入場テーマ曲は「スパルタンX」。中学時代は体操部に所属し、天性のバネに磨きをかける。足利工業大学付属高等学校時代は、アマチュアレスリングで国体に出場し、フリースタイル87キロ級で優勝。 レスリング部の後輩に川田がいた。高校卒業後は自衛隊のスカウトを蹴ってプロレス入り。81年8月21日、埼玉県浦和競馬場正門前駐車場の越中詩朗戦でデビュー。83年春のルー・テーズ杯争奪若手リーグ戦で決勝戦に進出し越中と対戦。フライングボディアタックで見せ場を作ったが、越中のパイルドライバーをショルダースルーで返したところを回転エビ固めに切り返されてフォール負け。84年3月に越中と共にメキシコ遠征。4月6日にはアレナメヒコでのメインイベントでエル・サタニコのNWA世界ミドル級王座に挑戦。7月に帰国。8月に2代目タイガーマスクとしてデビュー。85年8月、小林邦昭を破りNWAインタージュニア王座を獲得。87年7月、鶴田と組んでハンセン、デビアス組を破りPWFタッグ王座を獲得。88年1月2日にカート・ヘニングのAWA世界ヘビー級王座に挑戦し、リングアウトで勝利したがAWAルールにより王座の移動はなかった。89年3月8日、日本武道館大会でNWA世界ヘビー級王者のリッキー・スティムボートに挑戦。13分47秒、回転エビ固めに敗れた。4月に左ひざを手術し長期欠場。90年1月に復帰。4月9日、小橋と組んでダグ・ファーナス、ダニー・クロファット組を破りアジアタッグ王座を獲得。天龍離脱後の5月14日、試合中にマスクを脱ぐ。その後は三沢光晴として活躍。中心選手がほとんどいなくなった全日本プロレスで超世代軍を結成し奮闘。6月8日に武道館大会で鶴田と対戦。試合前は明らかに格下と見られていた三沢だったが大善戦を展開。最後は、三沢のバックドロップを押しつぶした鶴田の体を一転させて切り返し、片エビ固めで勝利。鶴田から初のフォール勝ちを収めた。その後は全日本プロレスのエースとして活躍。どんな地方の小会場でも手を抜かない激しいファイトスタイルで人気を獲得。川田、小橋、田上と共に「四天王」と言われた。98年から現場監督とマッチメーカーに就任した。00年にノアを設立。01年4月15日、GHC初代王者決定トーナメント決勝戦で高山と対戦。21分12秒、エメラルドフロウジョンで勝利し、三沢はGHC初代王座を獲得した。初防衛戦では田上を破り長期政権を築くかと思われたが、一周年記念大会となる01年7月27日の日本武道館大会で秋山に敗れて王座転落。11月、札幌大会にて小川と組んでベイダー&スコーピオ組を降し第二代GHCタッグ王座を獲得。しかし12月に大森&高山組にタッグ王座を奪われ再び無冠に。02年5月2日、新日本プロレスの東京ドーム大会で蝶野正洋と対戦。エルボーの連打や卍固めで蝶野を追いこんだが、30分時間切れ引き分けに終わった。9月23日、高山をランニングエルボーで破りGHCヘビー級王座を獲得。03年3月1日、超満員の日本武道館で小橋と対戦。小橋のラリアット、ハーフネルソンスープレックス、垂直落下式ブレーンバスターに対し、三沢はエメラルドフロウジョン、花道からリングの下へのタイガースープレックス。大熱戦の末、33分28秒、小橋のバーニングハンマーに敗れて王座転落した。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞。05年7月18日に東京ドーム大会「DESTINY」のメインイベントで、川田と対戦。00年の全日本プロレス分裂後、5年ぶりの対戦となった。試合中盤に川田のハイキックが直撃し左耳の鼓膜が破裂。エメラルドフロウジョン、タイガードライバー91も返される苦しい展開となった。27分4秒、エルボーで川田に勝利した。06年12月10日、日本武道館でGHC王者の丸藤正道に挑戦。2日前のタイトルマッチ調印式では「どんなヤツでも歳には勝てない。衰えたという気持ちはないけど、これが最後という気持ちは持たないといけない」と語った。タイガードライバー、エルボー・スイシーダ、ウルトラタイガードロップなど得意技を連発し、雪崩式タイガースープレックス85、エメラルドフロウジョン、タイガードライバー91で丸藤を追いつめ、25分32秒、雪崩式エメラルドフロウジョンで勝利。3度目のGHCヘビー級王座を獲得した。1月21日、森嶋猛を相手に防衛戦。激しい打撃戦となった。