ダークロHP / レスラーノート

三沢光晴

本名:三澤光晴
1962年6月18日
埼玉県越谷市出身
185cm 110kg 血液型O型
タイトル歴:GHCヘビー GHCタッグ 三冠ヘビー 世界タッグ PWF世界タッグ アジアタッグ NWAインターナショナルジュニア
得意技:エルボードロップ タイガードライバー タイガースープレックス  エメラルドフロウジョン

入場テーマ曲は「スパルタンX」。中学時代は体操部に所属し、天性のバネに磨きをかける。足利工業大学付属高等学校時代は、アマチュアレスリングで国体に出場し、フリースタイル87キロ級で優勝。 レスリング部の後輩に川田がいた。高校卒業後は自衛隊のスカウトを蹴ってプロレス入り。81年8月21日、埼玉県浦和競馬場正門前駐車場の越中詩朗戦でデビュー。82年度のプロレス大賞で新人賞を獲得。83年春のルー・テーズ杯争奪若手リーグ戦で決勝戦に進出し越中と対戦。フライングボディアタックで見せ場を作ったが、越中のパイルドライバーをショルダースルーで返したところを回転エビ固めに切り返されてフォール負け。84年3月に越中と共にメキシコ遠征。4月6日にはアレナメヒコでのメインイベントでエル・サタニコのNWA世界ミドル級王座に挑戦。7月に帰国。8月に2代目タイガーマスクとしてデビュー。85年6月21日、日本武道館大会で小林邦昭のインタージュニア王座に挑戦。11分29秒、フィッシャーマンズスープレックスに敗れた。この試合後、膝の負傷のため長期欠場。8月31日、両国国技館大会で復帰し、小林邦昭のインタージュニア王座に挑戦。15分36秒、タイガースープレックス85で勝利。NWAインタージュニア王座を獲得した。10月28日、会津若松市体育館大会でチャボ・ゲレロを相手に防衛戦。12分4秒、逆さ押さえ込みでフォール勝ち。86年3月29日、ヘビー級転向のためインタージュニア王座を返上。87年7月3日、後楽園ホール大会で鶴田と組んでハンセンデビアス組を破りPWFタッグ王座を獲得。7月11日、米子産業体育館大会でハンセン、デビアス組に敗れてタッグ王座から転落。88年1月2日にカート・ヘニングのAWA世界ヘビー級王座に挑戦し、リングアウトで勝利したがAWAルールにより王座の移動はなかった。89年3月8日、日本武道館大会でNWA世界ヘビー級王者のリッキー・スティムボートに挑戦。13分47秒、回転エビ固めに敗れた。4月に左ひざを手術し長期欠場。90年1月に復帰。4月9日、小橋と組んでダグ・ファーナスダニー・クロファット組を破りアジアタッグ王座を獲得。天龍離脱後の5月14日、試合中にマスクを脱ぐ。その後は三沢光晴として活躍。中心選手がほとんどいなくなった全日本プロレスで超世代軍を結成し奮闘。5月17日、広島県立体育館大会でデイビーボーイ・スミスジョニー・スミス組を相手にタッグ王座の初防衛に成功。試合後、アジアタッグ王座を返上した。6月8日に武道館大会で鶴田と対戦。試合前は明らかに格下と見られていた三沢だったが大善戦を展開。最後は、三沢のバックドロップを押しつぶした鶴田の体を一転させて切り返し、片エビ固めで勝利。鶴田から初のフォール勝ちを収めた。その後は全日本プロレスのエースとして活躍。どんな地方の小会場でも手を抜かない激しいファイトスタイルで人気を獲得。川田、小橋、田上と共に「四天王」と言われた。7月27日、松戸市運動公園体育館大会でハンセンを相手に3冠王座決定戦。16分16秒、ラリアットに敗れた。91年4月18日、日本武道館大会で鶴田の3冠王座に挑戦。23分17秒、バックドロップに敗れた。7月24日、石川県産業展示館大会で川田と組んでテリー・ゴディスティーブ・ウイリアムス組を破り世界タッグ王座を獲得。9月4日、日本武道館大会で鶴田、田上組を相手にタッグ王座の防衛戦。三沢がフェイスロックで鶴田にギブアップ勝ち。鶴田から日本人初のギブアップを奪った。91年度のプロレス大賞で川田と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。92年、チャンピオンカーニバルに参戦。Aブロックを8勝1引き分け(1引き分け)の1位で終了。4月17日、愛知県体育館大会でハンセンを相手に優勝決定戦。20分6秒、ラリアットに敗れた。8月22日、日本武道館大会でハンセンの3冠王座に挑戦。24分4秒、ランニングエルボーで勝利。3冠王座を初めて獲得した。10月21日、日本武道館大会で川田を相手に防衛戦。29分52秒、タイガースープレックスで勝利。12月4日、世界最強タッグ決定リーグ戦に川田と組んで初優勝。93年1月30日、千葉県体育館大会でゴディ、ウイリアムス組に敗れてタッグ王座から転落。5月21日、札幌中島体育センター別館大会のメインでスタン・ハンセンを相手に防衛戦。26分11秒、エルボーバットで勝利。7月29日、日本武道館大会のメインで川田を相手に防衛戦。垂直落下でたたきつける衝撃的な投げっぱなしジャーマンを3連発決め、25分53秒、タイガースープレックスで勝利。9月3日、日本武道館大会のメインでスティーブ・ウイリアムスを相手に防衛戦。23分6秒、タイガードライバーで勝利。10月23日、日本武道館大会のメインでハンセンを相手に防衛戦。22分10秒、前方回転エビ固めでフォール勝ち。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では小橋と組んで参戦。12月3日、日本武道館大会での優勝決定戦で川田、田上組と対戦。23分34秒、小橋がバックドロップで川田に勝利。リーグ戦に優勝し、世界タッグ王座を獲得した。93年度のプロレス大賞で小橋と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。94年3月19日から始まったチャンピオンカーニバルに参戦。開幕戦の後楽園ホール大会で秋山と対戦。13分57秒、タイガードライバーで勝利。3月21日、大和車体工業体育館大会でダグ・ファーナスと対戦。12分15秒、フェイスロックで勝利。この試合でファーナスのフランケンシュタイナーをまともにくらってしまい、首を負傷して長期欠場。