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谷津嘉章

1956年7月19日
群馬県邑楽郡出身
186cm 120kg 血液型B型
タイトル歴:世界タッグ(全日本) SWS世界タッグ
得意技:ブルドッキングヘッドロック 監獄固め

足利工業大付属高校でレスリングを始める。日大レスリング部で大活躍。全日本学生選手権フリースタイル100キロ級4連覇。76年、全日本選手権フリー90キロ級で優勝。モントリオール五輪にフリーの90キロ級で出場し8位入賞。77年、全日本選手権フリー100キロ級で優勝。78年、全日本選手権フリー100キロ以上級で優勝。アジア選手権フリー100キロ以上級で優勝。79年、全日本選手権フリー100キロ級で優勝。アジア選手権フリー100キロ級で優勝。80年、全日本選手権フリー100キロ級で優勝。モスクワ五輪にも選ばれたが日本がボイコットしたため出場できなかった。10月、新日本プロレスに入団。「日本アマレス史上最強の男」として将来を期待された。12月29日、ニューヨークMSGのカルロス・ホセ・エストラーダ戦でデビュー。6月24日、日本でのデビュー戦として、蔵前国技館でアントニオ猪木と組んでブッチャーハンセン組と対戦。1本目は場外に落とされて鉄柱攻撃で大流血し、9分6秒、ハンセンのラリアットに谷津がフォール負け。猪木もラリアットでKOされ、はじまった2本目では場外の谷津が攻撃され続け、38秒に猪木組の反則勝ち。3本目はエキサイトした猪木がビール瓶で攻撃したため反則負けに終わった。2本目、3本目はリングに上がることもできず、谷津は完膚なきまでに痛めつけられた。再び渡米して同年暮れに帰国。 82年3月、第5回MSGシリーズに参戦。2勝9敗2引き分けで14人中11位に終わった。10月にフロリダに遠征。トラ・ヤツの名でヒールとして活躍。 83年10月に1年ぶりに凱旋帰国。寺西勇が率いる維新軍に参加。 84年9月21日、長州、浜口小林邦昭寺西と共に新日本プロレスを離脱して新日本プロレス興行に移籍。10月9日、新日本プロレス興行がジャパンプロレスリング株式会社に社名変更。12月12日、横浜文化体育館大会で全日本プロレスに初登場。 86年2月5日、札幌中島体育センター大会で長州と組んで鶴田天龍組のインタータッグ王座に挑戦。24分1秒、谷津がジャーマンスープレックスで天龍に勝利。インタータッグ王座を獲得。6月にアマレスの全日本選手権のフリー100キロ以上級に出場し、優勝した。 87年2月5日、札幌中島体育センター大会で鶴田、天龍組を相手にタッグ王座の防衛戦。17分5秒、天龍のジャーマンスープレックスに谷津が敗れて王座転落。3月7日、秋田県立体育館大会でリック・フレアーのNWA世界王座に挑戦。トップロープからのドロップキック、ラリアット、ジャーマンスープレックスなどで攻めたてたが、17分8秒、場外で足四の字固めをかけられたまま両者リングアウトとなって王座奪取に失敗した。3月28日、長州、マサ斎藤、小林、保永ストロング・マシンヒロ斉藤笹崎伸司佐々木健介、寺西、服部がシリーズ開幕戦の後楽園ホール大会への来場をキャンセル。ジャパンプロレスが分裂した。ジャパンプロレス分裂後は全日本プロレスに入団しジャンボ鶴田との「五輪コンビ」で天龍、ハンセンらと名勝負を繰り広げる。12月に鶴田と組んで世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝。 88年4月4日、愛知県体育館大会でインターヘビー級王者のブルーザー・ブロディーに挑戦。得意の監獄固めで追いこんだが、試合前から痛めていた右足にニークラッシャーをくらい場外転落。ブロディをフェンスにたたきつけて体当たりを狙ったが、かわされてフェンスの外に飛ばされ、15分2秒、そのままリングアウト負けに終わった。