強烈なバックドロップ3発をくらいながらもエルボー連打で返していった三沢が、20分5秒、タイガードライバー91からのランニングエルボーで初防衛に成功。試合後に軽い脳しんとうを起こし、勝利者インタビューもないままセコンドの肩を借りて控室に直行。そのまま救急車で病院へ向かった。4月28日、佐野を相手に防衛戦。ダイビングフットスタンプや顔面へのソバットを耐えて、16分38秒、変形エメラルドフロウジョンで勝利。試合後の勝利者インタビューでは「最近腹が出てるって言われるけど、ただ出てるだけじゃないというのを見せたかった」と自虐的なジョークを飛ばした。6月3日、きたえーる大会でバイソン・スミスを相手に防衛戦。エルボースイシーダ、タイガードライバーなどで優位に立つ。花道へのリフトアップスラム、花道でのバイソンテニエルなどのパワー殺法で圧倒されるが、最後は雪崩式エメラルドフロウジョンからエルボーの連打で防衛に成功。7月15日、田上を相手に防衛戦。16分44秒、ブレーンバスターの体勢から垂直に落とす変型エメラルドフロウジョンで勝利。試合後のインタビューでは「次の対戦相手が決まると精神的にキツイんだよ。今日くらい休ませろ!」と語った。9月29日、大阪府立体育会館大会で丸藤を相手に防衛戦。エメラルドフロウジョン、ランニングエルボーから26分28秒、変形エメラルドフロウジョンで勝利。10月27日、日本武道館大会でサモア・ジョーを相手に防衛戦。ジョーの重くて多彩な技の数々に、エルボーやフェイスロックで対抗。エルボーの連打からエメラルドフロウジョンを決め、最後は17分14秒、後頭部へのエルボーバットで勝利。11月3日、ROHのニューヨーク大会でKENTAを相手に防衛戦。会場は2500人の超満員のファンで埋めつくされ、「ミサワ」コールが大爆発。18分31秒、旋回式のエメラルドフロウジョンで勝利。08年3月2日、日本武道館大会で森嶋を相手に防衛戦。もはや全盛期の動きではなかったが、体格を生かした森嶋の技を最後まで受けきり、20分22秒、バックドロップに敗れて王座陥落。試合後、退場する時に場内から三沢コールが送られた。09年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会で杉浦と組んで中邑、後藤洋央紀組と対戦。15分17秒、中邑の飛びつき腕ひしぎ逆十字固めに杉浦が敗れた。4月から潮崎豪と組んでグローバルタッグリーグ戦に参戦。5月6日、日本武道館大会で森嶋、佐々木組と対戦。三沢がほとんど活躍しなかったため、2対1のハンデキャップ戦のような展開となったが、22分53秒、潮崎のラリアットで森嶋にフォール勝ちし、タッグリーグ戦を優勝した。6月13日、広島県立総合体育館大会で潮崎と組んでバイソン、齋藤彰俊のGHCタッグ王座に挑戦。試合中に齋藤のバックドロップを受けてから心肺停止状態となり、広島大学病院に救急搬送されたが、死去。
猛虎7番勝負(3勝4敗で終了)
(番外戦)86年7月31日 両国国技館 ○ ザ・グレート・カブキ 13分18秒 タイガーマスクがトップロープに上がったところをカブキがつかまえてバックドロップ。そのままカブキはブリッジしてフォール。しかしカブキの両肩もマットについていたため期せずして同時フォールの形となり、寸前で肩を上げたタイガーマスクが勝利した。
86年10月20日 岡崎市体育館 × 谷津嘉章 14分6秒 ワンダースープレックス
87年2月3日 夕張市総合体育館 ○ フランク・ランカスター 8分21秒 ジャーマンスープレックスホールド
87年3月9日 高崎市中央体育館 × リック・フレアー 13分53秒 ショルダースルーの要領で持ち上げられ、トップロープの上にノドを打ちつけられてから片エビ固めにフォール負け
87年4月16日 熊本市体育館 ○ 阿修羅原 14分37秒 ラリアットがレフリーに誤爆して反則勝ち
87年6月1日 石川県産業展示館 × 天龍源一郎 11分33秒 パワーボム
87年7月19日 後楽園ホール ○ テッド・デビアス 9分18秒 ジャーマンスープレックスホールド
88年3月9日 横浜文化体育館 × ジャンボ鶴田 1発目のバックドロップは2で返したが、2発目のバックドロップに片エビ固めにフォール負け
(週刊プロレスNo.1480 三沢死去後の鈴木鼓太郎のインタビューより)
−−セコンドに付いていましたが、普段と変わったところはありましたか?