リーグ戦を棄権した。4月11日、大阪府立体育会館大会で川田と対戦。30分時間切れ引き分け。4月14日、愛知県体育館大会でジョニー・スミスと対戦。15分14秒、タイガードライバーで勝利。5月21日、札幌中島体育センター別館大会で川田、田上組を相手にタッグ王座の防衛戦。40分25秒、小橋がムーンサルトプレスで田上に勝利。6月3日、日本武道館大会のメインで川田を相手に防衛戦。35分50秒、タイガードライバー91で勝利。7月22日、清水市営体育館大会でウイリアムス、ジョニー・エース組を相手にタッグ王座の防衛戦。27分48秒、三沢がダイビング・ネックブリーカードロップでエースに勝利。7月28日、日本武道館大会でスティーブ・ウイリアムスを相手に防衛戦。27分39秒、バックドロップに敗れて王座転落。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では小橋と組んで2年連続優勝した。94年度のプロレス大賞で小橋と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。95年1月24日、山形県体育館大会で川田、田上組を相手にタッグ王座の防衛戦。60分時間切れ引き分け。3月4日、日本武道館大会でウイリアムス、エース組を相手にタッグ王座の防衛戦。36分7秒、小橋がダイビングギロチンドロップでエースに勝利。3月21日から始まったチャンピオンカーニバルに参戦。開幕戦の後楽園ホール大会でダグ・ファーナスと対戦。11分25秒、リバース・ネルソン・デスロックで勝利。3月22日、本庄市民体育館大会で大森と対戦。11分26秒、リバース・ネルソン・デスロックで勝利。3月26日、松本市総合体育館大会で小橋と対戦。22分31秒、タイガースープレックス85で勝利。3月27日、浜松市体育館大会でダニー・クロファットと対戦。12分1秒、フェイスロックで勝利。3月31日、福井市体育館大会でジョニー・エースと対戦。19分3秒、タイガードライバーで勝利。4月4日、熊本市体育館大会でダニー・スパイビーと対戦。8分42秒、タイガードライバーで勝利。4月6日、岡山武道館大会で川田と対戦。試合開始早々、フロントキックをくらって左眼窩骨折の重傷を負ったが、そのまま試合を続け、30分時間切れ引き分け。その後もリーグ戦に出場。4月8日、大阪府立体育会館大会で秋山と対戦。12分28秒、リバース・ネルソン・デスロックで勝利。4月11日、名古屋市体育館大会でハンセンと対戦。30分時間切れ引き分け。4月12日、後楽園ホール大会で田上と対戦。30分時間切れ引き分け。リーグ戦を7勝3引き分けの同点1位で終了。4月15日、日本武道館大会で田上を相手に優勝決定戦。27分3秒、タイガースープレックスで勝利。チャンピオンカーニバルに初優勝した。5月26日、札幌中島体育センター別館大会でハンセンの3冠王座に挑戦。25分6秒、ヘッドシザース固めでフォール勝ち。3冠王座を獲得した。6月3日、清水市営体育館大会でジョニー・エースと対戦。23分40秒、ランニング・ネックブリーカードロップで勝利。6月9日、日本武道館大会で川田、田上組を相手にタッグ王座の防衛戦。42分37秒、川田のパワーボムに三沢が敗れて王座転落。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。7月24日、日本武道館大会で川田を相手に防衛戦。24分16秒、エルボーバットで勝利。9月10日、日本武道館大会で田上を相手に防衛戦。20分50秒、ローリングエルボーで勝利。10日15日、愛知県体育館大会で小橋と組んで川田、田上組の世界タッグ王座に挑戦。60分時間切れ引き分け。10月25日、日本武道館大会で小橋を相手に防衛戦。35分51秒、タイガードライバー91で勝利。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では小橋と組んで参戦。12月9日、日本武道館大会で川田、田上組と優勝決定戦。27分4秒、小橋がムーンサルトプレスで田上に勝利。3年連続優勝を達成した。96年1月10日、博多スターレーン大会で秋山と対戦。15分53秒、エルボーバットで勝利。3月2日、日本武道館大会でゲーリー・オブライトを相手に防衛戦。14分20秒、ローリングエルボーで勝利。3月22日から始まったチャンピオンカーニバルに参戦。3月23日、後楽園ホール大会でジョニー・エースと対戦。30分時間切れ引き分け。3月24日、戸田市スポーツセンター大会でスティーブ・ウイリアムスと対戦。19分59秒、バックドロップに敗れた。3月31日、愛知県体育館大会で小橋と対戦。24分7秒、ダイビング・ネックブリーカードロップで勝利。4月1日、大阪府立体育会館大会で田上と対戦。18分18秒、ダイビング・ネックブリーカードロップで勝利。4月4日、長崎県立総合体育館大会でザ・パトリオットと対戦。14分42秒、ローリングエルボーで勝利。4月5日、大分県立荷揚町体育館大会でハンセンと対戦。17分31秒、ラリアットに敗れた。4月7日、博多スターレーン大会でゲーリー・オブライトと対戦。18分14秒、投げっぱなしジャーマンで勝利。4月8日、広島市東区スポーツセンター大会で本田多聞と対戦。10分10秒、タイガードライバーで勝利。4月11日、富山テクノホール大会で秋山と対戦。17分56秒、タイガードライバーで勝利。4月14日、宮城県スポーツセンター大会で川田と対戦。30分時間切れ引き分け。4月18日、平塚総合体育館大会で大森と対戦。10分23秒、タイガードライバーで勝利。リーグ戦は7勝2敗2引き分けに終わった。5月23日、札幌中島体育センター別館大会で秋山と組んで川田、田上組の世界タッグ王座に挑戦。27分26秒、秋山が裏投げで川田に勝利。世界タッグ王座を獲得した。5月24日、札幌中島体育センター別館大会で田上を相手に防衛戦。16分5秒、ジャンピング・ネックブリーカーを狙って飛んだところにのど輪落としをくらってフォール負け。3冠王座から転落した。