6月10日、日本武道館大会で、PWFタッグ王者としてジャンボ鶴田と組んでインターナショナル・タッグ王者のザ・ロード・ウォリアーズを相手にダブルタイトルマッチで対戦。13分48秒に反則勝ちして王座を統一し、初代世界タッグ王座を獲得した。89年7月18日、滋賀県立体育館大会で天龍の三冠王座に挑戦。延髄斬りからのパワーボムに敗れた。89年度のプロレス大賞で鶴田と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。 90年にSWSに移籍。11月22日、浜松アリーナ大会でジョージ高野と対戦。18分17秒、フェイスロックに敗れた。91年1月8日、露橋スポーツセンター大会でティト・サンタナと対戦。12分58秒、バックドロップホールドで勝利。2月5日、熊本市体育館大会でジミー・スヌーカと対戦。15分8秒、スヌーカがレフリーを突き飛ばしたため反則勝ち。3月11日、青森県営体育館大会でクリス・アダムスと対戦。10分35秒、バックドロップホールドで勝利。4月1日、神戸ワールド記念ホール大会のメインでハルク・ホーガンのWWF王座に挑戦。7分54秒、アックスボンバーに敗れた。6月11日、大阪府立体育館大会のメインでランディ・サベージを相手にランバージャック・デスマッチで対戦。14分21秒、ダイビングエルボードロップに敗れた。10月29日、福岡国際センター大会のメインで天龍と対戦。15分48秒、パワーボムに敗れた。92年1月12日、後楽園ホール大会でジョージ高野と対戦。16分34秒、ジャーマンスープレックスに敗れた。キング・ハクと「ナチュラルパワーズ」を結成。2月14日、ハクと組んでSWSタッグ王座を獲得。3月22日、後楽園ホール大会のメインで阿修羅原と対戦。16分1秒、ジャーマンスープレックスで勝利。その後、約1年間マットを退くが、93年8月21日、SPWFを旗揚げ。94年8月、両国国技館で新日本プロレスのG1クライマックスに参戦。2勝3敗に終わった。95年7月25日、平成維震軍の横浜文化体育館大会で蝶野正洋と対戦。9分9秒、急所打ちからのヤクザキックに敗れた。00年、デビュー20周年を迎え、10月には大阪で行われた「PRIDE11」に参戦。ゲーリー・グッドリッジと対戦し、1R8分56秒、TKO負け。01年3月2日、ZERO−ONEの両国国技館大会でゲーリー・スティールと対戦。9分55秒、フロントスープレックス4連発からのバックドロップ3連発で勝利。9月24日、大阪城ホールでの「PRIDE16」に出場しグッドリッジと再戦。1R3分5秒、TKO負け。02年11月19日に長州の新団体、WJプロレスへの入団を表明。営業本部長に就任した。03年3月31日のWJプロレス旗揚げ戦では安生洋二と対戦。水車落とし、バックドロップ、パワースラムで試合を優位に進め、11分24秒、首決め監獄固めで勝利した。その後、WJプロレスは低迷。9月28日にWJプロレスを退団。同年に群馬県高崎市で運送会社「ラインマックス」を経営。10年11月7日から30日にかけて全6戦の引退ツアーを開催。11月30日、新宿FACEで引退試合とSPWF解散式。維新力と組んで藤波初代タイガーマスク組と対戦。9分14秒、藤波のドラゴンスリーパーに谷津がギブアップ負け。12年12月、高田馬場にある炭火ホルモンの店、「壱鉄」の店長に就任。14年2月23日、「壱鉄」が閉店。 15年9月27日、アジアンプロレスの外ヶ浜町中央公民館大会で将軍KYワカマツ、スペル・ハジメと組んで畠中、gosaku、ミモザ組と対戦。谷津が監獄固めでミモザに勝利した。 18年11月17日、台東区隅田公園山谷堀広場での浅草プロレスの旗揚げ戦で大角比呂詩、ロホ・デルソルと組んでエキサイティング吉田、デンジャラス内田、ザ・マーダラー組と対戦。