鼓太郎 いつも通りでしたよ。調子が悪いのはここ最近ずっとですから、動き辛そうだなっていうのはありました。少し前に社長が「コーナーのセカンドに上がれなくなった」って言ってたんですよ。普通の人はコーナーを背にして上がるじゃないですか。でも、肩が痛くて、それができないから正面から上がって、セカンドで向きを変えてた。最近はスプラッシュをやるにも正面から上がってましたからね。肩が痛いから、ロープを持って(自分の体をコーナー上へと)押せなくなってたみたいですよ。どんだけ悪いんだよって。(中略)
−−受け身としてはどうでしたか?
鼓太郎 社長の首を考えるとかなり危ない角度でした。アレがジュニアの選手とかだったら、力をうまく逃すことができただろうけど。社長って首に骨棘ができて、下を向けないんですよ。ブレーンバスターとかで上から腕を被されるだけで痛いってよく言ってました。ブレーンバスターの掛け合いでも痛いって。溜まったモノが出たんでしょうね。受け身は取ってるように見えましたけど、誰が受けてもバックドロップは首に負担がかかりますからね。でも、前からああいう技をけっこう受けてましたから。ホント、あの時にたまたまだと思いますよ。ムチャクチャひどい一発ってわけでもなかったし。
週刊プロレス別冊「四天王プロレスFILE」(08年発行)より
三沢語録
「中2の時ですよ、レスラーになろうと思ったのは。とにかくね・・・俺、自分の名前を世間に広めたかったんですよ。男に生まれたからには!って言うのかな。だから、たまたまレスラーになったけど、ひょっとしたらならなかったかもしれない。現に小学生の時はボクサーになろうと思ってましたから(笑)」
「でもね、言っちゃなんだけど、俺は鶴田さんみたいな「それなり」の試合は絶対にしたくないですから。これだけは覚えておいてください」(90年7月3日号、No.385。6月にジャンボ鶴田から勝利後)
「全日本のために立ち上がるという気持ちは確かにあったし、ファンがそう思ってくれるのは光栄だけど、ちょっとカッコよすぎるんじゃない?美化しすぎてるよ(笑)。きっと、他の部分を知らないからだよ。「えっ、三沢さんってこんな人だったの?」と思われるのはイヤだけど、そもそも俺は三枚目だから」
「俺には観客を見返してやろうとか、そういう意識はないんだけど・・・ただひとつ言えるのは、しょっぱい試合をしちゃったときに、申し訳ないなあってことだよね」(91年1月8日&15日号、No.414。激動の90年を振り返って)
「上を目指して闘ってきて、ひとつの頂点までたどりついて、もしお客さんが「その上」が見えないのだとすれば、見えてくるところまで、俺自身がのぼるだけでしょ。それでも見えてこなければ、もっともっとのぼるだけだし。力の限りは、のぼっていきたいと思うよね。逆に、その限界を悟ったときは、寂しいもんだろうけど・・・。ま、いつかは人間、そういう時がくるわけだし」
「今のプロレス自体、動きとか、見てて疲れる部分があるかもしれないね。おじいちゃんやおばあちゃんじゃ、ついていけないかもしれないね。だから、会場で年配の人が喜んでいる姿を見たりすると、ホッとするよ。プロレスってさ、もともとは単純明快で、わかりやすいものでしょ。結局、プロレスには、これが絶対!というものはないと思うし、絶対的なものがないからこそ、自分の信念を貫くしかないんだよね」(93年7月6日号、No.560。四天王という言葉が使われ出した頃)
「川田と小橋ね・・・大きな違いがあるとしたら思いやりですよ。それは結局、小橋の方が思いやりがあるわけですよね。人間にしろ何にしろ。だから怪我なんかすると、また心配してくれたら、頑張らなきゃいけないなと。こいつがあの時、補ってくれたから、恩返しというか、してやらないといけないなと思うでしょ。そういう気持ちは口に出しては、いわないですけどね」(94年1月18日号、No.594。川田と小橋でパートナーにしたときに、心理状態に変化があったかという質問に対して)