6月7日、日本武道館大会でスティーブ・ウイリアムス、ジョニー・エース組を相手にタッグ王座の防衛戦。30分9秒、秋山がエクスプロイダーでエースに勝利。7月9日、石川県産業展示館3号館大会で川田、田上組を相手にタッグ王座の防衛戦。26分42秒、三沢がタイガースープレックスで田上に勝利。9月5日、日本武道館大会でウイリアムス、エース組を相手にタッグ王座の防衛戦。28分47秒、エースのコブラクラッチスープレックスに秋山が敗れて王座転落。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では秋山と組んで参戦。リーグ戦を8勝3敗1引き分けの同点1位で終了。12月6日、日本武道館大会で川田、田上組を相手に優勝決定戦。31分37秒、川田のパワーボムに三沢が敗れた。97年1月20日、大阪府立体育会館大会で小橋の3冠王座に挑戦。エプロンから場外へのパワーボムをウラカンラナに切り返した。42分6秒、エルボーバットで勝利。3冠王座を獲得した。3月1日、日本武道館大会でスティーブ・ウイリアムスを相手に防衛戦。27分52秒、タイガードライバーで勝利。3月22日から始まったチャンピオンカーニバルに参戦。開幕戦の後楽園ホール大会でゲーリー・オブライトと対戦。13分6秒、ローリングエルボーで勝利。3月23日、後楽園ホール大会で大森と対戦。12分53秒、エルボーバットで勝利。3月24日、千葉公園体育館大会で秋山と対戦。20分33秒、タイガードライバーで勝利。3月28日、長岡市厚生会館大会で小橋と対戦。24分9秒、ラリアットに敗れた。3月30日、愛知県体育館大会で川田と対戦。30分時間切れ引き分け。4月2日、大阪府立体育会館大会でスティーブ・ウイリアムスと対戦。18分21秒、バックドロップに敗れた。4月5日、岡山武道館大会で本田と対戦。10分15秒、エルボーで勝利。4月7日、鳥取産業体育館大会で田上と対戦。12分14秒、ローリングエルボーで勝利。4月13日、石川産業展示館大会でハンセンと対戦。17分59秒、ローリングエルボーで勝利。4月14日、新潟市体育館大会でキマラと対戦。9分48秒、バックブロー式エルボーで勝利。4月17日、草加市スポーツ健康都市記念体育館大会でジョニー・エースと対戦。26分27秒、タイガードライバーで勝利。リーグ戦を9勝2敗1引き分け(1不戦勝)の同点1位で終了。4月19日、日本武道館大会で小橋、川田を相手に巴戦で優勝決定戦。第1試合で小橋と対戦。30分時間切れ引き分け。第2試合で川田と対戦。6分9秒、パワーボムに敗れた。第3試合で小橋に勝利した川田の優勝に終わった。5月27日、札幌中島体育センター別館大会で秋山と対戦。19分14秒、タイガードライバーで勝利。6月6日、日本武道館大会で川田を相手に防衛戦。31分22秒、ジャーマンスープレックスで勝利。7月25日、日本武道館大会で田上を相手に防衛戦。20分25秒、ジャーマンスープレックスで勝利。8月26日、札幌中島体育センター別館大会で秋山と組んでウイリアムス、オブライト組の世界タッグ王座に挑戦。8分42秒、オブライトのフルネルソンスープレックスに秋山が敗れた。9月6日、日本武道館大会で秋山を相手に防衛戦。24分57秒、タイガードライバーで勝利。9月29日、松本市総合体育館大会でゲーリー・オブライトと対戦。13分42秒、ランニングエルボーで勝利。10月11日、福岡国際センター大会でスティーブ・ウイリアムスを相手に防衛戦。24分21秒、タイガードライバーで勝利。10月21日、日本武道館大会で小橋を相手に防衛戦。32分55秒、タイガードライバー91で勝利。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では秋山と組んで参戦。12月5日、日本武道館大会で川田、田上組を相手に優勝決定戦。30分52秒、田上のジャンピングキックに秋山が敗れた。98年1月26日、大阪府立体育会館大会で秋山を相手に三冠王座の防衛戦。23分9秒、初公開となるエメラルドフロウジョンで勝利。2月28日、日本武道館大会でジョニー・エースを相手に防衛戦。33分34秒、タイガードライバー91で勝利。3月21日から始まったチャンピオンカーニバルに参戦。3月22日、後楽園ホール大会で田上と対戦。15分39秒、ジャンピングハイキックに敗れた。3月25日、小田原アリーナ大会でゲーリー・オブライトと対戦。12分35秒、エルボーバットで勝利。3月27日、長岡市厚生会館大会で秋山と対戦。30分時間切れ引き分け。3月29日、愛知県体育館大会で川田と対戦。30分時間切れ引き分け。3月31日、舞洲アリーナ大会で泉田と対戦。11分34秒、タイガードライバーで勝利。4月1日、岡山武道館大会で小橋と対戦。25分、タイガードライバー91で勝利。4月6日、北九州市小倉北体育館大会でジョニー・エースと対戦。16分48秒、エルボーバットで勝利。4月7日、熊本市体育館大会で大森と対戦。13分56秒、エルボーバットで勝利。4月8日、佐世保駅前スワンスポーツ大会でハンセンと対戦。30分時間切れ引き分け。4月12日、宮城県スポーツセンター大会でスティーブ・ウイリアムスと対戦。18分22秒、エルボーバットで勝利。4月13日、一関文化センター体育館大会でキマラと対戦。7分22秒、エルボーバットで勝利。4月15日、太田市民体育館大会でウルフ・ホークフィールドと対戦。10分50秒、タイガードライバーで勝利。リーグ戦を8勝1敗3引き分けの同点1位で終了。4月18日、日本武道館大会での優勝決定戦で秋山と対戦。22分5秒、エルボーバットで勝利。チャンピオンカーニバルに優勝した。5月1日、東京ドーム大会で川田を相手に防衛戦。28分5秒、パワーボムに敗れて王座転落。この試合後、左膝の負傷のため長期欠場。8月から現場監督とマッチメーカーに就任した。8月22日、後楽園ホール大会で復帰。秋山とのタッグを解消し、小川良成と「アンタッチャブル」を結成。9月11日、日本武道館大会でモスマンと対戦。7分34秒、エルボーバットで勝利。10月31日、日本武道館大会で小橋の3冠王座に挑戦。