11分46秒、谷津が監獄固めでマーダラーに勝利。 19年4月28日、DDTの後楽園ホール大会で高木三四郎、坂口征夫と組んで彰人、樋口和貞大和ヒロシ組と対戦。8分19秒、高木がクローズライン・フロム・ヘルで大和に勝利。5月26日、イーグルプロレスの小山市立文化センター・小ホール大会で島田宏、バンジー高田と組んでKAMIKAZE、クラッシャー高橋、高瀬直也組と対戦。17分56秒、谷津が監獄固めで高瀬に勝利。6月2日、DDTのアイテムえひめ大会で高木三四郎、納谷幸男、ライジングHAYATOと組んで藤波辰爾、竹下幸之介、彰人、勝俣瞬馬組と対戦。12分27秒、藤波のドラゴンスリーパーに納谷が敗れた。6月25日、糖尿病の悪化のため右足を切断。
(週刊FLASH2019年7月16日号より)
「参ったよな。足を切られちゃってさ。でも、まだ無意識に立とうとしちゃうんだよ。足がないのを忘れて」
 衝撃的な告白とともに、右足膝下を切断した姿をカメラの前にさらしてくれたのは、プロレスラーの谷津嘉章(62)だ。アマチュア時代は、全日本学生選手権4連覇。レスリング重量級の日本代表として、1976年のモントリオール五輪に出場した、まさにレスリングエリートである。
 冒頭の写真は取材時のもので、術後わずか数日。松葉杖がつけるようになったら、リハビリ専門病棟に移る。その後、義足を作り、歩行訓練をおこなうという。
「リハビリが痛えんだよ! まあ退院するころには秋も深まっちゃうな・・・」
と言うなかで、本誌の取材を受けた理由を、こう明かす。
「だって、こんなの隠しきれないじゃん?どっちみちバレるんだから、だったら自分から話しちゃったほうがいいと思ってね。写真も撮っていいですよ。さすがに、ピースはしないけどな(笑)」
 アマレスでの華々しい実績をひっさげて、1980年にプロレスに転向。先ごろ引退した長州力(67)の“右腕的存在”として活躍した。その後、「ジャパンプロレス軍」として、全日本でも共闘した。2019年4月からは、「DDT」のリングに月に一度のペースで上がっていた。
「6月2日には、愛媛で普通に試合をしたのに、23日には「切断です」と言われて、25日には手術でしょ。心の準備も何もあったもんじゃなかったですよ」
 異変の兆しは、右足親指の爪の中にできた血豆だった。そこから細菌が入り、壊死が進んでいたという。
「うちはもともと糖尿病が多くて、失明しちゃったおじさんもいるんですよ。35歳のときに、俺も糖尿病って診断されて。医者から「20年後には間違いなくインスリン打ってる」って言われたんだけど、その後、糖尿の薬を飲むだけでこれまで過ごせてきたんです。でも振り返ると、35歳のころなんて、現役バリバリでしょ。糖尿なのに、体をつくるためにガンガン食べて、1日に5000〜6000kcalは摂ってたんだから、体にいいわけないんだよな。若いころの暴飲暴食って、後々まで残るんですよ。足を切ってみたら、俺の血管は、動脈硬化が進んでボロボロだったらしい」
 谷津が右足を失った翌日。この日は、「共闘」と「仲たがい」を何度も繰り返してきた、かつての盟友・長州力の引退興行が、後楽園ホールでおこなわれた日でもあった。
  「俺が足を切った翌日、長州がハッピーエンドで引退したのは皮肉だよな。痛いのを我慢して、スマホで試合を観ていたんだけど、「長州と俺の、この落差はなんだよ?」って思ったよ。でも、「コノヤロー、こいつに負けてたまるか!」って気持ちも湧いてきた。ある意味では、勇気をもらったんだよな。だから、これからの人生は、「谷津嘉章・第二章」いつか、どこかの海賊みたいに「片足ジャック」として、またリングに上がってたりしてな(笑)。1本足にはなっちゃったけど、生きざまでは長州に絶対負けたくないからな!」

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