「人生ってさ、ドラマみたいにリハーサルができたり、NGが出てやり直しがきくわけじゃないし。ぶっつけ本番でしょ。特にプロレスは。アマレスだったら「勝とう!」と思って試合するわけ。でもプロレスは「勝とう!」プラス「いい試合を見せなきゃいけない」でしょ。自分だけの世界じゃなくなるんだよね。当然、頭も使うよね。でも、いい試合って、やろうと思ってもそんなにできるもんじゃないし。そこがね・・・」(95年5月30日号、No.671。95年チャンピオン・カーニバル優勝後)
「プロレスが素晴らしいと思うか、俺と小橋の試合が素晴らしいと思うか、というのはあるだろうね。普通の人は、プロレスの奥深いところまで理解できないだろうけど、こういう試合を知ってもらいたいですよ。知らない人たちは、わからない部分があるよね。プロレスとK−1だって、全然見ない人は一緒だと思ってるだろうし。プロレスファンが「趣味、なんですか?」って聞かれて「プロレスです」って答えた時に、まだ「プロレス?」っていうのがあるでしょ。「あれ、面白いですよね」とか答えてもらえるようになると、うれしいよね」
「プロレスがどうのこうのって言うなら、じゃあやろうかってなりますよ。俺らは、自分たちがやってることをけなされてまで、我慢できないから。命を懸けてやってるものだしね。ただ、それは思っていればいいこと。表に向かって吠えることでもない。自分で信念を持ってれば、何が来ても平気だろうし」(97年11月28日号、No.825。97年10月の小橋戦後、高田対ヒクソン戦について聞かれて)
「ライバルっていう呼び方が、ちょっと当てはまらないというか。それは川田だけじゃなく、田上にしても、小橋にしても、秋山にしても、ライバルっていう関係じゃねえよなぁって。そんな簡単なものじゃないと思うし、そんな軽いものじゃない」(98年4月21日号、No.849。98年5月の川田戦を控えて、ライバル関係と思われることについて)
「俺、迷うってないのよ。迷う前に決めちゃってるから。俺はこう!って。他の道が出てきても、俺はこうだもんってね。どっちにする、じゃないんだよね。それが鈍ってきたら、新しい人間がまた考えるときじゃないかなって思うし」(99年8月17日号、No.930。社長就任から3ヶ月を迎えて)
週刊プロレス別冊「四天王プロレスFILE」より
インタビュー
三沢 三冠王座を取る直前、鶴田さんが病気欠場したシリーズで、肩鎖関節を脱臼したことがあったでしょ。
― 92年の7月ですね
三沢 スゲエ痛くて、走ることさえできなかったんだけど、ある”売り興行”で興行主から「三沢も休むならギャラを下げてくれ」って言われたんだよね。
― ジャンボさんも欠場だから。
三沢 そうしたら、(ジャイアント)馬場さんから「悪いけど、試合に出てくれるか」と言われてさ。そのとき、オレはもう休めねえな、と思ったよ。
(中略)
― 当時の四天王プロレスにおいて、三沢さんが大事にしていたものは何ですか。試合のリズムなのか、客席の盛り上がりなのか・・・・・・。
三沢 試合が終わったあとの満足感。ある意味、自己満足の世界じゃないかな(笑)。
― 自分が満足できる試合は、お客さんも満足できているだろう、という感触があったということですか。
三沢 そこはそう思うしかない。お客さんの満足度がイマイチでも、オレはあれ以上できなかったと思えば自分で納得できるところでしょ。
(中略)
三沢 若い選手の試合を見ていて、切り返しの動きなんかをパッパ、パッパやっていると頼もしいと思うけど、頭や首から落とす技も増えてるんで、そのへんは大丈夫かなと・・・・・・。そういうときにお客さんの「もう一発やれ」という声が聞こえてくると、イラッと来るというか、「やられるほうの身にもなれよ」とは思いますよ。まあ、お客さんも興奮している部分もあるだろうし、これがオレらの仕事だって言えばそれまでなんだけど、人間だからね。