エプロンから場外へのタイガードライバーを決め、43分29秒、エルボーバットで勝利。3冠王座を獲得した。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。99年1月22日、大阪府立体育会館大会で川田を相手に防衛戦。24分15秒、垂直落下式ブレーンバスターに敗れて王座転落。3月6日、日本武道館大会で小川と組んで小橋、秋山組の世界タッグ王座に挑戦。30分49秒、秋山のエクスプロイダーに小川が敗れた。3月26日から始まったチャンピオンカーニバルに参戦。開幕戦の後楽園ホール大会で新崎人生と対戦。16分54秒、ランニングエルボーで勝利。3月28日、愛知県体育館大会でベイダーと対戦。10分52秒、エルボーバットで勝利。3月29日、福井市体育館大会でゲーリー・オブライトと対戦。10分37秒、エルボーバットで勝利。3月31日、新潟市体育館大会で小橋と対戦。24分15秒、ラリアットに敗れた。4月2日、岡山武道館大会で秋山と対戦。30分時間切れ引き分け。4月4日、広島市東区スポーツセンター大会で大森と対戦。12分16秒、タイガードライバーで勝利。4月8日、大阪府立体育会館大会でジョニー・エースと対戦。12分24秒、ランニングエルボーで勝利。4月9日、ツインメッセ静岡大会で田上と対戦。30分時間切れ引き分け。4月14日、岩手県営体育館大会で高山と対戦。12分47秒、ローリングエルボーで勝利。リーグ戦は6勝1敗2引き分けに終わった。5月2日、東京ドーム大会でベイダーの3冠王座に挑戦。18分7秒、ランニングエルボーで勝利。3冠王座を獲得した。この大会後、全日本プロレスの社長に就任。6月11日、日本武道館大会で小橋を相手に防衛戦。必殺のタイガードライバー91を返されたが、43分40秒、エメラルドフロウジョンで勝利。7月23日、日本武道館大会で川田を相手に防衛戦。21分58秒、タイガードライバー91で勝利。8月25日、広島市東区スポーツセンター大会で小川と組んで高山、大森組の世界タッグ王座とアジアタッグ王座に挑戦。23分2秒、三沢がエメラルドフロウジョンで大森に勝利。世界タッグ王座とアジアタッグ王座の2冠を獲得した。9月4日、日本武道館大会で高山と対戦。18分11秒、ランニングエルボーで勝利。同大会でベイダーと対戦。7分21秒、パワーボムに敗れた。10月23日、愛知県体育館大会で小橋、秋山組を相手にタッグ王座の防衛戦。27分25秒、小橋のバーニングハンマーに三沢が敗れて王座転落。10月30日、日本武道館大会でベイダーを相手に防衛戦。12分12秒、パワーボムに敗れて王座転落。00年1月9日、福岡国際センター大会で馳浩と対戦。24分42秒、エルボーバットで勝利。2月17日、北海道立総合体育センター大会で田上と対戦。15分18秒、エルボーバットで勝利。2月27日、日本武道館大会で秋山と対戦。23分40秒、リストクラッチ式エクスプロイダーに敗れた。3月31日、広島サンプラザ大会でトーナメント戦となったチャンピオンカーニバルに参戦。1回戦で川田と対戦。15分35秒、エメラルドフロウジョンで勝利。4月7日、松本市総合体育館大会でベイダーと対戦。11分31秒、裏十字固めで勝利。4月11日、石川県産業展示館1号館大会での準決勝で小橋と対戦。26分8秒、ラリアットに敗れた。00年にノアを設立。01年4月15日、GHC初代王者決定トーナメント決勝戦で高山と対戦。21分12秒、エメラルドフロウジョンで勝利し、GHC初代王座を獲得した。5月18日、北海道立総合体育センター大会で田上を相手に防衛戦。14分12秒、エメラルドフロウジョンで勝利。7月27日、日本武道館大会で秋山を相手に防衛戦。24分11秒、リストクラッチ式エクスプロイダーに敗れて王座転落。11月30日、北海道立総合体育センター大会で小川良成と組んでベイダー、スコーピオ組のGHCタッグ王座に挑戦。16分35秒、小川がバックドロップホールドでスコーピオに勝利。GHCタッグ王座を獲得した。12月9日、有明コロシアム大会で高山、大森組を相手にタッグ王座の防衛戦。20分31秒、大森のアックスボンバーに小川が敗れてタッグ王座から転落した。02年5月2日、新日本プロレスの東京ドーム大会で蝶野正洋と対戦。エルボーの連打や卍固めで蝶野を追いこんだが、30分時間切れ引き分けに終わった。9月23日、日本武道館大会で高山のGHC王座に挑戦。壮絶な打撃戦を展開。23分50秒、ランニングエルボーで勝利。GHCヘビー級王座を獲得した。高山は、この試合で左肩鎖関節脱臼、右眼窩底骨折の重傷を負った。12月7日、横浜文化体育館大会で小川良成を相手に防衛戦。23分26秒、エメラルドフロウジョンで勝利。03年3月1日、超満員の日本武道館で小橋と対戦。小橋のラリアット、ハーフネルソンスープレックス、垂直落下式ブレーンバスターに対し、三沢はエメラルドフロウジョン、花道からリングの下へのタイガースープレックス。大熱戦の末、33分28秒、小橋のバーニングハンマーに敗れて王座転落した。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞。04年1月10日、日本武道館大会で小川良成と組んで永田棚橋組のGHCタッグ王座に挑戦。29分41秒、三沢がエメラルドフロウジョンで棚橋に勝利。GHCタッグ王座を獲得した。3月6日、日本武道館大会で池田ヨネ組を相手にタッグ王座の防衛戦。29分28秒、小川が首固めでヨネにフォール勝ち。4月25日、日本武道館大会で丸藤KENTA組を相手にタッグ王座の防衛戦。28分39秒、三沢が変型エメラルドフロウジョンで丸藤に勝利。6月11日、PWIのカリフォルニア州サン・レアンドロ大会でナイジェル・マッギネス、バート・ブラクソン組を相手にタッグ王座の防衛戦。11分58秒、三沢がタイガードライバーでブラクソンに勝利。7月10日、東京ドーム大会で武藤、太陽ケア組を相手にタッグ王座の防衛戦。21分46秒、三沢が変型エメラルドフロウジョンでケアに勝利。9月10日、日本武道館大会で井上雅央央、齋藤彰俊組を相手にタッグ王座の防衛戦。