズに参戦。5勝3敗5引き分けで14人中7位に終わった。7月23日、ラスベガスで剛竜馬と組んでジ・エイドリアン、ダイアモンド・ティモシー・フラワーズ組を破り、アメリカス・タッグ王座を獲得。8月20日にへクター・ゲレロ、マンドー・ゲレロ組に敗れて王座転落。9月21日、大阪府立体育館大会で髪の毛をかけてアントニオ猪木と4度目の対戦。クロスチョップからのブルドッキングヘッドロックで優位に立つが、ロープにもつれて両者はレフリーもろとも場外転落。場外ではアニマル浜口が猪木の髪をはさみでバッサリ切る。浜口と木村は猪木に鉄柱にたたきつけられ、11分34秒、強烈な張り手からの延髄斬り2連発で敗れた。試合終了直後に髪を切らないまま国際軍団は会場を退散し、怒りの収まらないファンが会場に居残った。ヒールとして活躍したため、新日本プロレスのファンが自宅までおしかけて石を投げたり騒いだりした。愛犬の熊五郎も円形脱毛症になるほどだった。あまりの騒ぎに引っ越したという。83年9月21日、大阪府立体育館大会で猪木と最後のシングル戦。猪木の鉄拳に大流血させられ5分10秒、KO負けに終わった。84年4月、UWFの旗揚げに参加。「団体が軌道に乗るまでいてくれ」とある人に頼まれたからだという。「新間さんにお世話になったからね」とも。10月にUWFを離脱。11月に、全日本プロレスの最強タッグ決定リーグ戦に、馬場のパートナーとして参加。以後、全日本プロレスに在籍。00年、ノアの旗揚げに参加。01年6月30日に60歳の誕生日を迎え、24日の名古屋大会では真っ赤なロングガウンに身を包み、還暦記念試合を行った。「この日をあくまで通過点とし、生涯、現役を目指します!」と宣言した。その後、脳梗塞で倒れ、車イス生活に。03年3月1日の日本武道館大会が最後の試合となった。04年7月10日、ノアの東京ドーム大会にビデオレターで登場し、引退を表明。10年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。

ラッシャー木村のマイクパフォーマンス
―― お二人にとって、木村さんという人は、どのような存在でしたか?
寺西 黙ってても引きつけられるものがあるんだよね。相撲(立浪部屋)の新弟子だった頃、木村さんに呼ばれて稽古したことがあるんだけど、その時に、何かこの人は普通の兄弟子とは違うなと思ったね。普通だったら「おい!」って引っ張られる感じだけど、木村さんは別に威張りもしないしさ、「ちょっとこっち来いよ。稽古しようか」って。
浜口 偉そうにしなかったですからね。威張らなかった。そして寡黙だったですね。自分の意見を押し通すということをしなかった。「社長、こうですよ!」とか酔っ払って言ったりするでしょ。そういうことを言わない。自我を抑えてる。性格なんですね、木村さんの。愚痴を言ったり泣きごとを言ったり自慢をしたり、そういうことが一切ない人だった。
―― やはり寡黙な酒豪だった吉原社長と似ていたんでしょうか?
寺西 そうだね。そういうところは似ていたと思う。
浜口 ただ、吉原社長は男の生きざまだとか理想について言っていましたよ。「俺はこういう一生を送りたいんだ」とか、酒を飲んだら語るじゃない。木村さんはそれも言わない。黙したまま亡くなりましたね。男っぽい人生を送ったというか、ダンディズムを貫いたんじゃないですか。俺なんか小さいから吼えて自分を大きく見せようとするけど、その必要が木村さんにはなかった。それだけ自信があったのかもしれない。
(週刊プロレスNo.1579 寺西と浜口のインタビューより)

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