― 当時の全日本は、確かな受け身の技術というバックボーンがあったうえでの激しい攻防だったわけですが、その後のプロレス界を見ていると、相手を頭から落とすような試合さえしていれば、それがすなわちいい試合であり、熱い試合である、と定義する風潮があるように思います。そこから「四天王プロレスが、プロレスをダメにした」という声もあるようですけど。
三沢 ダメにはしてないよ。そういうことをやったから、そういうものを見たから分かるわけであって。ここまでやったらもうプロレスじゃない、これ以上はないんだからあとは落ちるだけという解釈でしょ?でも、ここまでやらなかったら分からない部分もあるわけであって。もっとやるレスラーが出てくるかも分からないけど、やらなきゃ何事も分からない。やってみてああそうだった、というほうがいいじゃん。やらないでなんだかんだ言うよりさ。
(中略)
― お客さんの歓声を耳にしながら「オレって、面白い試合をしてるなあ」と思ったことはありましたか。
三沢 つらいよね(苦笑)。さっきも言ったけど、終わったあとの満足感のためにやれてるだけで、試合をしている最中に面白いとは思ってない。楽しんで、という感じじゃないよね。今にして思えば、もうちょっと余裕があっても良かったのかな、というのがあるけど、余裕がなかったから支持されたのかな、という部分もあるしね。まあ、お客さんに支持されたかどうかは分からないけど。
週刊プロレス別冊「四天王プロレスFILE」より
和田京平レフリーのインタビューより抜粋
― 四天王プロレスは極限のプロレスだったから怪我も多かったですよね。例えば95年4・6岡山の「チャンピオン・カーニバル」公式戦の三沢vs川田では、三沢が左眼窩底骨折のまま30分フルタイム闘い抜いたり、99年1・22大阪の三沢vs川田の三冠戦では試合開始7分で右腕を骨折した川田が24分以上闘ったうえで勝ったり。そうなるとレフェリーとしてはカウントもそうですけど、レスラーの体、生命を守るという意味でも大変だったと思うんですよ。
京平 今なら俺、止めちゃうよ。でも当時は止めようがなかった。「何があっても止めないで」って言われていたから。「止めるぞ」「止めないで」「いいのか、できるのか?」「できる、やる!」っていう感じだったから。で、やれちゃうんだよね。やって終わった時に初めて「そんなにひどかったの?止めればよかったかな」「いや、止めないでくれて助かったよ」って。止めないでお礼を言われていたんだから。そんなのばっかしだもん。控室に戻ったら、みんな体がガタガタだったもん。それくらい激しいプロレスをしてたよ。
― あと試合中に意識が飛んだまま試合をしているってこともよくありましたよね。
京平 やっぱりレフェリーにはレフェリーなりのアドバイスがあるから「大丈夫か?動けるか?」「大丈夫、動ける」って会話をしながらやっているよね。三沢が武道館で開始5分くらいで川田のスピンキックを食って飛んじゃった時に、三沢が「京平ちゃん、大丈夫?」って聞いてきたから「何で俺に聞くんだよ?」って思ったけど「大丈夫だよ」って答えたら、三沢も「じゃあ、大丈夫」って。それだったら続行だよね、試合を止められないでしょ。「じゃあ、やれ」ってやらせたら、やったんだよ。脳震盪起こしても、レスラーの凄いところは「寝ちゃいけない!」っていうのがあるから、無意識に起きているんだよね。で、体が反応して、受け身も取って、無のままに闘っているんだよね。それで控室に戻った時に「試合終わった?何で」って。「やっぱりな、また脳震盪起こしていたな」って。そんなのが毎シリーズに1回ぐらいはあったよ。
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