30分44秒、小川がバックドロップホールドで井上に勝利。10月24日、大阪府立体育会館大会で田上、佐野組を相手にタッグ王座の防衛戦。22分22秒、三沢が雪崩式エメラルドフロウジョンで佐野に勝利。12月4日、横浜文化体育館大会でドノバン・モーガン、マイケル・モデスト組を相手にタッグ王座の防衛戦。17分53秒、三沢が雪崩式エメラルドフロウジョンでモデストに勝利。05年1月23日、神戸ワールド記念ホール大会でダグ・ウイリアムス、スコーピオ組を相手にタッグ王座の防衛戦。29分32秒、スコーピオの450°スプラッシュに小川が敗れてタッグ王座から転落した。7月18日に東京ドーム大会「DESTINY」のメインイベントで、川田と対戦。00年の全日本プロレス分裂後、5年ぶりの対戦となった。試合中盤に川田のハイキックが直撃し左耳の鼓膜が破裂。エメラルドフロウジョン、タイガードライバー91も返される苦しい展開となった。27分4秒、エルボーで川田に勝利した。06年12月10日、日本武道館でGHC王者の丸藤正道に挑戦。2日前のタイトルマッチ調印式では「どんなヤツでも歳には勝てない。衰えたという気持ちはないけど、これが最後という気持ちは持たないといけない」と語った。タイガードライバー、エルボー・スイシーダ、ウルトラタイガードロップなど得意技を連発し、雪崩式タイガースープレックス85、エメラルドフロウジョン、タイガードライバー91で丸藤を追いつめ、25分32秒、雪崩式エメラルドフロウジョンで勝利。3度目のGHCヘビー級王座を獲得した。1月21日、森嶋猛を相手に防衛戦。激しい打撃戦となった。強烈なバックドロップ3発をくらいながらもエルボー連打で返していった三沢が、20分5秒、タイガードライバー91からのランニングエルボーで初防衛に成功。試合後に軽い脳しんとうを起こし、勝利者インタビューもないままセコンドの肩を借りて控室に直行。そのまま救急車で病院へ向かった。4月28日、佐野を相手に防衛戦。ダイビングフットスタンプや顔面へのソバットを耐えて、16分38秒、変形エメラルドフロウジョンで勝利。試合後の勝利者インタビューでは「最近腹が出てるって言われるけど、ただ出てるだけじゃないというのを見せたかった」と自虐的なジョークを飛ばした。6月3日、きたえーる大会でバイソン・スミスを相手に防衛戦。エルボースイシーダ、タイガードライバーなどで優位に立つ。花道へのリフトアップスラム、花道でのバイソンテニエルなどのパワー殺法で圧倒されるが、最後は雪崩式エメラルドフロウジョンからエルボーの連打で防衛に成功。7月15日、田上を相手に防衛戦。16分44秒、ブレーンバスターの体勢から垂直に落とす変型エメラルドフロウジョンで勝利。試合後のインタビューでは「次の対戦相手が決まると精神的にキツイんだよ。今日くらい休ませろ!」と語った。9月29日、大阪府立体育会館大会で丸藤を相手に防衛戦。エメラルドフロウジョン、ランニングエルボーから26分28秒、変形エメラルドフロウジョンで勝利。10月27日、日本武道館大会でサモア・ジョーを相手に防衛戦。ジョーの重くて多彩な技の数々に、エルボーやフェイスロックで対抗。エルボーの連打からエメラルドフロウジョンを決め、最後は17分14秒、後頭部へのエルボーバットで勝利。11月3日、ROHのニューヨーク大会でKENTAを相手に防衛戦。会場は2500人の超満員のファンで埋めつくされ、「ミサワ」コールが大爆発。18分31秒、旋回式のエメラルドフロウジョンで勝利。07年度のプロレス大賞でMVPを受賞した。08年3月2日、日本武道館大会で森嶋を相手に防衛戦。もはや全盛期の動きではなかったが、体格を生かした森嶋の技を最後まで受けきり、20分22秒、バックドロップに敗れて王座陥落。試合後、退場する時に場内から三沢コールが送られた。09年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会で杉浦と組んで中邑後藤洋央紀組と対戦。15分17秒、中邑の飛びつき腕ひしぎ逆十字固めに杉浦が敗れた。4月から潮崎豪と組んでグローバルタッグリーグ戦に参戦。5月6日、日本武道館大会で森嶋、佐々木組と対戦。三沢がほとんど活躍しなかったため、2対1のハンデキャップ戦のような展開となったが、22分53秒、潮崎のラリアットで森嶋にフォール勝ちし、タッグリーグ戦を優勝した。6月13日、広島県立総合体育館大会で潮崎と組んでバイソン、齋藤彰俊のGHCタッグ王座に挑戦。試合中に齋藤のバックドロップを受けてから心肺停止状態となり、広島大学病院に救急搬送されたが、死去。
猛虎7番勝負(3勝4敗で終了)
(番外戦)86年7月31日 両国国技館 ○ ザ・グレート・カブキ 13分18秒 タイガーマスクがトップロープに上がったところをカブキがつかまえてバックドロップ。そのままカブキはブリッジしてフォール。しかしカブキの両肩もマットについていたため期せずして同時フォールの形となり、寸前で肩を上げたタイガーマスクが勝利した。
86年10月20日 岡崎市体育館 × 谷津嘉章 14分6秒 ワンダースープレックス
87年2月3日 夕張市総合体育館 ○ フランク・ランカスター 8分21秒 ジャーマンスープレックスホールド
87年3月9日 高崎市中央体育館 × リック・フレアー 13分53秒 ショルダースルーの要領で持ち上げられ、トップロープの上にノドを打ちつけられてから片エビ固めにフォール負け
87年4月16日 熊本市体育館 ○ 阿修羅原 14分37秒 ラリアットがレフリーに誤爆して反則勝ち
87年6月1日 石川県産業展示館 × 天龍源一郎 11分33秒 パワーボム
87年7月19日 後楽園ホール ○ テッド・デビアス 9分18秒 ジャーマンスープレックスホールド
88年3月9日 横浜文化体育館 × ジャンボ鶴田 1発目のバックドロップは2で返したが、2発目のバックドロップに片エビ固めにフォール負け

(週刊プロレスNo.1480 三沢死去後の鈴木鼓太郎のインタビューより)
−−セコンドに付いていましたが、普段と変わったところはありましたか?
