レスラーノート

ミスター珍

本名:出口雄一
1932年10月12日
兵庫県宝塚市出身
167cm 80kg

得意技
下駄攻撃
急所クロー

兵庫県警の柔道部で活躍。プロ柔道を経て54年4月に山口利夫率いる全日本プロレス協会に入団。同団体解散後、55年に日本プロレスに入団。コミカルファイトで前座で活躍した。下駄やヒジに巻いたゴムチューブ、客の靴やスリッパなどを武器に攻撃。61年1月7日にジャイアント馬場と対戦。股裂きをしかけたところを馬場に蹴られて頭を打って失神。救急車で運ばれ、デビュー間もない馬場をあわてさせた。復帰後の1月18日に馬場と対戦し、復讐とばかりに右の胸に噛みつき肉をかじりとる。馬場にいつまでも残る傷あとを残した。64年に引退。テレビタレントとしても活躍。66年に復帰。71年に引退。その後、国際プロレスで復帰。74年3月にアメリカ遠征。テネシーでトージョー・ヤマモトと組んで活躍。カナダのニュー・ブランズウィック地区ではミスター・ヨトの名で活躍。77年にテレビ番組「快傑ズバット」の第7話にグレートコング役で出演。演技中に本気を出して宮内洋の腕に青あざを作った。81年1月に3度目の復帰。反則負けをくり返す。その後、鶴見五郎大位山勝三のヒール軍団「独立愚連隊」のマネージャーになる。8月9日、国際プロレスの最終興行である羅臼大会で冬木と対戦。国際プロレス崩壊と同時に糖尿病のため再び引退。93年7月、FMWで60歳で復帰。人工透析を続けながらの復帰だった。95年6月25日、慢性腎不全のため死去。



スクラップブック
田中将斗に気遣われ・・・60歳でFMW入り直訴した「ミスター珍」の生涯 週2で人工透析
(2023年7月2日10:01配信 東スポWEBより)
 かつて、東スポに「老人虐待」、「60歳老人がFMW入りを直訴」と見出しを付けられたのはミスター珍だった。
 ミスター珍は、55年(昭和30年)にプロ柔道から全日本プロレス協会を経て、力道山の日本プロレスへ入団。コミカルなファイトが売りで、若手時代のジャイアント馬場、アントニオ猪木ともシングルで対戦したこともある。61年1月7日の愛知・金山大会では、馬場の蹴りを食らい昏倒して緊急入院。生死をさまよったというエピソードはオールドファンの間では広く知られている。
 今から29年前の93年(平成5年)5月、FMWで猛威を振るうカナダ軍の周囲をウロウロする謎の&「面マネジャーがいた。6月20日の東京・小平大会で大仁田がマスクを破り、正体は珍だったと観客に晒した(珍と認識した観客はいたのだろうか・・・)。
 FMWの移動バスの前に連行された珍は、土下座して「どうしてもFMWに入りたくてやったことなんです。大仁田さん、無理を承知でお願いします。もうひと花咲かせてください。FMWしかないんです」と涙ながらに訴えた。
 翌21日、岐阜・高山大会に強引に帯同してきた珍は、若手や女子レスラーに混じり場内整理などをこなした。
 ことが動いたのは28日の後楽園大会。珍は場外で、乱入したミスター・ポーゴのDDTを食らい、失神状態で控室に担ぎ込まれた。大仁田は「オレのために巻き添えを食って・・・。そこまでしてリングに上がりたいのか」と態度を軟化させた。
 そして、ついに大仁田がGOサインを出し、30日、珍の再デビューが発表された。「大仁田さんに迷惑がかからんように、自分の責任で誓約書≠提出して試合に臨みます。リングで死ねれば本望。今からワクワクしてます」。珍は喜びを語った。
 というのも、珍は腎臓障害で週に2度の人工透析を行っている1級身体障がい者だった。
 珍は、翌月の7月2日に全日本プロレスの後楽園大会を訪れ、馬場に復帰を報告。馬場からは「そうか、わかった」と激励されたという。
 迎えた再デビューの日、16日の後楽園ホールに勇壮な軍歌が鳴り響いた。「勝ってくるぞと勇ましく〜」。入場して来た珍は、対戦相手の中川浩二に平成マットから消え去った古典的反則を繰り出す。ゲタ攻撃、パンツ脱がし、髪の毛むしり、ノドつかみ等々。そして左手に巻いたゴムひもを中川の顔に当てる得意のゴムパッチン攻撃=B8分20秒、逆片エビ固めでギブアップした珍は「くたびれたけど人生最高の満足感。いつ死んでもいいです」と控室前で大仁田と涙の握手を交わした。
 81年8月、国際プロレスが崩壊して以来、国内で約12年ぶり、60歳での現役復帰となった珍は、日本マット史上最年長の現役レスラーとなったのだった。
 ところで、7月24日、福岡・北九州ベイスクエアでFMWのビッグマッチが行われた。この日も、小倉市内の病院で人工透析を済ませてきたばかりの珍は、第1試合で田中正人(後の将斗)と対戦。
 相手を務めた田中は、09年に東スポの連載企画「思い出したくない 恥バウト」でこの日のことを振り返っている。「(ターザン)後藤さんから『組まれた試合に文句は言うなよ』と教えられてはいたけれど、ボクは珍さんの全盛期を知らないし、内心では『何で60歳のジイさんとやらなきゃいけないんだよ』というのはあった。大観衆の前で笑われるし・・・」。デビュー2戦目で初勝利を挙げた田中だが、うれしさはなかったようだ。
 それでも「勉強になったことも多かった。今思えば珍さんが会場を笑わせていたのであって、僕が笑われていたわけじゃないんだよね。大きな違いだけれど、当時の僕はまだ若くて、理解できてなかった」と吐露した。
 珍は94年7月までFMWでファイト。95年6月26日に慢性腎不全で死去した。