ダークロHP / レスラーノート

マッハ隼人

本名:肥後繁久
1951年3月5日
鹿児島県指宿郡山川町出身
176cm 98kg
得意技:サソリ固め

高校卒業後、広島の東洋工業に入社。社会人野球で活躍。柔道、空手では2段を習得していた。73年6月、新日本プロレスの道場を訪ねたが、体力が入門規定に満たないと判定される。鹿児島に戻り、ボディビルで鍛える。75年にメキシコに渡り、アレナ・メヒコのレスリングスクールに入門。ルチャリブレの修行を行った。76年3月、テキサス州に隣接する国境の町、シウダ・ファレスで、タッグ戦でデビュー。当時のリングネームはカラテ・ハヤト。2年後にはアレナ・メヒコに初登場。その後、プエルトリコ、パナマ、コロンビア、ベネズエラ、エルサルバドル、グァテマラなど中南米各地を転戦。78年7月、ロサンゼルスに進出。プロモーターのマイク・ラベールからトーキョー・ジョーの名を与えられた。79年10月に帰国。国際プロレスに入団し、吉原社長の命名でマッハ隼人に改名。11月1日に鶴見五郎を相手に日本デビュー。13分16秒、背骨折りで敗退した。その後、ルチャ殺法を駆使して活躍。トペ・コン・ヒーロ、スワンダイブ式プランチャ、トペ・アトミコなどを駆使した。81年8月に国際プロレスが倒産。9月20日から海外遠征。ロス経由でメキシコに移動し、11月13日にアレナ・メヒコに登場してメキシコマット再デビュー。アルフォンソ・ダンテスと組んでシエン・カラス、マスカラ・アニョ・ドスミル組に反則勝ち。82年、ロス地区に登場。メキシコとロスではカブキという名のマスクマンとして出場した。6月、カナダ・カルガリーに転戦。リング名をマッハ隼人に戻す。84年1月には全日本プロレスの新春ジャイアントシリーズに登場。リスマルクの初来日と同時だった。全日本プロレスには2シリーズ参加。メキシコに戻るときに、遠征する三沢越中を連れていった。ジャイアント馬場からの指令を受けて、4月9日にUWFに入団。当時UWFの社長だった新間氏の選手貸し出し要請を受けて、馬場がブッキングした形だった。 7月24日にはザ・タイガーこと初代タイガーマスクと対戦。空中戦を展開した。シューティングスタイルを全面に押し出したUWFの中で、ルチャのテクニックを駆使した異色のファイトスタイルで活躍。85年4月26日、後楽園ホール大会で引退試合。スーパー・タイガーと組んでカズウェル・マーチン、タルバー・シン組と対戦。20分42秒、マッハ隼人が三角絞めでシンに勝利。6月1日にロスに渡米。市民権を取得してアメリカで生活。ロス郊外のハンティントンビーチに住んで造園業を営む。


蝶野「ライガーはそういう意味では開拓者だよね。自らメキシコに行って、日本の団体の枠から入門したパターンじゃないですもんね」
ライガー「小さいですからね。初めて見たとき思わなかった?「小さいな、このひと」って」
蝶野「いや、ゴッツいなって思ったよ、ライガーは(笑)」
ライガー「ボクは(新日本に)正規のルートで入ったわけじゃないんで。メキシコに行って向こうで練習してってパターンだから」
蝶野「ライガーがそういう道を築いたから、いま小さい団体のジュニアの選手たちがライガーの開いた道のあとをついてきてるんだよね」
ライガー「ボクが開いた道は正確に言うと、もう引退されたんですけどマッハ隼人選手が開いたんですよ。元国際プロレスで。体が小さいってことでメキシコに渡って」
蝶野「ああ、ライガーはそのひとが見本になってたの?」
ライガー「雑誌で見て、こういうパターンもあるんだって。じゃあ、俺もってアレナメヒコに行ったんです」
(週刊プロレスNo.1436 蝶野ライガーの対談より)

 グーグル検索 レスラーノート検索


ダークロHP