鼓太郎 いつも通りでしたよ。調子が悪いのはここ最近ずっとですから、動き辛そうだなっていうのはありました。少し前に社長が「コーナーのセカンドに上がれなくなった」って言ってたんですよ。普通の人はコーナーを背にして上がるじゃないですか。でも、肩が痛くて、それができないから正面から上がって、セカンドで向きを変えてた。最近はスプラッシュをやるにも正面から上がってましたからね。肩が痛いから、ロープを持って(自分の体をコーナー上へと)押せなくなってたみたいですよ。どんだけ悪いんだよって。(中略)
−−受け身としてはどうでしたか?
鼓太郎 社長の首を考えるとかなり危ない角度でした。アレがジュニアの選手とかだったら、力をうまく逃すことができただろうけど。社長って首に骨棘ができて、下を向けないんですよ。ブレーンバスターとかで上から腕を被されるだけで痛いってよく言ってました。ブレーンバスターの掛け合いでも痛いって。溜まったモノが出たんでしょうね。受け身は取ってるように見えましたけど、誰が受けてもバックドロップは首に負担がかかりますからね。でも、前からああいう技をけっこう受けてましたから。ホント、あの時にたまたまだと思いますよ。ムチャクチャひどい一発ってわけでもなかったし。

週刊プロレス別冊「四天王プロレスFILE」(08年発行)より
三沢語録
「中2の時ですよ、レスラーになろうと思ったのは。とにかくね・・・俺、自分の名前を世間に広めたかったんですよ。男に生まれたからには!って言うのかな。だから、たまたまレスラーになったけど、ひょっとしたらならなかったかもしれない。現に小学生の時はボクサーになろうと思ってましたから(笑)」
「でもね、言っちゃなんだけど、俺は鶴田さんみたいな「それなり」の試合は絶対にしたくないですから。これだけは覚えておいてください」(90年7月3日号、No.385。6月にジャンボ鶴田から勝利後)

「全日本のために立ち上がるという気持ちは確かにあったし、ファンがそう思ってくれるのは光栄だけど、ちょっとカッコよすぎるんじゃない?美化しすぎてるよ(笑)。きっと、他の部分を知らないからだよ。「えっ、三沢さんってこんな人だったの?」と思われるのはイヤだけど、そもそも俺は三枚目だから」
「俺には観客を見返してやろうとか、そういう意識はないんだけど・・・ただひとつ言えるのは、しょっぱい試合をしちゃったときに、申し訳ないなあってことだよね」(91年1月8日&15日号、No.414。激動の90年を振り返って)

「上を目指して闘ってきて、ひとつの頂点までたどりついて、もしお客さんが「その上」が見えないのだとすれば、見えてくるところまで、俺自身がのぼるだけでしょ。それでも見えてこなければ、もっともっとのぼるだけだし。力の限りは、のぼっていきたいと思うよね。逆に、その限界を悟ったときは、寂しいもんだろうけど・・・。ま、いつかは人間、そういう時がくるわけだし」
「今のプロレス自体、動きとか、見てて疲れる部分があるかもしれないね。おじいちゃんやおばあちゃんじゃ、ついていけないかもしれないね。だから、会場で年配の人が喜んでいる姿を見たりすると、ホッとするよ。プロレスってさ、もともとは単純明快で、わかりやすいものでしょ。結局、プロレスには、これが絶対!というものはないと思うし、絶対的なものがないからこそ、自分の信念を貫くしかないんだよね」(93年7月6日号、No.560。四天王という言葉が使われ出した頃)

「川田と小橋ね・・・大きな違いがあるとしたら思いやりですよ。それは結局、小橋の方が思いやりがあるわけですよね。人間にしろ何にしろ。だから怪我なんかすると、また心配してくれたら、頑張らなきゃいけないなと。こいつがあの時、補ってくれたから、恩返しというか、してやらないといけないなと思うでしょ。そういう気持ちは口に出しては、いわないですけどね」(94年1月18日号、No.594。川田と小橋でパートナーにしたときに、心理状態に変化があったかという質問に対して)

「人生ってさ、ドラマみたいにリハーサルができたり、NGが出てやり直しがきくわけじゃないし。ぶっつけ本番でしょ。特にプロレスは。アマレスだったら「勝とう!」と思って試合するわけ。でもプロレスは「勝とう!」プラス「いい試合を見せなきゃいけない」でしょ。自分だけの世界じゃなくなるんだよね。当然、頭も使うよね。でも、いい試合って、やろうと思ってもそんなにできるもんじゃないし。そこがね・・・」(95年5月30日号、No.671。95年チャンピオン・カーニバル優勝後)

「プロレスが素晴らしいと思うか、俺と小橋の試合が素晴らしいと思うか、というのはあるだろうね。普通の人は、プロレスの奥深いところまで理解できないだろうけど、こういう試合を知ってもらいたいですよ。知らない人たちは、わからない部分があるよね。プロレスとK−1だって、全然見ない人は一緒だと思ってるだろうし。プロレスファンが「趣味、なんですか?」って聞かれて「プロレスです」って答えた時に、まだ「プロレス?」っていうのがあるでしょ。「あれ、面白いですよね」とか答えてもらえるようになると、うれしいよね」
「プロレスがどうのこうのって言うなら、じゃあやろうかってなりますよ。俺らは、自分たちがやってることをけなされてまで、我慢できないから。命を懸けてやってるものだしね。ただ、それは思っていればいいこと。表に向かって吠えることでもない。自分で信念を持ってれば、何が来ても平気だろうし」(97年11月28日号、No.825。97年10月の小橋戦後、高田対ヒクソン戦について聞かれて)

「ライバルっていう呼び方が、ちょっと当てはまらないというか。それは川田だけじゃなく、田上にしても、小橋にしても、秋山にしても、ライバルっていう関係じゃねえよなぁって。そんな簡単なものじゃないと思うし、そんな軽いものじゃない」(98年4月21日号、No.849。98年5月の川田戦を控えて、ライバル関係と思われることについて)

「俺、迷うってないのよ。迷う前に決めちゃってるから。俺はこう!って。他の道が出てきても、俺はこうだもんってね。どっちにする、じゃないんだよね。それが鈍ってきたら、新しい人間がまた考えるときじゃないかなって思うし」(99年8月17日号、No.930。社長就任から3ヶ月を迎えて)
週刊プロレス別冊「四天王プロレスFILE」より
インタビュー
三沢 三冠王座を取る直前、鶴田さんが病気欠場したシリーズで、肩鎖関節を脱臼したことがあったでしょ。
― 92年の7月ですね
三沢 スゲエ痛くて、走ることさえできなかったんだけど、ある”売り興行”で興行主から「三沢も休むならギャラを下げてくれ」って言われたんだよね。
― ジャンボさんも欠場だから。
三沢 そうしたら、(ジャイアント)馬場さんから「悪いけど、試合に出てくれるか」と言われてさ。そのとき、オレはもう休めねえな、と思ったよ。
(中略)
― 当時の四天王プロレスにおいて、三沢さんが大事にしていたものは何ですか。試合のリズムなのか、客席の盛り上がりなのか・・・・・・。
三沢 試合が終わったあとの満足感。ある意味、自己満足の世界じゃないかな(笑)。
― 自分が満足できる試合は、お客さんも満足できているだろう、という感触があったということですか。
三沢 そこはそう思うしかない。お客さんの満足度がイマイチでも、オレはあれ以上できなかったと思えば自分で納得できるところでしょ。
(中略)
三沢 若い選手の試合を見ていて、切り返しの動きなんかをパッパ、パッパやっていると頼もしいと思うけど、頭や首から落とす技も増えてるんで、そのへんは大丈夫かなと・・・・・・。そういうときにお客さんの「もう一発やれ」という声が聞こえてくると、イラッと来るというか、「やられるほうの身にもなれよ」とは思いますよ。まあ、お客さんも興奮している部分もあるだろうし、これがオレらの仕事だって言えばそれまでなんだけど、人間だからね。
― 当時の全日本は、確かな受け身の技術というバックボーンがあったうえでの激しい攻防だったわけですが、その後のプロレス界を見ていると、相手を頭から落とすような試合さえしていれば、それがすなわちいい試合であり、熱い試合である、と定義する風潮があるように思います。そこから「四天王プロレスが、プロレスをダメにした」という声もあるようですけど。
三沢 ダメにはしてないよ。そういうことをやったから、そういうものを見たから分かるわけであって。ここまでやったらもうプロレスじゃない、これ以上はないんだからあとは落ちるだけという解釈でしょ?でも、ここまでやらなかったら分からない部分もあるわけであって。もっとやるレスラーが出てくるかも分からないけど、やらなきゃ何事も分からない。やってみてああそうだった、というほうがいいじゃん。やらないでなんだかんだ言うよりさ。
(中略)
― お客さんの歓声を耳にしながら「オレって、面白い試合をしてるなあ」と思ったことはありましたか。
三沢 つらいよね(苦笑)。さっきも言ったけど、終わったあとの満足感のためにやれてるだけで、試合をしている最中に面白いとは思ってない。楽しんで、という感じじゃないよね。今にして思えば、もうちょっと余裕があっても良かったのかな、というのがあるけど、余裕がなかったから支持されたのかな、という部分もあるしね。まあ、お客さんに支持されたかどうかは分からないけど。
週刊プロレス別冊「四天王プロレスFILE」より
和田京平レフリーのインタビューより抜粋
― 四天王プロレスは極限のプロレスだったから怪我も多かったですよね。例えば95年4・6岡山の「チャンピオン・カーニバル」公式戦の三沢vs川田では、三沢が左眼窩底骨折のまま30分フルタイム闘い抜いたり、99年1・22大阪の三沢vs川田の三冠戦では試合開始7分で右腕を骨折した川田が24分以上闘ったうえで勝ったり。そうなるとレフェリーとしてはカウントもそうですけど、レスラーの体、生命を守るという意味でも大変だったと思うんですよ。
京平 今なら俺、止めちゃうよ。でも当時は止めようがなかった。「何があっても止めないで」って言われていたから。「止めるぞ」「止めないで」「いいのか、できるのか?」「できる、やる!」っていう感じだったから。で、やれちゃうんだよね。やって終わった時に初めて「そんなにひどかったの?止めればよかったかな」「いや、止めないでくれて助かったよ」って。止めないでお礼を言われていたんだから。そんなのばっかしだもん。控室に戻ったら、みんな体がガタガタだったもん。それくらい激しいプロレスをしてたよ。
― あと試合中に意識が飛んだまま試合をしているってこともよくありましたよね。
京平 やっぱりレフェリーにはレフェリーなりのアドバイスがあるから「大丈夫か?動けるか?」「大丈夫、動ける」って会話をしながらやっているよね。三沢が武道館で開始5分くらいで川田のスピンキックを食って飛んじゃった時に、三沢が「京平ちゃん、大丈夫?」って聞いてきたから「何で俺に聞くんだよ?」って思ったけど「大丈夫だよ」って答えたら、三沢も「じゃあ、大丈夫」って。それだったら続行だよね、試合を止められないでしょ。「じゃあ、やれ」ってやらせたら、やったんだよ。脳震盪起こしても、レスラーの凄いところは「寝ちゃいけない!」っていうのがあるから、無意識に起きているんだよね。で、体が反応して、受け身も取って、無のままに闘っているんだよね。それで控室に戻った時に「試合終わった?何で」って。「やっぱりな、また脳震盪起こしていたな」って。そんなのが毎シリーズに1回ぐらいはあったよ。
高山 別のインタビューでも言ったんだけど、俺のプロレスラーとしてのスキルを本当にあげてくれたのは三沢光晴だよ。「ああ。この人になんとかして食らいつこう、この人をなんとかして驚かそう」って、常に思ってたからね。この人と闘うことで、「アッ高山がこんなことした」って相手にもファンにも思わせたかった。目標だよね。「目標は?」と聞かれて、「あの人です」とは言わないし、俺自身が三沢光晴みたいになりたいとは思わないけど、ただ・・・なんていうんだろ、スタイルとかじゃなくて、こういうレスラーにならなきゃいけないんだろうなって。
―― NOAHに移ったのも学ぶべき相手が創った団体だからですか?
高山 そのときは学ぶ相手とは思ってなかったけどね。闘うべき相手、倒したい相手。
―― 獲物がいるリングだから、NOAHを選んだと。
高山 あともうひとついえば、あの時点で俺のボスは三沢光晴だったんだよ。Uインター、キングダムを辞めてフリーになって、馬場さんの全日本に参戦してたけど、フリー参戦だった。三沢光晴の全日本になってから俺は所属になったんだよ。三沢社長が「嫌じゃなかったら全日本に入りなよ」って言ってくれて。あくまでもコッチを立てるような感じで。
―― それもあって、迷うことなく・・・。
高山 ウン、全然迷わなかったね。
―― そんな三沢さんとNOAHでは、全日本のとき以上に激しくやりあっていました。
高山 全日本では、確かに上を見てたけど、ホントのメインイベントは任されていなかった。でも、NOAHでホントのメインイベンターになったんだよ、三沢光晴の相手として。
―― ただ、01年2月にはNOAHを離れ、フリーとしてPRIDEに出場するようになりました。その部分で三沢さんに相談することもあったと思いますが?
高山 俺がさ、「PRIDEに出たい」って言い出したら、三沢さんは「そうなんだ、じゃあPRIDEの社長にいっしょに会いに行こう」って、実際、会いにいってくれて。で、話が終わって、その事務所を出て、三沢さんとふたりになったとき、「いろいろ面倒くさいことがあるかもしれないから、フリーになったほうがいいんじゃない」って。フリーになれば束縛がないじゃない。でも、「NOAHから切るってことじゃなくて、フリーになっても高山選手はNOAHに出てもらいたいからさ」って言ってくれて。
―― そう言ってもらって高山選手としては・・・。
高山 凄いうれしかったよ。
(週刊プロレス No.1486 高山のインタビューより)
(東スポWEB 2015年6月16日より)
 11月に引退するミスタープロレス・天龍源一郎(65)が14日、盟友への熱き思いを激白した。天龍は故三沢光晴さん(享年46)の七回忌メモリアル大会(13日、広島グリーンアリーナ)に出場。リング上での急逝から6年間、三沢さんの死について無言を貫いてきたが、七回忌を終えた今、故人への思いを初めて明かした――。
 天龍は七回忌メモリアルマッチで高山善廣、小川良成と組み丸藤正道、永田裕志、井上雅央組と対戦。丸藤と壮絶なチョップ合戦を展開し、故人のクセだった指で汗をぬぐうポーズも披露した。あれから6年。天龍は三沢さんの死についてコメントすることは一度もなかった。
 天龍:そうだね。東スポには何も話してないね。どんなにお悔やみの言葉を申し上げたとしても、言葉の羅列でしかない。今は思い出として語れるようになった。それだけのことですよ。
 実は三沢さんに酒を教えたのは天龍だった。2代目タイガーマスクだった1985年ごろから酒席に誘うようになり、銀座を中心に朝まで連日連夜飲み明かすようになった。当時天龍35歳、三沢23歳。年の離れた兄弟のような関係だった。
 天龍:気心が知れたというか、なぜかウマが合った。いつも(三遊亭)円楽師匠と一緒でね。最初は本当に無口でおとなしいヤツだと思った。銀座に飲みに行くと、まだ体の線が細かったから、お姉ちゃんたちは「こちらの方もプロレスラー?」と聞くわけだ。三沢は自分がタイガーマスクだと言いたくて仕方がなくてウズウズしてる。で、宴もたけなわになったころを見計らって「実はこちらはタイガーマスク」と正体をバラす。するとお姉ちゃんたちは「キャーッ」と大騒ぎになって、三沢は胸張ってうれしそうにガンガン飲み始める。それがもうおかしくておかしくて(笑い)。
 三沢さんは88年、真由美夫人と結婚したが、その付き合いは終わることはなく、むしろ勢いを増したという。
 天龍:今こそ奥さんに謝りたい。結婚したてなのに朝まで引っ張って飲んで申し訳なかった。というか三沢は一度途中で寝てからまた飲み始めるから、必然的に朝までになったんだけどな…。どうしても許せないのはその後「当時、飲みに行くと必ず天龍さんがいた」って何かで話していたこと。後からついてきたのはお前で、呼んだのは俺だ、コノヤロー!
 その後、90年に天龍は全日本プロレスを離れ、三沢も2000年にノアを設立。05年1月の天龍ノア参戦まで2人の関係はいったん空白の期間を迎える。
 天龍:郷愁の念というか、30代の自分が存在した全日本プロレスの風景を求めて、さまようようにノアに参戦した。しかしそこにあったのは「ジャイアント馬場の全日本」ではなく「三沢光晴のノア」だった。そこで俺の中では、ある程度気持ちの区切りがついたんだね。最後に飲んだのは札幌のすし屋か・・・(05年6月)。昔みたいに頭をつかんでシェークして酔っ払わせたら、お付きの若い連中にひんしゅく買いました。
 同年11月の日本武道館大会では約18年半ぶりの一騎打ちが実現。敗れはしたが、天龍にとってどうしても忘れられない一戦となった。
 天龍:俺はパワーボムを仕掛けたんだが、持ち上がらない。俺の力が衰えたのか、三沢が踏ん張ってたのか。「コノヤロー貫禄つけやがって」と腹を立てていたんだが、後で写真を見たら、俺が三沢の足を踏んだまま持ち上げていたんだ。そりゃ持ち上がるわけないよなあ(笑い)。
 この試合後には首の痛みの悪化を訴えていた三沢さんのために、当時経営していた「鮨處しま田」(東京・世田谷)にカイロプラクティックの先生を呼んで施術を頼んだこともあったという。
 天龍:今でも俺が世話になっている先生を呼んで首を治療してもらったんだ。「少しは良くなった?」と聞いたら「うーん、まあまあですね」と捨てゼリフ吐きやがってあのヤロー。つい数日前にその先生に会ったら「あの後、三沢さん何度かいらっしゃいましたよ」と言っていた。何だよ、効いてたんじゃねえかって。
 11月での引退を決意した今年、くしくも七回忌を迎えた。今、三沢さんに改めてささげる言葉はあるのだろうか。
 天龍:ない。生きていようが生きていまいが、いまさら何の言葉も必要ない。俺の一番楽しい青春時代、三沢が一番元気だった時代をともに過ごした盟友だから。アイツはさっそうと風のように過ぎ去っていった。今でも心に深く残る。また飲みたいよ。

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